光の大地 空の海
7.デスキッスの呪い
敷島小柚香、あと何時間で二十歳が終っちゃうのかなんて考えてる暇すらなくなっちゃったわよ。ったく。
そんなわたしは、日々激動する世界を的確に把握し分析するために経済学を学ぶ超現実派(のつもり)。だったのだが、ゴキブリほいっ☆に捕まるがごとく異世界につれてこられ、囚人ナンバー666号という大方の日本人には痛くもかゆくもない番号とともに刑務所にぶち込まれ、いつの間にか貴重な二十歳最後の時間をデスキッスと呼ばれて恐れられ、調子に乗って世界滅亡を企ててしまった孤独なテロリスト。を気取ってたはずなのに、憎き敵に助けられ、つい今しがた、彼女らに同情してどう考えても現実に害しか及ぼさなそうな世界の救世主となるべく初恋の人のキスを拒んだところだった。
てか、キスなんてそんな簡単にしていいもんじゃないでしょっ。
正当防衛よ。これはわたし自身にとっても正当防衛なのよ。
わたしの理想は大好きな人と感極まってのキスなのよっ。どうして世界のデリートをかけてキスされなきゃいけないわけよっ。それも大昔に行方不明になった初恋の人とっ。初恋なんて、とうに時効よ。初恋初恋言ってるけど、昨日の夜に星見るまでちっとも思い出しもしなかった人じゃない。初恋ともいえないわ。ちょっと年上だったからうっかり憧れてただけよ。現代版の身分違いの恋のような設定にちょっと浸ってみたかっただけだったのよ、あの頃は。
大体、どうしてこんなめんどくさいことに巻き込まれなきゃならないのよ。
そうよ、そもそも巻き込んでくれたのはこの人、玲亮お兄ちゃんじゃない。この世界の管理者とかってたいそうな肩書き手に入れちゃってさ。神様と呼ばれるくらいならなんだって可能なんでしょうよ。
「お兄ちゃんっ。この世界を元に戻してあげてよ! そうよ、異次元間転送機だけ抹消して造り直せば問題ないんでしょう? もっかい戻ってプログラミングしてきてよ。わたしそれまでここにいるから。お兄ちゃんならできるんでしょう? 神なら、この世界のなんだって動かせるんでしょうっ?」
やっちゃいけないとわかりつつもびしっとお兄ちゃんの鼻先を指差して、わたしは思いの丈をこめて啖呵を切った。
お兄ちゃんは多少呆けたようにわたしを見下ろす。
「小柚香お嬢様、多分、それは無理な相談だよ。忘れないでほしい。今のこの状態は、この世界が無限の選択肢の中から刹那刹那選び取ってたどり着いた結末なんだ。そもそも、この世界にやり直す機会を与える理由はない。俺たちの目的は、聞いただろう? ディユから。これは俺たちの、現実の世界の行く末を見定めるための実験なんだ。第一、俺たちは滅びればそれまでだ。やり直すなんて選択肢はないんだ。神なんていないんだから」
伏せられた睫が頬にかすかな影を落とす。その影は蛍光灯の光がどこか弱弱しいせいか、覇気なく深淵に沈んで見えた。
「俺たちの世界はやり直しがきかない。だから、プログラムの中でシュミレーションする必要がある。決定的な過ちを犯さないようにするために。しかし、彼らはただの箱庭の住人だ。自らを数字の羅列と知らない、いや、認めようとしない愚かな生き物」
お兄ちゃんの唇から紡ぎだされた言葉は、次第に自分勝手な神様のように傲慢で尊大になっていった。
その言葉に触発されたのだろう。ククルに支えられてディユが身を起こす。
「もう……いいわ。所詮あなたたちと私たちの世界は次元が違う。私たちはプログラムされた運命を進むただの駒。消えた物だってあなたたちのさじ加減でもう一度構築することも出来れば、何度でも消すことだってできる」
ディユはもはやわたしのことも玲亮お兄ちゃんのことも見てはいなかった。くるりと身体の向きを変え、丸みを帯びながらも隙間なく真暗い天井までそびえる銀色の壁のある一点を見つめ、ククルに肩を借りながら這うように歩を進めはじめる。
わたしは急に疎外感を覚え、だからといってディユに肩を貸そうと駆け寄ることも出来ずに、二人がわたしから遠ざかっていくのを感じていた。
「ねぇ、小柚香お嬢様」
ふと、ククルが歩みを止めて振り返った。
「小柚香お嬢様にも僕らが数字の羅列に見えてるの?」
振り返ったけれど、顔は上げない。陰になったその部分でどんな表情でそんなことを聞いたのか、わたしには分からなかった。だけど、声は低く、恨めしい。
ぞっと寒気がして、わたしは半歩退いた。
「僕らは白く発光する0と1の塊? この空間は数字を象った蛍光緑の光で一杯になってる? あなたにもそう見えてる?」
「なんで……? どうしてそんなこと聞くの?」
「神にはそう見えてるから」
ククルはすっと顔を上げた。それまでのどこかおどおどとしたククルの表情からは想像もできないほど鋭く憎しみに歪んだ眼光が、まっすぐに伸ばされた指先とともに玲亮お兄ちゃんを刺し貫いていた。
玲亮おにいちゃんは困った風でもないのにちょっとほろ苦く笑って見せる。
「僕は誓ってこの世界を裏切る気なんかなかった。だけど、そこの男が勝手に僕を神の目にした」
「神の目?」
「そうだよ。僕が知らないところでこの男は僕の見たものをそのまま受け取り、僕の聞いたことを盗み聞いていた」
わたしの問いに、ククルは顔を歪める。
半信半疑で振り返ったわたしに、玲亮お兄ちゃんは悪びれることなく頷く。
「君の感じたことも思考したことも全て、知っている。君はこの世界の住人が考えていることを知るために神生まれてきたのだから。そして、この世界の技術力の粋ともいえる場所にたどり着くように運命を定め、リアルな世界に影響がないか監視するために」
何か、とてつもないことをこの人は言ってるような気がした。
人の見るものを、聞くものを、感じたことを、思ったことを、全て把握されている。そんなの、プライバシーも何もないじゃない。リアル体感型のゲームやってるんじゃないんだから、そんなの、あっちゃいけない。たとえ神様でも、現実の世界を守るためでも。
その時点で、この世界は神によって歪められている。
「正当化するんだね。己のしたことを」
「違うよ。間違えたことを正しいと言い換えようとすることを正当化というんだ。ククル、君はもともと俺の目とするために俺がプログラミングして生み出したんだ。誰の血を引いているわけでもない。だから、俺がしてきたこととその目的とはそもそも矛盾しない」
ククルは薄暗がりでも白くなっていると分かるほど唇を噛みしめ、しかしやがて憐れな生き物を見るかのように玲亮お兄ちゃんを見やった。
「シンクロしてるって言ったね。僕はそれを逆手にとってあなたの見るものを見たことがある。あなたが見るこの世界はパソコンのモニターに映る0と1の羅列だけだった。進化の組み込まれた生物は白、そのほか無機物は黄緑色に発光する数字の塊。あなたはこの世界に存在しているときでも向こうでモニターを覗いているときと変わらないものを見ていた。おそらく、この世界に存在できるように数字に置き換えた小柚香お嬢様の姿だって、僕らと同じ白い塊にしか見えていないはずだ。あなたは知らないからこの世界をリセットしようなんて思えるんだ。この世界はあなたの見る世界よりもっと色彩溢れていて、光満ちてる世界だったんだ! それを歪めたのは誰あろうあなたたち創造者だろう? ルヴァシュ、あなたは知らないかもしれないけど、この世界の人間がどんどん利己的になってったのはあなたの先生が僕らの技術力に恐れをなして現実世界に影響を与える前に自滅するよう少しずつウィルスを送り込んでいたからなんだ。僕やディユ主任の大切な友人や家族や、研究仲間、みんなみんな、血液からはこの世界のものじゃないウィルスが検出されたよ。あなたの先生は、神にこの世界を見限らせるためにこっそりそんなことまでしてたんだよ。返せよ! 僕たちの大切な人たち返してくれよ!!」
一瞬、玲亮お兄ちゃんの姿が薄くなったような気がした。意志が揺れたのだろうか。
その間にディユは自力で冷たく鈍く輝く壁の前に辿りついていた。そっと手をあてる。手の平を象った板も何もない滑らかなその壁に。
「リセットしても何度でもよみがえる? またプログラミングすれば、何度だって同じ世界同じ人がそこに出現する? 違うわよ。私たちは一度消えれば二度とよみがえることなんか出来ない。どんなにルヴァシュが丹念にこの世界を再構築してくれようと、今度は私とルヴァシュが出会うこともない。それだけで、私の人生は百八十度変わってしまう」
黄緑色の光がディユの手のひらを象り、複雑な紋様を周囲に広げ、迸った。
視界が光に染まり、闇に転落していく。
わたしは一人、何を言うこともすることも出来ずに突っ立っていた。
存在自体が揺らぎそうだった。
わたしは、一瞬でもこの物語の主人公になったと思ってた。
悪の女首領でもいい。もちろん、歳は食ってるけど世界の救世主だってよかった。どうせ何も出来ないならとらわれのお姫様でも、まだ助けに来てくれる王子様の正義のインセンティブになれるだけましなはずだった。
わたしは、そのどれにもなれなかった。
ただ世界の行方を決める神と人の決戦の場にぽつんと転がった、場違いな大きさの石ころだった。
ただの、傍観者だった。
与えられた力さえ、どう使ったらいいかわからない。
何のために与えられた破壊する力だろう。
「違うよ、小柚香お嬢様。どうしてほしいと思ってあげた力じゃない。小柚香お嬢様が使いたいように使えばいい」
耳元をくすぐる優しい声が囁いて消えていった。
「行かないで」
声が消えた方に手を伸ばしては見たけれど、何も掴むことはなかった。
光が収束する。
玲亮お兄ちゃんはどこにもいない。
一番近いところではククルがうつぶせに倒れていて、開けた壁の向こうにはぱっくりと白い空間が口をあけていた。手術室のような明るさのその真下には仰々しい黒い機械。そこに附属した縦に据えられたカプセルの中で、ディユは誰かを抱きしめ、目を閉じ何かを待っていた。
異世界間転送機。
見たことがあったわけじゃない。ただ、こんな風に隠し部屋に残っているならもはやそれしかないんだろうと。
ディユの横の道しるべほどの低さの操作盤上ではめまぐるしくカラフルな光が踊っている。
「あ、ディユ主任!」
目が覚めたククルがわたしの横をすり抜けて一目散に異世界間転送機へと走っていった。
「向こうへ行くのはまだ実験もしてないじゃないですかっ! 危険です! 駄目です! 出てきてくださいっ、早くっ!!!」
あー、ククルはディユ主任のことが好きなんだなー。
こんなときなのに、引き寄せられるように近づきながらわたしはぼんやりそんなことを思った。
滑らかな女性の声がカウントダウンを開始する。
ディユが抱えているのは玲亮お兄ちゃんだった。
もしかして、いや、もしかしなくても玲亮お兄ちゃんの身体ごと現実の世界に行って暮らすつもりだろうか。
あるいは、現実行きの機能が未完成だとディユ自身知らないわけがない。いっそ、人質代わりにとり寄せた玲亮お兄ちゃんの身体ごと消えてしまおうとでもしているのか……。
もう、どうでもいいや。どうせどう転んでもわたしは助かりっこない。ルヴァシュもどこかに行ってしまったし、このままこの世界に閉じ込められたままわたしは数字の塊として死んでしまうんだ。
だって、石ころは何も出来ないもの。
「ディユ主任! ディユ主任!!」
なのに、何の力も持っていないはずのククルは必死に操作盤を弾き、カプセルの中でまどろんだように目を閉じ続けるディユの名を叫び続けていた。
世界を救おうとか、そんな大儀なことであの人は必死なんじゃない。ただ、ディユを失いたくなくて、その一心でいつもぼんやり切れのない表情に一生分の必死さで操作盤を叩きつづけているのだ。
ククルは玲亮お兄ちゃんの先生がお兄ちゃんの知らないところでウィルスを広めていたって言ってたっけ。だけどどうしてそのウィルスはあの二人には感染しなかったんだろう。ククルは玲亮お兄ちゃんがプログラミングして別個に造ったものだったから? じゃあ、ディユは? ディユもそうなの? 現実の世界への梯子を作ってしまった女も、お兄ちゃんがプログラミングしたものだったりして?
ここに玲亮お兄ちゃんはいない。
誰も真実は知らない。
だけど、ククルはどうしてディユが好きなんだろう。神の目として造られただけの存在なはずなのに、その運命すらお兄ちゃんが造りだしたものだというのに。お兄ちゃんがククルがディユを好きになるように仕向けたってこと? どうして?
「さっぱり分からないわ」
二階建てのお家一つありそうな異世界間転送機を見上げて、わたしはククルの傍らでそう呟いた。
「もしそうだとしたら、玲亮お兄ちゃんは全部分かっててあなたたちを造ったのよ。ウィルスにも負けない新人類として生き残ってほしくて」
異世界間転送機のカプセルの中でディユに抱きしめられた玲亮お兄ちゃんは、スーツを着ているわけでもきれいに髪をセットしているわけでもなく、ぼさぼさの頭と長いこと放置したらしい髭面にだいぶ着古したトレーナー、ぼろぼろのジーンズを履いていた。おそらく、現実で研究室に閉じこもりっぱなしのお兄ちゃんはいつもあんな格好をしているんだろう。
昔はもちょっとパリッとした格好をしてたものだけど。
『原点転送五秒前、四、三、二、……』
呪ってさしあげましょう。このデスキッスで。
二度とこんなことにならないように、諸悪の根源を。
わたしは二人が閉じこもったカプセルにそっと唇を寄せた。
冷たくも柔らかな感触は一瞬拒むようにそっと押し返し、しかしやがて諦めたようにわたしを受け入れたようだった。
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