天空のロエラ
第1章 血は呼び合う



 マリィがくるりと後ろを振り返ったとき、斜め上方の丈高い木陰からたてつづけに二本、矢が放たれた。と同時に、葉が擦れの音が静かに響き、黒い装束に身を固めた者達が五人、焚き火を背にするマリィと若い男とを取り囲んだ。
「あらら、囲まれちゃった」
 二本の矢を余裕で切り落としたマリィは大袈裟に額に手を当てた。
「か、囲まれちゃったじゃありませんよ! どうしてくれるんですか!」
「どうって? ああ、あんたが死んだら肉代がもらえなくなるって?」
「なに自分だけ助かる気ぃしてるんですか!」
「最悪自分だけでも生き残る。これ、あたしの信条」
「契約してるのに!? ……だから悪徳傭兵って言われるんだ……」
「何か言った?」
「いいえ、何も」
 マリィにぎろりと睨まれて男は小さく縮こまる。それを視界の端に収めて、マリィは男を自分と焚き火の間に押しやりながら、手に手に研ぎ澄まされた剣を構えている黒装束の者たち五人を眺め渡した。樹上では、さっきの弓使いが木の枝を渡ってマリィたちの焚き火を挟んだ背後に回り込んでいた。
 獣の油を浴びて今を盛りと燃え盛る焚き火を消せるほどの水は、残念ながらマリィの手元にはなかった。こうなると、一晩もつようにとくべた薪の量が恨めしい。
(焚き火を飛び越えて逃げろとも言えなくなったわけね。言ったところでこの男が出来るとは思わないけど)
「そこの男を渡してもらおうか」
 渋くしゃがれた声で、マリィと正面で対峙していた男が言った。
 黒い装束、柄に装飾一つない実利だけを追求した剣。身証となりそうな物は見当たらない。ただ、一つ。覆面から覗く瞳の色は緑。緑の瞳はアストラーダ人に多い色だった。
「世界一つ」
 マリィは言った。
「は?」
 型どおりの返事を正面の男は返す。
「あたしがこの人を守る代わりにもらう報酬よ。この男を引き渡してほしいなら、それ以上のものをあたしに今すぐ渡しなさい?」
 高圧的に微笑むマリィに、正面の男は一瞬気圧され、怯んだようだった。その瞬間を逃さず、マリィは男の胴を切上げた。ぐらりと仰け反った男を踏み倒し、黒装束の輪から抜け出す。黒装束の者達は切られ踏まれた男にかまうことなく、一斉に若い男に飛び掛った。その背後をマリィが端から一陣の風のように駆け抜ける。
 直後、焚き火の周りを円を描くように赤い飛沫が噴き上がった。
 黒装束の者達は焚き火の周りにひれ伏す格好で前のめりに倒れていった。その中央、若い男が茫然と立ち尽くす。目には無機質な鏡のように、血を流して倒れる黒装束の者達が映っているだけのようだった。
 マリィは小さく舌打ちをした。
(これしきの血を見ただけで固まるなんて、なんて繊弱な)
「来い!」
 倒れた黒装束の男一人を踏み越えて、マリィは雇い主の男の手首を掴む。その手首は、見かけに反して案外太くしっかりとしていた。
 一瞬、さっき自分の剣を二本の串でやり過ごした飄々とした男の表情が、今目の前で無表情に固まっている男の顔に重なった。
 が、男は震えていた。
 全身からは恐怖に彩られたただならぬ気配が溢れ出している。灰色だった瞳の色が、焚き火の火影に照らされて赤に青に揺れている。しかし、表情は凍りついたままだ。
「あ……あ……あ……」
 明らかに恐怖に駆られた呻き声が男の口から漏れいずる。
 マリィは、容赦なく男の頬を平手ではたいた。
 ぴたり、と呻き声と震えが止まった。それから、男は窺うようにゆっくりと顔をあげてマリィを見た。言葉はまだ発せないらしい。
 マリィは、その目を見て息を呑んだ。
 マリィを見上げた男の目は、静謐を湛えた空の深遠の色だった。
(ありえない)
 心の中で、マリィは浮かび上がった疑念を打ち払った。
 その瞬間に、男の瞳の色は元の灰色い雲の色に戻っている。
(ほら、気のせいだ)
 背中に滲んだ汗がゆっくりと冷えていく。
(大丈夫。そんなわけはない。だってあいつはあたしがこの手で……)
 耳元で風を切る音がした。ひり、と頬が灼けついた。ぎり、とマリィは奥歯を噛みしめ、己の油断を呪った。
 一本、二本、三本、とたてつづけに矢が放たれてくる。
 マリィは構わず、男の手を引いて森の茂みの中に駆け込もうとした。が、マリィに引きずられるよう走っていた男の足首を、倒れていた黒装束の一人が掴んだ。前のめりに倒れた男の背中を狙って、矢継ぎ早に矢が射込まれる。マリィは男の手を離し、背の上を飛び越えて剣を振るった。一本は薙ぎ払われてあさっての方向へ飛び、もう一本は折れて鏃が雇い主の男の頬近くに突き刺さった。さらに飛んできた一本を叩き払って、マリィは雇い主の男の足首を掴む黒装束の男の手を蹴り払った。骨の折れる嫌な音がして黒装束の男は上半身を跳ね上げたが、その胸をさらにマリィは焚き火の方へと蹴飛ばした。
 その隙に起き上がった雇い主の男の手首を掴み、マリィは真っ直ぐ目の前の一番近い茂みを目指した。その背後から、さっきとは別の起き上がった男が剣を振り上げる。
「よくもっ」
「恨み言なんか聞かないよ!」
 雇い主の背に振り下ろされた剣をすかさずマリィが間に入って受け止める。
 怪我をしているとはいえ、鍛えられた大の男の渾身の力がこめられた剣は、女の腕にはこの上なく重かった。
(男だったら……)
 過ぎった雑念を力に変えて、マリィは全身のばねを使って男の体ごと剣を振り払った。よろめいた男は、しかしすぐに体勢を立て直し、剣を脇に構えてマリィに突進した。マリィはそれを僅かに体をひねって抱きとめる。
「はずれだよ」
 抱きとめた男の鳩尾を膝で蹴り上げて放り投げる。
「マ、マリィさん……外れてない……です……血、血、血が……」
 我を取り戻した雇い主が、マリィの脇腹あたりを濡らしはじめた血を見て悲鳴を上げた。
「馬鹿、喋るな」
 マリィは憮然と雇い主の背中を近くの茂みに押し込むと、自分も転がり込んだ。後を追うようにして、茂みに何本かの矢が射込まれる。それを見越して、マリィは四足で進みはじめた雇い主を先へ先へと急かした。
 焚き火の明かりも、茂みの中には届かなかった。月明かりもない。薄暗い中をいくらか進んだところで、マリィは止まれという意思とともに雇い主の男の足首を掴んだ。
 暗闇に慣れた目に映るのは重なり合った黒い葉々。
 息を殺すと、不本意にも高揚感に躍動する自分の脈動の他に、隣で身を固くしている雇い主の男の心音まで聞こえてきそうだった。頭上の様子を窺うと、樹上を猿のように行ったりきたりする気配がひっきりなしにしていた。それも一人だけじゃない。もう二人ほど増えている。
 このままでは埒が明かない。
 朝まで持ちこたえたところで、この人気のない森の中では朝の日の光も黒装束の者達を退かせる要因にはならないだろう。何せ仲間の生死に構わず自分達の後を追うような奴らだ。最優先なのはこの男の命なのだろう。
 いや……。
 果たして本当にこの男の命が目的なのだろうか? それなら矢で周囲を狙ったりするようなことをせず、一発でこの男を仕留めればよかったのではないか? それが出来るくらい、この男はさっきから隙だらけだった。なのに、途中から敵はこの雇い主の男よりもマリィに標的を変えた。それは、男を守るマリィの存在が邪魔だったからに違いない。つまり、あの黒装束の者達は、生かしてこの男を捕らえたいのだ。
 それなら。
「動くなよ」
 雇い主の耳元に囁いて、マリィは勢いよく茂みから顔を出した。
「ここだ」
 叫んだ声が森の中にこだまする。
 途端、三箇所から殺気が湧き上がった。矢が、ダガーが飛んでくる。黒い人影が茂みを掻き分けて駆けてくる。
 マリィは飛んできた矢を叩き落し、ダガーを掴み取った。意表を突かれて小さく悲鳴を上げたダガーの主へ、掴み取ったダガーを投げ返す。直後に樹上から一人の黒い人影が転がり落ちた。それを見届けることなく、頭上の枝に飛び掴まると、突進してきた黒装束の男の胸めがけて勢いをつけて蹴りこんだ。避け切れずに仰向けに転がった男の胸に剣を突き立て、抜き返り様、飛んできた矢を打ち払い、矢を射掛けてきた数メートル向こうの樹上めがけて足元の石を投げつけた。鈍い音がして、弓がまず落ち、続いて人影が転がり落ちた。
「行くぞ」
「行くって、どっちへ?」
 マリィは一瞬、残してきた焚き火を振り返った。
 五人の黒装束を着た者たちが周りに倒れ伏したままの焚き火は、まだ赤々と燃えている。特に強い風はない。あのまま薪が燃え尽きてくれれば森に燃え広がることもあるまい。しかし、この追っ手の仲間がもし、故意に火を森に広げたら? ――いや、そうやって自分達を森から焙り出すつもりなら、あそこの火に関係なく火種を持ち合わせてくるだろう。
「仕事道具をどっかに置き忘れたといっていたな? とりあえずはそれをとりに行こう。でないとさっきの肉代も回収できない」
「あ、僕の約束したこと信じてないでしょ?」
 先に立って歩き出したマリィの背に、男は憮然と言った。
「何故来いと言った時にすぐに動かなかった? あまり石像のように動けないようだと、いくらあたしでも契約を反故にせざるを得ないこともある」
「そこを守り通してこその傭兵業でしょ。預かり人は赤ん坊だったり少女だったりするんでしょ?」
「大の男を預かったことはないんだ。小さくて軽ければ傍らに抱えることも出来る」
「そんなに苛立たないでよ。世の中には剣や血が大嫌いな男だっているんだよ。その逆がいるように」
 マリィは立ち止まって後ろを振り返った。
「あたしが好きで剣を握って血を流していると?」
 声には多分に険が含まれていた。
 男は気圧された風もなく、飄々とマリィを見つめ返す。
「女傭兵マリィは血が好きだって聞いたことがあるよ。実際に見たのはさっきが初めてだったけど、お姐さん、ほんとに楽しそうに人を切るんだね」
 マリィは握っていた剣の柄を強く握りなおした。
(切ってはいけない。こいつはあたしに世界一つをくれると言ったんだ。もしかしたら、繋がっているかもしれない。あたしが探しつづけてきたものに。それに――切ったら、ほんとに快楽殺人者になってしまう)
 滾る血に呼吸が速くなる。
 それを抑えようと、マリィは木の根の間に鞘ごと剣の切っ先を突き立てた。
「それより、血、垂れ流しっぱなしでいいの? 血の痕から足つくんじゃない?」
「うっ、そう言われると、痛くなってきた……」
 左脇腹の上衣はざっくりと突き破られて、間からは血のついた傷口が闇にも鮮やかに見えていた。
 マリィは纏っていたマントの端を裂いて、手早く腹に巻く。その間、男は背を向けて頭上を仰いでいた。
「別に見られて困るような場所じゃないぞ」
「荷物置いてきたところに傷によく効く薬草があるよ。それなら、傷口もほとんど残らないから」
 さっきまでの無遠慮な物言いとは裏腹に、男は声に申し訳なさを滲ませた。
「あっはは、気にするな。これが初めての傷というわけじゃないんだから」
 豪快に笑い飛ばして捲し上げていた上衣を下ろしたマリィは、さっき進もうとしていた方向へと一歩踏み出す。その腕を、男が慌てて掴んだ。
「なんだ?」
「荷物、そっちじゃない。こっちこっち」
「こっちって……」
 さっきとは反対に男に手を引かれ、マリィは一瞬、意識が遠のきそうになる感覚を味わった。自分の魂が体から遠く引き離されてしまったかのような頼りなさに続いて、胸に感じたことがないほどの切なさがこみ上げる。
『xあ……』
 心の奥底で誰かの名を呼ぶ少女の声が聞こえた気がした。何と呼んだのかは聞くことはできなかったが、それはすぐにマリィの胸中から消えていた。
「どう、したの?」
 戸惑ったように男が振り返る。
「どうも……しない。……なんでもない!」
 ここが暗い森の中でよかった。そうでなかったら、不必要に火照った顔を見られていたかもしれない。
(違う。違うんだ。今のは、そう、きっと兄上に手を引かれたときの思い出が蘇っただけだ)
 手の大きさも、力強さも、硬さも何もかもが違うのに?
(違うけれど、そうなんだ)
 無理やり思いこませようとする自分の意思に従って、マリィの頭の中には青空の下、花園の中を手を引いて前を歩いていく大きな兄の背中が蘇っていた。
 思い出すたび、切なくなる。
 どうしてあの人と私はこんなに背丈が違うんだろう、と。
 早く追いついて横に並んで歩きたいのに。いつまでも子ども扱いしないで? 私が大きくなるまで、その横は空けておいてね。
 でも、手は繋いだままでいてね――。
「離してくれ」
 立ち止まったマリィは男の手を強制的に振り払っていた。
「あ、ごめんなさい。馴れ馴れしかった、ですよね」
 気にした風もなく男は笑うと、前に立ったまま足早に茂みの中を進みはじめた。
 男の足取りは迷いがなかった。まるで方位磁針でも体に埋め込まれているかのように、正確に自分が荷物を放り出した場所にたどり着いていた。
「肩掛け鞄と、竪琴……それだけ?」
 リドルト平原とデルフォーニュの間に横たわるこの広大な森に入るには、男の荷物はあまりに少なかった。鞄も袋の体裁をなしているだけで、傍目にも中に何かが詰まっているとは思えない。
「あはは、それだけなんです」
 鞄を肩にかけて竪琴を抱え持った男は、照れたように笑って頭をかいた。
「それだけなんです、で済むか! 何でそんな格好でこの森に入った!? 食糧はどうした!? 水筒は? 地図とか、方位磁針とか……」
「いやぁ、何で森に入ったって言うか、僕、この森に住んでたから……あははっ」
「あははっじゃない! 住んでたんなら何であんなに腹を空かせて虎に追われ、おかしな黒装束の奴らに追われてたんだ!?」
「だーかーらー、あの黒装束の奴らに家追い出されて逃げてたんですってば」
「はっ……?」
 もはや理解できない。理解したくない。頭が痛い。そうだ、そうでなきゃこの荷物のある小さな広場まで、夜なのに迷うことなく歩いてこられるわけがない。どんなに森を歩きなれたマリィでさえ、夜に明かりなしで目的地までたどり着く自信はないし、迷うのが分かっていて意図的に地図に道のない森の深遠に踏み込んだことは皆無だった。
 混乱の中見出した呆れた感情がマリィの肩にのしかかった時だった。
 空気に溶け込むような透明な音色が耳に染みこんできた。
「さて、食べ物をいただいた上に身を守っていただいたのに、ここまで名乗りもせず大変失礼いたしました」
 別人のように大人びた玲瓏とした男の声に驚いてマリィが顔を上げると、古びた切り株に腰を下ろした男は竪琴を膝に乗せ、弦に指を絡ませていた。
「私の名はエア。アルターシュの森に暮らして三年。怖い師匠に竪琴を仕込まれ、西へふらり、東へふらりと森を出て、興を求める人々の耳を楽しませることを生業としております」
 ゆっくりと弾かれた弦の音は心をとろかしそうなほど優しい。
 思わずうっとりと聞き惚れそうになったマリィは、慌てて首を振った。
「心配ありません。私の家を襲った賊は合わせて八人。さっきので全てです。悲しいことですが、今宵一晩は誰も彼らの死を知る者はいないでしょう」
 木立の合間を縫って、月が昇りはじめる。
 青白い下弦の月。
 マリィはほっと息を吐き出して近くの切り株に腰をかけた。
「吟遊詩人、エア。その名は聞いたことがあるよ。悪戯好きな小僧だが、一度歌いだすとどんな悪人の心でもとろかしちまうって」
「悪人は悪人でも、聞く余裕のある悪人じゃないと効かないみたいですけどね」
「辻で歌えば馬車に乗った貴婦人も馬を止めさせるんだろう?」
「何度連れ去られそうになったか知れません」
「っははっ」
 吹き出して、マリィはもう一度エアの姿を見つめた。
 黒い髪に灰褐色の瞳。年頃の女達なら一目で恋に落ちかねない優美な容姿、柔らかな微笑。
(これがあの狂戦士なわけがない、か)
 心の中にこびりついていた疑念に蓋をしようとしてしまったのは、マリィ自身も珍しく男の声と容姿に魅せられていたからかもしれない。恋に落ちるなどというところまでいかずとも、人間というのは自分の五感を気持ちよくくすぐるものには弱いものだ。
「なら、歌え。肉代ならお前の歌三曲でチャラにしてやる」
「そう焦りなさいますな。先にお聞かせいたしますのは、お約束の報酬でございます。貴女の腕と、信義と引き換えに」
 笑んだエアは、じっとマリィの目を覗きこんだ。
 マリィの心臓は一度跳ねながらも、期待と猜疑心に落ち着きなく色を変えていた。
「世界を手に入れられる歌か」
「一つ、付け加えることを忘れておりました。この歌を聞いても即座に世界が貴女のものになるわけではありません。どうするかは、貴女次第」
 反駁しようとしたマリィの声が空気に触れる前に、エアは歌いだした。
 古の恋物語から始まる創世記を。
















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