天空のロエラ
第4章 失われた永遠 〜The Lost Everlasting〜
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コルダの指捌きを、まるで機械のようだと当たり前のことを思いながらも、マリィの胸が、指先が、全身が、もどかしさに煮えたぎりはじめる。
あっという間に終わってしまった革命のエチュードにつづけて息詰まるような静けさの中、厳かに月の光が降り注ぎはじめた時だった。
大画面に映されていた地上の様子が一変し、地下空洞で見た宇宙の情景に変わった。中央に青い地球。傍らに白い月。しかし、よくよく見ると、地球の青い層の外側に包み込むように等間隔で丸い銀色の小さな星が浮かび、赤い光を地球に向けて放射していた。
「なんだ、あれは」
思わずマリィが呟いた。
「あれが、破壊の女神ロエラの姿だよ。あの赤い光はロエラ光といって、照射されている場所を生物が住めなくしてしまう光なんだ。そして――」
エアの声に呼応して、再度画面は切り替わり、青い海に浮かぶたった一つの大陸を包み込む空よりも低い青い層を映し出した。
「こっちが救済の女神、ロエラ層。この地上で唯一、ロエラ光を完全に跳ね返すことのできる、言ってみれば楯のようなものだ。地下空洞を抜けてくる間に見た地球の変わり行く姿――あれはあのロエラ光とロエラ層で造ったんだよ。当初は宇宙からの有害光線を遮るためにロエラ層だけ研究開発されたんだけれど、それをめぐって世界的な戦争が起こったんだ。だから、僕がロエラ光を造って戦争ばかりしている地域を全部滅ぼしたんだ。南半球にあるこの大陸だけは残してね。ノアの箱舟の話は知ってる? 昔の宗教に出てきた話さ。王族なら聞いたことくらいあるだろう? 大洪水の前に善良な男が家族と動物を一つ外ずつ連れては小船に乗って難を逃れ、洪水の過ぎ去った地で新たに暮らしはじめる話を。このオリア大陸は、その箱舟として残したんだ。どんなに愚かな人間でも、過ちに気づけば正しい道を歩んでくれるかもしれないと思って。僕の希望の場所だった。だからロエラ層で覆って大事に大事に守ってきたんだけど……。やっぱり所詮人は人でしかなかったみたいだ」
一度言葉を切って続けられたエアの言葉を受けるように、画面に映し出されたロエラ層はゆっくりと青みを失っていく。
「さあ、コルダ、続けるんだ。地の女神としての最後の仕事だ。手始めに今まさに愚行に手を染めている奴らのいるリドルト平原から照射を開始しようか」
コルダはエアに頷いてみせ、一楽章とは対照的な透明感に溢れ煌く二楽章を弾きはじめた。
「もしかして、ピアノ曲がプログラムになっているのか?」
青さを失っていくロエラ層は、宇宙から降り注ぐ赤いロエラ光と混ざり合い、紫色に色を変えはじめる。画面には再び地上が映し出され、明らかに色の変わりはじめた空に、戦い続けていた人々は剣を交えながらも上空に注意を向けはじめていた。悲劇は、その戦い最中、平原の中央、最前線の兵たちの上に降り注いだ。紫色に変わった空から、赤い光が手を差し伸べるように落ちてくる。その指先がデルフォーニュ、アストラーダ問わず兵士の頭を一撫でした瞬間、悲鳴を上げる間もなく数十人の兵士が蒸発して消滅した。
「そうだよ。ロエラじゃなきゃだめなんだ。僕の心を動かすロエラの弾く旋律がそのままプログラムに変換されていく。あのロエラ光は、極微量であれば遺伝子が傷ついて病気を原因にしてゆっくり死に至らしめることもできるけれど、見てのとおり、あの程度の濃度でも十分大の男を消滅させられる。ね? すぐに戦争なんてできなくなるよ。地上の生物はみんな死に絶えてしまうんだから」
けらけらと笑うエアに、マリィは生唾を飲み込んだ。
瞬く度に、目の裏に焼きついた今の悲惨な情景が繰り返される。
――やめさせて。
少女の哀願する声が聞こえる前に、マリィは集中して鍵盤を操る女コルダに突進した。しかし、コルダの周りは、さっきまではなかった見えない壁がいつの間にか包み込んでしまっていた。
「一曲目はプログラム入力を邪魔されないための結界を築くための第一段階。二曲目が第二段階で、ロエラ層の解除を命じるプログラムになっている。そして三曲目の全楽章の演奏終了を以って、オリア大陸全土から生物はいなくなる。この地下にいる僕と君を除いて」
結界に弾き返されて尻餅をついたマリィの手をとって立たせたエアは、うっとりとした表情で溜息をついた。
大画面は、いまやマリィに見せ付けるためにあるかのように三つに区分され、ひとつは赤い光を地球に放ち続ける銀色の星たちを映し出し、もう一つにはロエラ光が薄れていく紫色の空を、三つ目には地上の様子を映し出していた。
血の気の失せていく頭で、マリィは必死に考える。どうしたらコルダの演奏を止めさせられるか。どうしたら、あの赤い光から地上の人々を守れるか。無理と分かっていても、無造作にあの赤い光に晒され蒸発してしまった人たちを、どうしたら生き返らせることができるのか。
「望んだのは君だよ。地上から戦争をなくしてみろって」
「そういう意味じゃない!」
「地上がきれいに一掃されたら、僕たちだけで地上で暮らそう? ロエラ光もロエラ層も切って僕たち二人だけの楽土にするんだ。子孫なんて残さず、永遠に僕たち二人だけで楽しく暮らすんだ」
「楽しく? わたしたち二人きりで、楽しく? あの凄惨な血だまりの上で?」
マリィはあまりの絵空事ぶりに苦笑したが、エアは怯むそぶりもない。
「もちろん土もすべて入れ替えるんだよ。ロエラ光で焼かれた大地はバクテリアすらも死滅している。でも大丈夫。この研究室内で保存している安全な土があるから、それと入れ替えてしまえば身体には何の影響もない」
「エアっ!」
何に耐え切れなかったのかもはっきりとは分からないまま、マリィは衝動的にエアの胸倉を掴み、締め上げた。
「エア! エア! 目を覚ませ! そんなのはお前じゃない。お前を今突き動かしているのは――」
――彼を救ってあげて。わたしたちの遺伝子を色濃く受け継いでしまった彼を、救ってあげて。
束の間、少女の声に耳を傾け、マリィは正面からエアの目を覗き込んだ。
「お前はエアじゃない。この研究所の主じゃない。わたしたちの祖先なんかじゃない。お前にも声が聞こえているんだろう? エアという奴の声が。身体の内から湧き上がってくる声が。身体のうちに息づいている男の存在に、気がついているんだろう? でも、それはお前じゃない。それこそ、わたしたちを造る遺伝子に組み込まれた言葉だ。耳を貸すな。自分の目であの状況を見定めろ。頼む。お願いだ。わたしに……お前を人殺しだと思わせないでくれ……」
今まで、女将軍と呼ばれて数多のアストラーダ兵を蹴散らしてきたマリィが口にしていい言葉ではなかったかもしれない。今まで、狂戦士と呼ばれて数多のデルフォーニュ兵を屠ってきたエアに言える言葉ではなかったかもしれない。だけど、マリィが出会ったエアは、腕っ節はちっとも立たない食い意地ばかり張ったどうしようもない奴だったけれど、人の心を潤す歌と竪琴だけは天賦の才しか思えないものを持つ青年だった。
たとえ己の心を偽り隠していたとしても、本当に病んだ心の持ち主があれほどまでに人の心を動かす歌を歌えるものか。
「目を覚ましてくれ。元のエアに戻ってくれ。わたしと出会った時の食い意地の張った、だけどとても美しい歌を歌う吟遊詩人のエアに」
エアはふと逸らしていた視線をマリィに定めた。
狂気の宿った目ではない、出会ってからアストラーダで別れるまでずっと見てきたマリィのよく知る青年の目で。
「目なら覚めてる。僕は望んでこの身体に組み込まれた命令に従っているだけだ」
きっぱりと言い切ったエアの目に澱んだものは見当たらなかった。むしろ、エアの目に映るマリィの方こそ、迷いや焦りが浮かび、正気を失っているように見える。
「本当にそれがお前の望みなのか? 本当に?」
確かめるようにマリィはエアに問うた。答えによっては、このまま絞め殺してしまおうと指を首に這わせて。
エアはたじろぎもせず、つと視線をコルダに向けた。
「ロエラは女神。無機質なロエラは天から制裁の光を照射し、地のロエラはその光から選ばれた人々を守り抜いてきた。偽りの空の下に。そして、彼女は地のロエラ。ずっと、千八百年近くこの地下に籠って地上の人類を見守り、時に人が滅ばぬよう、狂戦士と天のロエラを使って制裁を加えてきた。ああやって美しい旋律の中に身を委ねて」
コルダから視線を戻して、エアは微笑む。
「マリィさん。あの大地の上に、貴女の大事なものは残っている?」
穏やかに問いかける。
マリィは、指にこめかけていた力を抜いた。
「お前は狂戦士。わたしの血でお前は正気に返る」
「それは僕が狂戦士化してる時だけだよ」
手の平でエアの頬を包み込みながら、マリィは尋ねた。
「それでも、わたしはお前の対のロエラか?」
「そうだよ」
額を合わせる。もう一人の片割れに。
伝わればいいのに。自分の思いが。
分かればいいのに、エアの本心が。
――ここまでエアを問い詰めながら、マリィはまだエアの言葉がエア自信の本心とは思えなかった。何かが違うと、きっと何か隠していること、真に望んでいることがあるのではないかと。
期待したかっただけなのかもしれない。自分の望むエアの姿にエアを合わせたかっただけなのかもしれない。
それでも、アルターシュの森で出会ってデルフォーニュに行くまでの二週間、アルターシュの森で追いついてからアストラーダに行くまでの一月あまり、毎日エアと顔を合わせてきたのだ。馬鹿な話も少しだけ真面目な話もしたし、食料を奪い合ってけんかもした。夜には子守唄のようなエアの歌声と竪琴に旅の疲れを癒された。
世界を文字通り破滅させるための旅だったのだとは、思いたくなかった。生きつづけ、たった二国だけになった世界をいかに安定した平和に辿りつかせるかが目的の旅だったはずだ。
「エアは大切なものが残っていないのか? あの地上に、大切な人は? 吟遊詩人の仲間たちを見殺しにしてもいいのか? お前のことを慕っていたじゃないか。彼らだけじゃない。道行く先でお前の歌に聞き惚れ、ファンになった人々もたくさんいただろう? その人たちまで犠牲になってもいいのか? 小さな子供たちだってたくさんいるんだぞ? 分かっているのか? お前は今、新たなエアとマリィを作り出そうとしているんだぞ?」
説き聞かせても、エアの目はちらとも揺れなかった。
「安心して。もう二度と、僕たちみたいな子供たちは現れない。言っただろう? 地上には誰も残さないって。だから――」
ふ、とエアの目が初めて揺れた。
明るく動きのあった二楽章を終えて、月の光は再び人の狂気を煽り立てるように激しくなった。が、その音の合間に、コルダの奏でる曲とは別の曲が混じりはじめていた。
不意に、ぱたりとコルダはピアノの鍵盤の上で指を止めた。音の出所を探るように、天井を左、右と首をめぐらせる。
エアも同じだった。コルダが演奏を中止したことによってはっきりと聞こえはじめた甘い夢のような曲に、顔をしかめながら音源を捜す。
その曲は、マリィもよく知るロエラの歌の旋律だった。その種旋律に絡みつくように複雑化した伴奏がつけられている。
「コルダ、続けろ! 邪魔する奴は僕が探す」
エアはマリィを押しやると、苛立たしげに大画面の下の色とりどりの光が点滅する操作盤の前に立ち、忙しげに指を動かしはじめた。
しかし、コルダは一向に演奏を開始しようとはしなかった。
マリィはそっとコルダを包み込む結界に駆け寄る。見えない壁はまだ張られたままだった。しかし、中でピアノに向かい合い、演奏半ばで急停止させられたかのように鍵盤上に指を置いているコルダの目からは、透明な涙が一筋流れ出していた。
同時に、マリィの耳にはここにいないはずの少女の泣き声が聞こえていた。誰の名も呼ばず、しかし、焦がれる想いを押さえつけるかのように咽び泣く少女の泣き声が。
「マリィ……? マリィなの?」
思わず、マリィはコルダに呼びかけていた。
「あなた、マリィなんでしょう?」
結界の中で、ぼんやりとしていたコルダの目にゆっくりと確固たる意志が宿りはじめる。そしてはっきりとマリィを振り返ってコルダは言った。
「いいえ。私はコルダです。エア様の、忠実な僕であり、エア様の夢を叶える地の女神」
「……嘘だ。でたらめだ。そんなの、どうして意地を張る? どうして認めない? どうして……」
「エア様の愛するマリィなら、貴女の胸の中にいるでしょう?」
ね? と、説くようにコルダはちょっと小首を傾げて微笑んでみせると、束の間見せたその表情が嘘のように再び無表情になり、途切れた曲の続きを再生させはじめた。
マリィの耳からも、少女の咽び泣く声は消えていた。
マリィは首を振った。
コルダの弾く月光の三楽章は、どこからともなく聞こえてくるロマンティックな曲を打ち消すように激しさを増していく。
そして、不意に足元が揺れはじめた。
「な……んだ……?」
必死に音源を探すエアが指を止めて辺りを見回す。
揺れは床のはるか下から研究室の根底を転がすように続いていた。
「誰だ! どうしてどの監視モニターにも引っかかってこない?」
焦るエアは再び操作盤上に激しく指を這わせる。
『地下一〇五階、崩落しました。地下研究室、自爆まであと三十分です』
情のこもらない女の声が、コルダの奏でる旋律を押し分けて警告を発した。
「自爆? 知らない。そんなこと、僕は聞いてないぞ!」
さらに焦りを増したエアは操作盤に思い切り拳を叩きつけた。
ロマンティックな曲はいつしか途切れていた。
そして、壁とばかり思っていた銀色の金属板の一部が、マリィの前で横に動いたのだった。
「知らなくて当然だよ。その情報だけは遺伝子に組み込まなかったんだから」
壁の向こうから現れたのは、地上のリドルト遺跡に残っていたはずのキスミェルだった。
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