天空のロエラ
第1章 血は呼び合う
3
『時はまだ世界が西暦を用いていたころ。
何も持たぬ少年と、声は持たねど音楽をこよなく愛する少女がいた。
少年は少女と出会い、少女の奏でる世界に魅せられた。
音楽は時の芸術。同じものは二度と共有できない。
少年は音楽の儚さごと少女を深く愛するようになった。
二人を引き裂いたのは、今も昔も同じ、国同士の争い。
幻想的な少女の世界は、不躾な大音量によって破壊され、少女の命をも奪い取った。
少年は少女の奏でる世界を守れなかったことを嘆き、少女を失ったことを悲しんだ。
少年は少女を取り戻そうと、もう一つの月を作り出し、ついにその腕に温かな少女を抱きしめた。
甦った少女は透きとおる歌声で男に音楽を取り戻させた。
しかし、いつまでも続けばいいと願ったものほど儚く潰えてしまうもの。
世界を欺いて少女一人の命を取り戻した男の代償は大きかった。
男は再び少女を失った。
男の慟哭は世界を覆い、世界は滅びた。
焼き尽くされた世界は七日七晩死の雨を浴び、世界の臍を残して全ての大陸は暗き海の底へと沈んだ。
それでも男の嘆きは尽きぬ。
あらゆるものを破壊し尽くした男は、ついに愛した少女の亡骸までをも切り裂いた。
飛び散った赤い血は男の全身を濡らし、ようやく男は我に返った。
悔いた男は第二の世界を築きはじめる。
星歴元年、地に女神が誕生し、天に偽りの青空が戻った。
再び世界が闇に覆われたのはそれから一千年余りが過ぎた頃。
信仰失いし人々は自戒を忘れ、過去の栄光に縋りつこうとロエラを探した。
大地に仇なす所業は地下深く眠る女神の眠りを覚まし、逆鱗に触れた。
赤く燃え落ちる東の都。割れた大地は再び黒き雨の洗礼に晒され、為す術なく人々は大地に跪き、両手を合わせ、黒い雨に打たれながら、祈る言葉も知らぬままただひたすら女神に慈悲を乞うた。
再び七日七晩雨が降りつづいた後、地の女神は白銀の涙を流した。
流れ落ちた涙は暗雲を払い、大地に微笑をもたらした。
こうして、世界は二度滅び、二度生まれ変わったという』
古の恋物語と御伽噺のような創世記を聴かされたマリィは、最後の一絃を爪弾き終えたエアを呆然と見つめていた。
(全曲だ……)
エアはマリィの視線に気づいてか否か、大きな手ぶりで大仰なお辞儀をしてみせる。
「ロエラ、と言ったか?」
「申しました」
おそるおそる尋ねるマリィに、エアは軽く頷いた。
「御存知で? それなら話は早い」
おどけてエアはさらに竪琴の絃を弾く。
「どうぞ、世界を手に入れてください」
にやにや笑ってさらに深く礼をする。
マリィは腕を組みながらしげしげと竪琴を抱えた男を見つめ、歌われた歌詞の断片に思いを馳せて眉をひそめた。
「何故、あたしの前で歌った?」
曲を聞き終わったマリィの胸に残ったのは、男の歌声でも叙情溢れるメロディでもなく、不安に塗れた黒い疑念だった。
エアはその問いが意外だったらしく、首を傾げながらマリィの前に跪き、顔を覗きこんだ。
「他の人の前で歌ったことがないか、不安なんだ?」
人懐こく笑いかけたエアを、心を読まれたような気がしたマリィはマゼンダ色の瞳で睨み返す。それをかわしてエアはふわりと舞うように立ち上がった。
「初めてだよ。マリィさんに歌って聞かせたのが初めて。お師匠さんに拾われて三年、一番初めに叩き込まれたのがこの歌だったんだ。歌詞は淡々としていてつまらないんだけどさ、このメロディックなことといったらないよね。俺のお気に入りなんだけどさぁ、お師匠さんが、この歌は聴く者が聴けば世界を手に入れかねない歌だから、何があっても歌っちゃ駄目って口うるさくってさぁ。デルフォーニュの路地でも、アストラーダの路地でもリドルトの荒野でも歌わなかったんだよねぇ。教えられた場所も住んでた丸太小屋の地下室でさ、厳重なことといったらないよね」
軽く笑い飛ばしたエアに、聴かされたマリィの方が青ざめる。
「お前、そんな歌をこんな周囲にだだ漏れな場所で、それも用心棒引き受けたとはいえ行きがかりのあたしに……!」
「あれぇ、怒ってる? だって、僕を守ってくれる約束をしたでしょう? 僕は先に約束を果たしただけだよ」
「だから、どうしてあたしに歌ったんだ?」
非難に満ちたマリィの視線を、今度は真っ向から受け取って、エアは安心したように微笑んだ。
「マリエトレッジ・アン=ゾフィー・デルフォーニュ。世界一お転婆なデルフォーニュの第十一王女であり、第十四代デルフォーニュ女王の右腕。国軍での地位は国家元帥。政と軍、両方を動かす力を有する、世界一勇猛果敢なお姫様。もうひとつの顔は、今の顔。大陸中の人々がその名を聞けば伏して道を開ける、あの傭兵マリィ様」
調子をとるように、エアは再び竪琴を胸に絃を爪弾きだす。
「ああ、おそろしや、おそろしや。そのマゼンダの瞳に睨まれた者は、たとえゴルゴンでも石になる。刃向かってはいけない。出し惜しみしてはいけない。ケチったことが分かれば、彼女の報復は世界を滅ぼす」
「誰がゴルゴンだ」
立ち上がったマリィは、容赦なく軽妙なステップを踏むエアの後頭部を剣の柄で軽く殴った。
「違うよ。ゴルゴンでも石になるマリィ様だよ」
「尚悪いわ」
言い返さなければいいのに、つい飛び出したエアの軽口に、マリィはさらに一発お見舞いする。
「暴力反対。せっかく人が約束守ったのに、これじゃデルフォーニュにつく前に僕がマリィさんに殺されちゃう」
殴られた頭を押さえてめそめそと泣き出したエアを横目に、マリィは剣を抱えたまま腕を組む。そんなマリィを、エアは涙の滲んだ目で見上げた。
「この世界でこの歌を知っているのは、僕と、僕に歌を教えたお師匠様だけだよ。何でマリィさんに歌って聞かせたのかって、それは、貴女がこの三年、デルフォーニュの国益を守るために、あるかどうかもわからないロエラを探して大陸を西へ東へ、北へ南へ旅してきたことを知っているから」
全て見透かされたマリィは薄ら寒さを覚えたが、怯むことなく青年を見返した。
「どうして……」
「どうして僕が貴女のことを知っているか?」
問いかけようとしたマリィの口を閉ざすように、エアが重ねて弦を鳴らす。
「それは、僕が吟遊詩人だからさ。吟遊詩人は常に世界の情報に耳を済ませている。一つでもネタを増やしたいからね。時には同業者とネタを交換し、中央の情勢を知らない地方の人々に社会情勢を教えて歩くのも大切な仕事だ。傭兵のマリィ様が実はデルフォーニュの国家元帥と同一人物だっていう噂はデルフォーニュ出身の同業者から聞いた話だし、どうやら創世記に出てくるロエラを探しているらしいっていうのは、アストラーダの同業者から聞いた話。ただし、二つともまだ歌にはされていない」
「どうして?」
「まだ、オチがついていないから」
「オチ……?」
マリィは唖然と口を開いた。
この男、さっきから本気なのかふざけているのか分からない。
しかし、歌ったのは確かにこの大陸に勃興する王家に古から秘かに伝えられてきた物語だ。但し、王家の浮き沈みがあったせいか、この創世記の歌が完全に歌い継がれていたのは今は亡きリドルトのみと伝えられいる。現在では、アストラーダに前半の恋物語が、デルフォーニュ王家にロエラの名が出てくる後半部が伝えられているというが、アストラーダの実情は分からないというのが正直なところだった。
しかし、歌で詳細が残っていなくても、民間にはまことしやかに過去の栄光ロエラの話が語り継がれており、それによれば、過去にロエラを手に入れた者は、世界を思いのままに操ってきたというものだった。近年では正体さえわからないロエラなど御伽噺の産物に過ぎないと言われてきた。だが、三年前、リドルト平原でのアストラーダとの会戦の折、ロエラの奇跡が現れたのだという。狂戦士と相打ちとなって気を失っていたマリィは見ることが叶わなかったが、暗雲垂れ込めていた天を雷光が真っ二つに裂き割り、青き天空から光と共に冷たく白い羽が舞い降りてきたのだと、目覚めたマリィに、その場に居合わせて奇跡を目撃した姉王が話して聞かせたのだった。そして、姉王は付け加えた。
『もし、本当にロエラがあるのだとして、今回見せたようにロエラが天を操る力を持っているのならば、アストラーダに渡してはいけない。アストラーダが天を操る力を得てしまったら、あの国の皇帝は容赦なくデルフォーニュを大雨や日照りで攻め立て、あっという間に大陸中を掌中に納めてしまうだろうから。おそらく、アストラーダもあの奇跡を見て、本格的にロエラを探しはじめたはずだわ』
緊迫した姉王の声が耳元に蘇る。
あれ以来、マリィはロエラを捜し求めて大陸中を旅して回った。大陸中といっても国は西にデルフォーニュ王国、東にアストラーダ帝国しかない。大陸中央に存在していたリドルト王国は十八年前に左右の両国で滅ぼしてしまい、今はだだっ広い草原に王都の名残と西にこの森があるだけだ。人口も年々減少しつつあり、王都から外れた村も次第に姿を消している。人が少なくなれば、昔話を語るものもいなくなる。姉王からロエラ探しという雲を掴むような密命を受けて三年、マリィは何のヒントも見つけられずに、とりあえず三年目の報告をしに故郷へ帰るところだった。
その帰途で、たまたま命を助けさせられた男から報酬としてロエラのヒントをもらうというのは、話ができすぎている気がしなくもない。
ただし、聞いたことのない前半の恋物語を知ったところで、ロエラの所在や正体が即座に分かるものでもないのは、運命の世知辛さといったところか。
溜息をついたマリィに、エアは言った。
「歌は歌の価値が分かる方にでないと歌う価値がございませんので」
「大陸中の人々がその名を聞けば伏して道を開ける傭兵マリィ様だぞ? いいのか? そんな奴に世界を握らせて」
「自分の命には代えられません」
マリィはおどけていったエアの襟元を掴んで引き寄せた。
「私は姉王の犬だ。さっきの歌、姉王に話さないわけにはいかないぞ?」
「お好きにどうぞ。ただし、私はもう二度と歌いません。約束の報酬は一度だけしか支払われないものです」
「だろうな。だが、お前。あたしについてデルフォーニュまで来たいというのは、オチをつけるためじゃないのか? 勝手に歌にしたら、また報酬を支払ってもらうぞ?」
「うわぁ、なんてがめついお姫様。長旅疲れで貧乏根性、板についちゃったんじゃないですか? 明日森を出たらさっそく歌って広めなきゃ」
「何をだ、この歩く拡声器がっ」
「痛っ。うう、このままじゃ、ほんとにデルフォーニュまで身が持たないよ」
胸倉を突き飛ばされて尻餅をついたエアは、半泣きになって呻いた。
「それより、お前……」
「お前じゃなくて、エアだよ。エーア。せっかく名乗ったのに、さっきからずっとお前、お前って失礼でしょ」
ともすれば虚ろに見える灰色の瞳に見据えられて、マリィの胸はせわしなくざわめいた。恋のように甘やかなざわめきではない。胸に秘めた唾棄すべき恐怖の記憶が揺さぶられたような気がしたのだ。
ぱっと視線を外し、下弦の月を見上げてマリィは言葉を続けた。
「悪かったな。それで、エア。お前に歌を教えたお師匠様は今どこにいる?」
「あー、またお前って言った。もう、お肉代の三曲は二曲に変更ね」
「悪かった、悪かった。肉代は一曲でいいから教えてくれ」
「何だよ、それが人に物頼む態度かよ」
「それを言うなら、わたしに用心棒を頼んだ時のエアの方がよっぽど常識を外れているぞ」
「なるほど、お互い様だね」
口げんかになりかけて、エアは子どもっぽく顔を明後日の方に背け、広げた敷物の上にごろりと横になった。
さっきの半分ほどしかない小さな焚き火が、ぱちぱちと爆ぜる。
「お師匠様なら、一ヶ月前に小屋を出て行ったきり戻ってこないんだ」
ぽつりとエアは言った。
マリィは切り株に腰を下ろし、突きたてた剣を抱きかかえた。
夜啼く鳥の声が低く、深く、森の中を伝わってくる。
「どこへ行くといっていた?」
「ちょっとアストラーダまで、ってさ。帰ってこなかったらデルフォーニュに行けって言ってた」
「探しに行かなくていいのか?」
今夜小屋を襲い、エアを襲ったのは、瞳の色からしてアストラーダの手の者だ。もしかしたら、アストラーダはエアがロエラのヒントになる歌を継承していることを知ってしまったのかもしれない。
(早く姉上に知らせなくては。エアの師匠がこいつみたいに口の軽い奴だったら、敏いグスタフのことだ、先を越されてしまう)
「マリィさん、眠れないならよく眠れる歌を歌ってあげるよ。これ、今夜のお肉代ね」
マリィの問いには答えず、エアは横になったまま歌詞のない旋律を口ずさみはじめた。短調とも長調ともつかない郷愁を感じさせる切ない旋律がゆっくりと夜闇に溶け込み、慈愛深い子守唄となってマリィを深い眠りへと誘う。
「用心棒を眠らせてどうする」
眠気を振り払うつもりで口に出した言葉も、力は持ち得ず、意識は急速に失墜していく。
閉じた瞼の裏、しばらく思い出すこともなかった亡き母の顔がぼんやりと浮かんでいた。リドルト王国が滅亡する直前、父エディアルドに恋をしてデルフォーニュに嫁いできた母メグラール。その母の体に流れる血は、近親間で正統に受け継がれてきたリドルト王家でも最も濃い血であったという。母メグラールはそんなリドルト王家の因習を嫌ってデルフォーニュ王を誘惑した、と周りは言うが、マリィはそうは思わない。もし、リドルトを捨てるためだけにメグラールが父を誘惑したなら、あんな最期を迎えることはなかっただろう。父王は移り気の早い人だった。次から次へと後宮に側室を迎え入れ、果ては当時のマリィよりも幼い少女にまで子を産ませる始末。正妃でありながら王に軽んじられつづけた母は、懊悩して精神を病み、痩せ細って死んでしまった。マリィが十歳の時である。
(どうして母のことなんか……)
いつもなら自分でねじ伏せることが出来る思い出の影も、歌声が聞こえてきているせいか、思うままにならない。
『マリィ、おやすみなさい。よい夢を』
ぼやけた母の顔の口元がうっすらと開いた。流れ出す旋律は、耳に心地よく溶け込んでくるエアの歌声と重なっていく。
「いいんだよ。今夜はもう、誰も来ないから」
焚き火が消えた深い闇に、エアの独り言が呑み込まれていった。
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