天空のロエラ

第4章 失われた永遠 〜The Lost Everlasting〜


 背負った剣は、引き抜こうとしても抜けなかった。
 どんなに力をこめても、鎖で封じられているわけでもないのに抜くことができなかった。
 いや、わたし自身に剣を抜く気などなかったのだ。
 キスミェルに言われたから。それも理由の一つだろう。しかし、それ以上に、わたしが剣を構えることを嫌ったのだ。
 血を流さねば維持できない平和に何の意味がある?
 それは平和と呼べるのか?
 誰のための平和だ?
 民か? 王か? 国か?
 血が流れる。
 わたし以外の者の血が流れていく。
 この血が平和の礎になるのだなどとは、もう口が裂けても言えそうになかった。
 なぜ、人は争うのだろう。
 なぜ、人は血を流しながら平和を求めるのだろう。
 なぜ。
 歴史はその矛盾を許しつづけているのだろう。




「抜くな」
 キスミェルに静止されるまでもなかった。マリィは剣の柄に手は伸ばしたものの、引き抜くことができなかった。
 複雑に分岐した迷路そのもののリドルト王宮の地下を、キスミェルは本を頼りに迷いなく進み、行き当たった最奥、デルフォーニュ女王ブランシュヴァイクとアストラーダ王グスタフ三世が近衛たちに命じてエアを捕らえさせたところだった。
 エアは狂戦士かが解けていたのだろう。マリィのよく知る頼りない吟遊詩人のようにへらへらと笑いながら傷を庇いつつふらふらと歩いて二国の王の捕虜となった。二国の王がエアに手ひどいことをしたわけではなかったが、リドルトの正統な王位継承者であるエアが二人の手に渡ってしまったということは、地下の秘密に一歩も二歩も近づかせてしまったことになる。
 エアとてそれを分かっていないわけがなかろうに、二国の王二人を巻き込まんとするかのように、あまりにもあっさりと二人の手に落ちたのだ。
「降参するというのですか?」
 むしろ、そんなエアを訝しんだのはブランシュだった。
「そう。降参。今の俺一人であんたらの連れてる国最強の近衛を倒す自信がないんだよね。ほら、剣もないし。それに、デルフォーニュもアストラーダも、元を辿ればリドルトの血を引いているんだ。ロエラの歌も分けられて伝承されてきた。独立したら別の国なのにね。なぜだと思う? もしリドルトが滅んでも、ロエラを伝える必要があったからさ」
 ぺらぺらと口軽く喋るエアに、ブランシュが嫌悪感から顔をしかめる。
「そんな顔をするな。こいつはめったに嘘はつかない」
「だからって口が軽すぎるわ。これが本当にリドルト王家の正統継承者の姿かと思うと、メグラールおば様がおかわいそうで」
 グスタフにたしなめられたものの、ブランシュはそっと溜息をついた。
「メグラールおば様、ね。可哀想な方だよね。デルフォーニュ前国王は女遊びに余念がなかったって言うじゃないか。それもこれも、一人の女に運命狂わされたからって言うじゃないか。ぞっとするね。たかが女一人で箍が外れたように遊び狂うってのもさ」
 ブランシュは、マリィにとっては胸が痛むような話を飄々と受け流し、逆にいやみで応酬した。
「よく知ってるわね。さすが吟遊詩人のエア。いいえ、父の運命を狂わせた女が子守代わりに貴方に歌って聞かせたのかしら?」
「違うよ。オルガが口を滑らせたんだよ」
 瞬間、ブランシュの表情が凍りついたのがマリィの位置からでも見ることができた。
「子守なんか覚える余裕もなかったよ。三歳からこいつの父親のお守りをしてたくらいだ」
 ブランシュにかまわず、エアはグスタフを指差し、薄く笑った。グスタフは誇りを傷つけられた風もなく、ただ苦笑しただけだった。
「さあ、おしゃべりはこれくらいにして、開けてもらおうか。リドルトの血を引く唯一の王子様」
「お待ちなさい。私はまだ話が済んでないわ。誰をけなそうとも私はかまわないけど、オルガ兄上だけは別よ。たとえ王族だったとしても、下賤に落ちた貴方の口でオルガ兄上の名を呼ぶことは許さないわ」
 前に進むことだけを優先しているグスタフに対して、ブランシュは目先のことに囚われてしまったようだった。かっと頬に血を上らせ、エアを間近から睨み据える。
「僕はその下賤におちたオルガと一緒にアストラーダの王をお慰めしていたんだよ。オルガはデルフォーニュを守るためにって歯を食いしばって屈辱に耐えていたけどねぇ。そこがまた前のアストラーダ王のお気に召してしまったらしい。僕が下賤なら、オルガも下賤に落ちてるってことだねぇ。デルフォーニュは下賤に落ちた男を王に据えたわけだ。そういうことになるよね、グスタフ?」
 くつくつくつと喉の奥でおかしそうに笑いながら、エアは媚びるようにグスタフを見上げた。
 さすがのグスタフも口を引き結んでエアを睨みつける。
「オルガは僕には優しかったよ。それはもう、恋人を扱うみたいにさ。寝物語に君たちの話もしてくれたし、一度だけ、母親の話もしてくれた。そして、自分が王になった暁には、僕をデルフォーニュに迎え入れてくれると言った。リドルトの王として。あれは嬉しかったね。今思い出しても、身体が震える。王なんて地位はどうでもよかった。ただ、アストラーダ王の奴隷から解放される日が来るかもしれないってことがね、涙が出るくらい嬉しかった」
「それならどうして兄上を殺した!?」
 作り話をするかのように吹聴したエアに耐え切れず、マリィはついに柱の陰から飛び出してしまっていた。
 エアは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに薄い笑いを顔に張りつかせる。
「何回聞けば気が済むの、マリィさん」
「何回でもだ。納得のいく答えが聞けるまで、何回でも聞いてやる」
 開き直ったマリィは、柱の陰に戻ることもなく堂々とエアたちに近づいていった。
「なら、どう言えば納得してくれるのさ。どうせなんて言ったって、納得なんかできないんだろう? 手が滑ったんだ。本当は憎くて憎くて仕方がなかったんだ。ああ、大好きだから僕だけのものにしておきたくて殺しました、ってのもありか。で、どれがいい? さあ、選んでよ」
 頭ごなしにおちょくってきたエアに対し、マリィは震える拳を握りつづけた。
「どれでも納得できないわね。でも、一つだけ感謝するわ。マリィを引っ張り出してくれてありがとう。死体が見つからないから心配していたのよ」
 青ざめてはいたものの、ブランシュはさっきよりも気力を取り戻してマリィをしかと見つめて微笑んだ。
 まるで死を宣告するかのようなぞっとする微笑。
 ブランシュと目があった瞬間、マリィは無意識のうちに左足を引いていた。
「捕らえなさい」
 そして、ブランシュが背後についていた男に声をかけた瞬間、マリィは反射的に奥へと飛び退っていた。
 マリィがエアに詰め寄っていた場所を、近衛の男が剣で切り裂く。剣は明らかに空を切っていたが、もう一歩踏み込みながら斬り返す刃でマリィの腹部の衣服を浅く切り裂いていた。
 マリィが再び剣の柄に手をかける。
 その時だった。
 マリィに襲い掛かってきた男が、目の前で一瞬にして炎に包まれて灰となった。
 同時に、深みのある、しかしよく透き通った女性の声がどこからか響いてきた。
『神を欲する愚かなる者たちよ。この神殿内で争うことは許しません。真のロエラを手に入れたくば、剣を置きなさい。それを第一のゲートの入場条件とします』
 マリィもブランシュもグスタフも辺りを見回したが、声は通路の天井、壁、床、いたるところから聞こえてきており、声の主の居場所を特定することはできなかった。
『さあ、ロエラを手に入れたくはないのですか? 手に入れたいのなら、早く剣を置きなさい。それから、持っている武器、全てを』
 ブランシュとグスタフは、それぞれ自分の近衛たちに剣を置けと合図を送る。五人の近衛たちは命じられたとおり、大人しく剣を置いた。
『あなたたちもです』
 おっとりと声はマリィたちにも剣を置けと告げた。
 マリィはちら、とキスミェルが隠れているはずの岩場の方を窺ったが、キスミェルが出てくる気配も指示を出す気配もないので、大人しく剣を床に置いた。
 ブランシュとグスタフは、お互いに目で軽く牽制しあったあと、それぞれ短剣や宝飾の施された剣を床に置いた。
 エアはというと、本当に武器となるものは持っていなかったらしく、何もしないうちに、廊下のつきあたりの壁が音もなく上に開いていった。
『お入りなさい。デルフォーニュ女王、カトレシア・ブランシュヴァイク・デルフォーニュ。アストラーダ王、グラウド・グスタフ・アストラーダ。地上に残された唯一の大陸の覇権を争うものたちよ。そして、エアリアス・マルコーギュ・リドルト。マリエトレッジ・アン=ゾフィー・デルフォーニュ。我が主の血を受け継ぎし平和の使者たちよ』
 声に従い、グスタフとブランシュは近衛たちに先に行くように目で合図した。命令を受けた近衛たちはそのぽっかりとあいた明るい白い箱の中に足を踏み入れようとしたが、四人が四人とも見えない壁に弾かれてしりもちをついた。
『聞こえなかったのですか。私が許したのは先ほど名を呼んだ者たちのみです。それとも、供なしで私の元に来るのは恐ろしいですか』
 静かに語りかけた声に対し、グスタフとブランシュの二人はそれぞれ何かを考えた末、近衛兵たちを下がらせた。
 まず一歩目を踏み出したのがグスタフ。それからブランシュが続く。
 マリィはもう一度キスミェルの隠れている陰を窺ったが、キスミェルが出てくる様子はない。
「どうせ今名前を呼ばれた人しか入れないよ。諦めれば?」
 見透かしたようにエアが言って、とんっと跳ねるようにして白い箱の中に入っていった。中はもう、人一人がやっと不快を感じずにのれるくらいの空間しか残っていない。
 諦めて、マリィもその中に進み入った。
 ゆっくりとリドルトの神殿の暗闇が明るい扉に遮られていく。
 完全に闇が途切れた時だった。前触れもなく、それは落下を始めた。全身にかかる慣れない力にエア以外の全員が身を固くし、声を飲み込む。ブランシュなどは思わず口元を押さえて床にへたり込んだ。
「姉上」
 マリィは慌ててブランシュの前に屈みこみ、肩に手を伸ばしたが、ブランシュはその手を払いのけた。
 思わずマリィは息を呑む。
 ブランシュは顔もあげなければ詫びる言葉も口にしなかった。ただマリィから顔を背けて口元を袖口で覆って、全身にかかる落下の力に耐えるように顔をしかめている。
「びっくりするね。今までのマリィさんへの愛情は演技だったわけだ。こわ〜」
 揶揄するエアの軽い声が狭い室内に響いたが、誰も取り合う者はいない。それでもエアは喋りつづける。
「マリィさんもこんな女のために命落とさなくてほんとよかったよね。デルフォーニュ女王は氷の血が流れてるってのは吟遊詩人仲間の間では有名な話さ。長子オルガヴァルドを王位につけるために、そこにいるグスタフがデルフォーニュ王に毒を盛るのを見てみぬふりをしたり、オルガが帰ってきたあと、スムーズに国政を執り仕切れるように大臣や貴族に根回ししておいたのも彼女だし、オルガが死んだら死んだで、今度はその人脈をそのまま自分のために使っている。普通なら次男が王になって、才能生かしてやるとしても摂政だろうに自分が女王になっちゃうんだもんな。さすが、デルフォーニュ王国創始者の女王と同じ名前を与えられてるだけのことはあるよね。みんな三百年前の女王ブランシュヴァイクの生まれ変わりじゃないかって歌ってるほどだ」
「やめろ」
 マリィは顔をしかめた。
「いいのよ。本当のことだもの。オルガ兄上になら玉座を預けてもいいと判断したけれど、弟たちはみんなだめ。妹たちもね。平和ボケして王位なんて自分には関係ない、贅沢な生活が好き放題にできればそれでいいとしか思っていないんだもの」
 歯に衣着せぬブランシュの言葉に、マリィは反論しかけて口をつぐんだ。そのとおりなのかもしれない。自分はデルフォーニュのためではなく、父の鼻を明かすため、オルガ兄上のため、ブランシュ姉上のために剣を取ってきた。一度たりとて、純粋に国民を守るためだけに剣を振るったことがあっただろうか。
「ねぇ、女王。デルフォーニュでは代々長女が次の王を決めているって噂、本当?」
 面白半分に口開きはじめたエアを、ブランシュは倦厭するように見やった。何も聞いたことのないマリィは、いい加減にしろとばかりにエアを睨みつける。
「そんなことを聞いてどうするつもりだ」
「どうするもこうするも……」
「本当のことよ」
 開き直りきったエアに、それ以上神経を逆なでされないうちにとでも思ったのだろうか。ブランシュは溜息まじりに肯定した。
「デルフォーニュはそもそも女性が建国した国。長子相続を原則としながらも、不出来な者が長子であった場合に間引きをするのは代々長女の役目。そして、適任と思われる者を玉座につけるのも。側室の娘であろうと、その役目は一番初めに生まれた女子に継承される。そして、長女は結婚しない。なぜなら結婚したら姻戚関係に縛られて公正な判断ができなくなるから。マリィなら知ってるでしょう? 幼い頃、私が誰に育てられたか」
「伯母様……父上の一番上の姉だったサラギ様……」
「そう。サラギ伯母様も独身のまま、もう六十を過ぎてしまったわ。そのサラギ伯母様から私はデルフォーニュ王家に関わること全てを聞かされていたわ。もちろん、この大陸の歴史も、ロエラのことも」
 ぎっ、と、顔をあげたブランシュは白い箱の天井を睨みつけた。
「見ているんでしょう。自己紹介くらいしたらどう?」
 勇ましく言い放ったブランシュに、堪えかねたようにエアが爆笑した。
「民の上の王あり。王の上に神あり。って言葉は、サラギ伯母様は教えてくれなかったの?」
「我が王家を愚弄する気?」
 立ち上がったブランシュは、年に似合わぬかわいらしい顔に鬼のような形相を浮かべてエアの胸倉を掴んだ。エアは意外そうな顔をしてブランシュとマリィとを見比べる。
「へぇ。ねぇ、マリィさん。お姉さんと武術で手合わせしたことある? もしかしたらマリィさんよりお姉さんの方が力強いかもよ?」
「な、なにを。姉上は剣など握ったことはないはず」
 焦るマリィに対して、ブランシュは冷静にエアを睨みつけていた。
「王たる者、自らの身を助けられずして誰の身を守れると?」
 唖然としたのはマリィだった。マリィ自身は軍隊に入隊して武術を修めた。その間、ブランシュは部屋の中にこもって手芸をしたり、花園で花を愛でるなど王女らしい生活をしてきたはずだ。それも、自分が王になる可能性など考えられないうちに大人になってしまったはず。王になるために武術を磨いたところで、限界がある。
「王家の血筋に誰も王の器たる者がいないときは、長女が王になる。剣をはじめとして武術も乗馬も必須項目だったわ。何でもできなきゃいけないのよ。デルフォーニュ王家の長女は。何もできなければ、殺されて次女が長女になるだけ」
 皮肉そうにブランシュはマリィを見た。
「生き残るために必死だったわ。自分のプライドを守るために武芸だけ磨いた貴女とは違うのよ、マリィ」
「わたしは……わたしは兄上を、姉上を守りたいと……」
「それはあとから付け足した理由でしょう。いいのよ。命に執着するか、父の愛情に執着するか。ただその違いだけですもの。どちらもたいした理由じゃないわね」
「そうそう。姉妹喧嘩も大概にしなよ。彼女が口を挟む間もなく、ほら、見てごらんよ。地下空洞に入っちゃったじゃないか」
 明るいだけの狭く息苦しい直方体は、足元から再び闇に飲まれはじめていた。落下速度は若干緩められたように感じた、その直後、マリィたちは足元を掬われたような心もとない感覚にそれぞれ息を呑んだ。
「なんだ、ここは」
 ずっとだんまりを決め込んでいたグスタフが、耐え切れず呟いた。
















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