光の大地 空の海

8.タイトルばかりファンタジーぶらないでっ


 敷島しきしま小柚香さゆか、あと何時間で二十歳が終っちゃうのかなんて、生き死にかかってる時に考えていられるかってーの。
 そんなわたしは、日々激動する世界を的確に把握し分析するために経済学を学ぶ超現実派(のつもり)。だったのだが、ゴキブリほいっ☆に捕まるがごとく異世界につれてこられ、帰るために募金活動に勤しんでいたら詐欺のおばあちゃんにだまされて囚人ナンバー666号という大方の日本人には痛くもかゆくもない番号とともに刑務所にぶち込まれ、いつの間にか貴重な二十歳最後の時間をデスキッスと呼ばれて恐れられられたもんだから、調子に乗って世界滅亡を企ててしまった孤独なテロリスト。を気取ってたはずなのに、憎き敵に助けられ、彼女らに同情してどう考えても現実に害しか及ぼさなそうな世界の救世主となるべく初恋の人のキスを拒んだものの、結局蚊帳の外だったのねと思い知らされてもう自棄で現実に帰るための唯一の手段である異世界間転送機を壊してやろうと口づけたところだった。
 いや、ただ自棄だったんじゃなく、まともに完成もしてないのにわたしより自棄起こしたディユが玲亮お兄ちゃんの本体抱えて閉じこもるわ、その前でククルがびーびー泣き叫ぶからさ、仕方なく全ての元凶らしき機械を消滅させてやったのよ。ええ。
 後悔?
 そんなのしてるに決まってるじゃない。
 これでわたしは呆然とわたしを見てるディユとその腕に大人しく身を任せてる玲亮お兄ちゃんの本体と、へなへなと座り込んじゃったククルと一緒にこの狭い、食べ物すら自給自足できなそうな銀色の空間で残り少ない余生を暮らさなきゃならなくなったんだから。
「何か文句ある? 要はあの異世界間転送機って奴さえなければ、わたしらの世界の人たちはこの世界を恐がらなくてもすむわけでしょ。滅ぼそうなんて思わないわよ」
「……でも、私たちはまた開発してしまうかもしれない。この世の本質を知りたいと思うのは、いろんなものを突き詰めている人間共通の願いよ。そう、あなたたちが私たちをプログラムしたのよ。あなたたちがそういう特性を備えているから」
「そんなこと、わたしの知ったこたないわよ。少なくとも、わたしにはあなたたちは数字の塊なんかじゃなく、ちゃんと表情ある人間の女性と男性に見えるわ。この世界だって――」
 真っ暗だったはずの頭上から光が差し込みはじめていた。ただ白い光じゃない。うっすらと青みを帯びた、よく晴れた日の空の色を帯びた光。
 はじめてこの世界に踏み入れた時にきれいだなぁって感じたあの空が、暗闇を配して天井を青く染め替えていく。無限の空の色。だけど、海のように身近で底知れない深さを抱く青。
「ただ蛍光緑に0101せわしく光ってなんかいないわよ。ちゃんと青く見える。空に見える」
 銀色の壁にプロテクトされていた空間は、一枚一枚細かい光の粒子となっていつの間にか青々とした草が生い茂る大地の上に散っていく。
 もしかしてあの異世界間転送機とプロテクトの壁とは一緒のものだったんだろうか。
 何にしろ、世界は失われてなんかいない。
 そよぐ風は相変わらずどこか海の香を孕んでいてさわやかだ。
 ただ、世界の終わりを経たかのような奇妙な静けさが空間中に横たわっていた。動くものの気配はどこにもない。生き残ってる人がいるのかどうか、それは神のみぞ知る。そんな空気だった。
「ククル、さっき、血液からこの世界にないウィルスが検出されたって言ってたわね。それ、今ある?」
「え……、いや、さすがに多分もう……」
「あるよ」
 慌てて白衣のポケットやらなんやらを漁りだしたククルを尻目に、別の男の声がその辺から割り込んだ。
「ルヴァシュ……」
 感動してんだかまだ寝ぼけてんだかわからない声でディユが腕の中でもぞもぞ動き出した男の名前を呼ぶ。
 玲亮お兄ちゃんは感動的に「ディユ……」なんて返すこともなく、無造作に立ち上がるとわたしの前に一本の試験管を差し出した。
「この中にウィルスのサンプルが入ってる」
 透明な上澄み液の下に、青い粉がとけきれずに沈殿している。
「なんか毒々しいわね」
「だって毒ですもん」
 髭面のお兄ちゃんは軽く試験管を振って見せた。
 沈んでいた青い粉は上澄み液の中でふわりと舞い上がり、ゆっくりとまた落ちていく。
「これ、玲亮おにいちゃんには0と1に見えてるの?」
「……そうだね」
「この世界も、まだ0と1?」
「……そうだよ」
 わたしは上目遣いに玲亮お兄ちゃんを見上げた。
 不思議なくらい落ち着いた微笑を浮かべている。
「嘘つき」
 そう言って、わたしは玲亮お兄ちゃんの手から試験管を抜き出した。そのままよーっく混ぜて、青く濁った液体を手のひらに掬い取る。
「どうする気?」
 不安げに聞いたのは玲亮お兄ちゃんでもククルでもなく、ディユ。
「どうするって、壊すのよ。この世には存在しない物質だってククルは言ったけど、これによってこの人はみんな利己的になっちゃったんでしょ? なら、元から存在しなかっただけで、今は立派にこの世界のものよ。人々の精神を破壊するウィルスでも、わたしの唇にかかれば無意味なものになる」
「だけどそれだけ壊したって……」
 ディユの制止するような声は無視して、わたしは手のひらのコバルトブルーの液体に唇を寄せた。飲む気はさらさらない。一瞬水面に口づけて、透明になった液体を大地に返す。
 そんな地味な作業を何度か繰り返して、試験管の中身は空になった。
 返した水は尖った草の葉を伝い、滴となって大地にしみこんでいることだろう。この世界にとってはほんの微かな量。だけど川に溶け込み、めぐりめぐればこの世界全土に降り注ぐ。この世界のあらゆる場所に蔓延しただろうウィルスは、時間はかかるけど間もなくめでたく浄化される。
「どうして分かったの? このウィルスにデスキッスが口づければワクチンになるって」
「物語のセオリーってのはそういうものでしょ。小さいとき、お兄ちゃんが読んでくれたんじゃない、たくさんの童話。でも、半信半疑だったから神様がそう言ってくれて安心したわ」
「セオリー、ね。だけど、小柚香お嬢様はどんでん返しの方が好きだったでしょ」
 玲亮お兄ちゃんはすっと身を屈めて、微かに透明な水の残るわたしの手のひらに口づけた。
 ずんっと心臓が跳ね上がるのと同時に、全ての色彩は再び剥がれ落ち、真っ白だけが残った。
「はっ!? ちょっ、何してくれんのよ! せっかく人が良かれとちまちまワクチンまで造って存続させようとした世界をっ!!」
 ここにはディユもククルもいなかった。
「あの世界には、だけどもう誰もいないよ。ディユとククルだけだ。彼ら自身がプログラムをし直すことの無意味さを十分に理解しているからね。俺は何もしなかった」
「出来なかったんじゃなくて?」
「しなかった」
 何それむかつく。
「だからって、何もまだ二人残ってるあの世界壊すことなんかなかったじゃないっ!!」
「壊してはいないよ。壊れる条件はルヴァシュにデスキッスの唇が触れたときだからね。俺が小柚香お嬢様の手のひらにワクチンもらおうと口づけるくらいなら問題ないわけ」
「じゃあ、どうしてこんな真っ白になっちゃったのよっ!? てか、どうして神様なのにワクチンが必要なのよっ」
 わたしは、ひたすら白い空間に向かって叫んでいた。玲亮お兄ちゃんが目の前に見えているわけじゃない。だけど、目の前から声がして来るんだからそっち向いて怒鳴るしかないじゃない?
「さあ? 俺も感染してたからかも。利己的な心って奴に。だけどまだ治らないみたいなんだ。やっぱり、ちゃんと小柚香お嬢様、治してくれる?」
 ぐいと見えない腕が有無を言わせずわたしを前に抱き寄せる。そのまま何かが喚こうとしたわたしの口をふさいだ。
 目を見開くわたしの視界にはどアップの玲亮お兄ちゃんの顔。背後には白い壁の四角い隅っこ、そびえるいくつかの灰色いキャビネット。
 わたしは雰囲気に酔うことなく、遠慮なく手足をばたつかせた。が、足は頼りなくかくんと膝が折れ、抱きかかえる腕をすり抜けてわたしは座り込んでいた。
 にやりと玲亮お兄ちゃんは口元に意地悪い笑みを浮かべる。
「ダメでしょ、キスするときは目を閉じて大人しくしてなきゃ」
 なんだ。なんなんだ、この屈辱感。
 人がせっかくこつこつ積み上げてきたものを根底から崩してやったぞみたいなあの笑み。
 握った拳は怒りを溜め込みすぎてしまっていて、目の前の男の頬を張るには重くなりすぎていた。
「なんなのよ! なんだっていうのよ! 今までのが全部水の泡じゃない! ディユもククルも消えちゃったじゃないっ。大体、ディユは玲亮お兄ちゃんの恋人だったんでしょ? それを別れたんだか何なんだか知らないけど、よくもそんな酷いこと出来たわね!? 殺したのよ? 直接手かけてなくても、わたしたち人殺しちゃったのよ!?」
「殺してないし、なくなってもいないよ」
 わたしの腕を取ったまま、髭面の男は機嫌よくにまにましている。
「まさか今までのは全部わたしの夢でしたーとか、質の悪い落とし方するつもりじゃないでしょうね!? あるいは何? わたしの心の中では生きてますとかそう言うつもりっ?」
「はぁ、いつからこんなに疑い深くなっちゃったんだろ。やっぱ目離すもんじゃないなぁ」
「まるで自分が育ててきたみたいに言わないでくれるっ? 大っ体、わたし、そんな山男みたいな髭面大っっ嫌いなのよ」
「ああ、白タイツの王子様好きだったもんね」
「違うっ。話を蒸し返すな、そこでっ」
 ああ、疲れる。
 てかどこよ、ここ。
「俺の研究室」
 きょろきょろしているわたしの考えていることを見抜いたらしく、すかさず髭面の男はそう言った。
「研究室。ああ、そう。で、どうすればわたしは帰れるわけ? やっぱもう無理? 無駄? だったらわたしから離れてくれる? 餓死するまで少しでも残り少ない二十歳の余生を平穏に過ごしたいのよ」
「なんだよ、自分ひとりで帰るつもり?」
「そうよ。そんな髭面の冷酷な神様なんて知りませんっ」
「おかしいなー。極端な利己主義治す薬作った本人が今度は感染しちゃったみたいだ」
 力任せにひき寄せた割には、優しく玲亮お兄ちゃんはわたしに唇を寄せた。
 だけど今度はそうはいくものですかっ。寸前で玲亮お兄ちゃんの顎を押しやり、かっこ悪かろうが手と足とお尻を総動員して距離をとる。
「だまされるもんですかっ。これ以上ルヴァシュとキスなんかしたらこの空間まで……」
「ルヴァシュじゃないよ。もうルヴァシュじゃない。小柚香お嬢様も、ここではただの敷島小柚香。デスキッスの呪いは解けました」
「…………はい?」
「だーかーらー、ここなら何回俺たちがキスしたって世界が滅びることはないの」
「……………………だーれかー、ここにキス魔の変態がいますーーー」
「誰がキス魔の変態だっ。昔っから小柚香お嬢様って人の話聞かなかったよな。はじめだけ聞いて後は勝手に物語つくってわかった振りしてさ」
「だったら誤解されるようなこと言わないでくれる? 危険に晒されると逃避本能が働くのよ!」
「危険ってなんだよ。俺のこと?」
「それ以外に何があるって言うの」
「あ、今物扱いしたな?」
「髭面の男なんか物で十分よ。存在意義認めてるだけありがたいと思いなさい!」
「あー、今度は俺以外の髭愛好者も侮辱したな」
「だからっ、こっち来ないでって言ってんのよっ」
 ぜーはーと肩で息をつきながら、冷たい壁に背中がついたわたしは、野良犬でも睨むように睨みつけて玲亮お兄ちゃんを威嚇した。
 ぴたり、と玲亮お兄ちゃんは五十センチ前で止まった。
 手を伸ばされれば届くかもしれない。
「……やめた」
 ゆっくり五つ数えたところで、玲亮お兄ちゃんはぼそりと呟いて何事もなかったかのように立ち上がり、わたしに背を向けてしまった。
「確かに説明不足だった。安心していいよ、小柚香お嬢様。ここは現実だよ。小柚香お嬢様の生まれた世界」
 背を向けてぼりぼりと後頭部をかいて、玲亮お兄ちゃんはぶっきらぼうにそう言った。
「嘘っ。だってここは研究室だって……」
「サイレス研究所じゃなく、実験やってたパソコンがある俺の研究室ね」
「あ……」
 玲亮お兄ちゃんは振り返りざま呆れ果てた顔をした。
「何で? どうやって戻ってきたの? やっぱり……」
「あっちの世界は存続してる。小柚香お嬢様、あの青い液体に唇つけただろ。あれ、デスキッスの能力中和する薬だったの。呪い解く薬っていった方が雰囲気あるか」
「え、でも、じゃあわたしがしたことって無意味だった……?」
「そうでもない。もう少ししたら、きっとみんな元通りになる。あのワクチンがしみこんだ水が雨になって降り落ちれば、眠っていた街は何事もなかったかのようにまた動き出す。ただし、ルヴァシュやデスキッスのことはもちろん、異世界が存在することも、異世界間転送機なんて作ってこっちの世界侵略しようとしてたことも忘れて」
「……レテの水と眠りの森の美女が混ざったような話ね」
「上出来だろ。全て目が覚めれば、はじめは結構混乱するだろうけどね。何せ制度や法令はそのままだ。あまりに偏った社会制度に首脳部はまず頭を抱えてくれることを俺は望むよ」
 長く伸び放題伸びた髭の下で口元を歪ませて浮かべた皮肉げな笑みは、全てを手放し自由にしたルヴァシュのものに見えた。
 だけど、その自由にした世界には彼女がいたはずだ。
「ディユは? ディユは、いいの?」
 わたしはゆっくり壁伝いに立ち上がりながら訊ねた。
 玲亮お兄ちゃんはちょっと斜め上に視線を投げる。考え込むように。
「あの人だけは、ちゃんと女性に見えたんだよな……。嫉妬、した?」
「は? してないわよ、嫉妬なんか!」
「ヘぇ、すごい自信だなぁ」
「自信って何よ。何の自信よっ。言っとくけどね、わたしは昨日牢屋にぶち込まれるまで玲亮お兄ちゃんのことなんかすっっかりっ、忘れ果ててたんだからねっ」
 たった一台だけのパソコンの前で立ったままマウスを動かしていた玲亮お兄ちゃんの手が止まる。
「そう……だったんだ」
 あからさまに肩の両端が落ち、勢いよかったマウスの動きも極最小限範囲に切り替わる。
 え、なに。何なのこの落胆振り。慰めなきゃ駄目? って、慰める? つっこんで切れるしか能のないこのわたしが?
「玲亮お兄ちゃん、いや、でも、あの、ね……」
「見て、小柚香お嬢様。雨が降ってる!」
 さっきまでの落胆ぶりはどこへやら。
 無邪気に玲亮お兄ちゃんはモニターを指差した。
 四角いデスクトップの中、上空から映し出されているのは真っ黒な雲に覆われた空と、激しく大地を打ちつける白銀の針のような雨。
「ディユとククルは?」
「無事だよ」
 画面が切り替わる。
 すぐそばにまだ青ざめたものの、落ち着きを取り戻したディユの横顔があった。
 これは、きっとククルの目から見ているんだ。
「こんな見つめ方してるんだから、同じもの見ててその気にならないわけない、か」
 すごく優しい目で見てるのが分かる。シンクロとかそんなことしなくたって、 誰にだって分かる。ディユが安心しているのが分かるから。
 そのディユが、ふと顔をこちらに向けた。
『ありがとう』
 疲労は拭い去れなくても、表情にはふっきろうとするかのような潔い微笑が浮かんでいた。
「ありがとう」
 玲亮お兄ちゃんは瞼を閉じて、静かに応えた。
 そして、一呼吸置いて画面は真っ暗に切り替わる。浮かび上がったのは白い数字とアルファベットの羅列。それが玲亮お兄ちゃんの手によってどんどん書き換えられ、上へ上へと押し上げられていく。
 わたしはその袖裾をちょっと抓んでみた。
「玲亮お兄ちゃんの身体もちゃんとこっちに戻ってる……」
「そりゃあ、ね。置いてくるようなへまはしないよ。デスキッス次第でワクチンになりうる教授の作った新種のウィルスサンプル持ち出して、ククルの愚痴聞きながらディユを怒らせて異世界間転送機と俺の身体隠してる部屋のプロテクト解除させて、光った瞬間にこの身体とチャンネル合わせて滑り込んで、デスキッスの耐性つけるために小柚香お嬢様の手からワクチン飲んでキスをして」
 疲れ果てたような深いため息が、キーボードを弾く軽快な音に隠れるように唇から漏れ聞こえてきた。
「やっぱり帰るにはキ……キスするしかなかったわけ?」
「そ。ルヴァシュとデスキッス、世界で両極端にある最強のもの同士が歩み寄ることが大切だったの」
「歩み寄る……ずいぶん強引な歩み寄りがあったものだわ」
「それとも、あっちの世界で一緒にいたかった? お金も家もなーんにもないあっちの世界で一緒に暮らしたかった?」
「何でそうなるのよ」
「もしそうだとしたら、俺、小柚香お嬢様以外ほんとに見えてなかったからね。こっちにいるより危険だったかも。さて、と、小柚香お嬢様、そこの壁のコンセント、抜いてくれる?」
 わけの分からないことをほざきながら背伸びをすると、玲亮お兄ちゃんはわたしの足元にある灰色い大き目のプラグを指差した。
「これ?」
 わたしはしゃがみこんで尋ねる。
「そう」
「でもこれ、もしかしてパソコンの……」
「そうだよ。それを抜けばあの世界は自由になる」
「電気なきゃ……って自家発電できるんだっけ?」
「全部切り離す。こっちの世界から干渉することができないように。あの世界はもう独立した世界になった。小柚香お嬢様を連れ込み、俺のこの身体を連れ込み――彼らは現実の欠片を手に入れたんだ。こことは違う次元ではあるけれど、確かに現実にあの世界は存在するようになった」
「……だから、わたしを連れ込むのには協力した。元からあの世界を現実のものとして独立させるために」
 ぐっとコンセントからプラグを引っ張ると、意外なほどあっさりとそれは抜け去ってしまった。
「ほんとに、大丈夫なんだよね? あ、それこそ教授の許可とか他の研究仲間はどうしたの!?」
 急に不安になって見上げると、玲亮お兄ちゃんはぼんやりとモニターを見つめていた。
「大丈夫。あの世界をどうするか一任されてたのは俺だもん。教授には余計なことされたけど、ちゃんと戻ってこれたし、干渉体も何もなくなったし」
 明るい光が玲亮お兄ちゃんの顔に当たっている。
 光降り注ぐ大地。空の青を映し出す輝く海。
 モニターに映し出されていたのはあっちの世界で見た美しい景色。
 それを前に、玲亮お兄ちゃんは一人の世界に浸りきった様子でこう言った。
「光の大地、空の海。……うん、それでいこう」
「光の大地、空の海? 何よ、それ。何かのタイトル?」
「新しいネットゲームの題名」
「……な、ん、で、す、と……?」
 それは夢オチや心の中で生きてますに続いてたち悪いエンディングではありませんかっ?!
「あああ、誤解しないでよ? 小柚香お嬢様が、ただ寝こけるだけじゃなく貴重な誕生日前の時間を過ごしてきたのは確かなんだから!」
「そうよ! 当たり前でしょう?! 異世界に連込まれるって設定とデスキッスっていう能力のつけ方はきわめてファンタジーをかじったような形跡残しているけど、妖精が出てくるわけでもゴブリンが出てくるわけでもない。出会った人といえば旅の仲間どころか敵ばっかりだし、やったことといえば募金活動と牢屋にぶち込まれてくさい飯を食ったくらい。『光の大地、空の海』だぁ? タイトルばかりファンタジーぶらないでっ」
 ばしんっとわたしは机の上に溜め込んだ怒りごと拳をたたきつけた。
 その振動に驚いて玲亮お兄ちゃんが握っていたマウスをクリックしてしまったのか、あるいはわたしの拳の先がEnterキーをかすってしまったのか。
 モニターの中の美しい風景は消え去り、古時計を模した映像が現れる。秒針がわりの振り子は規則正しく時を刻み、二往復半目にボーン、ボーンとお腹の底を揺らすような低い鐘の音を鳴らしはじめた。
「ハッピーバースデー、小柚香お嬢様」
 するりと玲亮お兄ちゃんはわたしの目の前に白い箱を差し出した。
「え?」
「六月二十八日、でしょ。二十歳卒業おめでとう」
「二十歳、卒業……? そっか、そうよね。更なる大人へ向けて新たな旅立ちよね」
 いそいそと箱を開けると、中にはチーズケーキが一つ入っていた。
 おいしそうだ。この上なくおいしそうに見える。だって、覚えてる最後のご飯は刑務所で食べた質素な朝ごはんだもの。
「でもこれ、いつ買ったの? 今……じゃもうコンビ二しかやってないわよね。この箱どう見てもコンビニのケーキの箱じゃないし。シールにケーキ工房って書いてるし」
 わたしは早速同梱されていたプラスチックのフォークで一口ケーキを掬い取り、口に入れる。
 とろろんと舌の奥でとろける甘酸っぱいチーズのコク。
 二口目を掬い取ったところで見計らったように玲亮お兄ちゃんは言った。
「それ、向こうの世界で一番美味いチーズケーキ作るとこのケーキだよ」
 と。
「え、え、え、それって……!?」
「小柚香お嬢様、チーズケーキ好きだっただろ? ここのケーキはこっちの世界のより美味いんだよなぁ。ある意味味覚プログラムの極限をマスターした店っていうか……やっぱ、世界全部切り離すのはもったいなかったかなぁ」
 持ってきたのか。そうか、向こうの世界から持ってきていたのか。よく冷えているようだけど一体どうやって?
「異世界間転送機、ディユがその身体抱えて立てこもる前に実験してた? このチーズケーキ、冷蔵庫に送ってみたりとか、してた?」
 わたしがわなわなと震えている隙に玲亮お兄ちゃんはフォークに刺さった貴重なわたしの二口目を食べてしまっていた。
「あの機械、実用化されてたら相当危険だったなー」
 口笛でも吹く勢いで玲亮お兄ちゃんはわたしの手からフォークを奪い取り、自ら二口目を掬いに行く。
「危険? あの機械が危険? 確かにあの機械は危険だっただろうけど、もっと危ないのはそんなプロジェクト実行したあんたらだろうがぁぁぁぁぁっっっ」
 神さま。
 いるならどうか、このバベルの塔を造るかのような愚行を犯した者たちに鉄槌を下してやってください。
「大人気ないよ、小柚香お嬢様。まずはその言葉遣いから直そうね」
『そうよ。せっかくわたしがルヴァシュを譲ってあげるんだから、ちゃんと相応しい女になりなさいね』
 大人の余裕らしきものを見せる玲亮おにいちゃんに追従するディユ声がして、ひらひらとわたしの手の中に一通の手紙が降ってきた。
「結婚式の招待状? ディユとククルの? へぇ、やったじゃん、ククル」
 開いた手紙を覗き込んで自分のことのように嬉しそうに玲亮お兄ちゃんは言う。どうでもいいけど、わたしには書いてる文字は読めない。
「えっとー、転送開始時間はこっちの時間で六月二十八日の午前零時十五分……」
 玲亮お兄ちゃんがそう読み上げた瞬間、とってもとっても心の底から嫌になるほど純粋な光がわたしたちの上に降り注ぎはじめた。
「……ここはどこ? わたしは誰?」
「……ここはどうやらあっちの世界の教会。あなたは小柚香お嬢様」
「さっき干渉は一切なくなったばかりじゃなかったの? てか、帰ってきたばかりじゃなかったの?」
「……さぁ……分かるのはこっちは向こうよりも時の流れが速いってことくらいだけど……ディユの記憶、消えなかったのかな……」
 白い建物の上にはこれ見よがしに十字架が乗っかっている。その下、両開きに扉が押し開けられて、明るい鐘の音とともに一人の花嫁が花婿を置いてきぼりにして飛び出してきた。
「ルヴァシューっ、小柚香ーっ」
 ディユだ。スタイリッシュな白い衣装に身を包んではいるが、あれは白衣なんかじゃない。ウェディングドレスだ。
 それも、わたしの名前呼び捨てじゃなかったか?
「いーやーっ、あっちに帰してーっ、いい加減休ませてーっっっっっっ」
 わたしは問答無用で花嫁に背を向けて逃げ出した。
 行くあて?
 そんなん、あるかぁぁぁぁっっっ!








〈了〉〈続く……?〉



←7  書斎  管理人室  読了









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