天空のロエラ
第2章 過去に生きる者



 エアと合流した翌朝、エアの家を出発した三人は、近道を知っているというエアの案内でくねる森林内の獣道を抜け、三日後にはリドルト平原に入っていた。
 南北は見渡す限り荒地が続く。山裾が見えるわけでもなく、草原が広がっているわけでもない。茶色く剥き出された岩石が大小いたるところに転がっている。通行する人の姿も見えなければ動物の姿もなく、さしあたっていると言えるのはさっきからちょろちょろ足元を這い回っているカナヘビや、岩の合間から時たまこちらを窺っているげっ歯類くらいだろうか。植物と言えば岩石とそんなに変わらない色の雑草がところどころに群生している程度だ。
 しかし、後ろを振り返れば西にアルターシュの森、東を見れば、遠く舞い上がる砂埃のなかに蜃気楼のように大地と同じ色の小山が見えた。小山は日を重ねながら近づくにつれ、崩れ落ち、廃墟となった城下町の様相を呈していく。
 デルフォーニュ出発一週間を経て、三人は巨大な廃墟を前に立ち止まっていた。
「リドルト遺跡」
 城壁が崩れてできた丘を上っていくと、いくつかの倒れた丸い柱や仕切られた床の様子から、その辺りにリドルトの国民が信奉していた神々のための神殿があったことがわかる。その手前には王宮であっただろうものが幾多の人々の血を吸って黒くなった壁や床を空に晒していた。
 風が吹く度、それらをさらに風化させようとでもいうかのように赤茶色い土埃が舞い上がり、歴史の跡を覆っていく。
 マリィも、戦の度に何度かこのリドルト平原に足を踏み入れていたはずだった。何度となくこの廃墟の横を通ってアストラーダに向かい、デルフォーニュに帰っていたはずだった。しかし、こうして足を止め、十八年前に故国とアストラーダとが滅ぼした王国の残骸を目の当たりにすることは、母の母国であるというのに意外にも初めてだった。
「こうやって見たのは初めてですか?」
 意外そうにエアは呟いたきり身じろぎ一つしなくなったマリィを振り返った。
「ああ……そうだな」
 大陸一の王国、リドルト。その昔にはデルフォーニュとアストラーダさえも併呑し、この大陸一つを王国として治めていたほどの栄華を築いた国。さらに過去を辿れば、デルフォーニュ王家もアストラーダ皇家もリドルト王家を先祖に持っているという。それほどの大国を、十八年前、デルフォーニュとアストラーダは二国手を取り合って滅ぼした。すでに、リドルト王家は度重なる近親間の結婚のために世継ぎとなり得る者は三歳になる男子が一人いるだけ。王は五十間近で体力のみならず、国に対する影響力も衰えてきていた。そこを、世界を揺るがす機密施設を建設しているとのデルフォーニュ、アストラーダ両国からの嫌疑を晴らすことができずに攻め込まれ、リドルト王国は滅ぼされたのだった。王都陥落はあまりにもあっけないものだったという。王と妃はこの王宮で首を切られ、世継ぎの男児も行方不明との説もあるが、妃とともに首を切られたというのが通説だ。その証に、妃は最期の時まで三歳くらいの身形のよい男児をずっと抱きしめていたというのだから。
「ここまで来るのに一週間。でも、風はもっと早い。時折、聞こえてくることがあるんですよ。あのアルターシュの森の小屋まで、この廃墟の穴を抜ける風の音が」
 そう言うと、エアは背負っていた竪琴を胸に抱き、一つ、寂れた和音を爪弾いた。
「そんなときは、こうやっていつもレクイエムを捧げるんです」
『眠れ 行き場なき魂たちよ
 汝らの帰り処は 天にあり
 眠りて初めて その目裏に映る楽園に導かれん
 目を閉じよ 地に垂れる想いを閉ざせ
 顔をあげ、天を見よ
 汝らが旅立ちし楽園抱く あの大空を仰げ』
 寂しげながら美しく胸の奥をつくエアの声に、マリィもアルデレイドも目を閉じて聞き惚れていた。最後には歌詞のとおり空を見上げ、爪弾かれる最後の一音まで聞き漏らすまいと耳を欹てていた。戦士である普段からすればありえないほど、二人ともが心を許し、気を緩めていた。
 だから、遺跡からまばらな拍手が聞こえた時、マリィもアルデレイドもとっさには状況を把握することはできなかった。
「素敵な歌だね、少年」
 その声は遺跡の折り重なる柱の歪の中から聞こえてきたようだった。ようやく我に返ったマリィは無意識のうちに腰に佩いた剣の柄に手が伸びている。
 間もなく、声が聞こえた柱の影から落ちてくる土砂を手で払いながら一人の青年が這い出してきた。思わず、マリィとアルデレイドは息を呑む。
「危なく生きてるのに昇天させられてしまうところだったよ。きっと今の歌声で、この辺にひしめいていた浮遊霊たちはみんな楽園目指して昇っていったことだろうね」
 あっはっはと笑いながらでてきた男の小さい眼鏡の奥の瞳の色は緑。灰金色の髪を肩口で緩く結び、着ているものは貧民と見紛う灰褐色の作業服。右手にはスコップ、左手には古文書のような擦り切れて黄色くなった紙を持っている。
「それは何よりのお言葉。この吟遊詩人エア、歌い手冥利に尽きます」
 大業な礼をして、エアはその男を迎え入れた。その横で、マリィとアルデレイドは口を幾度となく開閉して指差したいのを堪えている。
「おや、これはこれは、天下に名高い、泣く子も黙るマリィ殿とその従者さんではありませんか」
 しれっと微笑んだ青年の言葉に、もはやマリィは二の句も告げない。
「あれ、マリィさん、お知り合い? それなら紹介してよ」
 さっきから青年の名を呼ぼうとしているのに、マリィの喉には魔法でもかけられたように空気だけが行ったり来たりしている。
「もうお忘れになられましたか? あれほど連日連夜恋を貴女の耳に囁いていたというのに」
「知らん! あたしは知らないぞ。お前のことなどこれっぽっちも覚えててなるものかっ、この変人っ」
 カーッと赤くなったマリィは、逃げ出すように青年に背を向け、遺跡の重なり合った残骸の間を飛び降りていく。
「へぇ……」
 面白いものを見たという表情を隠しもせずに、エアはにんまりと口元に笑みを浮かべた。
「フォルメシア殿、また遺跡漁りですか」
 溜息交じりにアルデレイドが青年を揶揄する。
「遺跡漁りとは言葉が悪い。調査だ、調査。それと、外で私のことを呼ぶときは、キスミェル先生と呼びたまえ、君」
 スコップをひらひらと振りながらアルデレイドを戒めるキスミェルの姿に、へー、とさらにエアは感心の声を漏らす。
「キッシー先生、先生が噂のマリィさんの婚約者なの?」
 一週間前、デルフォーニュ女王の誕生パーティでカーネル卿が言っていたことを思い出して、エアが尋ねる。
「残念ながら、まだ口説いている最中だ。――マリィ殿、久々にお逢いしたというのになぜ逃げます? 我らが将来の居城、リドルトで巡り合うとはこれも運命、このまま二人でここに愛の巣を――!!」
 エアに答えるだけ答えて、文人然としているその身形からは想像もつかないほどの運動神経で瓦礫を飛び越え、キスミェルはマリィを追いかけていく。
「なるほど、変人だ。姫じゃなくて、泣く子も黙る傭兵のマリィさんが好きなんて……」
 驚嘆のため息をつくエアの横では、アルデレイドが額に手を当てて追いかけっこをはじめる二人の様子を見守っている。
「止めなくていいの?」
 マリィの悲鳴を聞きながら、エアがアルデレイドを窺う。
「その必要はありません」
 悲しげにアルデレイドが首を振ったとき、眼下ではついにマリィが剣を抜き放ち、追いかけるキスミェルに打ちかかったところだった。その剣をひらりとかわし、しかし、キスミェルはわざとらしく躓いて地にひれ伏し、そこをマリィが取り押さえて持っていた縄で手足を縛る。
「行きましょうか、エア殿」
 憮然とした顔でお縄にしたキスミェルを引っ張ってこようとするマリィの姿を見て、アルデレイドは瓦礫を飛び降り、二人の場所に向かいはじめる。
「アルデレイド、姉上に土産だ。先に帰って、元婚約者のアストラーダ王弟、フォルメシア殿だと放り出してやれ」
「ああ、この痛くない縄のかけ方、マリィ殿の優しさを感じるなぁ」
「黙れ、この変態。それ以上私に何か喋ってみろ、今度こそこの剣の切っ先、貴様の喉に突き刺してやる」
「わぁ、マリィ様、荒れてる〜」
 まぜっかえそうとしたエアすらもどすのきいた表情で睨みつけて黙らせて、マリィはアルデレイドに縄の先を手渡した。
「マリィ様、困ります。私は貴女の護衛として……」
「時に君たち、どこへ向かう途中だったのかね? マリィ殿が傭兵家業で大陸中をうろうろするのはいつものことだが、女王陛下の親衛隊長まで一緒とは、もしやついに身分違いの恋を実らせて駆け落ち……?!」
 皆まで言う前に、キスミェルの口はアルデレイドの剣によってうっすらと皮が切れていた。
「キッシー先生、考古学の先生がリドルト遺跡を調査とは、何か面白いものでも出そうなのですか? ぜひ教えを乞いたいところですね」
「君、それが先達に教えを乞うている口かね。まずはその剣を鞘に収めたまえ。いや、私の口がついうっかり滑りかけたのは認めるから」
 アルデレイドの殺気さえも飲み込んでしまうほど尊大な口調で言うと、キスミェルは軽く身じろいで縄から抜け出した。アルデレイドはキスミェルから目を離さないまま、厳しい表情で一振りした剣を鞘に収める。
「それで? 久々の追いかけっこで楽しませてやったろう? 素直に口を開けば許してやる。ここで何を探していた?」
 殺気を収めようともせず、苛立ちもあらわにマリィはキスミェルの左手にずっと握られている擦り切れた紙を見つめながら問うた。
「何を探していたも何も、新リドルト王国の建設に向けて、まずはリドルトの人々が暮らしていた場所から彼らの生活様式を学ぼうと思ってね。郷に入りては郷に習えというだろう?」
「ほう、ロエラか」
 キスミェルの左手に握られていた擦り切れた紙を奪い取ったマリィは、紙に刻むように引かれた設計図の右下に〈Loela〉の文字を見つけて頷いた。キスミェルは慌てて奪い返すかと思いきや、うんうんと頷いてマリィの好きにさせている。
「それはこのリドルト王宮の設計図だよ。アストラーダの古文書図書館の中から埃をかぶっているところを発掘してきてね。描かれたのはおよそ今から五百五十年よりも前。アストラーダで世界を揺るがす何かが起こり、世界に二度目の死の雨が降った頃のものと推定される。その設計図と廃墟とはなってしまったが、現在のリドルト王宮の設計とが一致しているかどうかを今回は調べにきたのだよ」
「ふぅん。ロエラの入り口がリドルト王宮にある、と」
「って、おい、エア、お前は覗くな」
 いつの間にかマリィの手元を覗き込んでいたエアに気づき、慌ててマリィは設計図を頭上に逃がす。
「あああ、ケチ! 僕が歌わなきゃこの人出てこなかったかもしれないだろう? 僕だって見る権利くらい……」
「キッシー、いいのか? 私にこれを見せて」
「かまわんよ。君は未来の私の花嫁。そしてこのリドルトの新たな礎を共に築く仲。隠し事はなしとしようではないか」
 えらく寛大な物言いに、マリィはふん、と鼻息一つで押収し、設計図をキスミェルに返した。
「で、ロエラの入り口といったが、まずはロエラとは何なのか、そこは分かったのか?」
「いいや、分からん。分からんが、この設計図によると、神殿の祭壇の下にさらに地下へと階段が続いているんだ。その向こうへ行けば、ロエラが何か分かるに違いない」
















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