天空のロエラ
幕 間 2
マリィ。
君は琥珀色の液体の中で二度目の産声を上げた。
久方ぶりに君をこの腕に抱いた時の僕のこの思いの丈を、君は想像すらできないに違いない。
「マリィ」
人工羊水にまみれた君の身体を拭くことも忘れて、僕は床に両膝をついて崇めるように君を抱きしめた。この腕に残った最後の君の感触は、古くなったゴムのように硬くて弾力がなく、何より石のように冷えきっていた。
だが今はどうだろう。
押し当てた頬に吸いついてくる柔らかく滑らかな肌。そのきめ細かい肌の隅々からは命が流れる軽快なメロディが聞こえてくる。
「生きてる……マリィ、君は生きているんだよ……」
伝わってくる温もりが、鼓動が、十年の僕の孤独を洗い流していった。
ああ、どれほど僕はこの時を待ち焦がれたことだろう。
戦火の中、君の残していった抜け殻を抱えて奔走し、敵国の捕虜となった後は科学者である父の研究データと引き換えに馬鹿げた計画の遂行者となり、そして今、ようやく君を蘇らせることができたんだ。
君を取り戻すために払ってきた数多の命など、この喜びの前では塵ほどの価値もない。
「マリィ……さあ、呼んでおくれ、僕の名を。呼んでおくれ、エア、と。もう幻聴などとは言わせない。僕は先天的な君の声帯の傷もちゃんと治してあげたんだ。君は声を出せるんだよ。もう思ったことを音にのせられなくて歯がゆい思いをしなくても済むんだ。さあ、マリィ。唇を動かしてごらん、喉を震わせてごらん」
ゆっくりと持ち上げられた瞼の向こうからのぞくマゼンダ色の瞳には、まだ自我らしきものはない。けれど、「唇はどこ? 喉ってどこ?」と問うように小首だけ傾げたその様は、言葉の喋れないマリィとすっかり同じ方向、同じ角度だった。
「ああ、マリィ」
僕は再度彼女を腕の中に抱きしめた。
彼女は間違いなくマリィだった。
たとえ脳から生前の記憶が失われていようとも、彼女の体にはマリィの記憶が流れている。マリィの十二年間が刻み込まれている。
「マリィ、ここだよ。ここが唇。そしてここが喉。これが声帯だ。この声帯を息を吐き出して震わせるんだよ」
触れて教えると、マリィも僕の指に指を重ねる。そして自ら、震え続ける僕の唇に、喉元に触れた。
「ほら震えているだろう? マリィもやってごらん。難しく考えなくたっていい。口を開いて、ちょっと喉に力をこめて息を吐き出すんだ」
「……ア…ァ……」
耳に初めて届いた声は、十年前、幻に聴いたままのちょっとあどけなくも透き通った綺麗な声だった。
「そうだよ、マリィ! もう一度やってごらん!」
「アアアーア」
ぎこちなくもマリィが声を出している。
一度だけじゃない。まして幻聴でもない。確かに今、マリィはゆっくりと珊瑚色に輝く唇を動かして愛らしい声を発したのだ。
「ほら、もっと喋ってごらん。その声で僕の名を呼んでくれ」
「アァ?」
「エ、アって。僕の名前だよ。エ、ア」
「アーア」
「おしい。エはもっと舌で口の中を狭くするんだ。こういう風に」
ゆっくりと口の中が見えるようにマリィの顔の前で僕は「エ」と発音してみせる。
「エ?」
「そう! そうだよ、マリィ! よくできたね。さあ、続けて言ってごらん。エ、アって」
「エ……ア……」
やっと発されたその言葉に、僕の体は細胞の末端まで歓喜に震えた。
十年間、いや、マリィが生まれてから二十二年間、ずっと憧れてきた瞬間だった。
「エ、ア」
「うん」
「エア」
三度目に発された音は、はっきりと僕に向けられていた。
マゼンダ色の瞳が僕を見つめている。
真剣に。
「マリィ」
僕はその濡れたままの灰色がかった金髪ごと、彼女の頭を胸に抱き寄せた。
「逢いたかったよ、マリィ」
今僕の腕の中にいる君が、もう前のマリィと違うことは分かっている。
だけどね、マリィ。
君はマリィなんだよ。どんなに君が違うと首を横に振ろうとも、君は僕のマリィなんだ。それ以外のマリィなら、僕はいらない。
ひどい奴だろう?
なんてエゴイスティックなんだろう。自分でもそう思う。
でもね、マリィ。
僕の十年は、君を取り戻すことだけに費やされてきたんだ。
君に逢いたい一心で、僕はロエラ計画なんて馬鹿げた計画に加担した。
この世に争いが絶えないのは神がいないからだ。
誰もが平等と思っているから。自分こそが正しいと思っているから、己を主張しすぎて傷つけあうことになる。
だけど、もしこの世に本当に神と呼ばれるべき絶対の者がいたならどうだろう。この世の生殺与奪、全ての権利をその手に握り、何人たりとも逆らうことを許さない者。
抑止力に過ぎないと笑うなら笑えばいい。
だけど、核は人が使うものだ。
神は、人には使えない。
そして、神は殺すためにではなく、僕たちを生かすために存在するんだ。
定めた理どおりにこの世を管理し、僕たちが滅びぬよう、平和のうちに暮らしていけるよう導いてくれる者なんだ。
この世に神がいないなら、自分たちで作ってしまえばいい。
この国の者達はなんておこがましい計画を持ち上げたものだろうね。それも核に替わる抑止力として用いようなんて、罰当たりも甚だしい。
間違ってるなんてこと、正常な頭をしてれば誰だって気づく。
でも、戦争は人を狂わせる。
勝てば、何だってできそうな気になってくるものなんだ。
あの時の僕がそうだったように。
気づくのは、結局大切なものを失ってから。
神を使役することの代償は、この世界丸々一つ。もし誤れば、何一つ取り戻せるものはない。
僕がこの国に売って保身を確保した父のデータは、悪化する大気汚染とオゾン層の破壊から地球を守るために人工層を創出しようという研究の全データだった。
薄くなったオゾンを補強し、かつ汚れた空気を浄化して地上に循環させるためにどのような成分を、どの高さに、どのように固定すればいいのかが詳細な計算とともに記されている。
宇宙からの有害光線のカットと地上からの有害物質の排除。この二つの問題を一つの層で解決してしまおうという欲張りな研究計画だ。
だけど、実はもう実現寸前までいっていたんだ。
層形成のための衛星もいくつも試作されていた。
成分構築の研究だって、実験段階にまできていたんだ。
父は、自分の国のみならず、全地球的規模でこの層を展開することを視野に入れていたから、研究もおのずと世界規模で展開されていた。
この国が嫉妬する理由なんて、本当はありはしない。
この国だって恩恵を受けるはずだったのだから。
なのに、彼らは戦争を仕掛けたんだ。
自分達の国にだけその層を架けるために。
南半球で唯一人が快適に暮らせる温暖な気候を持つ大陸国。この国は資源に恵まれてそこそこの経済活動はしてきたが、北半球の国々に比べて地理的制約が大きく世界の覇権を握る機会をつかみ損ねてきた。
その大陸国のみに、人々を様々な悪害から保護する環境層を架ける。地上の環境は悪化の一途を辿っているから、金のある人間はこぞって移住を希望するだろう。安全嗜好の高い消費者を大勢抱える企業も優遇政策次第で喜んで移転してくる。
この国は人々の安全を盾にして高額な税金を吸い上げ、あるいは利潤をかき集めて経済大国にのし上がることができるんだ。
金があれば、世界への発言力も増す。
植民地時代からの悲願が達成され、もはやどの国にも脅かされることなく存在していくことができる。
他国がまた同じような、あるいはそれ以上の安全確保のための技術を開発しない限りは。
何はともあれ世界の国々はこの環境層の技術の断片を握っていることから僕らの国がデータ目的で爆撃を受けたときもさしたる援助もせず、結果この国は戦争に勝ち、かつて本国と呼んでいた国土の支配権を得て北半球にも拠点を手に入れた。
父の研究施設は空中輸送されてこの大陸の中央、ごつごつした岩ばかりの砂漠が広がる大地の下に移築された。
父は、殺された。いや、僕が殺した。
あの人は捕虜となった後もこの国のためだけに研究を続行することを拒みつづけていたんだ。研究の全貌はあの頭の中にしか入っていないことになっていた。父もこの研究がいくらでも悪用できることを知っていたんだ。
父が頷かなければこの計画は頓挫するはずだった。
「エア」
心配そうにマリィが僕を覗き込んでいた。
「ああ、ごめん。苦しかっただろう?」
思わず力がこもっていた腕を緩めた。
マリィの両腕の白い肌には僕の腕のあとが赤く浮き上がっている。
「ごめん、マリィ」
「マ…リィ……?」
はたと僕は気がついた。
「あああっ、ごめん、マリィ! 僕は自分の名前ばかり呼んでほしくて君の名前を教えるのを忘れていたね。そう、マリィ。マリィは君の名前だよ。さぁ、言ってごらん」
無垢なマリィの顔を見ると、僕は労するどころか自然と笑みを浮かべることが出来た。ガーネットよりも澄んだその瞳が今日までの嫌なこと全て洗い流してくれるような気がして。
「エア」
自分の名前を口にしてごらんと言ったのに、マリィはまた僕の名前を呼んでいた。
「違うよ、マリィ。エアは僕の名前。君の名前はマリィだ」
かすかにマリィは灰銀にけぶる金髪を揺らした。
「エア」
細く白い二本の腕がゆっくりと持ち上げられる。
「エア」
彼女は微笑み、持ち上げた両腕を僕の背に回した。
「マリィ?」
こめられる力はまだ心もとないほどに淡い。
だけど、背中から伝わる彼女の手のぬくもりに、頬に触れる柔らかな曲線を描く髪に、僕は全身でマリィを感じていた。
「エア?」
つと、彼女の肩に新たに一滴の雫が加わっていた。それは、まだ蒸発しきれていない保存液の名残と混ざり合って、一筋線を残して彼女の背を滑り落ちていく。
腕をちょっと緩めたマリィは、僕の腕を優しく捕らえたままそっと僕の顔を覗き込んだ。
「泣かないで、エア」
彼女は、普通に喋っていた。
「泣いちゃ駄目」
感情をこめて。
「マリィ……」
そんなはずはないんだ。
君が蘇生されたのはあれからもう五年もたった後だった。
体ばかりは保存液の中で保ってはいたけれど、脳内の記憶は死んだその日にとうに消え去っているはずなんだ。十二年かけて培われてきたはずの思い出も、感情も、言葉もピアノのメロディも何もかも!!
君は生まれたての赤ん坊と同じなんだよ。
「なのに……どうしてそんな目で僕を見るんだ……」
憐れみ。哀しみ。
その中に、優しさと愛おしさが見えるのは僕がそう望んでいるからに違いない。
包み込むような慈悲深い瞳の色。
まるで十年間、ずっと側で見守ってきたかのように。
女神のようなその瞳は優しすぎて、僕には痛い。
「僕は……そんな目で見られる資格なんかない。君が最後に残していったのは恐怖に歪んだ顔だったじゃないか。あれでいいんだ。君だけは僕を責め苛んでいてくれ! 君に責められることしか僕の贖罪の道は……」
そっと頬にのばされた指が、ためらいがちに僕の目から溢れ出たものをぬぐっていった。
「違う……違うんだ、マリィ。君はもう何も恐れなくていい。何も憎まなくていい。僕のことさえも、忘れ去ってくれていい。僕は君の幸せを築くただの道具なんだ。僕が奪い去った君の未来を返すことだけが、僕にできた唯一の君への贖罪だったんだから」
だけど、そのために僕は何をした?
マリィの蘇生のために多くの人を実験台にして殺してきた。多くは僕と同じ国の人たちだった。
そう、塵ほどの価値もない命。
この国の奴らがいうとおり、自分にそう思い込ませて僕はこの手で……。
「だめだ、マリィ! 僕に触っちゃだめだ!!」
マリィの腕を振り払い、僕は後ろに跳び退った。
途端、後ろに散らかしたままにしていたメモの山に足を滑らせてバランスを崩す。
冷たい床が強かに僕の腰を打ちつけた。
驚いた顔で僕を見下ろすマリィ。
「今、コルダを呼ぼう。君が一人で何でもできるようになるまで世話をしてくれるガイノイドだよ」
頭は混乱していたけれど、口は冷静だった。
「コルダ? ガイノイド?」
「ああ、そうだよ。ここには人間は一人もいないんだ。僕と君以外は。そのかわり、多くのアンドロイドたちがいる。コルダは君と同じ女性を模したアンドロイドだよ。君が目覚めるまでずっと見守っていた一人だ。安心して世話になるといい」
僕はマリィに見えないようにそっと顔を伏せて唇を噛みしめた。
僕には一度見たものは忘れないという性質とも特技ともつかない不思議な能力があった。
それを知っていた父は、定期的に僕に研究データを見せていたんだ。
『私に何かあったらお前がこの研究を受け継いでくれ』
そう言ってあの人は僕の頭の中に研究データをコピーし、見せた側からモニターに映し出された情報を消去していく。
僕は父の後を継ぐつもりなんかなかった。
確かに科学の勉強は大好きだったけれど、それ以上にマリィのピアノを聴いて過ごす時間の方が好きだった。いつか、プロの演奏家になったマリィのマネージャーになって世界を行脚するのも悪くないとさえ思っていた。彼女の音で世界中を満たしたいなんて言って。
なんて皮肉なことだろうね。
自分の手でマリィを殺してしまった僕は、結局マリィを生き返らせるために望んでもいなかった研究を引き継ぎ、悪用している。
それも、父を殺して。
この国の奴らは父がなかなか首を縦に振らないものだから、いい加減やきもきしていたんだ。
そこに、同じ情報を持った僕が現われた。
しかも、人間の手で造った全能の神に環境層の調節を任せ、さらにその神を手中に収めておくことで本格的にこの世界を支配できる計画まで引っさげて。
そうさ。
神を核に替わる抑止力にすればいいと説いたのは、誰あろう僕自身だ。
心にもないことでも、マリィのためなら僕は何枚でも舌を重ねることができた。それはもう、自分でも驚くほど次から次へと嘘が増えていった。
僕はただ、マリィを蘇らせるための施設と資金がほしかったんだ。
『僕に父の替わりをさせてはくれないだろうか? 僕の頭の中には父の研究データの全てが詰まっている。僕は見たものは忘れないんだ。何なら試してくれたっていい。それで信じられると踏んでくれたなら、もう一つ、提案がある。神が、欲しくはないか? 世界の全人類が己の命惜しさにひれ伏す神。環境層の研究を応用するんだ。まずはこの大陸と領海にだけその光線を完全に反射できる層を張る。そして、いくつか軌道衛星を打ち上げて地球を周回させながら浴びただけで身体を害する光線を常に地上に放射しつづける』
この国の大統領は目の色を変えていたっけ。
『君は本当にあの男の息子か?』
『ええ』
磨き上げられたテーブルに映った自分の歪んだ笑みすら、今でも僕の記憶から消え去る気配はない。
『続きを聞こうか』
大統領のその一言で、僕はマリィを取り戻す一歩を踏み出し、父をこの世から追い出した。
『The Lost Everlasting――失われた神を人間の手で再興するんだ。略してロエラ計画。先に話した衛星からの有害光線の照射量も、大陸に張る防御層もすべて彼女の手で調節が為される』
『彼女……女神というわけだ』
『ええ。彼女の寿命は尽きることなく永遠にこの世界の生殺与奪を一手に引き受ける。そしてもし害そうとする者がいたとしても、彼女の身には絶対に危害が及ばない』
『ほう、それは何故?』
『それは貴方が頷いてからお話しすることだ』
『強気だね。人型生物兵器といったところだろう? それで?』
『簡単なことだ。その女神をこの国が、いいや貴方が、さらに裏から掌握すればいい。表面上国家元首である貴方が表立って層の管理調節をしようとすればあちこちから反感を買うことだろう。だが、突如ロエラという存在が現われれば世界はそれだけで混乱する。それ以前に、多くは裏で誰が糸を引いているかなんて知る由もなく滅びの恐怖に晒される』
大統領は口の中で笑いを噛みしめるように笑った。
『表面的な損失は全て君がかぶってくれるわけだ。もし失敗しても、私は世界情勢にあわせて君をテロリストとして吊るし上げることもできる』
『悪くないだろう?』
このとき、僕はただ、もう一度生きたマリィをこの腕に抱きしめたかっただけだったんだ。
勿論、生き返った君をこの国の傀儡にする気なんてはじめからない。
君は、僕だけのロエラだ。
君だけが僕のつくったシステムの舵取りができ、君だけがこの世界の微妙な均衡をとりながら平和を維持していくことができる。
だから僕はこの計画が採用された時、研究所に入れる人間を僕だけに限定し、必要な助手はすべてアンドロイドでまかなうようにしたんだ。
誰も僕たちのすることに異議を唱えたり口外したりしないように。
衛星からの有害光線たるロエラ光を遮断するロエラ層は、父の研究を使って地球全てを取り巻くように展開できるようにした。戦争を起こそうとする国があれば、遠慮なくその国の上空だけロエラ層を薄めて地上に制裁を下す。照射量も自在に変えられるのだから、無意味に滅ぼすだけでなく反省も促せる。
すでにロエラ光を照射する衛星は、気象衛星と偽ってそれぞれ所定の位置に打ち上げ済みだ。
もし地上から、あるいは宇宙からこの衛星を打ち落とそうとしたって、衛星自体にも防御機能は搭載している。あるいは見せしめにその国一つ滅ぼすことだってできるんだ。
そしてこれ以上の宇宙開発も凍結してしまえばいい。
資源なんて国益さえ追及しなければいくらでも再配分できる。人口だって、食料だって、戦争だって、女神さえいればこの世に国境はなくなり、文字通り神の前に平等な楽土が出来上がる。何も宇宙まで人間が汚す必要はない。
労働のインセンティブは自分の命の安堵。
ひどい世の中だと人々は謗るかもしれない。
だけど、ここまでしなきゃ誰もこの世界を守っていけないんだ。
いや、世界なんてほんとはどうでもいい。
僕はもう、僕たちみたいな悲劇に見舞われる子供達が出なければいいと願っているだけなんだ。
「エア」
呼びかける瓏玲な声に僕は顔を上げる。
見上げた彼女は神々しく僕の前に立っていた。
ああ、僕は本当はどうしたいのだろう。
君を女神として僕の理想と贖罪のために計画に巻き込むのか。
それとも、君の幸せを最優先に君を手放すのか。
ロエラ計画が頓挫して僕の命が奪われるようなことになったとしても、僕は悔いたりなどしないだろう。むしろ、僕こそ早く滅びるべき人間だ。
理想の実現。そうは言っても、この計画があまりに非道なことは僕が一番よく分かっている。
「マリィ、君はどうしたい?」
女神であるマリィの起動でこの計画は第一段階を終える。
僕のわがままを許した大統領への報告義務もある。
そういつまでも生き返った彼女を隠し通しておけるものでもない。
「エア」
だから、君が僕の前に膝を折って再び僕の背に両腕を回したとき、僕は息詰まるような感覚を覚えたんだ。
「マリィはエアと一緒にいたい」
囁かれた言葉に全身が硬直する。
「う……そだ。だって、マリィ、君は何の記憶も……」
僕の良心は、君が僕から離れていってしまうことを望んでいた。
僕の側にいても、君は幸せになんかなれない。
それは十年前、嫌というほど思い知った。
こんなことは、望んでいない。
そんな台詞は、聞きたくない。
聞いてしまったら、僕は二度と君を離せなくなる。
「エア。マリィを離さないで。嫌わないで。マリィはエアが好き。マリィは、ずっとエアの側にいたい」
たどたどしい言葉が思いをたくさん乗せて僕の心に辿りつく。
記憶はやっぱり戻っていないのかもしれない。
それでも、僕は取り戻したような気がしたんだ。
僕の求めるマリィを。
「赦しを乞うなら誰に乞えばいい?」
僕は迷いを断ち切って彼女を抱きしめていた。
欺きとおしてみせる。
君のためなら、僕はこれからもいくらでも嘘にまみれることができる。
ロエラは、まだ完成していない。
大統領にはそう報告し続ければいい。
もともとこの計画は長期で申請している。失敗したと勘ぐって探りに来たら、そのときはマリィ、君と二人でどこかに逃げようか。この施設は跡形もなく爆破して。
だけど約束しよう。君にだけはけして嘘はつかないと。
「懺悔も誓いも君にだけ捧げるよ。マリィ、僕の女神」
ああ、どれだけ抱きしめていても飽き足らない。
離さなければならない瞬間が来ることが僕には怖い。
満たされ続ける至福の時の中で、僕はようやく気がついた。
僕は君の奏でる美しい旋律にではなく、君の心そのものに恋していたのだ、と。
←第2章(4) 管理人室 書斎 第3章(1)→