天空のロエラ
第2章 過去に生きる者



 星暦一七七六年、十一月。
 その戦いは、最後のアストラーダとの一戦よりもさらに三年ほど前のことになる。兄を失った日のことを、マリィは七年たった今でも昨日のように目の前に思い出すことができた。
「出たぁぁぁっっ、狂戦士だぁぁぁぁっっっ」
 駆け巡る蹄の音と歩兵たちの野を駆ける足音、それに数多の悲鳴を縫って、前線から一斉に同じ悲鳴が届いたのは、緩衝帯であったリドルト平原に侵攻してきたアストラーダ軍を、間もなくリドルト平原から追い返せるという際まで来た時のことだった。お馴染みになった狂戦士の登場文句。それは戦場から後衛にもたらされる使走がもたらす情報よりも早く、かつ正確なものだった。どんなに印象的なファンファーレよりも血に赤くまみれた衝撃的な登場の合図。「狂戦士」その名を聞いただけで、すでにデルフォーニュ軍は反射的に震え上がるようになってしまっていた。どれほど上官が戦列を崩すなと命令しても、本能的な恐怖に火がついた兵士たちはもはや兵ではなくただの原始的感情に従う人間だった。アストラーダ軍を押していた前線は、両端からわっと悲鳴を上げながらデルフォーニュの陣がある西側へとまくれていく。その速さに負けず劣らず、狂戦士の現れた中央が抉り崩されていく。
「ちっ、また出たか、小僧め」
 国王である兄・オルガヴァルドの近衛を務めていたマリィは、リドルト平原の西端に敷いたデルフォーニュ軍の陣の楼台から一連の情勢を読み取り、国王である兄・オルガヴァルドに聞こえるほどわざとらしく舌打ちをした。
「女の子がそんな言葉づかいをするものじゃないよ」
 苦笑してオルガは、傍らの妹に到底この状況にそぐわぬ言葉を返した。
「兄上、いい加減私を妹と思うのはおやめください。私は兄上の護衛としてここにいるのです。女の子扱いされるのは不本意です」
「そういうマリィこそ、私のことを兄と呼んでいるではないか。それに、兄妹でなければそんな口もきけまい?」
 穏やかにたしなめられて、思わずマリィは出かけた言葉を飲み込んで口を噤んでオルガを見返した。
 黒々とした立派な甲冑に身を包んではいるものの、その顔は仁を以て人を導くものらしく、戦場ではいまいち猛々しさに欠ける。この人にはできることなら戦乱の時代などではなく、平和な時代に国を維持するために王に就いてほしかったと、マリィは何度思ったかしれない。決してオルガの運動神経が鈍いとか、剣や武術がいまいちだと言いたいのではない。戦の才がないと言いたいのではない。むしろ、オルガは剣を握らせればマリィを一撃で打ち負かすほどであったし、このリドルト平原を盤に展開させた陣形もオーソドックスではあったが、けして外れたものではなく、だからこそ、同等の兵力ながらアストラーダ兵を自陣に返すほど押し上げることができたのだ。
 ならば何が足りないのか。
 いいや、足りないのではない。この人の場合は優しさが多すぎるのだ。
 自問して、マリィは小さく首を振った。
「国王、どうか私に出陣命令を。このままでは士気が下がり、デルフォーニュの被害が広がってしまいます。王妹であるこのアン=ゾフィーが前線に出向き、直接指揮を執りましょう」
「おいおい、そう逸るんじゃないよ。近衛である君の役目は私を守ることだろう?」
「しかし……」
「私が行こう」
 王妹として兵たちを鼓舞しなければならない。その責務に駆られていたマリィは、堂々と椅子から立ち上がったオルガをなぜか止めなかった。
「アン=ゾフィー、君の役目は私を守ることだ。その責務、存分に果たしてくれよ」
 なぜ止めなかったのか、あの夜から何度自問しても今でも答えは出ない。ブランシュに問い詰められても、何も答えることはできなかった。運命だなどという一言で片づけるには、あまりにも状況に対してマリィの判断は疎かなものだった。それほどまでにオルガの意志が確固たるものだったともその時は思えなかったのに、なぜ頷いてしまったのか。そもそも、国王を前線に出すなど、負け戦も同じだろうに。
 心のどこかでは分かっていた。が、マリィはきっと逆らえなかったのだ。戦場に出たいという思いに。
 国王を守るという大義名分のもとに、マリィは馬を駆って戦場を駆け出した。どんな敵が来てもオルガを視界の端に捉えながら敵を屠り、前進していく。敵から血を奪えば奪うほど、マリィの身体には血が漲っていくかのようだった。だからといって、けしてその感覚に溺れ、オルガの護衛を疎かにしたわけではない。戦場でのマリィの活躍は向かうところ敵なしだった。オルガを傷つける全ての者から剣を奪う勢いだった。過ちを犯していたとすれば、それはオルガが何のために戦場に出ると言い出したのか、目的を確かめなかったことだろう。あっという間にオルガとマリィは戦場を駆け抜け、抉れた前線の中央にて狂戦士と対峙していた。
「兄上、ここは私が!」
 銀の髪、焦点の定まらぬ虚ろな蒼天色の瞳。骨と皮だけかと見まごうがりがりの手足にまといつく布は茶色く色褪せ、すでに衣類としての大部分の役目を放棄していた。取り付けられている防具と言えばなめし皮の使い古された少年の身体にはやや大きめの胸当てのみ。足には靴さえ履いていない。しかし、手に無造作に握られているのはその華奢な体にはおおよそ不釣り合いな身の丈ほどもありそうな大剣だった。
 マリィは今まで何度となく遠目に狂戦士の姿を眺めてきたが、近くで見るその姿は悲惨なほど貧しく凄惨な雰囲気を漂わせ、まるで人を殺す人形そのものだった。
 恐れが込み上げなかったわけではなかった。狂戦士には、本能的な恐怖を喚起する何かがあった。しかし、それ以上にマリィの心には人間離れしたこの少年と剣を交えたいという思いが強かった。あるいは、この少年を倒して、真に強いのは自分だと世界に知らしめたかったのかもしれない。
 幼稚な思いに逸って、マリィはオルガの了解も得ずに馬腹を蹴っていた。狂戦士はそんなマリィの動きだけに反応して剣を振り上げ、尋常ならぬ脚力で飛び上がる。
 そのあとの動きが、マリィには全く見えていなかった。驕りがあったと言われれば、あったのだろう。だが、心の持ちよう如何はこの際何の言い訳にもならなかった。圧倒的な経験、力量の差がマリィと狂戦士との間には横たわっていたのだ。それに気づいていたのは、オルガヴァルドただ一人だった。
「――、もうやめろ。剣を納めろ。何度も話しただろう? マリィだよ。俺の大事な妹だ」
 マリィが我に返った時、オルガは剣も抜かずに狂戦士を抱きしめていた。その背からは大剣の切っ先から刀身が長々と現れ、赤い血を滴らせていた。
「あ、兄、上……?」
 呼ぶ声が震えた。
「どんなに憎んでいても、お前がやっていることは人殺しだ。これ以上俺の国の民を傷つけてくれるな」
 オルガは狂戦士に語りかけ続ける。マリィの震えた呼び声さえも耳に入らぬように。
「俺のことがわかるだろう、――」
 親しげに狂戦士の名を呼びながら。
 そう、何だっただろうか。あの狂戦士の名は。三年前、兄の仇を討って全て忘れてしまった。奴のこと、全て。
 ただ一つ、覚えているのは、倒れ掛かってきたオルガを抱きとめた時の呆然とした狂戦士の表情。
「オル、ガ……?」
 親しげに、しかし信じられないようにその名を呼んだ狂戦士の稚い声。
「悪かった。お前一人をあんなところに残してきて。迎えに、来たよ」
 確かにオルガは狂戦士にそう言ったのだ。それはもう、この上もなく優しく。
 同胞を何人も屠ってきた憎い敵を迎えに来ただなんて、国王にあるまじき発言とマリィの身体にめぐる血はかっと熱くなったのだが、問いただす間もなく、それがオルガの最後の言葉になった。傍らにいた実妹のマリィには何の言葉もなく、オルガは狂戦士の腕の中でこと切れた。
 狂戦士は元の虚ろな表情に戻り、オルガから剣を引き抜くと、倒れてきたオルガの身体を支えることなく二、三歩後ずさりし、倒れたオルガの背から流れ出る血を眺めていた。
 完全に、マリィの存在は視界の外だった。
「お、の、れぇぇぇぇぇっっっ」
 何に怒りを覚えたのか。答えは一つには絞れない。マリィに一言も残さずに逝ってしまった兄に対してだったのかもしれないし、敵に剣も向けずにむざむざ殺されにいった国王に対してだったのかもしれないし、最後のオルガの言葉を受け取っておきながら亡骸を物のように眺めている狂戦士に対してだったのかもしれないし、戦場の熱気に心を奪われていた自分自身の浅はかさにだったのかもしれない。
 まとまりのつかない巨大な思いだけがマリィの胸に渦巻き、それを切り払うようにマリィは剣を握って狂戦士に向かって切り込んだ。狂戦士はひらりと横に飛びのいてマリィの剣を交わす。視線はオルガに注がれたままだ。
「兄の、兄の仇――!!」
 再び剣を振り上げた時、アストラーダの陣営から勝利の角笛が聞こえてきた。マリィの周りには、狂戦士を恐れたアストラーダの兵士もいない代わりに、デルフォーニュの兵士もすでに一人もいなかった。狂戦士はまだマリィが剣を掲げているというのに、その前で剣を背の鞘におさめ、マリィを一瞥だけして背を向けて歩き出した。
 その背に切りかかるほどの度胸を、その時のマリィは持ち合わせていなかった。
「マリィさん、マリィさん。歩きながら寝てると躓くよ」
 人懐こい声が耳元で聞こえた。と思った瞬間、足が何かにとられて、マリィの身体は大きく前に傾いだ。
「ほら、言わんこっちゃない。大きな石があるよって言ったじゃない」
「言ってない。言ったのは歩きながら寝てると躓くよ、だけだ。何に躓くかまでは言ってなかった」
 青空の光が視界に戻ってくる。兄・オルガが命を落とした日と同じくらい青い空の光が。
「もう、マリィさん変だよ? リドルト遺跡抜けたあたりから。歩きながら寝るし、夜中は寝相悪いし、だんまりしたまま歩いてるし」
「疲れているんだろ」
「それなら休も? ほら、もうアストラーダ城が見えてきた」
 エアの言うとおり、香辛料と海の香りが鼻をくすぐったかと思うと、青い海を背景にエメラルド色の屋根に白亜の壁を持つ尖塔が特徴的なアストラーダの城が目の前に迫ってきていた。
「分かってる。それ以上纏わりつくな。うざったい」
 マリィにとって、アストラーダ城は故郷でもなければ滞在したことがあるわけでもないが、兄・オルガヴァルドが青少年期を過ごした場所であり、戦死の遠因をつくった狂戦士と出会った場所でもあることから、兄の死後、アストラーダを訪れて城を前にする度にもやもやとした感慨に襲われるのだった。
 あの城内で、一体オルガヴァルドはどのような生活をしていたのか。肩身狭い思いはしなかったのか。ないがしろにされてはいなかったのか。こっそり、恋人ができていたりはしなかったのか。――どれほど想像をめぐらせても、それは憶測にしかならず、兄を想ったことにはならない。分かってはいても、あの城の中心に、今は愛想のない熊に似た男が時に残忍に目を光らせながらこの国を治めているのかと思うと、同じ第一王子であったのに生死分かたれてしまった不運を嘆かずにはいられない。
「なんだよー。うきうきしないの? やっぱ城なんて見慣れてるから? 都会なんてマリィさん、故郷だもんね? どうせ僕は田舎もんだもーん」
「拗ねるな。かわい子ぶったって気持ち悪いだけだぞ」
「ひどい、マリィさん。こんな稚い青少年に……」
 くねくねと状態を揺らしながら悲しみを表現するエアにげんなりしながら、マリィは深く潮の香りのする風を吸い込んだ。
 アストラーダに近づけば近づくほど、マリィの睡眠が浅くなっていったのは確かなことだった。それどころか寝る時間も減っていたかもしれない。それもこれも、アストラーダ王に師匠が捕まっているというエアをアストラーダの追っ手から守るためだったのだが。
 深く吐き出された溜息に、エアは心配げな表情を浮かべてマリィを覗き込んだ。
「ねぇ、マリィさん。僕のことなら心配しないで? あの歌はもうマリィさん以外の誰の前でも絶対に歌わないから。デルフォーニュ女王の前でさえ歌わなかったんだ。アストラーダ王の前でなんか死んでも歌わないよ。たとえお師匠様の命がかかっていたとしても」
 いつになく真剣な表情で訴えたエアに、わずかながら残っていた母性本能がくすぐられた。
「それは信じているよ」
 ちょっと微笑んでエアの頭を撫でて、マリィはまた歩き出す。エアは不満げな顔をして、再びマリィに纏わりつく。
「マリィさん、マリィさん」
「ええぃ、だから……」
 振り返ったとき、思いのほか近くにエアの顔があった。瞬く間もなく、エアはマリィの頬に唇を寄せて殴られる前に飛び退った。
 マリィは殴るどころか頬を押さえて呆気にとられて立ちすくむ。
「お師匠様は自分で助け出すよ。だから、マリィさんは自分の仕事に専念して」
 手を伸ばしてぎりぎり届かない位置。剣を抜けば、その胴を払ってしまえる位置。マリィは、そのどちらも選ばなかった。
「さよなら」
 背を向けてから行きかう人ごみの中に紛れ込むまで、目で追っていたはずなのに、もう瞬いた次の瞬間にはマリィはエアをも見失っていた。
「エア?!」
 叫んだ時、ようやく前を行くアルデレイドとキスミェルが振り返った。
「いかがなさいましたか?」
 慌ててアルデレイドがマリィに駆け寄る。
「逃げられた」
 舌打ちすることなく、頬を押さえたままマリィは呟いた。
「またですか! どっちへ逃げました? すぐに追って見つけ出しましょう」
「アルデレイド、君、その前に姫が頬を押さえている原因を聞かなくてもいいのかね?」
 はっとしたアルデレイドは、「失礼」と一言かけて頬を押さえるマリィの手を頬から離す。そこには殴られた痕跡も唇を押し当てられた痕跡も残ってはいなかったが、マリィは頭に血が上るのを感じてとっさに顔を伏せた。
「いい。追うな。あいつの行き先は、分かってる」
 自分に噛んで言い含めるように、ゆっくりとマリィはアルデレイドに命令し、掴む手を解かせた。
「とんでもない奴だね。ここまで護衛させておきながら、何のお礼もなく心だけ攫って消えてしまうなんて」
 他人事よろしくキスミェルが首を振る。
 マリィはそのキスミェルの言葉をもう一度頭の中で反芻し、思い切り目を閉じて振り払うように首を振った。
「馬鹿なことを言うな。持っていかれる心などはじめから私にはない」
「ふっ、それはすでに私が貴女の心を持っていってるからかね?」
「ほざけ。はじめから、と言っただろう?」
 マリィの言葉をキスミェルは曖昧に笑ってかわして、アルデレイドを盗み見た。アルデレイドはやや頬の辺りを強張らせているかのように見えなくもなかったが、平静のようだった。
「つまらん」
 キスミェルの呟きは二人には届くことなく空に消えた。その代わり、マリィの口から衝撃的な言葉が漏れた。
「キスミェル、そんな女でもお前は公妃にしたいと思うか?」
 キスミェルはもう一度アルデレイドが表情を変えていないことを確かめて、真っ直ぐに赤紫色のマリィの瞳を見つめた。
「それが両国の意向なら」
 きわめて冷静な返答に、マリィははっと一つ笑い声を漏らすと、腹を抱えて思う存分笑いはじめた。
「ならいい。さあ、早いとこ、あの熊男に会わせてくれ。あの遺跡の謎を解くためにも」
 何に迷ったのだろう。拾った捨て犬くらいにしか思っていない年下の男に頬にキスをされたくらいで、一体、今の瞬間に何がぐらついたと言うのだろう。そうだ。ロエラの歌はもう聞いているのだ。他の誰の前でも歌わないとは言ったが、そんな口約束の保障、誰がする? 誰もしやしないだろう。
 なぜ、斬らなかったんだろう。
 剣を振るえば確かに届いたのに。
 命までとることはない。逃げられないように、足の腱を切るだけで十分だったろうに、なぜそうしなかった?
 そうだ、あの森で見つけたその瞬間にそうして、アルデレイドに城まで届けさせればよかったのに。
 奪われる心などはじめからなかった。奪われるべき心はオルガヴァルドの葬儀の時にともに棺に詰めて埋めた。心にうっかり開いてしまったかのようなこの穴は、単に気に入りのペットに逃げられてしまった寂しさのためなのだ。
「参りましょう」
 マリィが自分の心に結論付けるのを見計らったかのように告げたアルデレイドの言葉に押されて、マリィはアストラーダ城の城門を潜った。
















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