天空のロエラ

第1章 血は呼び合う


 勢いよく爆ぜる焚き火の炎が、そこだけ森の夜陰を切り取るように明々と辺りを照らしだしていた。その明かりを翳らせるように焙られている鹿からは白い煙が立ちのぼる。
「もおすっこしっ、もおすっこしっ」
 嬉々とした旅装束の若い女が、拳大に切った肉の串を順に一つ、二つ、三つと回転させる。
 火影に浮かび上がるのは、灰色にややくすんだ金髪と色だけを見るならば慈愛と快活さがせめぎあうワイン色の瞳。ごろりと小さな広場に投げ出されたままの倒木の上に腰掛け伸ばされた足はすらりと長く、肉を焼くのに夢中になってやや前のめりになっている上半身も、女性らしい丸みは残したまま無駄なく引き締まっているのがマントの上からでも確認できる。
 彼女の名はマリエトレッジ・アン=ゾフィー・デルフォーニュ。
 故郷では、三年前のデルフォーニュとアストラーダの戦争のときデルフォーニュ軍を指揮し、終結直前には一人狂戦士に挑んで殺された王太子の仇を討ち、デルフォーニュに栄誉を取り戻した女傑だ。
 だが、今の彼女にその時の面影は微塵もない。
 今か今かと焙られる肉から滴り落ちる肉汁を見つめるその表情は子供のように期待に満ち溢れ、強く澄んでいたはずの瞳は空腹にぎらついている。
「っくしゅん」
 そんな彼女に水をさすように夜の湿った冷たさがそっと忍び寄った。
 マリィは一つ二つ身を震わせて瞳と同じ色のマントをかき寄せ、香ばしい香りと煙とを燻らせる焚き火に心持ち体を寄せた。
「うーん、まずいなぁ」
 六月とはいえ、空さえ見えない鬱蒼とした森の夜は結構冷える。
 この東のリドルト平原と西のデルフォーニュとの間に横たわる巨大アルターシュの森で迷って三日目。
 野宿に慣れているとはいうものの、そろそろふわふわのあったかい布団が恋しくなってきていた。
 それ以上に、誰でもいい。人に会いたい。会って人間らしい会話をしたい。森に入ってからこの方彼女の発した声といえば、獲物を追いかける時に発した気合か、呪詛のように繰り返される「腹が減った」という独り言だけだった。
 そんな状況に追い討ちをかけるように空腹が人間らしい思考力を奪っていく。把握しきっていたはずの森の小道も、何度となく食欲という本能のままに獲物を追いかけ続けるうちに、もはや把握外のところにまで来ているようだった。
「いやいや、大丈夫。これを食べれば当面は凌げる。冷静になれる。磁石が壊れてたって、太陽なり星座なりから方向を見出すことも出来る。待て。待つんだ、マリエトレッジ。生焼けでお腹壊して明日干からびて死ぬよりはこの刹那を耐えるんだ」
 そう言い聞かせつつも、マリィの手は一番よく焼けてきている串焼きに伸びていた。
「いや、しかし世の中にはレアというのもあるし」
 レアというにはまだ生臭さが残っていそうな串焼きの肉を顔の上に掲げ、マリィはうっとりと大きな口を開ける。
 血液の混じった赤い肉汁がマリィの唇に滴った、そのときだった。
「ひいぃぃぃぃぃぃぃぃっっっ」
 マリィの背後の茂みから、あまりに情けない若い男の涙混じりの悲鳴が上がった。
 マリィはとっさに串焼きを口に挟み、愛用の大剣を引き寄せる。
 悲鳴の主は茂みを突き破って姿を現したかと思うと、木の根に蹴躓いて前のめりに振り向いていたマリィの胸に飛び込んできた。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと!!」
 ひょろりと痩せた男を片手で抱きとめはしたものの、驚いた拍子に口にくわえていた串焼きが血の気のない骨と皮ばかりの男の横顔にぼちゃりと落ちていた。
「あああっ、あたしの串焼きぃっ」
 希少な食糧を無駄にしてしまったあまりの衝撃に、マリィの顔は蒼白になった。
 こんなことならもう少し焼きあがるまで待てばよかった。いや、肉汁に見とれてないで、さっさと噛み千切って腹の中に納めていればよかった。
 後悔したところで、男の顔の上に落ちた串焼きは二、三転がった拍子に髪が絡みつき、とても食べられる状態ではなかった。
 尋常ならば。
「いや、でもなくなったわけじゃないんだし、食べられるか食べられないかといわれれば、食べて食べれないものはないし……」
 ぶつぶつと言いながらマリィは落ちた串焼きを再び取り上げた。
 その真正面。
 男が飛び出してきた茂みの向こうで殺気が蟠ったかと思うと、獰猛な唸り声とともに六つの目が輝き、闇との境界を失った漆黒の体躯が飛び出してきた。獣でありながら、焚き火に恐れをなす素振りはない。一直線に焚き火を背後にしたマリィと男めがけて異形の虎は飛び上がる。その速さ、剥き出しにされた牙から滴った唾液すらも後方に流れていく。
 マリィは憮然とその虎を睨みつけると、無造作に串焼きを開けられた大きな口の中に突き刺した。
 一瞬、虎はマリィの手すらも飲み込んで空中で止まった。
 その状態でマリィは軽く腕を引き、再び前に腕を突き出し様、握っていた串を離した。
 どう、と倒れた虎はごろごろと茂みの前まで転がったかと思うと、血を吐いてのたうちはじめた。口から漏れだす唸り声は、次第に溢れ出る血に沈んでいく。
 マリィは倒れこんできた若い男を横に転がすと、溜息混じりに大剣を鞘から抜き、虎の首元に突き立てた。
 断末魔の悲鳴すらろくにあげられないまま、虎は四肢を弛緩させた。
「ふん、他愛ない。肉食獣はおいしくないって言うけれど、こいつも串焼きにしてくれようかしら。って、ちょっ、あんた!!」
 虎から引き抜いた剣を鞘に収め、両手を払いながら虎を一瞥して焚き火に目をやったときだった。マリィの表情が目を丸くしたまま固まった。
 マリィの目の前で、今の今まで顔面蒼白で気絶していたはずの男が、何食わぬ顔で串焼きを二本くわえていた。
「んあ、ごひほうはまれふ」
 左手、右手と掴んだ串焼きから交互に肉を食み取り、男は満面の笑顔でマリィを見つめた。
 マリィの表情から余裕が消えた。
 今襲い掛かってきた虎も赤子に見えるほどの殺気がマリィを包み込み、再びマリィに大剣を抜かせた。
「貴様……そうか。わたしに食われたいか。それなら仕方ない。雑食動物の肉も不味いと言うが、その肉の対価、己の体で支払え」
 締めた左脇にぴたりと剣を構え、目の据わったマリィは躊躇いなく男に向かって突進した。
 肉を食みつつ、邪気なくマリィに笑いかけていた男の表情が凍りついた。それでも顎は肉を噛み、喉は肉汁とともに肉片を飲み込み続け、手にはただ何もなくなった二本の長い串だけが握られていた。背後には火の粉爆ぜらせる中程度の焚き火。見上げるほど大きくはないが、押し倒されたところで背中で火を揉み消せるほど小さくもない。
 マリィは男をそのまま焚き火にくべてやるつもりで剣を突き出した。
「ひ、ひぃぃぃっっ、食人鬼!?」
 男は咄嗟に握っていた二本の串を交差させ、マリィの剣を払いのけた。
 意表を突かれたマリィは仰け反りながら飛びのいて男を睨みつけた。
(何だ、この男?)
 脅えて震えているのに、どこか飄々としている。
「ああ」
 マリィは呟いた。
 目が冷静なままだった。
 炎を背にしているため正確な色は分からないが、おそらくは灰褐色。  その目には何の恐怖も浮かんではいなかった。
 マリィの胸には軽く悔しさがこみ上げてくる。
 女といえども、マリィは筋骨たくましい男達にも勝るとも劣らない怪力を自慢にしていた。それなのに、渾身の突きをたった二本の木の枝で受け流されてしまったのだ。それも、態度とは裏腹に心の中は冷静に。
 体勢を立て直して剣を構え、正面から男と対峙する。
 少なくともマリィは対峙したつもりだった。
 しかし、男の方は唯一の武器ともいえる二本の串を放り出し、歯の隙間から悲鳴を漏らしながら焚き火の脇に転がりだしている。
「どうした? なぜ逃げる」
 剣を構えたまま、マリィは静かに尋ねる。
「なぜって、自分を食べようとしている人がいたら、普通逃げるだろう?」
 がちがちと歯の根も合わぬ様はとても演技には見えない。思い出したかのように眼も泳ぎだす。
「そして助けてもらっても礼は言わないわけだ」
 マリィは深く一息をついて、剣を鞘におさめた。途端、ぐぅぅぅぅ、と恨めしげな轟音が腹から響く。
 男はマリィの腹部をあっけにとられて見つめ、マリィは恥ずかしがるそぶりもなくもう一度ため息をついた。
「ぼ、僕を食べるんじゃなかったの?」
「そんな痩せた男の肉なんか食えるか。殺したところで、今夜の野宿の邪魔になる。敵は来ようし、お前の虚ろな顔を明日の朝また見なきゃならないかと思うと目覚めも悪い。焼けば臭いし、穴を掘るには体力が残っていない」
 美人の口から冷静に自分の遺体処理について聞かされた男は、想像を掻き立てられたらしく、自分の両腕を抱きしめて震え上がったが、やがて地面に額をこすりつけて震える声を励まして叫んだ。
「ごめんなさい! ありがとうございます!」
 マリィは天を仰いだ形になった男の後頭部を眺めやり、さらにため息をついた。
 もはやため息しか出てこない。
 何で助ける気になったかなんて、冷静に考えるだけエネルギーの無駄だ。腹がすきすぎてめんどくさくなったというのが実際のところだろう。それなのにどんなに男に礼を言われようと、男の腹の中に消えた串焼き二本分の肉とトラの口に突き刺さった串焼き一本分の肉はもう返ってはこない。ほんとに感謝しているなら、今すぐ干し飯を出すなり、兎か鹿を狩ってきて焼いてほしい。今なら解体する余力もないから丸焼でだっていけるだろう。ああ、鼠でも食べられるかもしれない。
 そう思いいたって、マリィはふらりとさっき倒した虎を振り返った。
「食おう」
 せっかく目の前に肉があるのだ。ついさっき人でも食えると思ったばかりじゃないか。選り好みしている場合じゃない。マリィは憑かれたように再び鞘から剣を引き抜くと、虎の方へと引き寄せられていった。
 六つの目を開けたまま絶命している漆黒の虎の姿は、見るからに化物じみていて、動き出さないとはいえとても今晩一緒に過ごす気にはならない。が、腹の中に入れるとなれば話は別だ。どんなに遺伝子が崩れて異形の姿になっていようと、肉は肉。たんぱく質はたんぱく質。アミノ酸はアミノ酸。切って捌いてしまえば、気味の悪い六つ目ともおさらばできる。
「まさか、ほんとに食べる……気……?」
 顔を上げた男が唖然として剣を振り下ろすマリィを見つめる。だが、マリィの耳には頼りない男の声など入りようがなかった。無言のまま手際よく虎を解体していく。男は途中から見るに耐えなくなったのだろう、口元を押さえて背中を向けてしまった。
「お前がさっき食べた肉もこうやって解体して串に刺したんだが?」
 薪用に拾ってあった木の枝のうち細い者を火で軽くあぶり、マリィは躊躇いなくざくざくと肉の塊を刺しては焚き火の周りの灰に突き刺した。その様子は、さっきまで空腹に喘いで怒りに満ちていたのが嘘のように、嬉々とし、生き生きとしている。いや、それさえも越えて目はさっき以上にぎらぎらしていた。
「お前も食っていいぞ。腹、減っているんだろう? 今度はたくさんあるからな。たんと食べるがいい。だが、一つ目の串は何があってもあたしのものだからな」
 男は解体された虎のなれの果てを見ないように斜めに背を向けて、焼ける肉を見つめるマリィを盗み見た。
「どちらまで?」
 旅をしているかなど、格好を見ればすぐに分かる。空腹だったということは、この森に入って何日か経っているということだろう。どこから来たのかなんて聞くのは、行きがかりのこの際タブーだ。
 マリィは肉の焼けてきた串をくるりと回転させて、遠慮がちに尋ねてきた男を眺めた。
 黒いストレートの髪は自分で切ったのか毛先がばらばらで、しかもしばらく鋏も櫛も入れていないらしく伸び放題はね放題になっていた。しかしその割には髭は薄く、肌は炎の色をオレンジ色に映すほど白い。灰褐色の瞳は死んでいるわけではないが、かといって生き生きと輝いているわけでもない。純粋というにはどこか遠くを見ている感じがする。年の頃は、若いといえば若いのだろう。童顔なのかもしれないが、二十五を過ぎたマリィよりも若く見えることは確かだ。
「デルフォーニュ。あんたは?」
 香ばしい肉の香りに気をよくしながらマリィは尋ね返した。
「僕は……僕も、デルフォーニュ。奇遇ですね」
「へぇ、あんたも西へ。でも、その丸腰じゃデルフォーニュへ行っても何も出来ないんじゃない? 硬貨くらいは首から提げてるの?」
「え? 丸腰? って、あっ、僕の大事な仕事道具!!!」
 いきなり張り上げられた大声に、マリィは遠慮することなく両手で耳を塞いだ。
「どうしよう、どうしよう。僕、あの仕事道具がなきゃ硬貨も稼げない……」
「ちなみに今の所持金は?」
「あるように見えます?」
「見えないね。せめて肉代くらいは置いてってほしかったんだけど」
 本気か冗談か分からない覚めた調子でマリィは言うと、じっくりと焼けた一本目の串に嬉々とした目を向け、大きな口を開けた。
 そのとき、だった。再び邪魔が入ったのは。
 シュン、と風を切る音がして、マリィの左肘を掠め、一本の矢が凝りもせず串焼きに手を伸ばそうとしていた男の足元に突き刺さっていた。
 男は大地に突き立った矢を見て青ざめた。
 マリィは構わず串から焼けたての肉をこそぎとって口に入れた。
「不味い」
 危なく吐き出しそうになったのを堪えて、マリィはよくかまずにそれらを飲み下し、食道を焼く熱さに胸を叩いた。
「そ、そうですよ! ま、ま、ま、まずいですよ! 誰かが、誰かが、僕たちのお肉を狙ってます!!」
 男はまずいの意味を勘違いしたのか、串焼きを握ったままお尻と足を器用に使って矢の突き立った場所から後退していく。
「誰が僕たちの、だ。これは不味くてもあたしの肉だ」
 憮然とマリィは男を睨み返す。
「だから、そのあなたのお肉が誰かに狙われてるんですってば」
「誰かってのは、今串をもって逃げようとしているお前のことか?」
 マリィは座ったまますらりと抜き放った剣先を男に向けた。
 男は蒼白になって首を振る。だが、そうしながらもしっかりと肉にかぶりついていた。
「違いますっ。違いますってば。僕がいつ矢を放ったって言うんですか。大体矢の方向を見てください。その矢はあなたの後ろから放たれたものでしょう?」
「あんたとそいつがぐるになってあたしの肉を……」
 再びマリィの肩を掠めて、矢が飛びゆき、後退った男の足元に突き立った。
 確実に男の方を狙っている。
「あんた、虎のほかに何に喧嘩売ったんだ?」
「はぁ? 喧嘩? そんなもの生まれてこの方誰にも何にも売ったことないですよ!」
「嘘をつけ、嘘を。その矢、確実にお前狙いだろ」
 などと言っているうちに、男の周りを取り囲むように三本の矢が突き立つ。どれもこれも、マリィの体のどこかを若干掠めて。
 二本目の串にかぶりつき、マリィは深く溜息をついた。
(この矢の流れ方、明らかにこの男を狙ってはいるが、一緒にいるあたしのことも殺すつもりでわざと掠めているな)
 マリィ自身平静を装ってはいるが、このまま無事に一晩を越させてはくれないのは目に見えている。
(さて、この男を差し出したところで見逃してくれるものかどうか……)
「た、た、た、助けてください! 僕、お金も何も持ってないし、剣だって持ってないし……。第一、狙われているのはほんと、絶対あなたが焼いているそのお肉ですって。間違いありません!」
「あんた……そこまでしてあたしを巻き込みたいの?」
 呆れ果てた冷たい目で睨みつけられても、男は怯まず、悪びれず何度も頷く。
「で、いくら? 傭兵を雇いたいならお金がかかるのよ。いくら出せるの? このマリィ様に」
「マリィ、様……? 傭兵のマリィ様? もしかしてこの大陸中の人々がその名を聞けば伏して道を開ける、あのマリィ様?」
 一体どんな噂が流れているのかは知ったことではなかったが、おそらくその人物に間違いはないと踏んで、マリィはふんっ、と胸を仰け反らせた。
「そうよ、そのマリィ様よ。どう、出せるの? 出せないの?」
「出すの? 出さないの? ではなく、」
「出せるかどうかが問題なのよ」
 マリィに品定めされるようにじっと見つめられた男は、ふと視線を落として何かを考えたようだった。
「世界一つを手に入れられるだけのものを」
 顔を上げた男はきっぱりとマリィに言った。
「世界一つ? 丸腰の男が大きく出たわね」
「はい、世界一つです。僕の命には代えられない。契約期間はあなたがデルフォーニュの目的地に着くまで。依頼内容は、食事も含めて僕を生かすこと」
 真剣な目でそういった男に、一瞬気圧されそうになったのをマリィは意地で笑い飛ばした。
「あっはは、食事も含めて、ってさっきの肉代は入らないわよ? 契約期間は遡らないんだから」
「え、そ、そんな……」
「それでよければその依頼、受けましょう。契約期間、あたしがデルフォーニュの目的地に着くまでって言うけど……」
「僕はあなたについていきます。あなたの目的も旅程も害さない」
「ふむ。さっきの肉代は?」
「いずれ必ず」
「乗った!」
 今度こそ、脅しではなく正真正銘男の心臓を狙って放たれた矢を、マリィは後ろを振り向かずに自らの脇をすり抜ける間際に叩き落した。











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