天空のロエラ
第1章 血は呼び合う



「この娘は誰じゃ?」
 周りには色とりどりの花が咲いていた。中でも赤い薔薇の花が今を盛りと花弁を広げている。
 十歳のマリィは、二月前に母、メグラールを亡くしたばかりだった。その日は、母が父王、エディアルドの次に愛していたという中庭の赤い薔薇が咲いたと乳母が言うものだから、母の弔いに薔薇を愛でようと庭を訪れていたのだった。
 赤い薔薇のアーチを潜って出くわしたのは、白髪の混じりはじめた中年の男だった。身なりはそれなりではあったが、マリィを見つめる顔はだらしなく目が緩み、鼻の下が伸びている。
 マリィは、すぐにその男が二月前の母の葬儀で粛々と弔辞を読み上げていたこの国の最高権力者であることに気がついた。
 乳母は慌ててマリィを道の端に寄せてひれ伏す。
「第十一王女、マリエトレッジ様でございます」
 はて、とエディアルド王は首を傾げた。
「第十一王女? 誰のだ?」
「メグラール様の第二子でございます」
 恐縮して付け足した乳母の言葉にもエディアルド王は頷かない。
「第一王子オルガヴァルド様の妹御でございます」
「オルガ? ヴァルド? ああ、オルガヴァルド! アストラーダに遣ってすっかり忘れておったわ。はて、あれに妹などおったのか?」
 マリィははじめ、何かの冗談か、はたまた嫌味な男なのだろうと思ったのだが、兄のことは何とか思い出したエディアルド王が、自分のことは全く思い出す気配がないのを見て、愕然とした。
(この人はほんとに私のことを知らないんだ)
 小さなマリィの胸に、冷たく重いものがつかえた。込み上げる思いが目からあふれ出す前に、マリィはドレスの裾を摘み上げて軽く膝を曲げた。
「先に亡くなった正妃メグラールの娘、第十一王女、マリエトレッジ・アン=ゾフィーでございます。お父上様にはお初にお目にかかります」
 頭を垂れて顔を上げるとき、マリィは王の心を見定めてやろうと睨みつけるような目で王を見つめた。
 エディアルド王はぽかんとしてマリィを眺めていた。
 何の感慨もない父王と目があったとき、マリィは弾かれたように逃げ出した。
 悔しかった。自分のことを知らなくてもいい。だけど、せめて母の名前にくらい何らかの反応をしてくれてもよかったものを。
 何のために母が死んだのか分からなかった。とうに、母は父の眼中から消えてしまっていたのだ。だけどそれはいつ? 二月前、確かに父は母のために弔辞を読んでいた。だけど、そう。法律でも公布するように、なんてそらぞらしく読むんだろうと、確かにマリィはあの時、すでに違和感を覚えていたのだ。
 せめて、自分の名前だけでもあの父王に覚えさせたい。
 復讐にも似た心持ちで、マリィは一心に考えた。
 兄オルガヴァルドのことは思い出していた。何故? 第一王子だから? それだけじゃない。オルガヴァルドは、三年前、デルフォーニュとアストラーダとでリドルトを滅ぼした際、お互いを安堵しあうために結ばれたマルタジット条約の『どちらかが王に即位するまで第一王子を互いに交換し合う』というふざけているとしか思えない条項により、アストラーダに人質同然に遣わされていた。政治的な事柄であれば、あの男の記憶にも名前を残せる。
 だけど、どうすれば第十一王女が政治に絡める?
 他国に嫁ごうにも、嫁ぎ先は今やアストラーダ一国しかない。それも生きている姉は九人もいるのだ。アストラーダの王子は二人しかいない。嫁ぐならば年齢的にも上の姉達になることだろう。ならば、自力で名を上げるしかない。
 翌日からマリィは十歳の王女にはあるまじく、剣術と武術に長けた者を呼んで毎日鍛錬を始めた。そして二年後、思惑通り、女性で初めてデルフォーニュ王国軍に入隊を果たした。
 再びマリィが父王と再会したのはその四年後、十六歳の時。母の命日に墓に薔薇を手向けようと中庭に立ち寄った折だった。あろうことか、エディアルド王は美しく成長したマリィを見て王妃にならないか、と口説いたのだった。
「美しい娘じゃのう。のう、お主、わしの妃にならぬか? 決して不自由はさせぬぞ、薔薇の精よ」
 作り慣れたマリィの愛想笑いも、さすがに凍りついた。
(五十のジジィが世迷言を!)
 剣を携えていれば、躊躇いなく抜き放っていたかもしれない。しかし、幸か不幸か、このときマリィはめったに着ないレースをふんだんに使った重たいドレスを着ていた。
「お久しゅうございます、父上。六年ぶりでございましょうか。私が十のときに中庭でお会いして以来ですものね。私、第十一王女のマリエトレッジと申します。母は亡き王妃メグラール。同腹の兄にオルガヴァルドがおります。思い出していただけまして?」
「む、娘?!」
 エディアルドの驚愕たるや、マリィの想像以上だった。しかし、文字通り腰を抜かしてマリィを見上げていても、その目は焦点を結ばない。それもそうだったのかもしれない。当時、エディアルド王は七人目の側室にマリィと同い年の少女を迎え入れ、第十四王女を産ませたばかりだったのだ。
(この色ボケジジィが十六年も前に生まれた十一番目の王女のことなど覚えているわけがない、か)
 頬の引きつった笑みを小さな溜息で振り払い、マリィは一度背筋を伸ばし、王の前に膝を折って頭を垂れた。
「または、デルフォーニュ王国軍南部部隊隊長、アン=ゾフィー中将と申します」
 エディアルド王は再び黄色く濁った紫の瞳を見開き、まじまじとマリィを観察した。
「おお、知っておる。知っておるぞ。神話に残る女傑族アマゾンの如く勇敢な女隊長が、日夜獅子さえも青ざめる鋭い眼光で東を睥睨し、南部の国境を守護していると。おお、なんと、我が娘であったか」
 エディアルド王は六年前、マリィが求めた言葉をそのままなぞっていた。
 どんなにこの日を待ちわびたことか。
 快哉を叫びそうになる口元を強く引き締めて、マリィは言った。
「王の耳にも届いているとは、光栄至極にございます」
 しかし、マリィの声は淡々と王の賞賛を受け流していた。
 胸にはぐちゃぐちゃとうねりながら抑えようのない思いが膨れ上がってくる。王が軍で活躍する自分の名を覚えてくれていることが分かれば、もっと素直に喜べると思っていた。確かについさっきは快哉を叫ぼうとしていた。しかし、それは果たして心からの快哉だっただろうか? そうしたいと願ってきたことだったから、何度も思い描いたように喜ばなければならないと思っただけではないのか? 何が気に入らなかったというのだろう。父は確かに自分の名前を知っていてくれたというのに。
『おお、なんと、我が娘であったか』
 王が最後に付け加えた一言がマリィの脳裏で繰り返される。
(私はただ、父に娘の名前を覚えていてほしかっただけだったのだ……)
 短時間に辿り着いた結論は、この六年の鍛錬を無駄にしかねないもののように思えて、マリィは愕然とした。全身に内から震えが走っていく。
 そんなマリィを、エディアルド王はどのような心持ちで眺めていたことだろう。当然、マリィの心中など読めるはずもない。しかし、ゆっくりと立ち上がったエディアルドはマリィを見下ろして言ったのだ。
「そなたの名の由来を知っておるか?」
「名の、由来?」
 思いがけない問いかけに、マリィは不躾に父王を見上げていた。エディアルドはそれを咎めず、口元に苦いものを含んだような笑みを浮かべた。
「ゾフィーはわしが唯一、望んで手に入れられなかった女の名だ」
 エディアルドがいつ背を向けたのか、マリィは分からなかった。気がついたとき、風は流れ、太陽は西へと傾き、赤銅色の光で赤い薔薇を色褪せさせていた。
『ゾフィーという名は、私の双子の姉の名よ。私はゾフィーが大好きだったの。エディもね、私に女の子が生まれたら、ぜひゾフィーとつけるといいと言ってくれたの。貴女は私からも父上からも愛されているのよ』
 無邪気に笑っていた母の笑顔が、思い出すだけで憎かった。
 一体三人の間に何があったのかは分からない。だけど、母は違ったのだ。二人は互いに恋をして結婚したのではない。一方通行の想いと何らかの誤解が重なって結婚してしまったのだ。だから、父エディアルドは母メグラールを執拗に避け、めったに会いにこようとはしなかったのだ。
「なんていうことを……」
 やっとの思いで声にした言葉は、六年前に味わったものとは比べ物にならないほど苦い思いに潰されてくぐもった。
 自分につけられた名が、以来、マリィには十字架を背負うかのごとくやるせない悲しみの象徴になった。
「今日も眠れなかったみたいだね」
 白昼堂々欠伸をしたマリィを見て、エアは揶揄するように言った。
 貴重なのか鬱陶しいのか分からない拾い物をして八日目。二人はようやくデルフォーニュの都を囲む城壁をくぐった。
 一年ぶりに訪れる王都ユクラは、相も変わらず活気に満ちていた。半年ほど前まで滞在していたアストラーダの都パルナードはどこか辛気臭い香の匂いが漂っていたが、やはり港町は違う。潮騒の香りを感じただけで気分が浮き立つ。
 とはいえ、この八日間昼は歩き続け、夜は依頼人を守るために短時間の眠りだけで焚き火の番を続けていれば、いかに鍛えたマリィといえど疲れは見えてくる。
「用心棒が眠ってどうする」
 疲れを知らないのは依頼主のエアの方だ。夜は森だろうと道端の岩の陰だろうと、それはもう天国にいるかのようにぐっすりと眠り、熊がでようと蛇が足に絡まろうと一切目を覚まさない。その上、昼はマリィの獲った動物の肉を毎日口にしていたのだ。疲れるわけがない。
 それもこれもマリィが間者からのみならず毒蛇等からも徹底的にエアを守っているからなのだが、エアは八日間も旅路を共にした気安さからか、遠慮なく切り返す。
「疲れていざって時に使い物にならないほうが怖いよ」
 城門を通り抜けて王城へとつづく大街道の脇には大陸中の商人が集い、物を買いつけ、あるいは物を叩き売る。こんな雑踏だからこそ周囲に気を配らなければならないのに、デルフォーニュに近づくほど見る回数の増えていく幼い頃の夢は、必然マリィの眠りを浅いものにし、昼間の集中力を奪っていた。
「いざって時ねぇ。それで、エア。デルフォーニュの王都まで来たわけだけど、契約じゃデルフォーニュまでだったわよね? このあとどうするつもりよ? って、エア?」
 マリィが隣を振り返ったとき、ついさっきまできょろきょろと楽しげに王都に集まった珍しい者物を見回していたエアの姿が見えなくなっていた。
「エア? エア!」
 血の気の引いていく音と共にマリィの首筋から背にかけて冷たいものが滑り落ちていった。エアを生かすという契約はデルフォーニュまでだが、ロエラの名が出てくる歌を知っている者をそう簡単に手放せるわけがない。聞けばロエラの歌はアストラーダに消えた師匠から教わったものだというし、下手に逃がせば、今度はアストラーダに行ってこの歌を歌うかもしれない。それを防げるのなら、いくらでも舌を弄し、欲しいだけのお金と贅沢な暮らしをさせてやってもいいくらいだ。だからこそ、八日間も会ったばかりのエアを用心深く守りながら王都まで歩いてこれたのだ。
 それなのに、王都ユクラの城壁を潜ったところで姿を見失うなど、気が緩んでいたとしか言いようがない。
 人並みが壁のように押し寄せ、立ち並ぶ店の多さではアストラーダを凌駕するこの王都の大街道で、エアのようなひょろりとしたどちらかというと存在感の薄い青年を探すのは至難の業としか言いようがない。攫われたのか、自ら離れていったのか、それさえも分からないのでは、目星のつけようもない。
「くそっ」
 小さく呻いて、マリィは迷わず目の前にあった酒楼の二階へと駆け上がった。
「お、お客様?! 勝手に上に上がられては困ります!」
 慌てて追いすがってくる店員には目もくれず、マリィは中央の客室の戸を押し開け、窓辺に駆け寄る。
 眼下に見える道には、地上で見るよりも多くの人々がひしめき合っているのが見えた。その中で、大して珍しくもない黒い頭を探してみるが、そこここに同じような色の頭が行き交っていてなかなか見分けがつかない。
「お人探しですか?」
 どこか間延びした男性の声が、部屋の隅からのんびりと投げかけられた。
「昼間から酒楼で酌とはいいご身分だな」
「本日はお休みをいただきましたので。それで、お連れ様はどのような職業の方で?」
 マリィの皮肉など意にも介さず、男性は自らグラスに赤紫色の液体を注ぎ入れた。
「自称、吟遊詩人だ」
 ゆっくりと飲み干す男を振り返ってマリィは答える。
 男は空になったグラスをテーブルの上に静かに置くと、おもむろに席を立ち、マリィの横から窓の下を眺めた。
「吟遊詩人。それなら、大きな街に来れば新しい情報を求めて同業者のところに行来たくなるのも道理かもしれませんね」
「そんなこと、あいつは一言も言わなかったぞ?」
「習性って言うのはそういうものです。意識していなくても引き寄せられてしまう、職業病ですね。ほら、あそこで歌っている女がいますよ。あの取り巻きの中にはいませんか?」
 男に促されて見ると、確かにその中にはエアらしき黒髪の男も混じっていた。
「確かめてくる。ありがとう」
「いえいえ。会えるといいですね」
 ろくに男の顔も確かめず、マリィは酒楼を飛び出し、聞こえてくる端正な竪琴の音色を頼りに人だかりを掻き分ける。歌詞に耳を澄ましている余裕はなかった。一曲目が終わると美しい歌声に惜しまず賞賛の拍手が捧げられる。その拍手が終わらないうちに、二曲目が始まった。歌い手は今度は男性だ。それもここ最近聞きなれた青年の声。
『アルターシュの森深く、隠者が住みついているのを知っているか?
 アルターシュの森の隠者は悟りを開くにはちと気が短く、世捨て人というには実は快楽に弱い』
「おいおい、いいのかー? 自分の師匠をそんなに言って」
 一曲目を歌った美女の横に腰掛けて足を組み、竪琴を奏でるエアとは顔なじみなのだろう、取り巻きの中から野次が飛ぶ。エアはにやりと笑ってさらに続きを歌いだす。
『その隠者、ふとした思いつきで三月ほど前だったか、森の住み慣れた小屋をあとにした。アストラーダに行くと言い残して。
 さて、さっきも言ったようにこの隠者、森の安穏とした暮らしを続けていると、一年に一回は街に出て羽目を外したいお年頃。
 頭が禿げ上がっても白髪が増えても男ってものは、ほんと欲望だけは抑えがたい。
 今度もまた一月すれば、街の女に愛想をつかされて戻ってくるかと思いきや、あなおそろしや。
 今回に限ってこの隠者、ちょっと羽目を外しすぎたらしい。
 三月経って、戻ってきたのは借金取りの武装集団。金を出す暇すらありゃしない。あれよあれよという間に小屋の中は荒らされに荒らされ、残された弟子は命からがら逃げ出した。
 そんな憐れな弟子を救ったのは、巷で有名。泣く子も黙るマリィ様。
 三日間空腹のまま森を彷徨ったマリィ様は、すんでのところで肉を食い損ねて機嫌が悪かった。
 弟子の懇願を受けると、ばったばったと追いすがってくる借金取りを薙ぎ倒し、切り倒し、アルターシュの森で最も恐れられている異形の虎さえもその胃袋に入れてしまった。
 おお、さすが我らがマリィ様。恐れるものを知らず、果敢に大剣を振り回す姿は何人たりとも近づきがたい。
 見事、弟子を異形の虎と借金取りから守り抜き、無事にデルフォーニュの城門をくぐったマリィ様、さすがデルフォーニュの海と大地が育んだお人ということでしょう』
 うっとりするような美声で歌い上げたエアを、歌の最後で持ち上げられたデルフォーニュの民達は喝采を以って褒め称えた。どこからか「お帰りなさい、エア様〜」などという黄色い声も飛んでくる。
 人壁を押しのけてようやく最前列に辿り着いたマリィは、脚色しすぎ(とマリィ自身は思っている)の歌を披露したエアを一発殴ってやりたい気分だったが、すぐに「マリィ様がいるぞ」と前に引っ張り出され、握った拳を解かざるを得なかった。
 ひとしきり注目を集めた後、聴衆は街に溶け去り、エアに野次を飛ばした男も何かしらエアに囁きこんで人並みに紛れていった。
「久しぶりにエアの竪琴で歌えて楽しかったわ。行くところがなかったら待ってるからね」
 はじめに歌っていた女性も、エアにウィンク一つ送ってギターを背負って去っていく。
「さて、エア。説明してもらおうか? 急にいなくなったかと思いきや、こんな目立つことをして。借金取りに殺されたくなったのか?」
 完全に町並みの一部になったことを確認して、腕組みをしたマリィはエアを睨みつけた。
 にらまれたエアは飄々とマリィに笑い返す。
「だって、歌が聞こえてきたらいてもたってもいられなくってさ」
「だったらせめて声をかけてから行けばいいだろう?」
「ごめんごめん、ついだよ、つい。それに、契約場所はデルフォーニュだったでしょう? マリィさんのお家もすぐそこだし、これ以上迷惑をかけるわけにも……」
 探るような目でエアがマリィを見つめたことに、マリィはこのとき気がつかないふりをした。むしろ、好機とさえ思った。
「吟遊詩人のエア。今度は私から頼みたいことがある。今夜のパーティでその類稀なる美声を披露してはくれないか?」
 にこり、とエアは笑った。
「いいよ。どこのパーティ?」
「デルフォーニュ王国女王、ブランシュヴァイク陛下の誕生祭だ」
 エアはぐるりと見回して街の異様な熱気を改めて実感したようだった。
「女王陛下にお目にかかれるなんて、光栄の限りです」
 胸に手をあてて、エアは深々とお辞儀をした。
 マリィはそれを見て、さっき立ち寄った酒楼からこそこそと後にくっついてきていた男を振り返った。
「アルデレイド、私からの姉上への贈り物はこの男の歌声だ。休暇中に悪いが、葡萄ジュースじゃ酔えもしまい? 夜までに手配を整えておいてくれ」
「かしこまりました」
 アルデレイドと呼ばれたアン=ゾフィーの腹心の部下は、心得ておりますとばかりに微笑んで頭を垂れた。
















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