天空のロエラ
第4章 失われた永遠 〜The Lost Everlasting〜



 リストの愛の夢。
 自分の演奏を邪魔するように奏でられはじめたのは、唯一、エアが自分で弾きたいと練習していた曲だった。
『うまく弾けるようになったら、君に僕の演奏を捧げるよ。君が聞いたら笑ってしまうくらい稚拙かもしれないけれど、その時は笑いながらでいいからどうか受け取ってほしい』
 嬉しくて頷いたのを、今でも覚えている。ちょっと照れたようにほんのり赤く頬を染めた彼の表情も。
 喋れなかったオリジナル時代。ほんとは狂っていくエアを止めてあげたかった。
 あの時ちょっとはぐれてしまったのだって、お母さんを見かけたような気がしたから。
 私がいつも笑ってあげられなかったのは、化膿する背中の痛みを貴方にばれないようにこらえるので必死だったから。貴方に抱きしめてほしくてずっと我慢してたの。
 貴方が悲壮な顔で私の名を呼んでくれているのに、私は何も返してあげられなかった。
 平和な時代ならあなたが大好きなピアノを弾いてあげられたけど、ピアノがなければ私は何も貴方に伝えられない。
 エア、大好きだったよ。
 エア、あなたは私のことを繊細だって言ったけど、あなたの方がよっぽど繊細なの。
 だって、貴方は一人目を射殺した後、ずっと良心の呵責に苛まれ続けていたでしょう?
 私は何の役にも立てなくて、揚句、貴方を泣かせてしまった。
 一度、あなたの心を殺してしまった。
 だからね。
 また生き返れたとき、とても嬉しかったの。
 もっと全身で喜びたかったけれど、意識と繋がったばかりの体は思うように感情を反映してくれなくて、貴方の名前を呼ぶのにも時間がかかってしまったの。
 でも、その後は幸せだったわ。
 貴方は私が生前のマリィの記憶を持たない新しいマリィだと思っていたけれど、私、本当は全部覚えていたのよ。
 だけど貴方は、自分の犯した罪など知らない私を求めていると知っていたの。
 だって、誰しも自分の犯した罪を克明に知る人間なんかと一緒にいて安らげはしないもの。
 でもそれは間違っていたんだよね。
 私は知らないふりをするのが一番だと思った。
 喋れるようになった新しいマリィ。これを演じ続けられればそれでいいと。
 貴方は幸せだといってくれたし、私も幸せだと言ったわ。
 けれど、あなたはいつも心の隅に罪悪のとげをさしたままだったのね。
 それを抜いてあげられるのは私だけだったと言ったら傲慢かしら?
 気づかなかったわけじゃない。
 私も気づこうとしなかったの。
 狂っていった貴方を思い出すのは、私にも辛いことだったから。
 そして、あの時止めてあげられなかった私には、もう今更貴方の罪を糾弾してあげることさえできなかったのよ。
 たった二年の幸福な生活。
 世界はまた戦争を始めていて、私はできるだけそんなニュースは貴方の耳に入れないようにしていたのに、ついに貴方を触発するテレビニュースが流れてしまった。
 貴方に心行くまで愛されたあの晩、私、最後まで迷っていた。
 貴方を地下に行かせていいものか、止めたほうがいいものか。
 地下に行かせてしまえば、私と貴方は分かたれる。貴方は破壊の使いとなり、私は偽りの神になる。
 知ってたんだよ。
 ロエラ計画。
 私がそのロエラだってことも。
 何の力もないことも。
 でも、貴方が犯した罪の贖罪としてその道を選ぶなら、私は貴方の意思を尊重するより他はないと思ったの。
 私が罪を糾弾してあげられなかったこれは報いなんだって、自分に言い聞かせて。
 貴方が地下に降りるのを見計らったようにあいつらはやってきたわ。
 貴方を探して所かまわず銃を撃ち放ってロエラを出せ、って。  地下から貴方が錯乱状態で飛び出してきた時、私はもう撃たれた後だった。
 その血を吸ってあなたは意識を取り戻して。
「ごめんなさい。エア、ごめんなさい。私、最後に貴方にちゃんと伝えたかった。声がある今度こそ、ちゃんと、貴方を……」
(愛しているって、伝えたかった)
 少女の声がマリィの耳に響いて消えていった。





「コルダ――演奏を中止しろ」
 大画面を背に振り返ったエアは恐怖に満ちた顔でキスミェルを睨みつけながら、コルダに命じた。しかし、コルダは聞こえていないかのように、最後の曲、ショパンのソナタ第三番第一楽章に取り掛かり始めた。
「コルダ! 聞こえないのか! 演奏を中止して答えろ、コルダ! こいつは何だ? どうしてここにいる? どうやってここに下りてきた? そこの部屋は何だ?」
 さっきまでマリィに見せていた余裕など吹っ飛んでしまったように、顔を憤怒に赤く染めて怒鳴り散らす。だが、コルダは意にも介さずピアノだけに集中し続ける。
「お前、誰が主だと……」
 ついにはコルダを取り巻く結界に拳を叩きつけようとしたエアの手首を、ゆっくりと歩み寄っていたキスミェルが掴んだ。
「もういい。終わりにしよう」
 そう言って、キスミェルはエアの手は掴んだまましゃがみこみ、コルダの結界の外、オリジナルのエアとマリィの眠る二つの箱から伸びていた線を二本とも引き抜いてしまった。
 冷水を浴びせられたように、エアの顔から血の気が引いていく。その目の前で、箱の中の二人の姿は見る間に白骨化していった。
「お前、誰だ?」
 怯えたように、エアはキスミェルを見上げた。
「誰だとは御挨拶だね。もう忘れたのかい? あれほどキッシーと呼んで兄のように慕ってくれていたのに」
「誰が兄のように慕っていただ。侮蔑の上をこめてキッシーなんて仇名つけて呼んでやってたんだよ」
「口の悪い王子様だ。その上、なりきるのも得意らしい。本当、もうやめてくれないか。昔の恥ずかしい記憶を目の前で具現化されるのは、見ていて気持ちのいいものじゃない」
 両目に片手を当てて溜息をついてみせるキスミェルに、エアは大きく目を見開いた。
「昔の恥ずかしい記憶? 何を言ってるんだ。今のエアはこの僕だ。僕以外にエアの記憶を持つ者が存在するものか」
「そうだね。確かに一世代にエアもマリィも一人ずつしか現れない。そう組み込んである。どこかにエアかマリィが発現したら、血を受け継ぐ他の者達は発現が抑制されるようにね。だけど、例外もあるらしい」
「例、外?」
 意味が分からないというようにエアは首を振る。
 そのエアの手を握ったまま、キスミェルは大画面を振り返った。
「マリィ殿、あれを御覧なさい。その上で、もう一度問いたい。地上に、貴女の大切なものは残っているかどうかを」
 大画面は二つに区分されていた。一つに映し出されたのはリドルト遺跡からデルフォーニュ軍とアストラーダ軍、両兵に保護されたデルフォーニュ女王ブランシュとアストラーダ王グスタフ三世の姿だった。そしてもう一区画に映し出されたのは、赤い空の下、天から降りくる光線に怯える人々を、動けないながらも叱咤激励するアルデレイドの姿。
「姉上、熊男……それに、アルデレイド……」
 茫然とマリィは呟く。アルデレイドは助けたとキスミェルから聞いていた。だが、ブランシュとグスタフは、地下空洞のはるか下へと落ちていってしまったはずだ。果てのない深淵に落ちて、とても助かるはずがないと言い聞かせたからこそ、ぐっと唇を引き結んで耐えていたのではなかったか。
「オリア大陸中央に建設されたロエラ研究所は二つの区域に分かれている。今私たちがいる地下の研究所区域と、オリジナルのエアとマリィが暮らしていた地上の私生活区域と。エアの記憶を受け継ぐ者に与えられている情報は、このうちの研究所区域のみだ。私生活区域の図面は、入り口も研究所への廊下も含めてすっぱり抜け落ちているはずだ。当然、ここの監視システムからも」
「その扉が私生活区域ってところに繋がっているっていうのか?  そんな馬鹿な。だって僕はオリジナルのエアの過去だって知ってる」
「辛い記憶ばかりをインプットしてしまって済まなかったと思っているよ。それもこれも、狂戦士に幸せなど必要ないと思ったんだ。怒りだけが動力源になるように、そういう情報だけを与えた」
 エアは泣きそうな表情を浮かべてキスミェルに掴みかかった。
「つまり、お前は自分が、自分こそがオリジナルのエアだと言いたいのか?」
「どんなに科学が進歩しても、死後の自我の行方について研究がなされることはなかった。いくつか前世の記憶を持つという人間が名乗り出たとしても、人格障害やものめずらしいタレントとして悪戯に扱われるだけの時代だった。心臓か脳が生命活動を停止すれば死とみなされ、人生は終了になると。人は自らが解き明かした英知の結集のみを信じ、神という存在を忘れていた。オリジナルのエアだって、神など信じていなかった。自ら世界に女神を造ってしまうほどの大馬鹿者だったのだから。だから、どんなに蘇生させたマリィが、記憶にないはずのエアの名を呼んだときですら、もう本物のマリィは戻ってこないと思っていた。蘇生させたマリィがどんなに本物と同じピアノ演奏をしてみせたって、指が覚えているだけだと思っていた。二度、マリィを失い、三度目に蘇生を施して成功しても目を覚まさなかった時は、彼は心底絶望した。彼女のお腹の中に新たな命が宿っていたことに気づくまでは」
 キスミェルは優しく包み込むようにピアノ演奏に没頭するコルダを見つめた。
「オリジナルのエアは、私生活の記憶は必要最低限の部分しか組み込まなかったはずだ。幸せな記憶を持つエアは造らなかった。私の血筋を辿れば、リドルトの血を受け継いでいる者もいるかもしれないが、すでにお前が狂戦士として発現している。私までエアの記憶を持ちうるはずはないのだが、どうしたことだろうね。さっきの大地震で、今までリドルト遺跡に執着してきた理由が分かったような気がしたよ」
 苦笑したキスミェルは、再びマリィに視線を戻した。
「マリィ殿。答えを」
 静かに促されて、マリィは生唾を飲み込み、画面に映し出された姉と部下の姿を見つめ、おもむろに頷いた。
「ある。大事なものが、まだ地上に残されている」
 その答えを聞いた瞬間、エアの顔が悲壮に歪んだ。
「どうして? あの女はマリィさんのこと……」
「それでも、わたしの姉上なんだ。女王である前に、わたしにとってはあの人は姉だった。アルデレイドもわたしの見出した大切な部下だ。それ以外にも、わたしが教えを乞うた軍人があそこにはいる。剣を教えた者もいる。デルフォーニュとアストラーダ、双方には傭兵仲間だっている。わたしを見ると、恐怖に慄く者もいるだろうが、笑いかけてくれる人たちだってまだたくさん残っている。キスミェル、お前もだ」
 マリィの回答にキスミェルはちょっとだけ苦笑を浮かべて礼を述べた。
「ありがとう。嬉しいよ」
「どうして? どうしてだよ! デルフォーニュ女王はこの戦争の首謀者もいいところなんだぞ? グスタフだって自分が王になるためにデルフォーニュ王を殺し、自分の父親も殺した。その上、デルフォーニュに戦火の火種を蒔いてオルガを殺したんじゃないか! どうして許せるんだよ。どうして破滅を望まないんだよ。平和なんてありえない。ここに来るまでのエレベーターの中で聞いただろう? あの二人の本音を。あの二人は血まみれの手で国政を執っているんだ。たとえあの二人がいなくなったからといって、こんな状態で王を失えば国は混乱し、民は困窮する。もう、全部リセットするしかない。いや、やり直しなんかしない。全部なくなってしまえばいいんだ。そうすれば、もう誰も悲しまない。傷つかない。飢えない。怯えない。誰も、誰も――」
 一方、キスミェルに手首を掴まれたままのエアは荒削りのままに感情を剥き出しにする。
「願ったのはお前だろう? 二度の裁きの後、人間が改心しなければ滅ぼしてしまおうと望んだのは、お前じゃないか、エア!!」
「ならば、なぜ彼女に地上に大切なものがあるかと聞いた? はじめにそれを聞いたのはお前だ。彼女にあると答えさせたいと望んだのはお前だ、エアリアス。天のロエラの言葉は、その血の味を覚えたお前にとっては絶対。聞いただろう? だから、もう彼ではなく、自分と向き合え。歴代の狂戦士の誰よりもオリジナルに近い、いや、それ以上に劣悪な境遇に育ったお前だからこそ――幸せになってほしい」
 茫然としたエアは、不意にねじれた笑みを浮かべた。
「ふっ、あははははは。幸せ? 僕が? どうやって? それも、今更? 何だよ、幸せって。僕の幸せって、何だよ。自分の父親が僕やオルガにしていたことに目を瞑っていたアストラーダの卑怯な第二王子様。僕の身体に憎しみを埋め込んだ張本人のオリジナル様。どの口が、どの心が、僕の幸せを願うって言うんだ!」
 叫ぶエアの声を聞きながら、マリィはキスミェルが遺跡の中で話していたことを思い出していた。
『君となら、リドルトを復興してもいいと思った。マリィ、君となら。もう一度与えられたチャンスを私は無駄にしようとしているのかもしれない。だが、償いはしなければならない。そうだろう、マリィ』
 それに対して、自分は何て答えた?
 何も知らなかったとはいえ、何と。
『償わなければならないことがあると思っているのなら、償わなければお前はいつまでも籠の鳥のままだろう』
 マリィは開いてしまった口に自分の手をあてた。
 キスミェルはマリィが何を思ったか悟ったように小さく頷いた。
(だけど、それは……)
 心の中に湧き上がる不安を言葉にすることはできなかった。キスミェルはとうに決意をしてしまっていることが、マリィを見つめる目からありありと分かってしまったから。
 コルダの奏でるピアノはすでに第三楽章に入っていた。
『地下研究室自爆まで、あと十五分です』
 温もりのない女性の声が無慈悲に告げる。
 その声に時を確かめるように頷いた。
「マリィ殿。いや、天のロエラ。君に頼みたいことがある。ロエラ光を発するあの衛星を破壊してほしい。そして、大陸中にロエラ層を張り巡らせている装置も。衛星はもとより、ロエラ層ももはや必要ないだろう。大気汚染が問題になるほどの文明力ももはやない。今後再び科学が興隆すれば、その時はまた別な科学者が人々を守るための妙案を考えることだろう。世界は、ロエラの手から解放されるべき時が来たのだ。そうは思わないかね、マリィ殿」
 マリィは頷くかわりに訊ねた。
「わたしはどうしたらいい?」
 キスミェルは微笑む。
「言葉が不自由だったマリィはピアノでしか自己を表現することを知らなかったが、二度目に生まれかわった彼女は歌うことを何よりの喜びとしていたんだ。然るべき場所で歌えばいい。歌詞などなくていい。君の希望に満ちた声紋――歌声がこのロエラ計画を終わらせてくれる」
「然るべき場所というのは?」
 マリィの問いに、キスミェルはついさっき自分が出てきた隠し扉を真っ直ぐに指差した。
「わかった」
 マリィは頷いて薄暗いその扉の方へと歩き出した。
 何があるのか分からないことは恐ろしかったが、そこにしか向かうべき場所がないというのなら、飛び込まないわけないはいかなかった。
 隠し扉の向こうに一歩踏み出したマリィの背中に、今にも泣きだしそうな声が追いすがってきた。
「マリィさん! だめだ。どこに繋がってるかなんて知らないけど、そこに入ってしまったらここの自爆から逃れられないかもしれないよ!」
「それでも、わたしが歌えば姉上もアルデレイドも、わたしの知っている人々の笑顔は守られるのだろう? とりあえずは、かも知れないが」
「そうだよ、とりあえずだよ。あいつら、きっとまた同じことを繰り返すよ? だって人間だもん。たとえ今の世代はよかったとしても……」
「未来のことは未来に生きる者が考えればいい。そうは思わないか、エア?」
 未来を憂慮した科学者がいたからこそ、狂戦士とロエラの悲劇は連綿と受け継がれてきたのだ。その発案者自身が、もう終わらせたいと望んでいる。
「現在を生きているわたしたちは、現在のことを考える義務がある。だから、わたしは行くよ」
「マリィさん!!」
 悲痛なエアの叫ぶ声も、コルダの奏でるピアノの音色も、全てが銀色の金属の壁に遮断されていった。
















←第4章(4) 書斎 管理人室 幕間4→