天空のロエラ
第4章 失われた永遠 〜The Lost Everlasting〜



 中の空間に既視感を覚えたのはなぜだったのだろう。
 あまりに強く意識を揺さぶられて、マリィはブランシュを返せと泣き喚くことさえ忘れて放心していた。
 銀色の四角い箱。正面には壁いっぱいの大画面に、いまだ戦い続ける地上の人々の姿が映し出されている。左右の壁は赤に、緑にせわしなく点滅を繰り返すものが埋め込まれており、部屋の中央には二つの丸みを帯びた細長い箱が置かれていた。
 エアはその細長い二つのはこの前に立って中を覗きこむと、何か納得したように頷いて顔をあげた。
「なにこそこそしてるの。こっちにおいでよ。マリィさん」
 からかうような口ぶりでマリィを呼んだエアはえらく上機嫌だった。
「はじめからそうだったのか? はじめから、お前は何もできないふりをしてわたしに近づき、欺いていたのか? 今も? はじめからずっと、お前はそいつだったのか?」
 どうしても払拭しきれない、心の中で燻りつづける疑問を、マリィはエアにぶつけた。
 エアの背中はしばし沈黙していたが、やがてマリィの前まで来ると手を引っ張って二つの箱の前に連れてきた。
「顔、背けてないで見てごらんよ。ほんと、僕たちそっくりだ」
 何があるのか分からないというのに、マリィの心臓はどきりと怯えて跳ねた。
 見てはいけない。そう思うのに、顔を背けたまま目だけを動かして箱の中に視線を落とす。
「うわっ」
 思わず身体ごと、マリィはのけぞった。
「ね、びっくりするほど似てるよね」
 エアは知っていたのだろう。驚きもせず、むしろ満足げに頷いた。
 二つ並んだ箱の一つには、エアそっくりの顔立ちをした銀髪の青年が眠っていた。傍らのもう一つの箱には、灰色がかった金髪の女性が眠っている。二人とも安らかといえば安らかではあったが、とても生きているようには見えなかった。
「むかーし、むかーし。イギリスという国に一人の少年と少女がいました。少年の名前はエア。少女の名前はマリィ。マリィは口がきけなかったけれど、ピアノという楽器の天才だった。幼い頃から指が届かないような曲でもひょいひょいと弾きこなして、それはもう、鍵盤を一撫でするだけで数多の音色を生み出すんだ。エアは近所に住んでた彼女のピアノに心底惚れこんでいた。エアの父親はイギリスでも指折りの科学者で、エアにも自分の研究を手伝ってほしいといろいろ教えてはいたけれど、彼の将来の夢は世界中の人たちにマリィのピアノを聞いてもらうことだった。――マリィさんはピアノって知らないよね。僕もどんな楽器かよく分からない」
 苦笑して肩をすくめたエアの横に、コルダが三本足のいかにも重そうな黒い台を押して運んできた。
「エアリアス様、これがピアノです」
 コルダが言うなり、エアは興味をそそられたように椅子から跳ね起き、ピアノの前に立った。
 コルダは相変わらずの無表情で蓋を開き、白と黒が規則的に配列された鍵盤をエアの前に晒しだす。
「おいでよ、マリィさん。マリィさんも見るのは初めてだろう?」
 興奮してマリィに手招いてみせると、エアはマリィが近づいてくるのも待たずに白い鍵盤を一つ、人差し指で押していた。
 竪琴の透明感のある音とも、打楽器のどこか破壊的な音とも異なる柔らかな音色が一つ、無機質な室内に響いた。
 とくん、とマリィの胸の奥で心臓がはねた。
 気のせいかと思ったが、エアがもう一音、二音、三音、それから二つあわせて、と鍵盤を押していくたびに、マリィの胸の高鳴りは増していく。
 気がつくと、マリィもエアの横に立って鍵盤を一つ、押していた。
 どくん。
 心臓が音に呼応して一つ力強く鼓動した。身体中に熱いものが迸り、指の先端を震わせた。
 その指で、また違う音を押す。
「緑の音。夕焼けの音。幻の音。白い音に基本の音。赤い音。それから空の音……」
 知らない。これは自分の記憶じゃない。
 そう拒もうと思えば拒めるのに、マリィは流れ込んでくる堪えきれない衝動に突き動かされるがままに鍵盤に両手を這わせていた。
 十三日月の明るい宵の空の下、月を写す湖が漣だす情景が音となって紡がれはじめる。左手から右手へとつながれる音、和音となってまとめられる音。静謐をたたえた湖面に再び落ちる雫――思い浮かぶがままに、指は情景を綴っていく。
 最後の一音を奏で終えたとき、マリィの全身は幸福に喜び喘いでいた。長らく断たれてきたものを与えられて、存分に吸収した後のように満ち足りていた。
 マリィの心というよりも、身体が喜んでいるようだった。
 ピアノを弾いている間、マリィは自分の手が記憶を手繰るように鍵盤に指を伸ばしていくのを見ていただけだった。
 何か違うものがこの身体に息づいている。その存在がピアノの一音で活性化しはじめてしまったかのようだった。
 己の掌を見て呆然とするマリィに、エアは手を叩きながら優しく笑いかけた。
「やっぱり、マリィだ。君がマリィだった。名前も、身体も、ようやく千七百年余りの時を経て同じものが出来上がったんだ。僕も、そう。ねぇ、君はこれを偶然だと思う? それとも、女神の起こした奇跡だと思う?」
 マリィはまだ自分の手から目が離せないでいた。
(もっと弾きたい。お願い。もっと弾かせて。もっと、もっと。)
 じっと自分の手を見て戒めていないと、指は更なる難曲に挑もうと足掻いていた。きっと、一度弾きはじめたら身体ごと少女の欲望に持っていかれるに違いない。
 少女の欲望?
 自分しか操りえないこの身体を、誰か他のものが操ろうとしている?
「ねぇ、マリィ。もっと弾いて。もっと、もっと君の音楽を聞かせて」
 うっとりとエアはピアノの前に座ったマリィを見下ろす。
 マリィはエアの顔に少女の記憶の中の少年の顔を見ていた。
 エアは気づいているのだろうか。自分の中で勝手に息づく何かの存在に。気づいていて、その意識の流れに己を乗せてしまっているのだろうか。
「昔話の続きを教えて」
 御しきれず、右手の人差し指が一音を奏でる。
 落とした指に跳ね返ってくる音。その音が、マリィの心を潤していく。胸の奥で潤んでいくものを感じて、初めてマリィは自分の心が乾ききっていることに気がついた。
 父の愛、兄の愛、ブランシュの愛。どんなに求めても足りないともがき続けてきた心が、呼吸をしているのが分かる。右手の人差し指から左足の小指の先まで、ピアノの音がぬくもりを伝えていくのが分かる。
 自分の知らない楽器の音に喜ぶ身体。
 まるではじめからこの身が自分のものでなかったかのように。ようやく真の主を見出したかのように。
 マリィにとっては、それは絶望にも近いことだった。今まで自分だったものが内側から開かれ暴かれていく恐ろしさと、身体に拒まれ行き場を失っていく自分。逃げる場所などどこにもないのに。
「その日はマリィのコンクールの日だった。とてもよく晴れた日で、ピアノの音の調子も抜群だった。マリィはいつものように、いや、いつも以上に熱意を持ってショパンの革命のエチュードを弾いていた。その演奏の最中に、爆撃が開始されたんだ」
 エアはピアノに映る自分の顔を苦々しげに見ながら、そっと右耳を押さえた。
「焼け落ちるホールのステージで、それでもマリィは最後の一音を弾ききるまで演奏をやめようとしなかった。いや、マリィは一度演奏を始めると周りの音も景色も何も見えなくなってしまうんだ。彼女の目の前には、楽譜に重なるように曲が描き出す情景が浮かんでいる。マリィは演奏している時は別の世界にいるんだよ。だから、あんなにも穢れなく美しい音楽を奏でられる。僕は邪魔したくなかったんだ。だから、彼女の演奏が終わるまで炎に包まれた客席で彼女の演奏を聞いていた。焼け死ぬことよりも、彼女の音楽を半ばで途絶えさせることの方が僕には恐ろしかったんだ。演奏が終わるのを待って、まだ放心しているマリィを抱えて、僕は逃げた。逃げて逃げて、逃げて。マリィを守るために銃を手にしていた。人を、殺していた」
 マリィの右手が動き出す。錆ついた歯車を無理やり回すように、しかし指に覚えこんだ旋律を一音違わず一流れ、上から下へと雪崩落ちるように奏でていく。
 知らない音楽。見たことのない文字。見たことのない情景。
 ああ、でもあの爆音を聞いたとき、目の前にある情景が現実と重なっていくのを見たような気がしたのだ。
「たくさん殺して、殺して、殺して。マリィのことも、殺してしまった。二度と、もう二度と、君の音楽を聴くことができないのかと……だから、僕はマリィを造った。コルダを造り、マリィを造り、コルダはウトルマリクを造った。僕がもう一度、君の奏でる音楽を聴くために」
 ピアノの奥に広がる大画面では、まだ人々が晴天の下、血を流し、涙を流し、悲鳴を上げ続けていた。
 指は、右手だけでは足りず、ついに左手さえも勝手に鍵盤の上を踊りだす。曲が進めば進むほど難易度は増していき、曲の情景を追いかけるためにマリィの意識は薄れていく。それと入れ替わるように、少女の意識が肥大化していく。少女の心が身体中を覆い潰していく。
「知ってるよ」
 ぽろりとマリィの口は呟いていた。
「知ってた」
 ぼろぼろと涙がこぼれだしていた。
 勢いよく階段を駆け上がる旋律の途中で、マリィは両肘で鍵盤を押しつぶした。音色も何もない、角張った騒音が無機質な空間に響き渡った。
 その押しつぶされた音の最後の一音が空中に漂い消えるのを待って、マリィは上体を起こしてエアに向き直った。
「これは女神の起こした奇跡なんかじゃない。ただの偶然だ。いや、偶然ですらないか。そこの女神が用意した必然。それが答えじゃないのか?」
 エアは満足そうに微笑んだ。
「女神が用意した必然だからこそ、奇跡なんだよ。僕はもう一度君に出会うために、長い時をかけて君が生まれるのを待っていた。そっくりだよ、マリィ。その灰色がかった金色の髪も、マゼンダ色の宝石のような瞳も。その真っ直ぐな性格も。何億、何兆分の確率で、奇跡は生まれた。君はただのロエラじゃない。マリィなんだから。僕の女神なんだから」
 嬉しそうにエアは語り、マリィの頬に手を伸ばす。
 その手を、マリィは軽く叩き落とした。
「気安く触るな。わたしはお前のマリィなどではない」
 きっぱりとした物言いに怯む様子もなく、エアはもう片方の手で性懲りもなくマリィに触れる。今度はマリィはその手を払うことはしなかった。そのかわり、勢いよくピアノの椅子から立ち上がり、ピアノから離れた。
 見上げた大画面、止める者を失って悲劇は拡大し続けている。
「ロエラは地上から戦争をなくすためのシステムだと言ったな、平和を保つためのシステムだと」
「そうだよ」
「なら、今すぐ止めろ。止めてみせろ。あの地上の無意味な戦いを今すぐ止めさせろ。姉上もアストラーダ王も亡き今、戦う意義などない。そもそもはエア、お前が仕掛けた戦争だったんじゃないのか? わたしこそが問いたい。なぜデルフォーニュとアストラーダを戦わせる必要があった?」
「彼らが戦いたいと望んだからだよ」
「しかし、なぜ平和を嘱望しているはずのお前が煽るような真似をした? 姉上から預かってきた手紙の中身、奇跡さえ起こしてみせる女神の造り手ならば分かっていたんだろう?」
「無理なことを言う。自分の妹を人質にしてもらうためにわざわざ白紙の書状を送る姉がいるなんて、神様だって思わないよ」
「いいや。お前が姉上に教えてやればいい。姉上のことだ。わたしがお前がロエラの歌の鍵を握っていると教えれば、あの城に滞在した晩、わたしに内緒で一人でお前に会いに行ったのではないのか? わたしは酷く酔ってしまって気がつかなかったが、姉上はさほど酔った様子もなかった。わたしが疲れているせいだと思っていたが……」
「あの人のことだから、眠り薬でも盛っていたのかもしれないね」
 そ知らぬ顔でエアが嘯く。
 マリィはかまわず続ける。
「ロエラの歌を歌うかわりに、お前は姉上にこう言った。自分は一足早く城を出るから、妹に探しに出させればいい。ついでに、リドルト復興の件についての書状を持たせてアストラーダ王に届けさせればいい。もちろん中身は白紙で。あの熊男のことだ。ちゃんと意図を汲んでくれると思うよ、と。そうすれば、厄介な妹も、その従者も自分から手を汚さずに引き離せる上に、アストラーダと戦争もできる」
「はは。こっちが聞きたいね。どうして僕が二国に戦争させなきゃならないのさ。平和の橋渡しならともかく……」
「どんな身の上になろうと、お前がリドルトの正統な王位継承者だからだろう?」
 マリィはじっとエアを見据えた。
 エアは嘲り交じりの笑みを浮かべた。
「復讐なんて、柄じゃない」
「柄じゃなくても、お前の胸の中には王子としての誇りが確かに宿っている。どんなに道化のふりをしたって、お前の中にはリドルトの血が流れている」
「狂戦士の?」
 自嘲気味にエアはマリィを見つめ返す。
 マリィはエアの本心を探るように、じっと青い瞳を見つめた。
 リドルト王家は代々近親間で婚姻を結び、子孫を残してきた。それはひとえに、世界の監視者として、世界の統制者として、狂戦士と女神――世界を滅ぼす剣と掬う手を持つ者の血を残すため。
「分かってるの? もし、リドルト王家が存続して、僕がリドルトの王子としてあの地上の王宮で生きていたら、きっと婚約者は君だったと思うよ。双子の姉妹の血を分けた母を持つ者同士、もう僕たちしか濃い血を受け継ぐ者は残っていなかったんだから、君がリドルト王の次期王妃だった」
 切なそうなエアの瞳を見て、マリィは胸の奥に疼いた感情を押し殺した。
「普通は近親間でなんて考えられないだろう? でも、僕はちゃんと狂戦士とロエラが伝え守られていくように、近親間だからこそ恋慕の情を抱くように遺伝子を組んでおいたんだ。ね、コルダ。そうだったよね?」
「はい。エア様は確かにそのように御自分の遺伝子とマリィ様の遺伝子を組み替えた子供たちを何人かお造りになり、地上へと送り出されました」
「遺伝子? 組み替えた子供を造る?」
 コルダの話に、マリィは眉をしかめた。
「遺伝子は身体の設計図だと思ってくれればいい。偶然が作り上げてきた人体の設計図も、当時はほぼすべてが読み解かれていた。だからどこをどうすれば、どういう人間ができるかもわかっていたんだ。その技術を生かすかどうかは倫理的に規制されていたようだけれど、その時の僕には倫理なんてどうでもよかった。マリィさえ蘇らせることができれば。そして、再びマリィを殺してしまったあとは、僕らの子供たちが世界の平和を守ってくれさえすれば」
「ですが、世界はたった一つの大陸だけになっても人がいる限り争い続けるようです。愚かなことです」
 きっぱりと言い切ったコルダは、それまでの低身低頭の召使じみた姿勢から、初代リドルト王国女王らしく背筋を伸ばし、目に強い光を浮かべて大画面に映し出される映像を見ていた。
「エア様。御命令を」
 先刻の時を告げるコルダの声が無機質な室内に響いた。
 エアは、しばらく大画面を見つめたあと、マリィに言った。
「空を見て。戦う彼らの頭上、青い空が広がっているよね。その天頂、色が変わりはじめているのが見える?」
 くすり、とエアは笑った。
「コルダ、もう一度革命のエチュードを。それからベートーベンの月光、ショパンのソナタ三番ロ短調」
 命じられたコルダは、マリィが立ちのいたピアノの椅子に腰掛けると瞬時に集中し、さっきマリィが悪戯に片手で弾いた曲を高速に、しかし正確に両手で弾きはじめた。
















←第4章(2) 書斎 管理人室 第4章(4)→