天空のロエラ


「エアリアス、あなただけでも生き延びなさい。ロエラを守る者として、リドルトの末裔として、あなたは誇りを持って生きなさい」
 はたり、と落ちてきた涙は僕の頬を濡らして滑り落ちていった。
「ゾフィー様……」
「ええ、お願いします。必要となるそのときまで、この子のロエラの記憶がよみがえらぬよう封じ込めてください」
 覚えている……この人の胸の温もり。
 頬に触れるひんやりした手も、額に落ちてきた熱い涙の雫も。
 なのに、目が覚めれば忘れてしまう。
 面影も、声も、台詞も――何もかも。
 何度も何度も見ているのに、どうしてか目が覚めるとこの時よりも前の記憶は欠け落ちていて、いつも僕はベッドの中で歯がゆさに唇をかむ。
 けれど、本当はこんな夢、早く忘れてしまったほうがいいのかもしれない。
 荒れ狂う男達の怒号。舞い上がる滅びの砂塵。
 その中に倒れこんでいくのはさっきまで僕を抱きかかえていた美しい女性。
 首から見たこともないほど真っ赤な血潮を吹き上げて、その人は一人、崩れていく城の中に佇んでいる。
 飛び散った血は後ろを振り向いていた僕の顔にも強かに吹きつけていて。
 そう。
 僕はあの時、女神ロエラの味を思い出した。
 






 序章  遠  雷


「出、出たぁぁぁぁぁっっっ」
「あ、あ、あ、助けてく……」
 勝利を手中に収めかけていたはずのデルフォーニュ軍の前線から悲壮な断末魔がこだましはじめたのは、この滅びの平原に戦端を開いて四日目、太陽が大方西に傾きかけた頃だった。
 悲鳴の連鎖は止まることを知らず、一直線にデルフォーニュ軍本陣へと向かってくる。
「何事だ?」
 手持ち無沙汰にそのほっそりとした身に似合わぬ大剣を磨いていたデルフォーニュ軍の総指揮官は、ふと手を止めておもむろに顔を上げた。
「は、それがわたくしにもさっぱり……」
 訊ねられたのは彼女よりも倍は年を取った中年の男。
 首元に中将の階級章はつけているが、臆して小刻みに震えるその顔はすでに女指揮官に貫禄負けしている。
「諜報部は何をしている!」
 低く地を這うような一喝に、陣に残っていた兵士達は一斉に縮み上がった。
「も、申し訳ありません」
 回らないろれつで必死に頭を下げる諜報部の統括者に女指揮官は一抹の憐憫のみを垂れ、続いて取り囲む指揮官や参謀達の顔を見回した。
 刺すような視線を浴びせられた男達は、誰も彼もが青ざめ、突っ立ったまま俯いている。
 女指揮官は思わず笑いそうになった。
 こんな奴らが指揮官で、この国もよく生き残ってきたものだ。せめて自ら外に出て様子を見てこようという者はいないものか。
 しかし、この場にいた者は、頭を下げた諜報部の統括者も含めて、誰も彼女の意思を汲もうとはしなかった。彼らはただ自分に偵察の役目が下されないことだけを切に願って俯いていたのだから。
「大変です! 出ました! ついにあいつが出てきました!!」
 我慢しきれずに女指揮官が舌打ちしたときだった。
 体中にどす黒く固まった血をこびりつかせ、頬からは新たに血を流した一兵卒がほうほうの体で転がり込んで来た。
 が、さすがに一瞬で空気を読んだのか、彼は震える足を励まして真っ直ぐに立ち、胸を張る。
「失礼いたしました」
 女指揮官は自分と同い年か少し上くらいのその青年を軽くつま先から頭まで観察する。
「あいつというのはなんだ? 化け物か?」
「は。狂戦士です」
 明確なその答えに女指揮官の表情が一瞬強張った。
「狂戦士、とな」
 一呼吸置いて、彼女の口元にはゆっくりと笑みが広がっていく。
「お前、階級と名前は?」
 上機嫌で大剣を鞘に納めながら彼女は尋ねる。
「は。第三中隊所属、アルデレイド中尉です」
「綺麗な立ち姿だな。命令だ。速やかに退却しろと各師団の指揮官に伝えてくれ、アルデレイド少佐」
「少……? は、はい!」
 青年は模範どおりの敬礼をするとすぐに戦場へと戻っていった。
「アン=ゾフィー様、困ります! 勝手に階級を与えられては」
 青年が去ったあと、真っ先に口を開いたのはさっきまで一番深くうなだれていたはずの男だった。
「まだ口約束だ。階級章を与えてやったわけでもない。狂戦士に遭ってここまで生き延び、前線の様子を伝えてくれたんだ。それくらいの栄誉、今すぐ与えてやったっていいだろう?」
「しかし……!」
 なおも口を出そうとした中将の首元を、女指揮官――アン=ゾフィーは間髪いれず引き掴んだ。
「階級章は働く奴がつければいい。働かない奴には必要ないんだからな。それとも」
 空いていた左手で中将の階級章をやんわりなぞる。
「あなたに命令してさしあげようか。クロイド中将。この階級章をさっきの青年に渡してこい、と」
 屈辱に打ち震える中年の中将を振り払って、アン=ゾフィーはいまだ固まり続けている男達に檄を飛ばした。
「ここも退却だ。マンスフロー少将、あなたは急いで姉上にアストラーダに停戦協議の申し入れをするよう説得してくれ。それ以外の皆々は速やかに外の兵たちを安全な場所まで誘導しろ」
『はっ』
 慌しく陣中にいた指揮官達は外へ出て行く。
 その一団に紛れて退却しようとしていたクロイド中将の肩を、アン=ゾフィーは思い出したように掴んで再び引き寄せた。
「おっと、クロイド大将。あなたは第十三中隊を率いて殿を務めてくれ」
「なっ」
「聞こえなかったか? 生きて帰ればあなたの大好きな階級を一つ上に上げてやる。中将までこぎつけたくらいだ。腕は確かなんだろう?」
「……は」
 苦渋に歪んだクロイド大将を背後に残して、アン=ゾフィーは陣幕の外へと向かって歩き出す。
「あ、お、お待ちください! アン=ゾフィー様はどちらへ?」
「どちらへ? 決まっているだろう。私は兄上の仇討ちだ」
 振り返りざま凄絶な微笑を投げつけ、アン=ゾフィーは引かれてきた鹿毛の愛馬に悠然と飛び乗った。
 狂戦士――
 震える唇で仇の通り名を呟くと、馬の躍動に合わせて胸も高鳴る。
 ようやく逢える。
 それは、まるで長年引き離されていた恋人にでも会いに行くような気分だった。
 雪崩を打ったように逆流していく自軍の兵士達の間を縫い、生臭い風を切って絶え間なく血を吸い続ける大平原を駆け抜けるその様は、敵味方に分かたれた愛しい者を探すよう。
 祝福するように近づいてくる遠雷を聞きながら、アン=ゾフィーはせかすように馬腹を蹴った。新しい断末魔が次から次へと生み出されている方へと向かって。
 とうに崩れ去った最前線にアン=ゾフィーが躍り出たとき、目的の彼の後ろには屍だけが転がっていた。背後左右に彼の味方にあたるアストラーダの兵は一人もいない。
 茫漠と広がる屍の原野を一人で築き上げたにしては華奢な体だった。少年の域を出ない薄い肩と細い腕がぼろ布と化した衣服から覗き見えている。かろうじて防具といえるのはお情け程度のなめし皮の胸当てだけ。
 そのかわり、左手に握られた剣はアン=ゾフィーのものと同じくらい大振りで、血に濡れて尚、雷光を照り返して不気味な輝きを放っていた。
「お前が狂戦士か」
 しばし対峙した後、アン=ゾフィーは馬上からゆっくりと確かめるように言った。
 ゆっくりと上げられた痩せぎすの青白い顔は、戦場よりも学問の塔がふさわしい。
 だが、生気の抜け切った顔の中でアン=ゾフィーを射竦めたその蒼い目だけは、血に飢えた獣を思わせる危険な光を宿していた。
 その目が答えだった。
 狂戦士は助走もなしに飛び上がり、一足飛びにアン=ゾフィーの馬の首を身に余る大剣で薙ぎ払った。
 馬は鹿毛を散らしながらもんどりうって倒れこむ。しかし、アン=ゾフィーは一回転して軽く着地を決めると、笑みさえ浮かべて腰から剣を抜き放った。
「兄上とこの馬の命、高くつくぞ」
 そう言い終えたか否か、狂戦士の顔はすでに彼女の目の前にあった。
 手首には重い衝撃。
 間近で相対したその顔に、アン=ゾフィーははじめて戦慄を覚えた。
 本能だけを投影したように思われたぎらついた目は、剣を交えた瞬間、ガラス玉のように無機的な静謐にとってかわられていた。
 その目からは何を考えているかなど到底うかがい知ることはできない。
 しかし、誰かがどこかで操っているかのように、次に繰り出された彼の剣は無駄なく精確にアン=ゾフィーの甲冑の隙間をついて肩口に切り込んでいた。
 苦痛に意識が揺らいだ彼女は思わず剣を取り落としかけた。が、すぐに飛び退り間合いを取る。その拍子に右の肩からは血が迸り、強かに彼女の頬と狂戦士の頬とを濡らした。
 その伝い落ちてきた血を、狂戦士は恍惚としながら舌で搦めとる。
 アン=ゾフィーは全身が粟立つのを感じた。
 確かに化け物だった。
 デルフォーニュという大国において実力で大将までのし上がった自分が、この狂戦士の前では赤子同然だった。
 自分はけして弱くない。天才ではないけれど、人よりも鍛錬してきた自信がある。
 彼女は挫けそうになる自分を奮い立たせるために一心に自分に言い聞かせた。
 何より、ここで倒れ、滅びの草原の土になるにはまだ早い。
 敵わないのならせめて、一筋だけでもいいからあいつの身体に傷を残したい。
 そうでもしなければ楽土で兄にあわせる顔がない。
 とうに生きることなど頭になかった。
 彼女は目の前の男を倒すことだけを糧に、二大国の和平が崩れて以来二年間を過ごしてきたのだから。
 無論、望みを果たした後のことなど僅かばかりも考えてはいなかった。
 アン=ゾフィーは陽炎のように身を起こし、剣を構えた。
 狂戦士は油断しているのか、剣を持った手ももう片方の手もだらりと垂れ下げたままだ。
 なめられている。
 その怒りがアン=ゾフィーの身体から痛みを打ち払い、鬨の声となって彼女を彼へと向かわせた。
「うぉぁぁぁぁぁっっっっっ」
 剣は、思いのほかすんなりとその細い身体に飲み込まれた。
 あまりの手ごたえのなさに、彼女は靄にでも剣を突き刺したのかと思ったほどだった。
 現に、無防備に倒れ掛かってきた身体に見た目ほどの重さはない。それどころかついさっきまで動いていたのが不思議なほど、その身体は軽かった。
「いた……僕のロエラ……今度こそ、終わりにしよう……?」
 アン=ゾフィーの右肩の傷に顔を埋めるようにして倒れた狂戦士は、熱に浮かされるように呟いた。
 だが、朦朧とする意識の中で自らに喝采を送っていた彼女の耳に、憎き仇敵の小さな囁きが届いているはずはなかった。 
 アン=ゾフィーは傷口にかけられた負荷に耐え切れず大地に両膝をつく。それに伴って先に意識を手放した狂戦士の身体が草むらの中に飲まれていった。
 すでに彼女の呼吸も荒い。
「兄上……」
 アン=ゾフィーは空を見上げた。
 低く垂れ込めた暗雲の中、黄金の稲妻が縦横無尽に駆け廻る。
 脅かすようなその轟音が、彼女の耳には祝福の鐘の音に聞こえた。



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