天空のロエラ
第３章　滅びの草原

４
　戦乱の喧騒は遥か彼方へと遠ざかっていた。緊迫感漂う静寂が二人を包み込む。そんな空気の中で、エアだけがにこにこと笑っていた。
「何をにやけてる」
　マリィが顔をしかめた。
「マリィさんに会えたのが嬉しくて」
　恥ずかしげもなく言ってのけたエアに、思わず戦意をそがれそうになって、マリィは吐き出しそうになったため息を飲み込んだ。
（馬鹿か、この男は。一体何を考えてるんだ）
　頭のてっぺんからつま先の先まで、一緒に旅をしてきた吟遊詩人のエアがいた。違いといえば、真っ黒だった髪が光を通す銀髪に変わり、灰褐色だった瞳が夢の中の同名の少年と同じ色に彩を取り戻していること、それからもう一つ。その細腕に似合わぬ大剣を携えていたことだけだった。
　見かけだけは立派に三年前のあの狂戦士そのものだった。確かにこうやって髪と瞳の色を合わせ、剣を持たせれば記憶の中の狂戦士の姿と一致しないこともない。しかし、三年前の狂戦士と、今目の前にいる青年とは決定的に違うことがあった。
「三年前、狂戦士と対峙したことがある」
　マリィは苛立ちながら口を開いた。
「うん」
　大人しくエアは頷く。
「あの時の狂戦士は、お前と同じ銀の髪、青い瞳、そしてその身体に似合わぬ大きな剣を持っていた」
「うん」
「だが、……そんなににこやかに笑ってはいなかった。青い瞳は虚空を見つめ、話す間もなくお前は人を斬っていた。兄上のことも、わたしのことも。――今のお前は、狂戦士なのか？」
　探るように問うたマリィに、エアはにっこり笑って頷いた。
「そうだよ」
　と。
　直後、マリィの腹の中にふつふつと煮えたぎる熱いものが湧き上がってきた。
「お前は……お前は、お前は……っ！！！」
　柄を握り締め、マリィはエアに向かって突進していった。揺らがない青い瞳を睨み据えながら、剣を大上段に振りかざす。
「どうして裏切ったぁぁぁっ」
　振り下ろした剣から、ずん、とかけただけの力が跳ね返されて両腕に戻ってきた。
　エアはいつの間にか抜き放った剣の刀身でマリィの剣を受け止めていた。
　エアは笑っていた。満足そうに、嬉しそうに、口元に笑みを浮かべてマリィを見つめていた。
「僕は誰も裏切ってなんかいない。僕は自分の決めたとおりに動いているだけ」
「ウトルマリク殿が亡くなったとき、何をしていた！？」
「お師匠様？　ああ、お師匠様、壊れちゃったんだ？　いくら機械だからって長いことメンテナンスしなきゃ、そりゃ錆びるよね」
「お、前……」
「リドルト王国の宰相は建国以来ずっとウトルマリクだったんだよ。知ってた？　それだけじゃない、あの王宮の中にいたほとんどの下女、下男もウトルマリクと同じ機械だったんだ」
「機械ってなんだ」
「大昔の技術の粋を集めて作られた長生きする人の形をしたものだよ。でも、人じゃない」
　ぎりぎりとマリィは剣に力をこめていたが、エアにそれほど力をこめている風もないのに剣はそれ以上沈まない。
「ウトルマリク殿も人ではないと？」
「うん。人があんなふうに爆発する？　後に残ったのがオイルとネジと電線と半導体なんて、人なわけないでしょう？」
「貴様ぁぁっ」
「どうしてマリィさんが怒るのさ。マリィさんはお師匠様とそんなに親しかったの？　ほんのちょっと、地下牢でお話しただけだったんだろう？」
「全部、見てたんだな？　どうして。何のために」
　これ以上は剣が沈まないと踏んで、マリィは後ろに跳び退った。
「どうして。何のために。決まってるだろ。君がロエラなんだとウトルマリクの口から君に伝えさせたかったからだよ」
　エアは剣を構えることなく、マリィとの間合いをゆっくりと歩きながら詰めてくる。
「君自身がロエラなのだと自覚してくれなきゃ、僕はこれ以上進めないから。何より、君とまたこうやってここで対峙したかったんだ。剣を交じ合わせたかったんじゃない。ただ、君の血を味わいたかったんだ」
　エアがいつ剣をふるったのか、マリィには分からなかった。痛みさえなかった。ただ、視界の中に赤い飛沫がエアに向かって噴き出しているのが見えた。
　くらりと頭から血が引いていき、つま先と膝から力が抜け落ちていった。がっくりと前のめりに倒れこんだマリィの身体を、正面からエアが抱きとめる。
　そして、エアは血を噴きだすマリィの首元にそっと唇を当てた。マリィの血の中に組み込まれた何かを探すように、ゆっくりと傷口に舌を這わせる。
「は、な、せ……」
　マリィは見失いそうになる自分の意識の緒の端をその手に手繰り寄せながら、掠れた声で命令した。
　マリィに命じられたからではなかったのだろうが、エアはマリィの首筋から唇を離し、手の甲で口元を拭った。その赤く染まった口元がにぃっと引き上げられたかと思うと、エアはマリィを抱きしめたまま天を仰いだ。
「大地は数多の人間どもの血に染まり、女神の血さえ吸い取った。さあ、呪われしこの大地の地下に眠る女神よ、目覚めよ。哀れな人間どもに最後の慈悲を！」
　天に地に響き渡る朗々たる声だった。
　その声に呼応するように、地下深くで突き上げるようなくぐもった音がした。続いて、エアたちがいるリドルト平原の中心から遥か彼方へと大地をうねらせながら地鳴りが始まった。
　戦場に上がっていた兵士たちの声が一瞬止んで不気味な静けさが満ちる。その直後、敵味方関係なく数多の兵士たちの絶叫が天にこだました。地鳴りに導かれるようにして大地が深くひび割れはじめたのだ。
「う……く……お前、一体何を……」
「リドルト王国の復興……なんてね」
　にこりと笑ったエアの目には正気とは思いがたい遊びの色があった。その目を見た瞬間、マリィの背筋にぞくりと冷たいものが走った。
　恐怖。
　怖い。自分を抱きかかえているこの男が、怖い。
「ひっ、あっ……ぃ、あ……」
　むせ返る血の臭い。赤い大地。途切れることのない悲鳴。響き渡る重低音。
　マリィの全身が痙攣しはじめる。動悸が激しくなり、目の前には血に染められた緑の大地ではなく、血に染めかえられた黒いアスファルトの道路が重なる。
「や、め……」
　ひゅうひゅうと息が漏れる。声が出ない。身体がこわばって思うように動かない。もどかしさが焦りに変わり、全身から冷や汗となって噴出していく。
「こ、わ……ぃ、エ、ア……」
　少女の感情なのか、自分の感情なのか分からない言葉が漏れ出していた。
「もう、やめ……て。エアなんて、き、ら……ぃ……」
　マリィがエアの身体を跳ね除けるのと、エアの腕の力が緩んだのは同時だった。
　マリィは転がるままにエアから離れる。が、立ち上がろうとしても手足にはすでに力が入らなかった。
「アン＝ゾフィー様！」
　エアを睨みつつも途方にくれかけたマリィの前に、馬影が落ちる。
「あ、アル……」
　縋るように伸ばしたマリィの手をアルデレイドはしっかりと握りしめると馬上へと引き上げた。その馬の上でもマリィの身体は震えたままだった。
　怖い。エアが、怖い。
「振り落とされないように掴まっていてください」
　言われるがまま、マリィはアルデレイドの腹に腕を回し、幼子のようにしがみついた。
　大地は唸りながら揺れつづいていた。空だけが青さを保ったまま、平然と地上を見下ろしている。その血まみれの大地の真ん中で、途方にくれたようにエアが立ちすくんでいた。
　刹那だけ交わった悲しげな視線が、マリィの恐慌状態の胸の中にぶつかりながら落ちていく。
「あ……」
　はたとマリィは顔をあげた。
　いけなかったのだ。
　彼を一人にしてはいけない。
　彼を、あの血にまみれた戦場に一人残してはいけない。
　戻らなきゃ。戻って、ちゃんと「大好きよ」と言ってあげなくては。
　思い至った瞬間、マリィはアルデレイドの駆る馬から飛び降りていた。
「アン＝ゾフィー様……！！」
　アルデレイドの悲鳴が聞こえた時には、マリィは震える身体を引きずってエアの元へと走っていた。
「エア、エア、エア、エア」
　狂ったように彼の名前を叫びながら、血だまりの中にただ一人立ちすくむ彼の元へ。
　そんなマリィの姿に気づいたエアは、マリィの方に身体を向けた。垂れていた腕に剣が握りなおされる。
　青い瞳は虚ろに空の色を映していた。
「マリィ様ーーーっ」
　引き返してきたアルデレイドは、エアがマリィに向かって突進していくのを見て馬から飛び降り、エアに背を向ける形でマリィを正面から抱きしめた。
「邪魔を、するなぁぁぁぁっっっ」
　マリィは突如視界を遮ったものを退けようとしたが、押し切れずに逆に押し倒されていた。
「マリィ様、ご無事ですか、マリィ様……」
「アル……デレイ、ド？」
　かすかな息を耳元に感じて、マリィは茫然と自分が見出した最愛の部下の名を呼んだ。
「お逃げ、くだ、さ……マリィ、様……」
　空が赤く染まっていた。一筋、二筋、三筋。どんどん吹き上げていく。
　ああ、何をしているのだろう、自分は。
　なぜ最愛の部下を死なせてしまったのだろう。
　なぜ、信じていた人が自分を庇った人を殺すのだろう。
「マリィ、おいで。おいで、マリィ。もう、大丈夫だよ。悪いものは全部僕が追い払ってあげる。だから、安心していいんだよ」
　血の噴水をまともに浴びながらも拭いもせず、マリィを覗き込み、手を差し伸べたエアに、マリィは感じたことのある絶望が蘇るのを感じていた。
「ああ、それがのっかってちゃ起き上がれないよね。今どかしてあげる。ほら」
　物のようにアルデレイドの遺体を蹴飛ばして、エアはさらにマリィに手を差し伸べる。
　マリィは上体だけ起こして、そのまま後ずさりした。
「どうしたの。もう大丈夫だって言ってるじゃん。何を怯えてるの」
　呆れたように笑って、エアはマリィの手首を掴んで立たせた。が、マリィの足腰はとうに力が抜けており、必然、ふらふらとエアの胸に倒れこむ形になった。
　途端、こみ上げた嘔吐感に、マリィはエアを押しやり、倒れこみ様胃の中のものを吐き出した。
「あーあ、もう、マリィったら、だめな子だね」
　やけに優しいエアの声が耳元で聞こえる。
「ほら、これで口元を拭いて」
　血まみれの袖を引きちぎり、エアはマリィの口元に当てる。むっとする血の臭いに、マリィは再びエアの手を払いのけて口元を押さえた。
　だめ。この人を恨んではだめ。エアは、マリィを守ろうとしてくれただけなんだから。
　幼い少女の声が、わんわんとなる耳鳴りの中で聞こえてくる。
（嘘をつけ。お前だって怯えているくせに。怖がっているくせに。もう嫌だ。近づかないで。これ以上、自分を守るために誰かを傷つけないで――そう、思っているくせに）
「こんなことは望んでない。誰がお前に守ってほしいと頼んだ。誰がお前に優しくしてほしいと頼んだ。わたしは、自分で自分の身くらい守れる」
　頭の中、胸の中、ぐるぐると渦巻いていたものが静まっていく。
　三年前、狂戦士と対峙した時、狂戦士はマリィの血を浴びて殺人衝動から解放されたように見えた。しかし、今回はどうだろう。マリィの血を舐めて、逆に吟遊詩人のエアは消え、狂戦士が現れてしまった。それも、マリィに偏愛を注ぐあの少年そっくりな狂戦士が。
　自分も人のことは言えない。あるはずのない記憶に重なっていく事態に、同じ名の少女に同化しかけてしまっていた。
「……お前は、誰だ？」
　エアはありえないものでも見つめるようにマリィを見つめていた。
「わたし？　わたしはマリエトレッジ・アン＝ゾフィー」
　マリィは呼吸を整えながらゆっくりと立ち上がる。
　エアの虚ろなままの青い瞳が揺れた。
「マリィは？　僕のマリィをどこへやった？！」
「どこにも。わたしはここにいる。ここにいるわたしが、この世に名高いマリィ様だ」
『名前に囚われて途方にくれるくらいなら、マリエトレッジ・アン＝ゾフィー個人にお戻りください。傭兵のマリィ様に。姉も弟も親もない天涯孤独の、オリア大陸一と謳われる女傭兵に』
（アルデレイド……）
　涙腺を刺激したものを飲み下して、マリィはエアを睨み据えた。
　手になじんだあの剣はない。しかし、アルデレイドの手から落ちた剣がすぐ目の前にあった。
「兄、アーベル・オルガヴァルド・デルフォーニュの仇。わたしの見出した最愛の部下、アルデレイド・アーバンの仇。――肩書きが増えて嬉しいか？　エア」
「僕のマリィは？　マリィ、出ておいで。マリィ……わかってるよ。そいつだね。そこの女が、君を隠してしまったんだね」
　静かに語りかけたマリィの言葉を無視して、エアはマリィに向かって剣を振りかざした。その一撃を、マリィはしゃがみこみ、前に転がってかわす。その時にしっかりとアルデレイドの残した剣の柄を掴んでいた。立ち上がり様身を翻し、背後に打ちかけてきたエアの剣をアルデレイドの剣で止める。
　狂戦士化したエアの容赦ない剣戟は、左腕と首に怪我を負ったマリィの腕に余るものだった。あっという間に押し負かされかけて、マリィは後ろに飛びのき、間髪をいれずエアの懐に飛び込んだ。
「マ、リィ……さ……ん……」
　再びマリィの視界を赤が覆い隠していた。
　剣を握った両手には確かに肉を貫く重みがあった。しかし、マリィの視界も見る間に霞んでいく。
　どちらが先に倒れたのか。どちらが怪我をしたのか。それはマリィには分からなかった。
　大地は唸りつづけている。空の遥か彼方からは遠雷が聞こえる。しかし、残念ながら今度の遠雷はマリィを祝福しているようには聞こえなかった。滅びた古都に眠っていた亡霊たちが目を覚ましはじめる合図のようだと、マリィは思った。

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