天空のロエラ

第2章 過去に生きる者


「エアが逃げた?」
 エアが東四階の軟禁部屋からいつの間にかいなくなっていたという知らせをマリィが受けたのは、午前の透明感ある光が午後の黄を孕んだ光に移り変わったあとのことだった。寝坊するつもりはなかったが、昨夜ブランシュと話し込んでいて遅くなったことと、久々の自室での睡眠に安心してしまったことが重なったのだろう。
 などと冷静に寝坊の原因を分析している場合ではなかった。無駄とは知りつつ着替えだけ済ませると、マリィは東四階の客室に急いだ。
「ああ、アン=ゾフィー様。申し訳ございません。せっかくの客人を逃がしてしまいました」
 深々と申し訳なさそうに礼をしたのは、今日は朝から勤めが入っていたらしいアルデレイド。
「どうやって逃げたんだ?」
「それが、誰も見ていないのです。竪琴の音が聞こえたと言う声もありますが、姿は誰も」
 室内に入ったマリィは小さく唸った。
 入り口の扉に壊された痕はない。鉄格子にも手を加えた痕はない。よほど信用されていなかったのか、ベッドにも乱れ一つ残ってはいなかった。
「本当にここに押し込んだのか?」
「はい、間違いなく。私がエア殿をお連れいたしました」
 ふむ、と腕を組んでマリィは考え込む。
「あれほど巧みな琴の音ですもの。眠らされてしまったり、催眠状態で操られてしまったりするかもしれないわね」
「あ、姉上! こんなところに、一体……」
 ブランシュはマリィとは違ってすっかり身支度を整えて現れた。
「昨夜の吟遊詩人の歌声をもう一度聞きたいと思ったのだけれど、これでは無理のようね」
「申し訳、ございません」
「いいのよ、そんなの。もう一度連れてきてくれれば」
「ああ、そうですよね。もう一度連れてくれば……って、姉上、そんなさらりと」
「どうせこの大陸、どこまで行ったってデルフォーニュとアストラーダしかないのよ。死んでない限り、探していればどこかで会えるでしょう」
「つまりそれは、探して連れ戻せ、と」
 窺うように覗き込んだマリィを意にも介さずブランシュは頷いて、侍女に持たせていた書状をマリィに手渡させた。
「それと、帰ってきたばかりで申し訳ないんだけれど、彼を探すついでにちょっとアストラーダにお使いを頼まれてくれるかしら。ああ、中身は今開けてはだめよ。せっかく封をしたんだから、あの熊男、じゃない、グスタフ国王に王妹として手渡してちょうだい。内容はリドルト公国再興の件よ。昨日カーネル卿が貴女をせっついているのを見て思い出したの」
 昨日思い出したって、どれだけどうでもいいことだったんだ?
 思わず問いかけそうになった口を硬く引き結んで、マリィは恭しく書状を拝受した。
「アルデレイドもついていってくれるかしら? マリィは一人がいいと言うでしょうけれど、今回は王妹としての任務ですから、護衛を手薄にするわけにはいかないでしょう? とはいえ、一大行列を作ったら、それこそマリィは行ってくれなくなっちゃうから。ね、アルデレイド、貴方がマリィの手綱をしっかり握っておくのですよ」
「はい」
 異を唱えることなく、頭をたれたアルデレイドをブランシュは満足そうに見やって、再び視線をマリィに戻す。
「お願いするわね、マリィ」
「はい」
 手綱って、一体自分を何だと思っているんだ、と頬を膨らませかけたマリィだったが、ブランシュに笑顔で念を押されては何かを問うことも異を唱えることもできなかった。それはもう、幼い頃からマリィに染みついた本能のようなものだった。
 久々の高級な食材に舌鼓を打つ間もなく、マリィは携帯食を片手にアルデレイドとともに早々にデルフォーニュ城を後にした。実質、一日にも満たない滞在だったが、マリィにとって王城という空間は何の意味も持たなかった。王城に実兄オルガがいるのならまた話は別だったかもしれないが、父も母も兄もないあの王城は、生まれた場所ではあってもすでに帰る場所ではなくなっていた。姉王ブランシュヴァイクの存在だけが、今はデルフォーニュにマリィをつなぎとめている。他に兄弟姉妹がいないわけではなかったが、十代半ばを前に軍に入ったマリィにとってはその他大勢の異腹の兄弟たちは他人も同じだった。
「それにしてもアン=ゾフィー様……」
「外ではマリィ様だ。人に聞かれて余計な詮索されたくないからな」
 馬も連れず飛び出したかと思いきや、ふらふらと城下町の露店街を歩きはじめたマリィを追いかけてきたアルデレイドは、呼び名を注意されて一つ咳払いをし、居住まいを正した。
「ではマリィ様、先ほどからこのあたりばかり行ったりきたりしておりますが、何か見当があってのことなのですか?」
「もちろん。城壁の外に出てただ闇雲に歩き回ったって、大陸は広い。たとえ二国しかなくてもな。それなら目的地くらいは見当がついていたほうがいい。――ああ、いたいた」
 口早に説明したマリィは、ようやく雑踏を抜けてくる笛と女性の歌声に気がついて、足早にその人だかりの方へと近づいていった。
 昨日、エアと吟遊詩人仲間の女とが共演していたのもこの辺だっただろうか。人の壁を掻き分けて、エアの姿を探すも残念ながらここにはいない。しかし、歌っていたのは昨日、エアと親しげに話していた女だった。女もマリィに気づいて、一曲歌い終わると次の歌はもう一人の男に任せてマリィの方へとやってきた。
「こんにちは、マリィ様。きのうはどうも」
「ああ。早速で悪いんだが、エアを知らないか?」
「エア? 昨日マリィ様と一緒に女王陛下の生誕祭に招かれた、あのエア?」
「そう。そのエアの行き先だ」
 一度返答をはぐらかした女に、苛立ちは腹におさめてマリィは頷く。しかし、女はにやにやとマリィを見つめた。
「エアって顔きれいだからね。もしかして、襲っちゃった? で、逃げられた」
「ば、馬鹿を言うな。そんなわけないだろうっ」
 せっかく腹に収めた苛立ちも、あっという間に怒声となって女にぶつけられていた。
 女は女で飄々と耳を塞いでマリィの怒声を凌ぐと、にたりと笑って答えた。
「アストラーダに行くってさ」
 微妙な間を置いて、まだ軽く耳を塞いだままの女はマリィに囁いた。
「昨日、エアの歌っていた歌の歌詞、覚えてる? エアに歌を教え込んだお師匠さん――あたしも知ってるけどさ、とんでもなくスケベなジジィなんだけど、その人がアストラーダに行ったって歌ってたじゃない? 昨日、ここで歌っていた時にさ、たまたまイルケって、ほらあのもう一人いた男。あいつがさ、そのお師匠さんの行方、噂で聞いて知ってたんだよ。なんでもアストラーダ王お気に入りの女に手を出したとかで城に捕まっちゃったみたいなんだわ。エアの奴、あれで恩義に熱い奴だからねぇ、助けに行ったんじゃない?」
 マリィは、昨日ここでエアを見つけた時のことを映像を巻き戻すように思い出した。
「女漁りにアストラーダに出て行って、禁断の果実に手を出してしまった、と」
「そうそう。あのジジィならやりかねないよ。それはあたしが保障する」
 若い女にエロジジィと保障される、そんな奴がリドルトでのロエラの歌の伝承者だったとは、情けなくて気が遠くなりそうだったが、マリィはどうにかこうにか意識をつなぎとめ、女に少しの礼金を渡した。
「もう一つだけ質問だ。今日、エアはお前のところに来たか?」
 喜んで礼金を握りしめた女は、素直に首を横に振った。
「でも、今朝、東門からアルターシュの森に入っていくところを見たって、今日、東から来た奴が言ってたよ」
「それだ!」
 指を鳴らして、マリィはあっという間に吟遊詩人たちの輪から抜け出していった。
「さすが、吟遊詩人は情報が早いですね」
「今朝、アルターシュの森に入って行ったってことは、かなり距離をあけられていると見ていいだろうな」
「焦らないでください。焦っても先を見誤りますよ」
 急いて今にも走り出しそうなマリィにアルデレイドは大股で追いつき、釘を刺す。
「私が勝手に暴走しないように見ているのが、お前の仕事だろ?」
 足の速さを変えることなく、マリィは口元に笑みを浮かべながらも真っ直ぐ東の城門を見据えたまま答える。
「マリィ様は時に私などの手には負えないこともございますので、少しはご自分で律していただかないと」
「……お前、昔より口が立つようになったな……」
 すかさず答えたアルデレイドに、マリィは呆れるともなく視線を送った。
「これは失礼しました」
 苦笑しながらもアルデレイドの表情に反省の色は見られなかった。
(誰だ、あれほど純朴、朴訥、誠実三拍子揃った男をこんなにしたのは)
 完全に責任逃れの愚痴を溜息に乗せて心から吐き出した頃には、マリィたちはアルターシュの森に入り込んでいた。
 時は惜暮。
 森の中はそろそろ明かりなしで歩くのは危険な時間だった。足元が木の根や泥濘などでおぼつかなくなることはもちろん、夜行性の肉食動物がいつどこで見ているか知れない。
「アルデレイド、テントは持ってきたか?」
 きょろきょろとテントを張れそうな空き地を探しながら、マリィはそれでも前へ前へと進んでいく。
「いいえ。エア殿がいなくなったと知ってすぐに出発したため、揃えている暇はございませんでした」
「それなら寝袋くらいは持ってきたんだろうな?」
「それも残念ながら。食料を手配するので精一杯でした」
 静かに答えたアルデレイドに、マリィはくるりと後ろの彼をを振り返った。
「お前、何年わたしの部下をしているんだ! いつ何時でも野営の準備をしておくのが基本だろう?」
「申し訳ございません。本当は重いのが嫌で」
「何だと?」
 けらけらと本音を漏らしたアルデレイドに、マリィは眉を吊り上げた。
「お前、それでも軍人か? 姉上の近衛隊隊長になって王宮暮らしをするようになって、気が緩んだんじゃないか?」
「マリィ様が下さった平和ですので。さて、この辺で休みませんか? 敷物くらいは持ってきておりますし、ちょうど焚き火の跡も残っていますから」
 アルデレイドが足元を指差すと、そこには見慣れた組み方の焚き火の跡があった。おそらく数日前、エアと野営した場所だろう。
 マリィはエアの顔を思い出しかけて、掻き消すように長く息をついてどっかと丸太の上に腰を下ろした。
「それにしてもエアめ、一体どこまで行ったんだ? 一人じゃまた賊に襲われるだろうに」
「エア殿は賊に襲われていたんですか?」
 新しい薪を積み加えて火をおこしたアルデレイドは、意外そうにマリィを見上げた。
「そうだ。そこをわたしが助けたんだから」
 燃え上がる炎は闇に沈んでいく森の中で次第に赤さを増していく。森にこもったじっとりとした詰めたい湿気も払われていくようで、マリィは一つ背伸びをし、干し肉を串に刺して火にかざしはじめた。
「確かあの時もあたしがこんな感じで肉を焼いていた時だった」
「ひいぃぃぃぃぃぃっっっ、ぎゃぁぁぁぁっっ、誰か助けてぇぇぇぇっっっ」
「というような悲鳴が聞こえてだな、ちょうどその辺の茂みからあいつが虎に追われて飛び出してきて、わたしの大切な肉をぱくり、ぺろり、と……」
 目の前に光景を思い出しながら語りにふけっていたマリィの目の前で、つやつやに焼けた串刺しの干し肉が一瞬にして消滅していた。マリィの顔色が変わる。
「もーむーめーめー」
 マリィの背後に回った男は、全身の震え以上に口をもごもご動かしながらマリィの肩を強く掴み、もう片手で茂みの方を指差した。
 無言でマリィはその男の頭をはたく。
「あほか、お前は。学習能力というやつはないのか? わたしの肉を食べたら怒られると、今まで存分に学んできたはずだろうっ?」
 舌打ちしつつも、マリィの表情に明るさが戻っていく。その様子に目を眇め、アルデレイドはすらりと腰に佩いていた細い剣を抜き放つと、焚き火を飛び越えて踊りだしてきた虎の額に一太刀あびせかけた。虎は悲壮な断末魔をあげてどうと身体を横たえる。
「つ、強ぇぇ……」
 茫然と呟いたエアは、すぐに羨望のまなざしでアルデレイドを見つめた。
「なんて素敵な方なんだ! 文句も言わず、謝礼も要求せずに襲い掛かる虎から僕を助けてくれるなんて!!」
「図々しい奴め。自分から城を出てったくせに」
「えー、だってー、鉄格子見ると逃げなくっちゃって思っちゃうんだもん」
「それは悪かった。わたしが指示する部屋を間違えたんだ。正しくは来賓用の西四階の部屋へ案内させるのが正しかったんだ」
 しれっと言ってのけたマリィを、エアは疑いの目で胡散臭そうに見つめる。
「へー、ふーん」
「なんだ、その目は」
「せめてお詫びに何かおいしいもの食べさせてくれないのかなって思ってさ」
 そう言ったエアの視線はすっかりマリィの第二、第三の干し肉に注がれている。
「エア殿、マリィ様から食料をとると末代まで呪われますよ。こちらに私の分がございますから、どうぞお食べください」
 気を利かせたアルデレイドが差し出した干し肉を見た瞬間、エアの腹は素直に空腹を証明した。
「じゃ、遠慮なく」
 エアは差し出された二本とも両手に持って、交互に肉にかぶりつきはじめる。呆れた目で見やったマリィは、今は無駄と知りつつ、どこへ行くつもりだったのかを尋ねた。
「行くあてがあったのか? 師匠殿はお前にデルフォーニュに行けとおっしゃったのだろう?」
「そうだよ。僕、アストラーダでは顔広すぎるからさ、すーぐに借金取りに捕まっちゃうと思ったんじゃない? でも、お師匠様がアストラーダに捕まったと知ったら、やっぱ黙ってデルフォーニュでぬくぬくしているわけにもいかないじゃん」
「その心がけはいいけどな、デルフォーニュに来る時も、今も、虎に襲われ、黒い奴らに追われ、わたしがいなかったら命が危なかったんだぞ? どうやってアストラーダまでたどり着くつもりだったんだ」
「それは……正直考えてなかったんだ。お師匠様が捕まったって聞いたら、もう、頭の中が助けなきゃってそれだけでいっぱいになっちゃって」
 俯いてしまったエアを、マリィは鞄に入っている姉から預かったアストラーダ王への書状の所在を確かめてから覗き込んだ。
「なんなら、アストラーダまでわたしが護衛してやろうか?」
「え? マリィさんが? 自ら? 直々に?」
「そうだ」
「でも、マリィさん、デルフォーニュに帰ってきたばかりじゃないか」
「それがな、姉上からアストラーダ王への書状を届けてほしいと頼まれてしまってな」
 ほら、と書状を出してみせると、エアの目が嬉しさと安堵に輝いた。が、すぐに猜疑のこもった色に変わる。
「でも、昨日のこともあるしなぁ……」
「だから悪かったと言っているだろう? 久しぶりに帰ったから西と東、どちらか迷ってしまったんだ。その侘びもかねてタダで護衛してやるから」
「……がめつ……」
「何か言ったか?」
「いえ、何も! あ、そういえばここからすぐのところに僕の家があるんです。獰猛な獣や毒のある虫たちがいるこのあたりで野宿するよりも、安全だと思うんですけど」
 控えめに切り出したエアに、テントも寝袋もなかったマリィは一も二もなく頷いた。
「では、ご案内しますね。こちらです」
 笑顔で森の中を案内しはじめるエアと、楽しげにその横を歩くマリィを後ろから見守りながら、アルデレイドは掴みどころのない不安を感じていた。











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