天空のロエラ
第2章 過去に生きる者



 地下牢の天井から滴る規則的な雫の音は、思いのほか大きな音で通路を抜けて牢中に響き渡っていく。目が慣れればおおよその者の位置を把握できる程度の暗闇の中、マリィは抱えた膝の中に顔を埋めていた。
(姉上に見捨てられたのだろうか。私は姉上にとってその程度の存在だったのか――オルガ兄上の時もそうだった。私は結局そこにいたのにいないも同じだった。兄上にとっては私などよりも、あの狂戦士の境遇の方がよほど大切だったのだ)
 アルデレイドと引き離されてここに入れられてからずっと、思考は兄オルガと姉ブランシュのことばかりを繰り返し、辿り着く同じ結論に逃れられない息苦しさに襲われていた。途中眠りに落ちたりもしていたかもしれないが、飯が提供された記憶はない。腹時計を参考にしようにも、ここに入れられてから空腹を感じないのだから役にも立たない。
『私の願いはね、もう二度とオルガ兄様のような死に方をする人を出さないことなのよ。ね、分かるでしょう? 戦争なんて、何も生みはしない。人の命も土地の栄養も、動物も植物も、刈り取られるだけ刈り取られて、私たちの元には一体何が残った? 何も残らなかった。そうでしょう、マリィ』
「はい、姉上……」
 記憶の中の姉の言葉に返事を返しては、何度も何度もその言葉を反芻する。何も、デルフォーニュに帰ったあの夜だけされた話ではない。オルガを失ってから、それはもう何度も何度も、姉妹で確かめあうようにしてきた話だった。その姉上が、なぜ自分をわざと人質に取らせるような真似をしたのか。まるであのリドルト平原での戦いを再現したいかのように、なぜ?
 戦争は嫌だと言っていたあの姉上に限って、戦争の種を蒔くようなことをするはずがない。きっと、誰かにあの書状を差し替えられたのだ。そうだ、そうに違いない。デルフォーニュとの間に戦争を起こしてメリットがあるのはキスミェルとエア、どっちかと言われれば、キスミェルしかいない。城に通すときだって、自分がいればスムーズに通れるはずだと言っていたじゃないか。そうだ、きっとあいつが、自分が寝ている間に書状を差し替えたのだ。
「ぐ、ぁあ……」
 そんな奴ではないことは、わかっているつもりだった。第二王子のキスミェルは、兄のグスタフ三世に比べて知性はあるが、それは国を治めるためのものではない。好んで学者のようなことをしている通り、本来は国という枠にとらわれずに純粋に学問のみを追及するのが好きなタイプのはずだ。それこそ、間者のような真似をするような男ではない。少なくとも今まではそう信じてきたのに。それとも、やっぱりエアなのか? 書状を差し替えられたから、自分から離れていったのか? しかし、エアが犯人だとすれば、疑問は二つ残る。書状を差し替えてデルフォーニュとアストラーダを争わせて、ただの吟遊詩人のエアに何の得があるというのか。戦争準備の混乱でアストラーダ城の牢の看守が手薄になるのを狙ったのだろうか。だとしても、ただ一人を助け出すにしては、やり過ぎな感が否めない。もう一つの疑問は、せっかくマリィたちから離れたというのに、マリィよりも先に捕まっていたとだ。エアと別れてマリィたちがアストラーダ城に入場し、グスタフ王と謁見するまで、数時間しかたっていない。日さえくれていないというのに、まるで自首したかのような早さではないか。いや、もしそうだとするならば、エアが最も怪しいということになる。自首した目的も、デルフォーニュとアストラーダを争わせたい目的も皆目見当もつかないが。
『時は西暦、まだ人類が七つの海と六つの大陸に散らばっていた頃
 空は今よりも青く、今よりも高かった』
 不意に、目の前の牢から詩を吟じる老人の声が響き渡った。
「ああ、あの爺さん、また始めたよ」
 ひそひそと看守たちの声が通路でして、そそくさと遠ざかっていく足音が続く。
『人類は神を製造し、偽りの空の下暮しはじめた
 すべては争い無き世界を築くため
 偽りの空の向こうは死滅した世界
 ひとつ世界にあって、地上は天と地獄とに分かたれた』
 年を重ねてはいるが朗々たる声は太く安定感があり、エアとは違ったどっしりとした落ち着いた魅力で聞く者を魅惑する。
『地上の楽園となりし大陸はただ一つ
 今はオリア大陸と呼ばれしこの大陸一つのみ
 この大陸の臍に地の女神は眠り
 天の女神は青空の向こう、地球を見守る。  女神とは即ち、天地の理。
 人の生み出した禁断の領域なり』
 歌声はそこで一度途切れた。聞こえてきたのは目の前の牢。あの声の大きさならば上階で別れたアルデレイドにも聞こえているかもしれない。マリィは床を這うようにして鉄格子のところまで移動した。
「こんにちは、お嬢さん」
 正面の牢から、歌声と同じ声が穏やかに呼びかけてきた。
「こん、にちは。って、時間が分かるんですか?」
「ええ。それは勿論。儂は時計を内蔵しておりますから」
「トケイをナイゾウ?」
 意味が分からずに鸚鵡返しに聞き返したマリィに、老人は朗らかな笑いを漏らした。
「腹時計よりも正確な体内時計を持っている、ということですよ」
「は、はぁ」
「それよりも、お嬢さん、一体何をしてここに? この牢は地下三階。一階ならばまだ天井から日の光も入ってきましょうが、ここは完全に閉じられた世界。よほどの罪を犯した者しか入れてはもらえませぬ」
「お嬢さん、お嬢さんと言わないでくれるか。もうそんな年でもないのでな。私の名は……」
 自己紹介をしようとして、マリィの口ははたと噤まれた。一体、何と名乗ったらよいのだろうか。マリエトレッジ・アン=ゾフィー・デルフォーニュ。しかし、もしブランシュからとうに見放されていたのだとしたら? この名前を名乗ることに何の意味があるだろう。
「外では、いつもは何と呼ばれておりますのかな?」
 見抜いているかのように老人は救いの手を差し伸べる。
「マリィ……と申します。ご老人、貴方の名は?」
「儂はウトルマリク。王の妾に手を出した罪でここに入れられて一月経つところでございます。いやぁ、この年で血気盛んな罪に処せられて、なんとも恥ずかしい限り」
「貴方がウトルマリク殿か! エアが心配しておりましたぞ!」
 思わず気持ちが昂って、マリィの声が高くなった。ウトルマリクはちょっと笑ってから、しーっと人差し指を立てて口元にあてて見せる。
「看守たちも儂が歌いだすと嫌がって遠ざかっていきますが、あまりおしゃべりの声が過ぎればすぐに戻ってきてしまいます」
「これは失礼いたしました」
 そんなに嫌悪感を誘う歌声だっただろうか、とマリィは首を傾げながら謝罪する。
「なんのなんの。お話をしたくて看守たちを遠ざけたのです。儂の歌が貴女に届いてよかった。エアは元気ですかな?」
「はい、それはもう。あ、でも、貴方を助けにきてアストラーダに捕まっていました。同じこの辺に繋がれているんじゃないかと思っていたのですが……」
「儂を助けに来て捕まった? あの馬鹿、人の言うことを無視しおって」
 舌打ちをして毒づいたものの、すぐにウトルマリクは笑って場を取りなした。
「いやいや、すみませんな。年をとると気が短くなってしまって。エアには、儂が一月経って戻らなかったらデルフォーニュへ行くようによぉっく言い含めておいたのですが」
「ええ、一度はデルフォーニュまで来たのですが、貴方がアストラーダに捕まったと聞いて、助けなければ、ととんぼ返りしてきたんですよ」
「それはますます愚の骨頂ですな。いったい何のために儂が捕まったのか、これではわかりゃしない」
「わざと、捕まったのですか?」
 思わずマリィが尋ねると、ウトルマリクは闇の中でもわかるほどに目を輝かせ、にぃっと口元を引き上げた。
「マリィ殿、貴女はロエラの歌を知っていますかな」
「……エアから命を助けた礼に、と一度だけ聞かせてもらいました」
「その歌は、先ほど儂が歌ったものと同じものでしたか?」
「え?」
 思わずマリィは、さっきウトルマリクが歌った歌の歌詞を思い出そうと目を閉じた。
「いいえ、先ほど貴方が歌った歌とは違う歌詞でした。エアが歌ったのは、わがデルフォーニュ王家にも伝わるロエラの歌の全編。先ほどの歌は、私は初めて聞きました」
「ほほ、マリィ殿は記憶力の良いお方ですな。さすが、メグラール様のご息女」
「いえいえ、そんなそんな、って、今何と?」
「メグラール様は大層記憶力の良いお方でした。一度見聞きしたものは忘れないという、それはもう特別な能力を有されていたと言っても過言ではございません。だからこそ、忘れたいことも忘れられずに苦しまれたのかもしれませんが」
「なぜ、それを?」
 息をのんで再び訊ね返したものの、ウトルマリクはそれには答えず、勝手に話を進める。
「リドルトの血を半分受け継いでいらっしゃるマリィ様の前だからこそ、先ほどの歌を歌ったのですよ。よく覚えておいてくだされ。あれが真のロエラの歌でございます」
「真の、ロエラの歌?」
「そう。リドルト、デルフォーニュ、アストラーダにそれぞれ伝わっているロエラの歌は、ロエラにまつわる歴史物語でございます。先ほどの歌は人の犯した罪を語る歌」
「人の犯した罪」
「そうです。人類はその昔、ロエラという名の女神を作りました。その女神の恩寵なくば人は生きられず、それゆえに、人は女神の不興を買うことを恐れて互いに争いあうことをやめざるを得なかったのです」
「その女神というのは実体か?」
「もちろんでございます。しかしながら、最も恐れるべきは女神を守る騎士の存在でございます。ロエラの騎士は一人で全世界の人類を殺戮するだけの力がございます。止められるのはロエラのみ。今、この世界には再びそのロエラの騎士が生まれてきております。マリィ様、どうか、どうかこの老人たっての願いでございます。ロエラの騎士を止めてくださいませ」
 ウトルマリクは額を床にこすりつけるようにして、マリィに深々と頭を下げた。
「ウトルマリク殿、お会いしたばかりでそのような……」
「貴女も数年前、リドルト平原に現れた狂戦士の存在は覚えておいででしょう。あれこそまさしく、ロエラの騎士なのでございます。あの狂戦士が再びこの世に現れた時、デルフォーニュもアストラーダも滅ぼされてしまうことでしょう。この世界から人類は一人もいなくなってしまう。そうなってしまう前に、マリィ殿にはあの狂戦士を止めていただきたいのでございます」
 何度もマリィの記憶に甦ってくる虚ろな目をした華奢な体の少年。三年前、相打ちになって仇を取れたと思っていたものを。
「止めろと言われても、私はこの通り囚われの身だ。一体どうやってあの狂戦士を止めろと?」
 臍噛む悔しさを堪えて、マリィはウトルマリクに尋ね返した。
「ここからなら間もなく出られることでしょう。無事にこの城から抜け出したら、リドルト平原へ向かってください。おそらく、貴女を火種にデルフォーニュとアストラーダは再びあの平原で相見えます。さすれば戦場の匂いに魅かれるのが狂戦士の性。必ず、狂戦士はリドルト平原の戦場に現れます」
 ウトルマリクは、まるで未来が見えているかのように淀みなく語った。
「ここから出られたとして、私の技量では再びあの狂戦士を抑えられるかどうか。私ひとりではなく、むしろデルフォーニュ軍に援軍を依頼して数で捕らえることはできないだろうか?」
「それができたなら、過去四年にわたってデルフォーニュが狂戦士に辛酸を舐めさせられ続けることもなかったでしょう。私が貴女に求めるのは、メグラール様から受け継いだリドルトの血。三年前、貴女が狂戦士と戦ってデルフォーニュに勝利をもたらせられたのは、貴女の流した血で狂戦士の動きを止めることができたからだと私は見ています。いや、貴女の剣の技量を貶めているように聞こえてしまったら申し訳ない。そういう意味ではないのですが」
「いや、剣技ではあの時も私はあの少年に及んではいなかった。狂戦士と対峙して生き残れたことを奇跡に思っていたくらいです」
 噛みしめながら呟くその脳裏には、曇天の下、狂戦士がマリィの右肩から噴き出した血を浴びて恍惚としている顔が浮かんでいた。そうだ、あれで狂戦士の動きが鈍ったのだ。動きが鈍ったというよりも、もはやあれは戦意を喪失していたと言った方が良いかもしれない。そうだ、そして自分の右肩に倒れこんできた狂戦士は何かを呟いていた。それはもう、安堵して幸せそうに。
『いた……僕のロエラ……今度こそ、終わりにしよう……?』
 びくり、と暗闇の中でマリィの身体は震えた。今まで一度も思い出さなかったというのに、その声は甘く透き通ったエアの声を借りて、心の奥からくゆり立ってきていた。
「ウトルマリク殿。エアとはいつから師弟関係を結んでらっしゃる?」
 恐る恐る、マリィは尋ねた。まさかと思うその心を否定したくて、エアにキスされた頬を知らずおさえて、顔をあげてウトルマリクを見つめる。
「三年前からでございます。リドルト平原で廃人同様になっていたところを拾いました」
 ガタガタと大きくマリィの手が震えだす。片手で震えを押さえつけてはみるものの、押さえた手までが震えだす。
「ロエラの歌を教えたのも貴方だと聞いたが、貴方は、狂戦士にロエラの歌を教えたのか?」
「いいえ。私がロエラの歌を教えたのは狂戦士ではありません」
「だって、エアが狂戦士だと言うのだろう?」
 自分ひとりでは虎さえも退治できないひ弱なエア。へらへら笑って歌うことしかできなくて、危険が迫ればいちもにもなくマリィの背後に隠れていたエア。だけど、思い出しても見ろ。初めてアルターシュの森で出会ったとき、あいつは食べ終わった二本の串を交差させてマリィの剣を払いのけたのではなかったか? あれは素人が偶然やったにしては無駄のない動きだった。そのあとのへたれぶりにすっかり騙されていたが、確かにその片鱗は隠しきれずに所々で見せてはいたのだ。
(私は、この一月、兄上の仇を護衛し、命を守り続けてきたというのか。それどころか隙を見せたがために頬にキスまで許して……)
 初めてあった夜に斬り倒していればよかった。
 ぎりと歯がみしても、今や剣も奪われ、異国の牢に捕らわれたマリィになす術など何もない。
「私は亡きリドルト王国の元宰相ウトルマリク・ローラン。十八年前、リドルト王国の王都陥落の際、三歳になられるたった一人の王子、エアリアス様を抱えて逃げましたが、途中で当時のアストラーダ王国第一王子グスタフに背中を切られ、王子を奪い去られてしまいました。それからリドルト平原で王子を取り戻すまで、苦節十五年。あまりにも長い間、王子にはアストラーダで辛酸を舐めさせてしまいました」
 うなだれるウトルマリクを、マリィは整理のつかない頭を抱えて見つめた。
「つまり、エアがリドルトの王子だと?」
 信じたくないという思いの方が強かったに違いない。リドルトなど、もう遠い昔に滅びた国だ。遺跡とて時の流れに逆らえず、驚異的なスピードで風化している。人の記憶となればなおさらだ。
「だからといって、今更一体何をしようというんだ!」
 姉王の誕生祭でカーネル卿がマリィとキスミェルとで公国という形でリドルトを再興させようという話をしていた時、傍らにいたエアは一体どんな思いでその話を聞いていたことだろう。なぜ、何も言わず、貴族たちの笑いの種に故国の名を使うことを許していたのだろう。
「リドルト王家の一番の務めは、ロエラの歌を守り、後世に伝えること。人々がロエラを探す愚を犯さず平穏に暮らせるように、ロエラが人に見つけられないように、その身を呈して隠し通すこと。リドルト王家は、もとはロエラを匿うために設立されたのです。国を再興させることには何の意味もありません。私は、リドルト王家の者としてロエラの歌を守る義務をエアリアス様に全うしていただくため、エアリアス様にロエラの歌を託したのでございます」
 うなだれていたウトルマリクは、きっぱりと顔をあげてマリィを見据えた。
「そして、もう一人。メグラール様の血をひいていらっしゃる貴女にも、リドルト王家のことを知っておいていただきたかったのです。リドルトの血をひく者は、この世界にはもう、エアリアス様とマリィ様しかおりません。どうか、どうか、ロエラの秘密を守れとは申しません、ただ、マリィ様にはあの神をも凌駕する力の抑止力となっていただきたいのです」
 冗談じゃない。そう言いかけた言葉を、マリィはウトルマリクに見据えられて飲み込んだ。
「貴女の兄上が狂戦士に殺されたことは存じております。エアリアス様をお守りしろというのではないのです。デルフォーニュのために、オルガヴァルド様の築こうとした世界のために、必要とあらば貴女の血でロエラの騎士を止めていただきたいのです」
「私の血でロエラの騎士を止められる、か。それはつまり、私がロエラだということか? ロエラの騎士をのさばらせ、人々の恐怖心をあおり、唯一止めることのできる私の前にひれ伏させる。確かに、世界はロエラによって秩序づけられるわけだ。そして私は世界を手に入れる」
 噛み殺していた笑いが、あまりにも馬鹿らしくて噛み殺しきれずに大きくなる。
 三年だ。三年かけて探し続けたロエラが、まさか自分だっただなんて馬鹿らしくて反吐が出る。それも、兄の仇敵を味方につけて操ってこその力だなんて。そんな力、使いこなしたくもない。そもそもあのエアが狂戦士だ、リドルトの王子だと聞くだけでも未だ信じられないというのに。
「ロエラとロエラの騎士が現れるのは、決まって世界がロエラを欲する時です。ロエラを欲する時とは即ち、戦争の火種が世界にある時。ロエラはその戦争をなくすために生み出されたものでした。人を超える力を持つ者さえいれば、人は己の小ささを知り、争うことをやめるであろうと。ロエラの騎士は偉大なる神を作り出すための装置でしかありません。ロエラとロエラの騎士の発現はリドルトの血筋の濃さに比例します。だから、リドルト王家は代々ロエラを生み出すための血筋を絶やさぬよう、近親間での結婚を繰り返してきました。近親間の結婚によって、先天的に生殖能力が低くなり、滅亡への道をたどったことも確かですが、最後にロエラとロエラの騎士を得ることができた。それだけが、せめてもの救いです」
 世界が欲したからロエラが生まれるわけではない。ロエラがそうやってリドルト王家で守られてきたから、世界から戦争がなくならないのだ。本当は。
 矛盾したウトルマリクの説明を聞きながら、マリィはそっとため息をついた。
「では、リドルトの地下には何がある?ロエラが私だと言うのなら、遺跡の地下の入り口というのは一体どこに繋がっているというのだ?」
 マリィが尋ねた直後、上階で何かが爆発する音が響いた。天井からは雫のみならず、衝撃で剥げた欠片がパラパラと降ってくる。
「マリィ様、お迎えに上がりました」
 鉄格子の向こうで挨拶もそこそこに鍵束の鍵を一から差し込みはじめたアルデレイドは、数本目にしてマリィを閉じ込めていた牢を開いた。
「遅かったじゃないか、アルデレイド」
悪態をついて牢から出ようとしたマリィは、くらりと目眩を覚えてよろけた。すかさずアルデレイドが肩を支えて、心配そうにマリィを覗き込む。
「大丈夫ですか?」
「ああ。お前の顔をみたら安心したのか、腹が減ったらしい」
「干し肉の欠片ならまだ持っておりますので、ここを出たら差し上げます。さ、早く」
 しかし、急かすアルデレイドの手か牢の鍵束を奪い取ると、マリィはウトルマリクの牢の前にしゃがみこみ、震える手でウトルマリクの牢の鍵穴に一本一本鍵を差し込みはじめた。
「マリエトレッジ・アン=ゾフィー様。アン=ゾフィーの名の由来をご存じですかな?」
「集中できないから少し黙っていろ」
 ウトルマリクを叱り飛ばしながらも震えるマリィの手を見かねて、アルデレイドが代わろうと手を伸ばすが、マリィはそれさえも払い除ける。
「アンはメグラール様の母君の御名。ゾフィーはメグラール様の双子の姉君であり、リドルト王国最後の王妃のお名前でございます」
 ウトルマリクが告げ終わるなり、鍵がくるりと回った。
「出られよ、大老殿」
 いくぶん憔悴したマリィの顔をまっすぐに見上げて、ウトルマリクは歳のわりに大柄な体を縮めて小さな扉をすりぬけてきた。
「名の由来、ゾフィー殿という方はずいぶんとたくさんの肩書をお持ちのようだ。父も母も、それぞれに抱く思いを異になさっていると思ったものだが、よもやリドルト王家最後の王妃の名まで架せられているとは。そこまで思いを馳せたことはなかったよ」
「さらに言うなれば、ゾフィー様はエアリアス様の生みの母君でございます」
 考えればわかることであったが、思いのほかマリィの受けた衝撃は大きかった。通路を歩きだそうとしたはたと足が止まる。
「聞いていればまだまだ出てきそうじゃないか。私もずいぶんといわくの多い名を賜ったものだ」
 気丈に言ってはみたが、体が震え、めまいが襲う。名とともに、亡きリドルト王家の責任までを背負わされているかのようで、マリィは寒気がした。
「さ、マリィ様。爆発騒ぎも原因が分かればあっという間に収まってしまいます。その前に行きましょう」
 アルデレイドに肩を貸されながら、マリィは重い体を引きずって通路を階段目指して歩き出す。その後ろから、ひと月も監禁されていたとは思えぬほど元気な足取りでウトルマリクがついてくる。
「さっきの爆発騒ぎはお前の仕業か? アルデレイド」
「いいえ。とある方が私を牢から出した後に仕掛けたものが爆発したのでしょう」
「とある方?」
「出ればわかります」
 一問一答の状態のアルデレイドには、これ以上理由を尋ねても無駄だ。仕方なくマリィは質問を変える。
「牢に入れられてから何日たったかは覚えているか?」
「二日ほど」
「二日……」
 飯を食べた記憶がないのに、もうそんなに経っていたのか、と呆然としながらも、マリィは一体その間自分がどうやって時間をやり過ごしてきたのか恐ろしくなった。
 二階に上がると、もうもうたる煙が火薬臭とともにフロア中に充満していた。原因を探し求めて煙の中に消えていく看守たちをやり過ごして、マリィたちはさらに上へと歩を進め、ほうほうの体で一階の端の裏口の扉を開いた。普段は厨房への行商人が出入りするその扉の向こうは、目と鼻の先に城外への扉が構えている。天候は霧深い曇り。うっすらと光が差し込んでいるのは、日の出前後だからか。
「あれを出られれば……」
 マリィが呟いた時だった。
「どちらへ行くのかね? デルフォーニュのお客人」
 どすのきいた中年の男の声が戸口を出たばかりの横から響いた。
「グスタフ!!」
 思わず腰に手をやるが、腰には剣も何もない。その丸腰のマリィに向かって、グスタフはすらりと抜き放った剣の切っ先を突きつける。
「これはこれは、ウトルマリク元宰相殿。貴方もともに脱獄ですか」
「グスタフ! どうして王である貴様がこんなところで油を売ってる?!」
 剣がないがために、マリィの声はせめて言葉で身を守ろうとでも言うようにとげとげしく放たれる。が、それしきのことで怯むグスタフでもない。
「デルフォーニュの女王から正式に妹と近衛隊長を返せと書状が来てね。まだ貴女を捕らえてから二日しかたっていないというのに、何とも早いことじゃないか。こっちとしてはデルフォーニュの女王が捕らえておいてほしいというからそれなりのもてなしをしていたというのに、なんともひどい話だと思わないか? それも、三日経ってあなた方が無事にデルフォーニュに帰還しなければ攻め込むと言っている。無茶な話だろう? たとえ二日前に出発していたとしても、五日でデルフォーニュにつけるわけがない」
 グスタフは髭に覆われた顔の中から目だけをギラギラと輝かせてマリィを見据えた。
「嘘だ。姉上がそんな無茶な話を提案するはずがない」
「ところが、デルフォーニュにやってる斥候からの話だと、君がデルフォーニュを出てすぐに進軍準備を開始していたそうだ。今頃はデルフォーニュを出ている頃か」
 空を見上げて時を確かめ、グスタフは口元ににやりと笑みを浮かべた。
「俺がどうしてここにいるかって? 散歩だよ。あと小一時間もしたら、アストラーダも進軍を開始する。その前に、君に会っておきたくてね」
「会ってどうする気だったんだ!?」
 ぶれる信念を必死に固定しようとするがあまり、マリィの声は昂り震えた。けして目を閉じ、目の前に突きつけられた剣から目を離したわけではなかった。それなのに、グスタフが剣を振り上げた時、マリィはその場から動くことも上半身をよじることさえもできなかった。
 白刃の軌跡が目の前を上から下へと切っていく。
 斬られたと思った。
 が、痛みは来ず、かわりに一間置いたところから血飛沫が立ち上がっていた。
「マリィ様。エアリアス様を頼みましたぞ」
 自分とグスタフの間に入ったウトルマリクの言葉を、マリィは最後まで聞きとることはできなかった。ウトルマリクがマリィとグスタフの間に入った時、アルデレイドがマリィを抱えてすでに走りはじめていたのだ。
 血飛沫だけが白い靄の中にやけに鮮明に飛び散ったのを覚えている。それから、黄色い火花が飛び散り、爆発した。
「な……んで……?」
 抱えられたアルデレイドの肩の上で後ろから目を離せなくなっていたマリィは呟いた。
「それは、ウトルマリク殿は人ではなかったからだよ」
 新たな声は馬上から聞こえてきていた。
「アルデレイド君、そこの馬を使いたまえ。マリィ殿の分は今は私が引いていこう」
 尊大な口調はそのままだったが、キスミェルの声はやや焦燥感を含んでいた。
「すまない」
 アルデレイドは素直にマリィを栗毛の馬の背に押し上げ、自分も乗って手綱をとった。
「って、貴様も一緒に来るつもりか?」
「当り前だろう。アストラーダとデルフォーニュが戦争を始める前に、リドルト遺跡の謎を解明しなくては」
「……お前って奴は」
 呆れたマリィをみて、キスミェルは少し安心したように目元を緩めた。
「腹が減っているだろう。膝を抱えたまま、ご飯を差し出してもピクリとも動かないと聞いていたから……少し心配していた」
 やや言葉を切って伝えたキスミェルに、マリィの方が赤面する。
「悪かったな。心配させて。しかし、貴様が私たちを助ける理由は?」
「マリィ殿はロエラの手がかり、そのもののようだからな。言っておくが、私はアストラーダのためにロエラを探しているのではない。自らの好奇心を満たすためにロエラを探してきたのだ。その鍵が敵国の王妹だとしても、私には保護する義務がある」
「アルデレイド、あるお方というのはこいつのことか」
「今はここから出ることが先決です」
 きっぱりとしたアルデレイドのセリフに、マリィはアストラーダの王弟に恩を売られた恨みつらみを飲み込んで、代わりに別のことをキスミェルに尋ねた。
「エアは出さなかったのか?」
「あいつはもともと牢になんか入れられていないよ。縄に縛られてマリィ殿たちの前に現れたのも、グスタフと共謀しての芝居だ」
 気遣うことなくさらりと暴いてのけたキスミェルを、マリィは詰る気にもならなかった。
「あいつが狂戦士だったと、貴様は知っていたのか?」
 揺れる馬の振動に負けそうになりながら、それでもマリィは力を振り絞ってキスミェルを見上げた。
「知っていたよ。あいつが父の小姓だった時からね。リドルトで会った時は、知らないふりをしようとしてたからそれに合わせたまでだ」
「そう、か……」
 アルデレイドの背にぐったりと力が抜けていく体を預けて、マリィは目を閉じた。
















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