天空のロエラ
第3章 滅びの草原
2
マリィがデルフォーニュ女王ブランシュの前に膝を折ったのは、広大な草原の縁に太陽がだいぶ傾いた頃だった。
アルターシュの森寄りに作られた野営地の天幕のうち、女王が滞在していたのは割りに小さい天幕だった。中はマリィの帰還を知らされた主要な貴族たちが集合し、うっすらと汗ばむ熱気に満ちていた。その最奥、普段のふわりと身体を包むドレスではなく動きやすい戦装束に身を包んだブランシュが椅子に腰を掛け、マリィを見下ろしていた。マリィよりも青みの強い紫の瞳にはやや思案する色が浮かんでいたが、やがてにこりと口元に微笑を浮かべ、椅子から立ち上がった。
「マリィ、無事でよかった」
膝を折るマリィの前に自らも膝をつき、ブランシュはかたくマリィを抱きしめた。
マリィはしばし、ブランシュの腕の中で目を閉じる。
「御心配を、おかけいたしました」
いろいろな思いを封じこめた声はやや強張ったが、ブランシュが気にした風はなかった。
「いいのよ。貴女が無事に戻ってきてくれただけで安心したわ」
「いいえ。与えられた任を全うすることができず、大変申し訳ございません」
さらに深々と頭をたれたマリィに優しく首を振って見せると、ブランシュはそっとマリィから離れ、座っていた椅子に戻った。
「アストラーダ王から貴女を預かっていると文が届いた時は生きた心地がしなかったけれど、本当によく戻ってきてくれたわ。アーバン大将、貴方もここまで御苦労だったわ。ああ、それにしてもそんなにやつれてしまって。酷い扱いは受けなかった?」
「そのアストラーダの件で申し上げたいことがございます」
ブランシュの問いかけをかわして、マリィは居住まいをただし、真っ直ぐに女王を見上げた。
「わたしがアストラーダを出てまいりました時、アストラーダはすでに出兵を開始しようとしておりました。もう間もなくこの平原に姿を見せることでしょう。それから、アストラーダ軍に狂戦士が戻ったようです」
ざわり、と天幕中の空気が揺れた。
唯一、ブランシュだけが平静にマリィを見下ろしている。
「静まりなさい。アン=ゾフィー元帥、それは本当?」
青みがかった紫の瞳を見つめて、マリィはゆっくりと頷いた。
「あの吟遊詩人が狂戦士だったのです。アストラーダ城下でわたしたちから逃れたあと、アストラーダ上に書状を届けに参りました際、あの狂戦士はグスタフ王に縄で繋がれ、捕らえられておりました。返してくれと申しましたところ、グスタフ王がこの者は行方不明になっていた狂戦士だから返せぬ、と」
マリィの作り話に、ブランシュはすでに真相を知っているのか否か、冷ややかな目を向けた。
「そう。ロエラの歌を知るものだから、ではなく、アストラーダは狂戦士だから彼のことを追いかけていたというわけね」
「はい」
「そう。であれば、間もなく到着するアストラーダ軍の最前線にはきっと彼が配置されてくるでしょうね」
「かと思われます」
マリィは目を伏せ、ブランシュの探る視線に耐えた。
しばしの沈黙の後、ブランシュが口を開いた。
「デルフォーニュ軍元帥、アン=ゾフィー・デルフォーニュ。そなたに再びデルフォーニュ軍の指揮権を返します。アストラーダの軍勢に野営の準備をさせる暇なく、この平原にてアストラーダ軍を壊滅させなさい」
冷徹な意思を持った言葉に、マリィは背筋を伸ばし胸に手をあてた。
「女王の御心のままに」
「アン=ゾフィー様! なぜ狂戦士の話など伝えました? 伝えれば休む暇なく戦場に駆りだされるのは目に見えておいでだったでしょう?」
アストラーダ戦の作戦会議の後、ようやく戻ってきたマリィだけのこじんまりとした天幕で、アルデレイドが声を潜めつつも、激した感情をマリィにぶつけていた。
「大人気ないことも、上司に逆らう物言いであることも百も承知しておりますが、しかし、先ほどの件は……」
「アルデレイド、お前もわたしの補佐役に任じられたのだろう? ならば戦場でわたしが生きて帰れるようにしっかりと守れ。そのためにも、今晩はこの辺で身体を休めろ。明朝、アストラーダはこの平原に現れる。女王陛下は野営の準備をする暇なくアストラーダ軍を壊滅させることをお望みだ。日が出る前に布陣を完成させてしまわねばならない」
マリィは疲れを溜息に乗せて吐き出した。
「ですから、なぜ自らを戦場に駆りださせるようなことを……」
「出たかったからだよ。戦場に出たかったから、狂戦士の話を持ち出した」
アルデレイドの訝しげな視線を視界の端に捉えつつ、マリィは大検を鞘から抜き、手入れを始めた。
「フォルメシア殿の話を真に受けられたのですか? しかし、この状況下でロエラを出現させて、一体誰の得になるというのです?」
「誰の得にもならないかもしれないな。それどころか、デルフォーニュもアストラーダも滅ぼされてしまうかもしれない」
自然、マリィの口元には笑みが浮かんでいた。
「知っているか、アルデレイド。父上が亡くなった原因を」
しばし、アルデレイドは口を噤む。
「持病が悪化されたと……」
「毒を盛られたんだよ。誰にだと思う?」
「それは……私には……」
言いよどんだアルデレイドに、マリィは笑っていった。
「姉上じゃあない」
あからさまにほっとしたと息を漏らしたのが聞こえた直後、マリィは言った。
「グスタフだ」
え、とアルデレイドが声にならない声を漏らす。
「マルタジット条約のままごとごっこに飽きたんだろう。あの熊男は早く自分が王になりたくて仕方なかったんだ。アストラーダは遠いからな。本当はさっさとアストラーダ王を葬りたかったんだろうが、仕方がないから先にデルフォーニュ王を殺してオルガ兄上が戻ってこなければならないように仕向けた。オルガ兄上が戻ってくれば、必然、自分もアストラーダに帰されることになるからな。そうやってあいつはまんまと自国に帰って、念願だった王になった」
マリィはかすかに笑い声を漏らした。
「普通なら、グスタフが仕掛けたと分かった時点でアストラーダに戦争を仕掛けているところだ。が、知ってのとおり、父上は持病が悪化したことにされた。誰がそう指示を出したと思う? 姉上だ。姉上が言っていた。無能な王のために時代の賢王を異国で客死させるわけにはいかない。グスタフの罪を暴いて処刑するのはたやすいが、アストラーダにはまだ王が健在で、オルガ兄上が捕らえられている。オルガ兄上が殺されたら元も子もない。何より、次期王が異国では、デルフォーニュ国内の方が先に混乱してしまう。そこを突かれたらデルフォーニュに生き延びる道はない。だから、このことは私と貴女との秘密よ、と。グスタフがアストラーダに出発し、オルガ兄上が帰ってくることが決まった時、父を検死した医師も心臓麻痺で死んでしまった。聞くまでもないだろう? 誰が指示を出したのか」
磨き上げられた刀身に自分の顔を映し出す。暗い蝋燭の炎に照らされて、マリィの顔半分には暗く影が落ちていた。
「分かっていたんだよ、わたしは。分かっていて、見ないふりをしてきた。恐ろしいと思いながらも、わたしは姉上に憧れていた」
今思えば、恐怖を憧れに摩り替えることによって、ブランシュに盲目的に従ってきたのかもしれない。ブランシュの中に宿る魔物を直視したくなくて、ブランシュに丸め込まれるがままにブランシュのために働いてきたのだ。
今なら、マリィにもそれが分かる。
父に向けられた刃が、今度は自分に向けられた。
自分だけは大丈夫だと思っていた。どこかで、血を分け、同じ男に恋したマリィを、ブランシュも特別だと思ってくれていると思っていた。たくさんの弟妹たちがいる中で、自分たちこそが本当の姉妹なのだと信じていた。自分が裏切ることなど思いも寄らないように、ブランシュが自分を切ることもないだろうと。
「キスミェルの言ったとおりだな。哀れな方だ。姉上には、きっと信じられる者が誰もいないのだろう。姉上は、ずっと一人で立って生きてきたのだ」
「だからといって、みすみす狂戦士の前に立ちはだかるように最前線の指揮など……」
先ほどの軍議で、デルフォーニュ女王はマリィに最前線で狂戦士を倒し、デルフォーニュ軍の被害を最小限に抑えるように命じた。元帥であろうと王妹であろうと、マリィには最前線で人々の楯となって戦うことに今も昔も異議はない。むしろ、最前線で多くに人々の命を守りながら敵を攻めおとすことがマリィの誇りですらあった。
しかし。
「アルデレイド。お前と、キスミェルに姉上の心の裡を諭された時、わたしは反論する根拠を持たなかった。むしろ、そうかもしれないと。なぜ、姉上は自分を切ったのだろうと恨みさえした。もしここで姉上に謁見を許されたならば、開口一番に詰ってやろうとさえ思っていた。なぜわたしを捨てたのか、と。でも、左右に控えた大臣やら参謀たちやらに囲まれたら、利口でいざるを得なくなった。だから賭けたんだ。狂戦士の話を聞いた姉上がわたしに早く疲れを癒すために一度城に戻れと言うか、このまま狂戦士と戦えと言うか」
マリィは自嘲の溜息を漏らした。
「アストラーダ城に潜り込ませた斥候からも、とうに狂戦士の話を聞こえていただろう。たとえ本当にわたしの体を慮ってくれたとしても、総司令官をむざむざ城に帰すようなことはできまい。女王だからこその判断だと言えるかも知れない。しかし、わたしが戻らなくても姉上はアストラーダに勝つつもりでいたはずだ。そうでなければここまで軍を率いて自ら進軍なさったりはしないだろう。それでもわたしに最前線で戦えとおっしゃった」
マリィは一度言葉を切り、再び口を開いた。
「わたしに、狂戦士と戦えとおっしゃった」
深い絶望がこもっていた。
アルデレイドは言葉もなくマリィを見守っていた。
「むざむざ死ぬおつもりではないでしょうね」
やっと絞り出されたアルデレイドの声は甘えを許さない厳しさがあった。マリィはふっと笑ってアルデレイドを見返した。
「狂戦士はわたしを殺せない」
声を潜めてマリィはアルデレイドの耳に囁いた。問うようにアルデレイドがマリィの目を覗き込む。
マリィは、記憶の奥深くに眠らせていた三年前の記憶を手繰り寄せていた。
『いた……僕のロエラ……今度こそ、終わりにしよう……?』
無防備にマリィに倒れこんできた少年が、穏やかに囁いた言葉が蘇っていた。
「死ぬつもりなどない。だが、ここまで来たのなら見てやろうじゃないか。ロエラが何なのか」
自分こそが狂戦士を止められるロエラなのだと、ウトルマリクも言っていた。ならば、自分がこの戦争で狂戦士を止める。デルフォーニュとアストラーダの王族たちを前に、自分こそがロエラなのだと知らしめてやる。
何のために?
「今更リドルトを復興させるつもりもないが……」
アルデレイドが天幕を出て行った後、マリィは寝袋にもぐりこんでそっと目を閉じた。
『エア。エア』
幼い少女のか細い、甘えた声が聞こえた。
ついで、聞いたことのない高低数多の音色が同時に楽を奏ではじめる。弦楽器のようだが、そこにいるのは自分ひとりだった。指が頭の中に描かれた風景や気持ちを音にしていく。
「彼」は庭の陽だまりの中で本のページを繰りながら、彼女の奏でる音楽に耳を澄ませているようだった。
曲が終わると、少女は弾かれたように庭に飛び出していった。
『ねぇ、エア。どうだった? どうだった?』
少女はしきりに口を動かす。しかし、その唇から漏れるのはかすかな空気だけだった。それを気にした風もなく、少女は少年を見上げる。
丸い白い光が遥か空の彼方に一つ、浮いていた。そこから発される光を受けて、風に攫われた「彼」の髪が茶色に透けて輝く。
ぱたり、と本を閉じて白い長椅子の上に置くと、「彼」は少女をその胸に抱きしめた。
「とても上手だったよ。春の風景が見えた。黄色いタンポポやピンクのヒメジョオンが咲く野山の原が。ついでに、そこで花冠を作っているマリィが」
少女は「彼」の胸の中で大きく頷いた。
伝わっている。ちゃんと、自分がこの曲から思い描いた情景が「彼」にも伝わっている。わたしたちは想いを共有している。
少女はにっこりと微笑んで「彼」を見つめた。
青い、青い瞳だった。
どこまでも、遮るものなく果てのない青。
あの空と、同じ青の色。
←第3章(1) 書斎 管理人室 第3章(3)→