天空のロエラ
第3章 滅びの草原
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天幕から出て見上げた空が、いつもと違うと思ったのはなぜだろう。西にはまだかすかに星が残っている。天頂にも橙色の星が
明度を上げる青の中でうっすらと輝いていた。
いつもと同じ、黎明の空の色。
それなのに、マリィは息が詰まるようで思わず胸を押さえた。
これから始まるアストラーダとの開戦に緊張している?
違う。それならば胸ではなく腹が痛くなるはずだ。
なぜこんなにも胸がつぶれるような思いがするのだろう。
吹きぬける一陣の風を受けて、マリィはもう一度深呼吸をした。夜露を帯びた草の香りが胸にしみる。初夏特有の泣きたくなるような緑の香りだった。
見上げた空は青くて、だけど、夢で見た空の方がもっと青く透き通っていたような気がする。あの夢の中の少年の瞳のように。
「おはよう、マリィ。夕べはよく眠れた?」
聞きなれているはずのブランシュの声に、マリィは思わず肩をそびやかした。身体の底からこみ上げた震えを何とか堪えて、笑顔で振り返る。
「おはようございます。姉上。おかげさまでよく眠れました」
「そう。それはよかったわ。それにしても、よく晴れているわね」
ブランシュはマリィの傍らに立つと、何食わぬ顔をして空を見上げた。
「ねぇ、マリィ。知ってる? あの空は偽物なのよ」
ブランシュの言葉はまるでマリィの心を見透かしたかのようだった。思わず、「え」と呟いてしまったマリィの顔を見て、ブランシュは笑みを深める。
「驚くことはないでしょう。貴女が教えてくれたんじゃない。『星歴元年、地に女神が誕生し、天に偽りの青空が戻った』って」
ロエラの歌の一説を口ずさんで、再びブランシュはマリィに笑いかけた。
「あの歌が本当なら、三番の歌詞は未来の予言。そう、たとえば今日これから起こることかもしれない」
あまりにも無邪気なブランシュの微笑に、裏を読もうとしたマリィの眉間には皺が寄ってしまった。
「マリィは王には向いてないわね。感情が顔に出すぎる」
「姉上は……」
「星暦189年、リドルト王国東西分裂。西リドルトがデルフォーニュ民主主義共和国となった日から、デルフォーニュという名前だけが残ってる。民主主義共和国だったり、王国だったり、体制を変えながら、もう1500年余りも。アストラーダもそう。リドルトも。史書もどこまでが本当でどこまでが嘘なのか、判別がつかないくらいいろんなことが改竄されたり抜け落ちたりしているようだけど、この大陸の歴史にはある共通点があるのよ」
「共通点?」
窺うようにマリィはブランシュを見た。
「さっき、三番の歌詞は未来の予言かもしれないといったけど、あれは1242年、アストラーダでの原発事故のことをさしているんだと思うわ」
「ゲンパツ……?」
マリィにはその言葉の意味が分からなかった。
「王族でも、直近の歴史は学べても、大陸全土、星暦元年からの歴史を知れるのは王となった者のみ、だったものね。知らなくて当然ね。原発というのは、正式には原子力発電というの。電気を起こすために作られた巨大な装置のこと。電気というのは、蝋燭のように、暗い夜を照らす元になるもの、といったところかしら。星暦1300年代にはまだ存在していたみたいだけど、さっき言った1242年の原発事故を境にエネルギー不足になり、電気を使った文明の利器もどんどん生活から消えていった。昔の人はわたしたちが想像できないほど、今よりも豊かで便利な生活をしていたのよ」
白と黒の互い違いに配列された盤。漆黒に塗られたその楽器を室内にもかかわらず強力な明かりで上から照らすのは、燭台ではなくもっと平たく眩しいくらいに明るいもの。
ブランシュの口から発される聞いたことのない言葉に導かれるようにして、一瞬マリィの視界には見たことのない光景が蘇って消えていった。
マリィはそっと瞼を押さえる。
「共通点というのは、文明が発達しようとする度に大きな事故が起きて国が滅びかけたり、天変地異が起きて人口が減らされているようなのよ。史書も歌物語も神の怒りだと歌っているけれど、客観的に見ればこれほど作為的なものもないわ。何者かが私たちを監視して、一定の水準以上の文明を持たないように統制しているのよ。私もグスタフも、一国を統べる王ではあるけれどその正体は知らないわ。おそらく父上も、アストラーダの前王も、その前の代もずっと、デルフォーニュとアストラーダでは知りえない世界の秘密があるのよ」
独り言のように語ったブランシュの目は獲物を見つめる鷹のようにきつい光を宿していた。
「それを知っているのは、おそらくリドルト王家だけだった。史書によれば、文明が今のレベルに落ちたのは1385年のリドルト王国によるデルフォーニュ陥落と1421年のアストラーダ帝国陥落後。それから三百年の時を経て十八年前、リドルトから再独立していたデルフォーニュとアストラーダがともに同盟を結んでリドルトを陥落させた真の目的は、その統制者の正体を知ることだった。しかし、リドルトは滅ぶだけ滅び、不完全なロエラの歌の謎は解けないままになってしまった。ロエラ。その言葉だけが私達の真の敵を探し出すキーワードだったのよ。――ねぇ、マリィ。ロエラを探すことは悪いことかしら。監視者の存在を確かめたいというのはいけないことかしら。本物の空を見てみたいと思うのは、罪なことかしら」
マリィは口を開かなかった。
無邪気さは装われたものだとしても、今のブランシュの言葉に嘘はないと思った。ブランシュは自分が戦っていたものよりも、もっと上のものに戦いを挑もうとしていたのだ。
「アストラーダ王も、あの熊男も同じものを目指しているのですか?」
「ロエラの歌がデルフォーニュ、アストラーダにそれぞれ伝えられていることを知ったのはグスタフがまだこの城に暮らしている時だったわ。同じ節だけれど、歌詞の違う子守唄。違うとはいえ、同じ世界を歌ったもののようだった。そうよ。あのときから私たちはどちらが早くロエラを見つけるか、この世界の謎を解けるか競争しているのよ。そして、勝った方がこの大陸を、世界を手に入れられる」
ブランシュは一息置くと、にこりとマリィに笑いかけて再び自分の天幕の方へと踵を返した。
「お待ちください」
向けられた背に向かってマリィが呼び止める。
「何かしら」
ブランシュは涼しい顔でマリィを振り返った。
「なぜ、わたしに今の話を?」
ブランシュはにっこりと微笑んだきり、口を開かない。
業を煮やしたマリィは、ついに叫ぶように問い詰めた。
「わたしを亡き者にしようとしたくせに、なぜそのようなことをお話になったのです?!」
肩で息をするマリィに、ブランシュは身体ごと向き直って正面から対峙した。口元に浮かべられた笑みに濁りはない。
「グスタフは貴女を殺さなかった。殺さずに、デルフォーニュ陣営に帰して寄越した。あなたは自分で逃げ切ったと思っているかもしれないけれど、グスタフはむしろこっちに帰したくて、いつ逃げ出してくれるか待ってたことでしょうね。私ね、貴女を城から送り出したときに決めていたことがあるの。貴女が死んでしまったら、リドルトの血に意味はないとグスタフが判断しているということ。貴女が生きてこの陣営に戻ってきたら、それは即ち、あなたの血に意味があるということ。アストラーダは再び狂戦士を抱え込んだのでしょう? あれが本格的に暴走したら、腕の立つ男が百人かかっていったってみんな一瞬のうちにあの世に送られてしまうでしょうね。グスタフもそういう恐れは常に持っていたはずよ。だから、今までも要所要所でしか狂戦士を投入しなかった。あの狂戦士も元はリドルト王家の末裔。近親間の結婚で生み出された純粋なリドルトの血を持つ正統なるリドルトの後継者。そして貴女もリドルトの血をこの大陸で二番目に濃く受け継いでいる者」
「狂戦士のことを、そこまで……」
「ロエラの歌によると、過去、狂戦士は二度出現している。同時にロエラも。それも、いずれもリドルトの血を引く者から出現している。――今日の戦い、楽しみね。頼んだわよ、マリィ」
今更、何をマリィに頼むというのだろう。
自分が狂戦士を唯一止められるロエラであることを、ブランシュは感づいていたのだ。それも、おそらく女王の誕生祭の日にマリィが戻ってきた時から。ブランシュはマリィの生死よりも、グスタフがリドルトの血をどう判断しているのかを一番に知りたかったのだろう。
マリィは返す言葉もなく、遠ざかっていくブランシュの背中を茫然と見送っていた。
開戦の烽火が上がったのは、それから三時間後、午前七時のことである。
背後で上がる烽火の音に弾かれたように、まずは土嚢に身を隠した弓矢隊が弓弦を引き絞り、昨夜到着したばかりのアストラーダを威嚇する。動揺にアストラーダも弓矢で応戦し、矢の行きかう中を楯を頭上に掲げた歩兵部隊が鬨の声をあげながら前進しはじめる。
普段ならば鳥のさえずりが聞こえ、朝のすがすがしい香りを孕んだ風が大地を撫でるこの草原は、いまや三年前の再現とばかりに怒号と血の臭いが溢れ返りはじめていた。
「アン=ゾフィー様、何をぼうっとしておられます」
騎馬隊の中心でもうもうと立ち上る砂埃を眺めていたマリィを、女王の近衛を解かれ、マリィの直属となったアルデレイドは厳しい表情で見つめた。
「ぼうっとなどしていない」
マリィは心ここにあらずといった声で答える。
「すでに戦は始まっているのですよ」
「分かっている」
そう答えながらも、マリィの意識は遥か遠くを彷徨っているようだった。
アルデレイドが一つ溜息を漏らす。
「狂戦士はまだ出てきていないようですね」
「……そうだな」
「出てくれば、悲鳴が絶叫に変わるのですぐに分かります」
「そうだな」
心のこもらない返事に、アルデレイドはマリィの馬に自分の馬を寄せ、身を捻ってマリィの肩を掴み、振り向かせた。
空洞と化してしまったマゼンダ色の瞳が焦点を結ばぬままアルデレイドを見上げる。
アルデレイドは今にも歯噛みしそうな表情を浮かべて叱咤するように言った。
「私がわかりますか?」
「……アルデレイド、わたしは、どうしたらいい? わたしが今ここにいるのはなぜだと思う? わたしは……」
「貴女が戻られるとお決めになったのでしょう。なぜ迷われます」
「姉上にとって、わたしは……」
「今度はリドルトの末裔としての血を求められましたか」
呆れたように吐き捨てたアルデレイドの声がマリィの意識を現実に引き戻した。
「聞いていたのか?」
「聞かずとも分かります」
「それなら教えてくれ。わたしは……」
「デルフォーニュの名など捨ててしまいなさい。リドルトの名も。血を入れ替えることはできませんが、名前に囚われて途方にくれるくらいなら、マリエトレッジ・アン=ゾフィー個人にお戻りください。傭兵のマリィ様に。姉も弟も親もない天涯孤独の、オリア大陸一と謳われる女傭兵に」
アルデレイドの耳うちを、マリィは息を詰めて聞いていた。
「傭兵のマリィ様なら考えられるはずです。この状況で自分がしなければならないことは何かを。簡単でしょう?」
にっこりと笑ったアルデレイドに、マリィは苦笑した。
「無茶なことを言う」
「土台、あなたの人生が無茶なものの上に成り立っているんですよ。さあ、時間です。貴女が向かわなければならない方向は?」
マリィは深く息を吸い込み、目の前に広がるもうもうと舞い上がる土埃の中を見据えた。中は数多の悲鳴と勲しの声、金属がかち合う音、肉を断ち切る音がぐるぐると渦巻いている。
すっと、再びマリィの意識が遠のいた。
壁の一角に映し出されたのは、まさしく今目の前で繰り広げられているものと変わらぬ光景。いや、もっとけたたましい音が連続的に繰り返され、腹を抉る重低音が断続的に発されている。その度に画面の中は白に黄色に星を浮かべる。
『どうしてこんなことをしなきゃならないのかしら。ねぇ、エア。このけたたましい戦場のど真ん中にわたしのピアノを置いて? きっとわたしが一曲弾けば、みんなこんな馬鹿らしいことはやめてしまうはずよ』
エアと呼ばれた少年は苦笑を浮かべて画面を周りと同じ白い壁に戻してしまった。
『そうだね。きっとそうだ』
『なら、今すぐ……!』
逸る気持ちを堪えきれずにせがんだ少女の唇に、少年はそっと自分の人差し指をあてた。いとおしげに、しかし困ったように。
『マリィ。僕は……こんな奴らに君の音楽を汚させたりしたくないんだ』
『汚す? 違うわ! わたしの音楽でみんなを幸せにできるならそうしたいって思ったのよ。エアはいつも言ってくれるでしょう? マリィの音楽は聴く人々の心を捉え、幸福へと誘うって。どこだって同じだわ。コンサートホールに集まった聴衆でも、銃を乱射する兵士でも。みんな、わたしの音楽を聴けば殺しあいたいなんて思いは忘れてしまう。恐怖も命令も、すべてわたしの音楽で解き放ってあげるの。ねぇ、お願いよ、エア。今すぐわたしをあの戦場に連れてって』
少年は命知らずだとは言わなかった。傲慢だとも。ただ、目を伏せて少女のことを抱きしめた。
「アン=ゾフィー様、命令を」
静かなアルデレイドの声に、マリィはゆっくりと目を開けた。
あの頼りない細い腕の温もりはここにはない。耳に溢れかえる怒号と馬の蹄の音。温度はあるくせにやたら人の熱を奪っていく北風。
この数日、嫌な夢ばかりを見る。あの小ざかしい食い倒れの吟遊詩人と同じ名前の少年と、自分と同じ名の声の出せない少女のやりとりに、こんな白昼から意識を持っていかれるなんて……。よほど自分がこの戦争を甘く見ているのか、それとも、何か由縁があるのか。
マリィは一度目をきつく閉じ、再び前を見据ると剣を抜いて馬の尻に鞭をあてた。
土埃の中へと向かって馬は走り出す。後ろからも蹄の音がしっかりマリィを追ってくる。
アストラーダは昨夜到着したばかりだ。落とし穴を掘る間も、大地に杭を打つ間もなかったはずだ。ならば、騎馬隊を阻むものは何もない。
マリィは真っ直ぐに突き進んでいった。
まずは中央の部隊がアストラーダ陣営に攻め込み、相手をひきつけつつわざと少しずつ後退してデルフォーニュ側深くに引き寄せる。そうやって、前にだけ気を取られたアストラーダ軍を左右の部隊で包囲し、壊滅させる。
先に到着していたデルフォーニュだからこそ、左右に部隊を布陣させる暇があった。なにより、アストラーダは遅く来たために正面にしか布陣することができなかった。それは潜ませておいた斥候からの情報でも確認されている。この広い平原、アストラーダ側に別部隊が隠れられるような木陰も崖もない。アルターシュの森の入り口もすでにデルフォーニュ軍が封鎖しているし、平原の中央に位置するリドルト王宮の遺跡も一部隊が息を潜められるほどの場所はなかった。マリィたち中央部隊は左右に気をとられることなく、深入りしない程度に前に進み、後退する時機を見極めるだけでいい。たとえ狂戦士が現れたとしても、所詮は人一人。幾重にも渡って包み込み、攻撃を続ければ止められるはずだ。何より、狂戦士が現れたときには味方の軍勢でさえもその場から離れる。ぐるりとアストラーダ軍を包み込んでしまえばその外側から新たに攻撃を加えられる心配もない。
そう、引き際さえ誤らなければ負ける戦ではない。
足元に纏わりついてきた歩兵を大剣で打ち払い、馬で正面から挑んできた兵を斬り払い、返す剣で右から来た兵を薙ぎ払う。
集中しろ。自分を取り囲む気配全てに集中するんだ。そして、怠りなく自分の今の位置を把握しろ。
マリィの視界の端にデルフォーニュ軍とアストラーダ軍の布陣した位置からちょうど中央に位置する遠く青い山の峰が見えた。
ここだ。
『聞いて、エア。わたしが作ったの。みんなの心に静寂が取り戻せますように、世界に平和が訪れますようにって願いをこめて』
敵兵の姿に白と黒の鍵盤が重なる。
瞬間、マリィは左腕を斬られていた。
「っつっ」
合図を、しなくては。
ぐらついた意識を即座に立て直し、左手に感覚があることを確かめて、マリィはその左手を上げ、右手で斬りつけてきた馬上の兵士を叩き落した。
マリィの合図に従って、混戦を装いながらデルフォーニュ軍は少しずつ、気取られないように後退を始める。
だが、マリィは戦場の中央でしばし動きを止めていた。
激しい頭痛とともに頭の奥底でじゃりじゃりと耳鳴りがしていた。視界は白く霞んだり突然鮮明になったかと思えば再び霞む。鼓動は早鐘のように勢いを増し、息が荒くなっていく。
「アン=ゾフィー様!」
遠くでアルデレイドの声が聞こえた。
瞬間、視界が晴れた。
頭痛も耳鳴りも早鐘のようだった鼓動も静まっていた。
「こんにちは、マリィさん」
周りには誰もいなかった。アストラーダ軍も、デルフォーニュ軍も。ただ一人、アルデレイドだけがマリィの後方で息を呑んでいる。
そして、踏み荒らされて土を剥き出した草原の上、白銀の髪を風になびかせ白金の大剣を大地に引きずった青年が、ひたと青い瞳を馬上のマリィに据えていた。
マリィはその瞳を見つめてから、ふと頭上を見上げた。
朝の斜光は消え去り、青だけを静謐にたたえた午前の空。しかしその空は、何故か塗りこめられたかのような色をしていた。
「違うな」
確かに、違う。
夢の中の少女が見た空は、少年の澄んだ瞳と同じ色をしていた。だけど、今自分が仰いだ空はどうだろう。本物だといわんばかりに青いが、どこか息が詰まるようだった。何より、目の前の狂戦士の瞳の色に比べれば、なんとくぐもり濁って見えることだろう。
マリィは馬から飛び降りた。
後方でアルデレイドの悲鳴が聞こえる。
「手を出すなよ。たとえ斬られても、お前は手を出すんじゃない」
マリィは真っ直ぐにエアを見据えながら背後のアルデレイドに言った。
「……御意」
悔しさをにじませたアルデレイドの声を耳から逃がして、マリィは間合いを取ってエアと対峙した。
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