天空のロエラ

幕 間 1


 空には星があった。
 漆黒の夜にも、青天の昼にも。
 絶えず空中が金銀赤、小さな輝きで一杯だった。
 そして、それらは一定の時が経つと果つることを知らぬ流星雨となって僕らの頭上に降りそそぎ、弓なりの空を黒といわず青といわず朱に染めかえる。
 これを綺麗だと言ったのはどこの大統領だったか。
 煽り立てられた憎悪。
 熱く手に焼けつく銃身を持つ手はとうに痺れていた。
 雑草一本残っていない灼熱の大地に立つ足はとうに靴を失い、義足のようにただの二本の棒に成り果てていた。
「マリィ! マリィ! どこだ、マリィ!」
 見渡す限り、三百六十度が炎の壁だった。
 燃えるものなどもうほとんど残されていないこのアスファルトの大地を、炎は行儀悪くかすかな残り汁まで舐めつくさんとするように熱心に蠕動する。その炎から揺らめき立つ陽炎の遥か向こうには、かつて世界一を誇った高層ビル群が巨大な蝋燭となって炎を吹きあげていた。
 どこに逃げれば生き延びられる?
 そんなこと、誰も教えてくれるわけがない。
 否。焼け付く都会の迷路を彷徨う誰もがその答えを捜し求め、逃げ惑っているはずだった。
「マリィ!!」
 僕はもう一度叫んだ。
 しかし、どんなに喉が痛むほどに叫んでも、すでに僕自身にその音が聞こえなくなりはじめていた。昨日まで絶え間なく僕を脅かし続けていたはずの轟音も、今日は遠雷を聞くかのごとく遠い。
 あの爆発のときだ。
 マリィを抱きしめて身体を丸めて眠っていた昨晩、死をカウントダウンするかのような不吉な落下音に身を起こす間もなく爆弾が爆発したとき、僕の右耳は吹き飛んでいた。
 幸いマリィには傷はなかったけれど、飛び起きた彼女は僕の顔を見て恐怖に顔を歪めて逃げ出してしまったのだ。
 小さな身体で懸命に僕から遠ざかっていく姿は今も目に焼きついてはなれない。
 どうしてあの時すぐに追いかけなかったのか。
 どれほど後悔したって、もう遅い。
 僕は僕なりにショックだったのだ。
 奪われた右の聴覚と、何よりも守ると誓った少女を自分が怖がらせてしまったのだから。
 いや、ほんとは逃げずに抱きしめてくれると思ったんだ。
 それくらい彼女も僕のことを愛してくれてると思ってた。
 駆け去っていったのは小さな背中だった。
 四日前、開戦と共に爆風にさらされ焼け焦げた白いワンピースが、赤く焼け爛れた肌にぼろきれのように張りついた背中。
 あの日、マリィは都市中心部で行われていたピアノのコンクールに参加していた。
 折りしも開戦が宣言された正午そのとき、マリィは黒いグランドピアノの前に胸を張って座り、床に着かない足をリズムを取るように揺らしながら白黒の鍵盤上に指を舞わせ、
激しく鍵盤を弾いてはフレーズを弾き結んで曲を奏でていた。
 ショパンの革命のエチュード。
 小さな身体の割に手は大きく、音楽センスにも恵まれた彼女はすでに将来を嘱望されていた。
 言葉の不自由な彼女にとって、この日は大切な一歩になるはずだった。
 それが、全てはたった一つの誤爆のために駄目になってしまった。
 いや、声明では誤爆などと言っているが、救急車よりも早く空中から落下傘で降りてきた兵士達が街中を占拠したことからして大嘘もいいところなのだろう。
 爆発は会場のすぐ隣で起こったらしい。
 下手側から壁を破壊し吹き込んできた爆風は、舞台袖で待機する出演者達を一瞬で薙ぎ倒し、あるいは天井高く巻き上げて叩きつけ、マリィの背中をべろりと舐めた。
 しかし、マリィの指は止まらなかった。
 パニックに陥る客席も、背中の痛みも全て別次元にあるかのように彼女の指は最後の難易度の高い降下旋律を弾ききり、ばっさりと革命の幕を下ろした。
 マリィを助け出そうと客席から燃え上がる舞台へと駆け上がったものの、彼女の旋律に縛られたままだった僕の呪縛もその瞬間、ようやく解けたのだ。
 僕はまだ放心したままの彼女の身体を小脇に抱え、懸命に人々の合間を縫った。
 が、その先に待っていたのは銃の一斉乱射の音だった。
 一体、僕はどうやってこの銃を手に入れたのだろう。
 焼け落ちる寸前の会場を出たときにはすでに右腕にマリィ、左手に銃を持っていた。
 逃げ道を開くために夢中だった僕は、すでに何人を撃ち殺したのか覚えていない。
 はじめの二、三人までは数えていたのだ。
 だが、誤っていかにも市民の格好をした女性の身体が傾がせてしまったとき、僕は数えることをやめた。
 ほんとはちゃんと覚えておいて落ち着いたら謝罪の祈りだけでも捧げようと思っていたのだ。
 しかし、空間そのものがもはや道を開くために狙いを定められるほど正常な状態ではなくなっていた。
 何より、僕は銃を握ったのは初めてだった。
 運動部に所属していたわけでもない。
 ただ簡単な科学の実験を楽しむようなクラブに時たま顔を出しに行っていただけだ。
 僕の放課後は、そのほとんどがマリィのピアノを聞くためにあてられていたから。
 銃は撃ち放つ度に大きな衝撃が全身に波及していく。
 僕の体は否応なく消耗していったが、小脇に抱えるマリィが居たからここまでこれたのだ。
 けして、銃の引き金を引くのが快感になってきているからじゃない。
 けして、噴きだす人々の赤い血がアドレナリンの分泌を促すようになってきているからじゃない。
 けれど、踏み越えてきた死体の数より僕が手に掛けた生きている人の数の方が多いかもしれない。
 水も食料も、どこにもなかった。
 焼かれたアスファルトは熱煙をあげ、僕らの方が蒸し焼きにでもされてしまいそうだった。
 あまりの空腹に耐えかねて、僕らは眠る前、ついに死者の残した肉に口をつけていた。
 マリィは嫌がったけど、僕が無理矢理口に押し込んだ。
 何度吐こうが、食べてもらわねば僕らは生き残れない。
 僕は生きたかった。
 こんな中途半端な年で死ぬなんて嫌だった。
 何より、まだ死ぬという覚悟が出来るような年じゃなかった。
 金さえあれば百二十歳までゆうに生きることが出来るこの現代において、死は程遠い存在だったのだ。
 未知のものと隣り合わせのスリルはやがて奇妙な高揚感を僕の中に芽生えさせていた。
 生きたいと本能が願う。
 本能だけじゃかっこ悪いから、生き残る理由が欲しいと僕は思った。
 小脇に抱えた彼女はそれに申し分ない。
 何しろ僕は彼女を愛していた。彼女の奏でる全ての旋律を愛していた。
 だから僕は僕の前に立ちはだかるものをすべて排除しなければならない。
 彼女を守るために。
 捻じ曲げられた論理が僕の中で正当化されるまでに時間はかからなかった。そう、一人目に銃口を向けたときにはとうにそれが僕の正当理由になっていたのだ。
「マリィーーっ!!」
 理由に逃げ去られては僕は生きていけない。
 僕は、生きるために人を殺すことができなくなる。
 僕は必死で炎の壁を縫って辺りを探し回った。
「マリィ! マリィ! マリィ!」
 その叫びがどれほど大きくあたりに響いていたのか分からなかった僕は、自ら危難を呼び寄せていたことにすら気づかなかった。
 敵が僕を狙っていると気づいたのは、右手を撃ち抜かれた痛みからだった。
 振り返ると、悪魔の形相をした血まみれの兵士が小さなマリィを片腕で拘束して僕に銃口を向けていた。
 その銃口からは真新しい白い硝煙が立ち上っている。
 銃弾に貫かれた右腕は、しばらくぶりに真っ当な感覚を取り戻したようだった。
 燃え上がるような痛みに僕は全身を大地に投げ出してのたうちたかった。
 かと思えば、その痛みに酔っている自分がいた。
 どうして僕はそのとき、痛みのままに大地を転げまわり、その兵士に撃ち殺されてしまわなかったのだろう。
 どちらが強かったのか。
 僕自身、真っ赤な鮮血を噴き上げるその風穴に唇を当てるまでは気がつかなかった。
 気づいたその束の間の正気さえ、鉄の味に酔いしれるような目眩にあっけなく狂気に染め替えられた。
「マリィを放せ!」
 さながら僕はRPGゲームの主人公。マリィは姫君。
 酔った僕は、どうして狙い通り敵の兵士にだけその銃弾が命中すると信じることが出来たのか。
 引き金を引く。
 ずんっっと両手から弾かれるような衝撃が全身に走り、僕の意識は快感に一瞬飛ぶ。
 空しさだけが残る世界に引きずり戻されたとき、僕の目の前では二人の人間がアスファルトに倒れ伏していた。
「あれ、マリィ? マリィ? どこ行ったの? もう怖くないよ。怖いものは僕が全部追い払ってあげるから、だから出ておいで」
 出来るだけ優しい声で呼びかける。
 だけど、僕の目はとうにマリィの姿を見つけていた。
 よく晴れた夕空をとじこめたかのようなマゼンダ色の瞳を見開いて、口からは一筋といわず幾筋も血を吐いて兵士の上に仰向けに重なり合うマリィの姿を。
 その左胸からは小さくも盛大に紅い泉が噴きあげる。
「マリィ?」
 僕は彼女の横に膝をついた。
 優しく頬を撫でる。
「どうしたの、マリィ? 返り血くらい自分で拭けるだろ?」
 汚れた口元を袖で拭う。
 そのとき、マリィの下で兵士が身じろいだ。
 僕はマリィを抱き上げるとものも言わず兵士を見下ろし、その左胸に銃口をあてがった。
 懇願の瞳?
 そんなもの、僕は知らない。
 快感を貪るために、僕は弾が尽きるまでその兵士に銃口をあてがい続けた。
 早く勝利のファンファーレが鳴り響けばいいと心の片隅で願いながら。
「エ、ア……」
 周囲に轟く爆音。僕の放ち続ける銃声音。こらえきれずに口から漏れだす下卑た笑い声。
 その中にあって、どうしてそのかすかな少女の声が聞こえたのか。
 あまりにも清澄すぎたからだろうか。
 それとも、僕の良心が生み出した幻聴か。
 彼女の声など聞いたことがないはずなのに、僕にはその声が小脇に抱えられたすでに死したはずの少女から発せられたものだと確信できた。
 一瞬の放心の間に銃は僕の手から滑り落ち、兵士から流れ出した血の海の中に水音を立てて転がった。
「マリィ?」
 変に声が裏返る。
 彼女をひび割れた人工の大地の上に横たえ、僕はその口元に耳を当てた。
 何も聞こえない。
 吐息すら耳にかからない。
 手首の脈もない。
「エア、ごめんなさい」
 それなのに、声だけははっきりと聞こえていた。
「は、はは……。幻聴だ、これは……そんな都合いい言葉が聞けるはずない……」
「エア」
「エア」
「エア」
 上手く声帯を震わすことが出来なかった彼女が、こんなに明瞭に僕の名を呼んでくれるはずがない。
「君を理由に殺人の快楽を貪ったこの僕を、君が許すはずがない……。気づいてたんだろ? だから怖くて逃げ出したんだろ?」
 彼女のピアノの音色は限りなく濁りない純粋なものだった。コンサートホールの壁を取り払ってしまいたくなるほど、その音は遮る物さえなければどこまでもどこまでも真っ直ぐに伸びていく。音色だけではない。奏で出される曲はまさに至高の音楽。一度その指が鍵盤の上を踊りだせば、聴く者の心を奪って二度と離さない。
 穢れを知らない彼女の心が豊かな音楽を生み出していたのだ。
 そんな心を持つ彼女が、短期間で汚れ歪みはててしまった僕の心に怯えないわけがない。
「幻聴だ……これは僕の幻聴なんだ!」
 言い聞かせるように僕は叫んだ。
 その次の瞬間、しかし僕は一呼吸置いて再び彼女を両腕に抱きかかえていた。
 血の海に沈んだ銃はもう必要なかった。
「幻聴になんかしない。僕はもう一度君を取り戻すよ、マリィ」
 それは、新たなる理由を見つけた瞬間だった。
 法も道徳もない、歪んだ狂気の想いの果てに。  



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