天空のロエラ
第2章 過去に生きる者



 アストラーダ城に入ってから、湯浴みして着替える暇さえ惜しんで、キスミェルの口利きでマリィは謁見の間に通されていた。謁見の間では、待っていたかのように左右にずらりと重臣たちが立ち並び、玉座に主が収まる時を待っている。中央の赤い絨毯の上に用意された椅子に座って控えるマリィとアルデレイドは、囲まれているという重圧感にうっすらと汗をかきはじめていた。
 姉王から預かってきた書状を渡すだけにしては、やけに観客が多い。これでは、なにかあっても逃げるに逃げられない。しかも、左右に居並ぶ貴族たちはみなきらびやかな衣装を身にまとっているというのに、マリィたちはほこりをかぶったままの旅衣装。普段そういうものに頓着するマリィではなかったが、場違いな気分は拭えない。こうなれば、早々にあの熊男に携えてきた書状を手渡して回れ右をして帰途につくだけだ。長居は無用。講和条約で和平を結んでいるとはいえ、元敵の手中に寝床をとれるほどマリィも豪胆ではない。もちろん、アストラーダ側は丁重に接待するのが当然と言い張るだろうが。
 やがてほどなく、合図とともに玉座側の扉が開き、熊のような巨体をのっそのっそと揺らしながら一人の男が玉座に座った。
「久しいな、アン=ゾフィー殿。お元気でいらっしゃったか。愚弟からリドルトからの旅路、貴女と共に来たと聞いて驚いたものだが」
 まとめて整えてはいるが黒髪と顎と口周りに生やした無精髭、それだけを見る限り、歴史に燦然と菜を輝かせるアストラーダの王というよりは野山に住む荒削りな猟師たちを思わせる。どちらかというと穏やかな性格のキスミェルと血を分けているというその緑の瞳も、どこか剣呑な光を湛えて同じ色とは思えないほど鋭い光を放っている。言葉こそ歓迎しているかのようにまだ穏やかではあるが、低く腹に響く声はいつ冷ややかな怒声に変わるか分からない危うさをはらんでいる。
 グラウド・グスタフ・アストラーダ。グスタフ三世としてアストラーダ第二十三代国王を務めているこの中年の男は、まだ王子だった八年前、デルフォーニュにいたときから、その場にいるだけで周囲を緊張させる何かを持っていた。
「アン=ゾフィー殿が共に旅路を歩んでくださったおかげで、恐ろしい賊にも襲われず、無事にここまでたどり着くことができました」
 熊男のような王の傍らに立つキスミェルは、すっかり身なりを整え、澄ました顔でそう言った。
「貴女の武勇伝は詩人たちの歌の題材に事欠きませんからな」
 無意味な会話に探りを入れられているような気がして、マリィは「言ってろ」と心の中で毒づいた。
「さて、時にデルフォーニュ女王はお元気か?」
 ようやく本題に入った、とマリィは一つ小さく息をついて、姉王から預かってきた書状を手に持ち直した。
「はい。此度はデルフォーニュ女王、ブランシュヴァイク・カトレシア・デルフォーニュより、アストラーダ王グスタフ三世殿に宛てた書状を預かってまいりました。リドルト公国建国に関してのものと聞いております。どうぞご覧ください」
 小姓に書状を渡し、それが確かにグスタフの手に渡ったことを確認すると、どっとマリィの中に疲れが押し寄せてきた。
 グスタフは書状を広げ、ふん、と一つ鼻を鳴らす。
「アン=ゾフィー殿。そなた、これを届けた後は返事を預かるように女王から命じられてきたか?」
 抑揚のあまりない声で、グスタフは書状から顔をあげ、マリィを正面から見据えた。マリィは押し負けないようにしゃんと顔をあげ、グスタフを見据え返す。が、問われた問いの答えを記憶の中に探り当てられず、思わず眉根を寄せてしまった。それを見逃すグスタフではない。
「内容はリドルト公国建国についての諮り書とのことだったが、はて。王妹がとも一人のみを連れてはるばる大陸の東端まで密書を携えてくるというのもおかしな話。普通であれば、大切な密書を携えた妹の旅程だ。百人余りの隊列を組んでここまで来るものであろう。女王はいささか、礼を失しているのではなかろうか」
 思わぬ難癖の付け方に、マリィは顔をしかめてグスタフを睨み返した。
「お言葉ですが、アストラーダ王。女王はより早く陛下の手にその書状を渡したい一心で、旅慣れた私にその書状を預けたのです。女王の近衛隊隊長とともに。リドルト再興は、我らが和平を恒久なるものにするためにも急務。それは陛下も……」
 言い募るマリィの前にグスタフは歩み寄ると、その目の前に片手で書状を広げて見せた。
 書状は白紙だった。はじめ、裏側を見せられたのかと思ったマリィだったが、裏はしっかり台紙が貼られている。
「自らの妹と近衛隊長を差し出してこの書状とは、デルフォーニュ女王もよほどお暇と見える。もしやそなたらはデルフォーニュ女王の妹、マリエトレッジ・アン=ゾフィー・デルフォーニュと、女王近衛隊隊長アルデレイド・アーバンを騙る偽物か?」
 くっくっくっと笑い声を喉で押しつぶしながらグスタフは問う。
「まあ、どちらでもよいことだ。キスミェルが連れてきた客人であることだし、おおよそ本物なのだろうが、本物がこれを持ってきたとなれば、デルフォーニュ女王はよほどわれらアストラーダを挑発したいと見える。応えぬわけにはいくまい。のう?」
 キスミェルか、エアか。真っ白になった頭でマリィはどこで書状がすり替えられたのか、必死で考えを巡らせる。しかし、書状はずっとマリィが握りしめるようにして持ってきたのだ。そもそも、ブランシュから書状を預かった時、マリィはその中身を確認してはいない。それどころか、確認しようとしたときブランシュに止められたのだ。
 マリィの心に果てしなくブランシュへの猜疑が広がり、切り捨てられた絶望感が押し寄せはじめる。
「デルフォーニュ女王も大胆なことをなさる。己の攻めと守りの要を人質によこすなど」
「お待ちください。その書状の中身、私が責任を持って確認いたします。いましばらく時間を……」
「そういえば、ロエラは見つかったか?」
 言い募るマリィの言葉を遮って、グスタフはマリィを見下ろした。
「エアなる吟遊詩人から、ロエラの歌全章を聞いたのであろう? 何かヒントになるものはあったか?」
「なぜ、それを……」
 思わずキスミェルを睨んだマリィの目の前に連れてこられたのは、縄に後ろ手を縛られたエアだった。
「エア……」
「ごめん、マリィさん。捕まっちゃった」
 へらりと笑って言ったエアに、マリィはかっと体中が熱くなった。
「ば、馬鹿もの!」
「ごめんなさーい」
 おおよそ、場にそぐわない危機感のない声でエアは言葉だけの謝罪をする。
「ごめんなさいで済むか!」
「でも、僕、約束は守るから」
「そういう問題じゃない!」
 師匠を助けるどころではなくなってるじゃないか。そう言いたいのをどうにかこうにかマリィは飲み込んで、グスタフを見上げた。
「残念ながらロエラはまだ見つかってはおりません。歌の全章を聞いたところですぐに見つけられるものでもございません。その者とて替え唄ばかり歌っております詩人でございますれば、その者の歌うロエラの歌にどれほどの価値がございますことか」
「まあ、とても口の軽い小僧であることは確かだが。この者の師匠とやらは口が重くて苦労していたところだ。こちらとしてもロエラの歌をすべて聞くまでは、デルフォーニュと対等とも言えまい。そなたたちには、しばらくゆっくりとこのアストラーダ城で旅の疲れを癒してもらおう」
 グスタフの命で、マリィとアルデレイドは両手を拘束される。
「待て! 私を捕らえたらどうなると思っているんだ?! 姉上がただ黙って見過ごすと思うのか?」
「あの女なら見過ごしはしないだろうな。王妹を人質に取ったという大義名分を掲げてアストラーダ侵攻を始めるだろう」
 グスタフの言葉はマリィの胸を冷たく凍らせて余りあるものだった。
「アン=ゾフィー殿。そなたは兄のオルガヴァルドを失ってからこれまで、あのブランシュヴァイクを信じてきたのであろうが、あの女はそなたが思うほどにはそなたのことを思ってはいないのだろうよ。私が見てきたあの女は、利用できるものは何でも利用する女だ。たとえ己の片腕でさえも必要とあれば切り落とす女だ。盲目なそなたにはわからぬだろうが、恐ろしい女だよ、デルフォーニュ女王は」
 鋭く威嚇するような色ばかりを浮かべていたグスタフの瞳に、一瞬憐れみのような色が浮かんだが、すぐにそれも消えうせた。
「地下牢にお連れして丁重にもてなせ」
 グスタフの一言で、マリィとアルデレイドは地下牢へと引き立てられていった。
















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「よかったのか?」
 縄を解かれて客室に招かれたエアが部屋に入るなり、呼び出したグスタフは窓辺でそっと溜息を漏らした。
「何が?」
 エアは勝手知ったる我が家のように両手を広げてソファに掛け、足を組んでグスタフを見上げる。口元にはマリィには絶対に見せなかった嘲り混じりの笑みが浮かんでいた。
「懐かしいね、このソファ。よくここでオルガと寝させられたよ。僕は命惜しさに。オルガは国を守るために。ほんと、あんたの親父は最悪だったよね。国政はどうか知らないけどさ、夜のほうは本当に。あんたが斬り殺してくれなきゃ、僕がやってたかもしれない。剣さえあればの話だけれど。ほんと、あの夜はすっとしたよ。『お前ほど恥さらしな皇帝もいない。他国どころか民草になんと言われているか知っているか? 男漁りのヨシュア3世。生まれる子供もみんな男なのは、姫は殺して、将来男妾にできる王子だけを残してるのさ、ってな。お前だけならまだしも、この俺までその対象にされるのは我慢ならない。俺には男を組み伏せる趣味も組み伏せられる趣味もないからな。お前だけは、俺が手にかけなきゃ気が済まない』。よく覚えているだろ? あんたが父親に最後に突きつけたこの長台詞」
「すっとした、か。恨んでないのか? リドルト王国滅亡の際にお前を奴隷に落としたのも俺。親父を殺したあとは剣だけ与えて軍舎に放り投げたのも俺」
「恨んでないのか、とは随分と気が弱くなったんじゃない? 年とか? そんなこと、間違っても一国の王が口にすることじゃないだろ。優秀な王ほど恨みは買うものだ」
 エアとグスタフはしばし威嚇しあうように見詰め合った。
「もう一度聞く。よかったのか?」
「手紙、ほんとに白かったんだろ?」
「そういう女だ」
「マルタジット条約で人質同然にデルフォーニュに行かされて、嫌ってほど女王のことは分かってるってわけか。戦争するなら、オルガよりもあの女王さんの方が向いてたかもな。オルガには守ろうとするものが多すぎたようだったから」
「お前も含めて、な」
「随分と口数が多くなったじゃないか。長話が好きだったのは知ってたけど、人のことにまで干渉してくるような奴じゃなかったと思ったけど?」
「三年前、デルフォーニュとの大戦後、ウトルマリクに拾われて大人しく吟遊詩人をやってるから見逃していた。どうしてわざわざ戻ってきた? それも、城門を叩いて王への面会を求めるなんて、馬鹿げてる」
「監視されてたのは知ってたけど、ロエラとリドルトが関連してるってキッシーが仮説打ち出した途端に、うちに刺客放ってお師匠様連れて行かれたんじゃあ、返してくださいって言いに行くに決まってるだろ。むしろあんたが呼んだようなものじゃないか」
「ロエラの歌を聞いてみたかったんだよ。リドルトの正統な血を受け継ぐその喉が奏でるロエラの歌を。アン=ゾフィーの前では歌ったんだろう?」
「地下牢に入れられようが、ここで王様クラスのもてなしをされようが、あんたの前で歌う気はないよ」
 エアは言葉を切ると、テーブルの上の皿に盛られたイチゴを摘み上げた。
「ならば、何をしに来た?」
 エアがイチゴを口に入れようとしたその手首を、グスタフが掴む。
「アン=ゾフィーを助けるためか? そのためにわざわざ先回りして……」
「違うよ」
 エアはグスタフの手を振り払うと、大きな口をあけて赤いイチゴを放り込んだ。よく噛んで呑みこみ、にっこりと笑う。
「西の大国、大小駒を国中から集め、太陽を求めて国を発つ」
 節をつけて歌われた歌詞に、グスタフは眉をしかめた。
「いつだ?」
「知らないの? アストラーダの密偵よりも吟遊詩人の方がよっぽど情報早いんじゃない? 僕とマリィさんたちがリドルト平原に入ったことが確認されてすぐに、だってさ。ぐずぐずしてると、奪られちゃうよ?」
 くつくつと子供のように無邪気に笑うエアの前に、一振りの剣が投げ与えられた。柄に彫られた紋章は、アストラーダの家紋である獅子ではなく、亡きリドルト王家の紋章であった龍。
 エアはその剣を鞘から抜いて刀身をしげしげと眺め、やがてにっこりと微笑んだ。
「僕があんたのこと、嫌いだけど百パーセント憎む気になれない理由を教えてあげようか」
「余計なことを聞く気はない」
「『明日からお前は国王直属の小姓ではなく、アストラーダ軍第十三連隊所属の兵士だ。その剣は持って行け。くれてやる。兵士に剣は必需品だからな。ただし、装備は与えられないと思っておけ』。投げ与えられた剣の柄に彫られている紋章が龍だと分かった時、少なくとも僕のあんたを見る目は変わったよ。リドルト滅亡の際、最も戦功多かったのはあんただと聞いた。王と母を殺したのも。その勲の証として腰に下げてる剣が王の剣だと気づいた時の僕の気持ちが分かる? でも、あんたはその剣を僕に投げて寄越した。今と同じように。だから、僕はここにいた。――ねぇ、あんたは僕が狂戦士化することをリドルト滅亡の時から知っていて、なのにアストラーダの兵舎に投げ込んだんだよね? 剣を手にした僕がアストラーダ兵全員、切り殺してしまうとは思わなかったの? 今だってそうだ。あんたに剣を向けることくらい、容易にできる。斬ることも容易い」
 抜き身の剣の切っ先をグスタフの顔の前でぴたりと止める。グスタフの鼻の下の髭が一房、はらりと落ちていく。
「今も昔も変わらない。お前の望みは、アストラーダとデルフォーニュの共倒れ」
「デルフォーニュにはマリィさんがいる。アストラーダは分が悪いだろう? 少しだけ、手伝ってあげるよ。久しぶりに、血が見たい」
 嬉しそうに微笑むと、エアは剣を鞘に収めた。
「戦場でなければ狂戦士は現れない。狂戦士が現れなければ……」
「ロエラも現れない」
 にっこりと笑いかけたエアを無視して、グスタフは胸に落ちた髭を払い落として部屋を出た。
















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