天空のロエラ
第1章 血は呼び合う



 大広間は音楽と人と酒食の匂いでむせ返るほどに溢れかえっていた。ワルツのリズムを刻むオーケストラの合間を縫って、社交の挨拶、もとい腹の探りあいをする声が聞こえてくる。当然、華やかな場を苦手とする者たちのぼやきも壁際を中心に聞こえてくる。
「いつ来ても慣れないなぁ」
 姉の誕生祭だと勇んできてはみたものの、主賓の姉王とはなかなか個別に話しこむ機会もなく、普段から気ままに一人旅ばかりしているマリィは、ままならなさに深く溜息をついた。いつもならパーティなど顔だけ出してさっさと切り上げてくるものなのだが、今宵はそう我侭を言ってもいられなかった。
「マリィさん、かっこいい……」
 裾の長いドレスではなく、腰に剣を佩いてデルフォーニュ軍元帥の正装に身を包んだマリィの姿を、エアは飽きることなく惚れ惚れと眺めていた。
 そう、この男。この男さえさっさと姉王の前であの歌を歌わせてしまえば帰れるのに、アルデレイドめ、調整しそこなったんじゃないだろうな。
 マリィは目を輝かせているエアを見て、そっと溜息をついた。
 姉王は、さっきから休む間もなく笑顔で社交に興じている。こういう場はつくづく向き不向きというものが如実に出るものだ。
「ねぇねぇ、マリィさん、このチキンの香草詰め絶品だね」
 向き不向きをいうのなら、エアは向いているほうなのだろう。はじめて来たパーティ、それも応急で開催されている女王の誕生祭だというのに、周りを気にせず自分の食べたい料理を皿に盛り付けてはマリィの側でにぎやかに平らげている。マイペースな奴ほどこういう場所に強いということか。
「アン=ゾフィー様、お久しぶりでございます」
 声をかけられて、マリィは来た、と思った。
 年の頃は四十後半。黒髪こそは豊かに残っているが、贅沢のし過ぎか腹には揺れるほど肉がついている。デルフォーニュを支える数多の貴族の中でも位は伯爵と割と高位。こういう社交の場が大好きで、デルフォーニュで催されるパーティには必ずといっていいほど顔を出す物好き。
 マリィは一呼吸するうちに顔と自分の頭の仲の人物リストを照合して社交用の微笑を作った。
「カーネル卿、お元気でしたか」
 媚びず、慇懃すぎず。王妹でありながら元帥としての威厳ある微笑を。
「軍服とは勇ましいですなぁ。アン=ゾフィー様が守りの要でいらっしゃる限り、デルフォーニュも安泰ですわい」
 聞きなれたおべっかを言っているうちに愛想笑いして去ろうとすると、カーネル卿は一つ咳払いして「お待ちください」と厳めしい表情を作って呼び止めた。マリィはうっと口から出かかった呻きをどうにか飲み込み、「なんでしょう?」と首のみ振り返る。
「時に、姫様。アストラーダ王弟、フォルメシア殿との婚約の件はどうなりました?」
 マリィの頭からは血の気が引き、横でチキンにむしゃぶりついていたエアは口に入れたものを吹き出した。
「あ、エア、お前、汚いな。今ナプキンを持ってきてやるからちょっとそこで……」
「姫様」
 体よく理由をつけて逃げ出そうとしたマリィを、カーネル卿はさらに戒めるように笑顔で睨みつける。もう姫様などと呼ばれる歳でもなければそんな性格でもないものを、とすっとぼける機も逸している。
 仕方なく、マリィは手近にあったナプキンをエアの口元に押しやり、しどろもどろと言い訳を始める。
「アストラーダとは三年前に戦争を終結させたばかりじゃないか。あれも休戦のようなものだし、いくら和平のためとはいえ、王妹と王弟が結婚すればそれでおしまいってほど事態も簡単じゃないだろう? 第一、私がアストラーダに輿入れしたら誰がデルフォーニュを守ると?」
「確かアストラーダとの話し合いでは、故リドルト王宮のあった場所に新たな王宮を建て、新リドルト公国を建国するということになっていたのではありませんでしたかな。リドルト公国はデルフォーニュにもアストラーダにも属さず、二国の往来の要衝として中立の立場で再建国する、と。曲がりなりにもリドルトの名を名乗るためには、アン=ゾフィー様、お母上がリドルトの方であった貴女が公妃となるがふさわしい、と。アストラーダの人間になるわけではないのですから、よいではありませんか」
 一瞬、ほんの一瞬だけエアの灰褐色の瞳が見開かれたことに、しぶしぶカーネル卿の話に耳を貸しているマリィは気づかなかった。
「いずれ、私の結婚については女王がうまく取り計らってくれることでしょうから」
「あらあら、いつも『あたしは結婚なんか死んでもしない』と言っているくせに、いいのかしら? ご縁を見つけてきてしまっても」
 人の壁が開けていき、穏やかに微笑んだブランシュヴァイクがシャンパンの入ったグラスを片手にマリィたちの前に現れた。
「カーネル卿、ご機嫌よう。ああ、そんなにかしこまらないでちょうだい。妹のこと、ご心配くださってありがとう。私も妹には早く結婚をしてほしいと思っているのですけれど、ほら、先ほどカーネル今日もおっしゃっていた件があるでしょう? 別な縁談を進めようにも身動きが取れなくて。私もこのとおり、三十路になってまだ一人身ですし」
 恐縮しきって頭を垂れているカーネル卿に手を差し伸べ、ブランシュは困ったように笑ってみせる。
 助かったとばかりにマリィは安堵の溜息を漏らした。
「あの方がデルフォーニュの女王様?」
 マリィが余裕を取り戻したところで、くいくい、とエアはマリィの袖を引いて耳打ちする。
「そうだ。失礼のないようにしろよ。あたしとは格が違うんだからな」
「わかってるよーだ」
 食べ終えたチキンの骨を皿に置き、口と手を拭ったエアは背負っていた竪琴を抱えなおして颯爽とブランシュの前に膝を折った。
「こんばんは。はじめまして、ブランシュヴァイク女王陛下」
 形の整ったお辞儀とは別に、エアの口から出た挨拶の声はこの上ないくらい気安いものだった。思わず額に手を当てたマリィは、慌ててエアの隣に膝を折る。
「姉上。この者、吟遊詩人のエアと申します。今宵、姉上の生誕のお祝いにこの者の美しき歌声を献上するため連れてまいりました」
 起こそうとするエアの頭を上から押さえつけて、マリィはブランシュの表情を上目遣いに窺う。
「アルデレイド・アーバンから聞いておりました。では、早速披露してもらおうではありませんか。ね、皆様」
 広間中に溢れかえっていたストリングスの音色はいつの間にか止んでいた。人々はおしゃべりをやめ、女王と王妹のやり取りに視線を注いでいたが、ブランシュの問いかけに、仕込まれていたかのようにわっと拍手が湧き上がった。
「それでは失礼いたします」
 エアは貴族たちの好奇の視線をものともせず、背後のソファに座ると、竪琴を膝の上にのせた。
「今宵奏でますは、恋に落ちた男女の物語。よくある話と思いまするな。一人は一国の女王、一人は一国の王。ともに国を預かる二人は、敵対しあう国のおびとでございました」
 紡ぎだされる弦の音、透き通り心にしみこんでくる歌声。広間中の貴族たちはあっという間に好奇に彩られていた瞳を感動と期待に潤ませはじめていた。それはブランシュヴァイクも例外ではなかったが、ただ一人、眉をしかめていたのがマリィだった。
(ロエラの歌ではないではないか)
「不満なの?」
 くすりと笑ってブランシュが、隣に立っていたマリィの耳に囁く。
 マリィは頷きたいのをこらえて、ただ目だけを閉じた。
「あとで私の部屋においでなさいな。旅の話を聞かせてちょうだい」
 優しく囁かれてしぶしぶ頷いたマリィは、エアの歌が終わると招待客たちに一応の礼を尽くして会場を後にした。
「あ、ちょっ、待ってよ、マリィさーん」
 すっかり歌声に心酔した貴族たちに、口々に自邸でも歌ってくれないかと引く手数多でもみくちゃにされていたエアは、遠ざかっていくマリィの背中に気づいて悲鳴にも近い声を上げて貴族たちの輪の中から飛び出した。
「待ってよ、マリィさん! 何で怒ってるんだよ! 僕、歌下手だった? 音痴だった? 歌詞間違えた?」
「いい歌だったよ」
 マリィは振り返りもせず言い捨てる。
「なんだよ、褒めてないじゃん。僕、マリィさんのために一所懸命歌ったのに」
「あたしのために、ではなく、女王陛下のために、お前は歌うべきだった」
 置いてきぼりを食った子犬のように追いすがってくるエアを振り返って、マリィは首元を掴んで壁に押し当てる。
 失望と怒りに色を失っているマゼンダの瞳に、伝説ではなく本当に石になってしまうのではないかと思いながらエアはそれでもマリィから視線を外さずに受けとめつづけた。
「だって僕、マリィさんが好きだから、大好きなマリィさんが歌ってくれって言うから歌ったのに」
「聞いていただろう? あたしはお前の歌を姉上に……」
「違うよ。マリィさんは僕の歌声を女王陛下に献上したいって言ったんだ。パーティで僕の歌声を披露してくれって。歌を披露しろとは一言も言われてないよ。まして、あの歌を披露しろとは」
 灰黒い瞳がうっすらと青みがかったような気がした。言い募るエアの気迫に圧されて、今度はマリィが鼻白む。
「分かっていて、歌わなかったな?」
 ようやくの思い出口にできた言葉は呪詛にも近いものだった。
「僕が命を助けられたのはマリィさんであって女王陛下じゃない。僕が世界を手にしてほしいのも、マリィさんであって、デルフォーニュ女王じゃないんだよ」
 しゃあしゃあと言ってのけたエアの胸倉を投げ捨てるように突き離して、マリィは唇を噛んでエアに背を向けた。
「マリィさん!」
「そこの者を東四階の客室に案内してやれ」
 廊下に佇むアルデレイドに目も合わせずに命じて、マリィは外宮を後にした。
 その夜、上弦の月も西の果てに沈もうかという夜半、マリィは言われたとおりブランシュヴァイクの私室を訪ねていた。
「まあ、東四階の客室といったら、客室と同じ調度は揃っているけど、窓には鉄格子、扉は鉄製の軟禁用の部屋じゃない」
 アルターシュの森でエアを拾ってから完全なロエラの歌を聞いたことまで包み隠さず姉王に話したマリィは、出されたブランデーに恐る恐る口をつけて熱のこもった溜息をついた。
「もう、あんなに素敵な歌を聞かせてくれたお客様を月もろくに見えない部屋に寝かせるなんて気の利かない妹ね」
「あいつ、目を離すとすぐにいなくなるんです。できることなら今だって目の前においておきたいところなのに」
「年下が好みだったのね。道理でフォルメシア殿下を気に入らないはずだわ」
「はぁっ!?」
 ころころと笑う姉の発言についていけず、ついついマリィは声を荒げる。
「そもそもフォルメシア殿は姉上の婚約者だったではありませんか」
「この大陸、見渡してももうデルフォーニュとアストラーダしかないんですもの。王族の結婚となればそうなるしかなかったのよね」
「そうではなく……!」
「オルガ兄様が生きていればねぇ……。三年前にあんな戦争も起こらなかったでしょうに。私も二十代のうちにフォルメシア殿とめでたく結婚して人妻になっていたかもしれないのに」
 七年前。すでに父エディアルドは亡く、治世は第十三代アーベル・オルガヴァルド・デルフォーニュの時代となっていた。デルフォーニュとアストラーダ間に勃発した第一次大戦は、重税に喘ぐデルフォーニュの東部四州が内乱を起こしたことに起因する。緩衝帯であるリドルト平原さえも越えて内乱平定にしゃしゃり出てきたアストラーダは、功を以って東部四州をよこせと言ってきた。それにデルフォーニュが頷けるわけもなく、ここに、第一次大戦が勃発する。第一次大戦は狂戦士の登場と若き国王オルガヴァルドの死によってデルフォーニュに多大なる損害を与え、東部四州はアストラーダ領となった。それから二年間、即位したばかりのブランシュヴァイク女王によってアストラーダとの涙ぐましい交渉が行われたが、一方でデルフォーニュは東部四州にアストラーダよりも安い納税率を提示。東部四州の領主たちは今度はデルフォーニュに寝返り、これが第二次大戦の引き金となった。マリィが兄・オルガヴァルドを殺した狂戦士と相見え、兄の敵をとったのはこの二度目の大戦の時のことである。
「フォルメシア殿の顔もろくに見たことがないくせに、面食いの姉上がよくもまぁ」
「フォルメシア殿は眉目秀麗なお方と聞いております。それに、ちっとも見たことがないわけでもないのよ。サンディー講和条約を結んだ時、グスタフ国王の脇に控えていらっしゃったもの」
 呆れるマリィを意にも介せず、ブランシュは夢見る乙女のように手を組んで、過去に思いを馳せる振りをする。そう、これはあくまでも振りだ。ブランシュが結婚しないのにはちゃんと理由があることを、同じ人を好きになったマリィは痛いほどよく分かっていた。
「まだ、忘れられませんか?」
 傷を舐めあうつもりはさらさらなかったが、出されたブランデーが強すぎたのだろう。つるりとマリィの口は滑っていた。
「忘れるべき方ではないでしょう。オルガ兄様は」
 マリィよりも薄い紫の瞳で、ひた、と迷うことなくブランシュは妹を見据えた。見詰め合ったところで、胸の奥に燻る想いに決着がつくわけではない。すっと、先に視線を外したのはマリィだった。ブランシュはふっと力を抜いてマリィの前まで来ると、優しくマリィを抱きしめた。
「私の願いはね、もう二度とオルガ兄様のような死に方をする人を出さないことなのよ。ね、分かるでしょう? 戦争なんて、何も生みはしない。人の命も土地の栄養も、動物も植物も、刈り取られるだけ刈り取られて、私たちの元には一体何が残った? 何も残らなかった。そうでしょう、マリィ」
 ブランシュの声は教え諭すようにマリィの耳に心地よくしみていく。昔からそうだ。マリィはブランシュの声には逆らえない。何故かは分からない。ブランシュの言葉はマリィの言葉。ブランシュの想いはマリィの想い。ブランシュが女王として政を司るなら、自分は兵士として国を守る楯になろう。六年前、ブランシュヴァイクが他の王子や王女たちを措いて王位についたとき、父エディアルドの鼻を明かすためだけに入った軍生活に新たな目標ができた。二人の想い人であったオルガの死がより濃密に二人を結びつけたのだろうか。マリィはこの関係に息苦しさを感じることはなく、ブランシュもまた、愛する人の実妹を愛することで自分の中に渦巻く混沌とした感情と折り合いをつけているようだった。
「姉上……」
「そのためには、あの男にロエラを渡すわけにはいかない。それを手に入れれば全世界を征服することができるという過去の遺物であり、人類史上最強の兵器ロエラ。そのロエラがこの大陸のどこかに眠っているというのなら、あの男よりも早く見つけて破壊してしまわなければならないのだわ」
「はい、姉上」
「ロエラの歌は我がデルフォーニュ王家にも口伝で伝承されてきた。でも、それだけでは不完全だった。少年と少女の恋物語だけで何が分かるというの? おそらく、デルフォーニュ、リドルト、アストラーダ、全ての歌が揃わなければロエラの場所も、正体も分からないようになっているのよ。ね、マリィもそう思うでしょう?」
「はい」
「教えてちょうだい。あのエアという少年が歌ったロエラの歌の歌詞を。覚えているところだけでいいから」
 マリィは頷くと、思い出せる限り節をつけて歌ってみせた。ブランシュはマリィが詰まったり引っかかったり、思い出そうと沈黙する間も黙ってマリィが次の歌詞を思い出すのを待っていた。
「大体、こんな感じでした」
 何とか三節を歌い終えてほっとしているマリィを、ブランシュは無意識のうちに顎を撫でながら思案顔で見つめながら呟いた。
「世界は二度滅び、二度生まれ変わった、か……」
 ブランシュの表情は、マリィがこの歌を聞いたときよりもさらに深く何かを見出そうとするかのようだった。
「この歌をマリィに歌って聞かせて、そして」
「『どうぞ、世界を手に入れてください』と言ったの」
 あの夜のエアの言葉を繰り返したマリィの言葉を聞いて、さらにブランシュは思索の海に沈んでいく。
「二節の男はまるで狂戦士ね。他人の血を吸っているにもかかわらず、我を忘れて突き進む。ふふ、まるでアストラーダのあの熊男のことみたい」
 熊男とはもちろんアストラーダ国王、グスタフのことだ。オルガのかわりにデルフォーニュに来ていたころからグスタフとブランシュは、大陸中が知っているほどの犬猿の中だった。ブランシュがロエラを捜し求めはじめたのは、アストラーダとの講和条約が締結された半年後のことだった。「あの歌に続きがあるかもしれない」。そう、目を輝かせて言ったブランシュの表情を、病室同然になっていた自室で聞いたマリィは今でもありありと目の前に思い出すことができる。
 一方、昔、それこそ狂戦士と渾名された少年と剣を交えたマリィが初めてエアの歌を聞いた夜、二節の男の話を聞いて思い浮かべたのは、当然、その少年だった。
「あたしは、あの男のことを思い出しました。アストラーダのあの狂戦士」
「ああ、あの子ね。銀の髪に蒼い瞳。まるで滅亡したリドルト王家の生き残りのような姿をしていたっていう……そういえば、あの狂戦士の遺体は結局最後まで見つからなかったのだったわね」
「はい。首まで取れなかったのが悔やまれます。まあ、あれだけの怪我を負わせて、まさかのうのうと生きているとは思えませんが」
「さあ、わからないわよ。意外とその辺で竪琴片手に歌を歌っているかもしれない」
「えっ」
「冗談よ、冗談。ロエラの歌、恩人である貴女にこの歌で世界を取れと言ったのなら、きっとあのエアという人はそれ以上何も知らないでしょうね。明日にでも部屋を変えてあげなさい。マリィが歌を覚えているのなら、いつまでも手元においておく必要もないでしょう?」
「しかし、姉上」
 眉間にしわを寄せたマリィを、ブランシュは宥めるように見つめた。
「今、物騒なことを考えたわね? だめよ、殺しちゃ。人は二度と同じ人は生まれないんだから」
 諭されてマリィは自分の短慮を恥じようとしたが、このときばかりは何故か胸騒ぎが止まらなかった。
「姉上、例の狂戦士について、何かご存知だったことがあるのではありませんか?」
 思い切って口にしてはみたものの、やはりどこか空恐ろしくて、マリィはすぐさま尋ねた言葉を回収したくなった。が、音はとうにブランシュの耳に届き、形のいいふっくらとした唇を開かせていた。
「残念ながら、オルガ兄様がアストラーダで世話をした子だったということ以外は何も知らないの。でも、戦争が起こらなければ狂戦士も現れない。この三年間の平穏がそれを裏付けてくれているもの。マリィが心配することは何もないわ」
「本当に?」
「本当よ。そのためにもロエラを見つけなくては」
 不安げに見返すマリィに微笑を返して、ブランシュは一つ波打つ焦げ茶色の髪をかきあげた。
「あら、もう夜もだいぶ更けてしまったわね。マリィ、そろそろ明日に備えて眠りにつくとしましょうか」
「はい。お休みなさいませ、姉上」
 時計の針はすでに夜明けに向けて進みはじめていた。
















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