光の大地 空の海
５．壊してやるわよ、こんな世界！
敷島小柚香、あと十七時間で二十一歳。
ぎりぎりまだ二十歳の女子大生。
またの名をデスキッス。
そんなわたしは、日々激動する世界を的確に把握し分析するために経済学を学ぶ超現実派（のつもり）。だったのだが異世界に連れてこられ、囚人ナンバー６６６号という大方の日本人には痛くもかゆくもない番号と共に刑務所にぶち込まれ、いまや使い古された破壊者の名の下に極悪非道の数々を成し遂げようとしているまっ最中だった。
正義の旗に憧れたこともあったけど、悪として期待されちゃったんだから仕方ない。
まずはこの唇、諸悪の根源に捧げてやろうと、今まさに互いの呼吸が感じられるところまで唇を近づけていたところだった。
が。
金髪碧眼美青年はするりとわたしの腕の中から消え去った。
まさか。
まだ唇はどこにも触れていないのに。
そう思ったら、ククルはとっさにしゃがみこんでわたしのキスを回避していた。
わたしはにっこり笑んでククルを見下ろす。
「どうやら本当らしいわね。デスキッスってのは」
嬉しくもなんともないが、この唇があればこの世界の住人を脅かすことができるらしい。
そう。
わたしはものの十分少々で心身ともに破壊者として申し分ない資質を開花させていた。
さすがにククルの愛想笑いもひきつったものになる。
「小柚香お嬢様、あの、今僕にそれをしますとですね、なにがあろうが、もうあっちの世界には帰れなくなっちゃいますよ？」
「あっちの世界？ ……あ゛っ」
「……忘れてたのか」
「いや、すっかり悪者扱いされて救われる道もなさそうだったから」
わたしはしゃがみこんでククルに真っ直ぐ視線を据えた。
ごくりとまたククルは生唾を飲み込む。
「それで、ただ助かりたいだけでそんなこと思い出させたわけじゃないでしょうね？ ちゃんと完成したから迎えに来たんでしょう？ 帰るシステム」
整った顎に片手を添えてわたしは脅す。
「あれっぽっちしか寄付集まらなかったのに、昨日の今日でそんな都合のいいことあるわけないじゃないですか」
悪びれる風もなく、むしろ揶揄をこめてククルは言った。
どうやら運命はどこまでもわたしを裏切り続ける気らしい。
「ふぅん、そう。それじゃあ、とりあえずククル……」
顔を近づける。
心臓のどきどきなんかなかった。
それ以上に悪いことができる期待の方が強かった。
けれど、触れ合う間近で形のいい唇が嘲りを洩らした。
「ねぇ、小柚香お嬢様。小柚香お嬢様さ、キスしたことないでしょ？」
「！！」
反射的に離れたわたしを、今度はククルがたっぷり余裕を含んだ笑みで見下ろす。
「なんだ、図星か。もう二十歳も過ぎたってのに」
「まだ二十歳よっ！ まーだっ」
「明日にゃ一つ年取るでしょうが。そんな短い時にしがみつくなんてみっともない」
「みっともなくなんてないわっ。貴重な時間大切にして何が悪いの！ 二十歳んなったばかりだろうが、あと十何時間しか二十歳でいられなかろうが、二十歳は二十歳なのよ！ 同じ時間刻んでんのよっ」
叫び返すと、いささか気圧されたようにククルは後退した。
が、いやな笑みは浮かべたままだ。
「まぁ、なんでもいいけど。とりあえずここ出ません？ 早く逃げないと、さっきの奴らが助っ人呼んでまた湧いてきちゃうかも」
わたしはそっと片眉を引き上げた。
「ククル、あんた一体どうやってここに入ってきたの？」
「どうって、普通に入り口から」
「それで見つからないわけないじゃない！！」
「ねー」
ククルはにっこり笑って小首を傾げてみせた。
「ねー、じゃないでしょ！ ねー、じゃ」
「でも事実なんですもん。あ、ほら、無駄話してる間に邪魔なのが来ちゃったじゃないですか」
どやどやと足音も高らかに刑務官のおじちゃんたちはやってきて、案の定、わたしが牢から出ているのを見ると階段を下りたばかりの入り口で急停止した。
「お、お、お、お前！ このまま逃げられると思ってんのか？」
ああ、正義の味方が情けない。
足腰震えてるじゃない。
ため息を吐いて、そのかわりに埃っぽくなった空気をわたしは盛大に吸い込んだ。
「ええ、逃げてやるわよ？ 何てったって、こっちには人質がいますからねっ」
ぐい、と爪を立ててわたしはククルの腕を口元に掴み寄せた。
「さ、小柚香お嬢様？！」
必死に引っこめようとするククルの腕を押さえつけ、わたしは先頭にたって啖呵をきってくれたおじちゃんを睨みすえる。
「いいこと？ 国民の命を守りたかったら大人しく車を一台用意しなさい」
気分は悪女。
悪いことをしているっていうのに、胸に上りつめるのは充実した高揚感。
テレビでよくやってるから成功確率が低いことくらい分かってるけど、ククルが頼りにならない以上、自力で逃げるにはこれしかない。
「ククル！」
「はいっ」
「あなた、車運転できるわよね？」
「で、できます」
「よろしい。それじゃあ、今すぐサイレス研究所までの道もあけなさい」
「その必要はないわ！」
ふふんとククル片手に女王様気分でのけぞって見せたときだった。なんとも張りのある女の声が地下牢に響き渡った。
「あなたが会いたいのは私でしょ？」
後ずさる警備兵たちの間をまるで赤絨毯でも歩くように悠然と歩んでくる女は、紅いスーツに真白い白衣を纏い、ずいぶんと高い紅いヒールを履いている。唇を強調する色も紅。その強烈な紅にかすみもしない大きな黒い目と整った眉、美しいラインの鼻梁。
自然、わたしは歯噛みした。
せっかく女王気分を味わっていたのに、あっちの方がよっぽど女王様慣れしている。
「ディユ主任！」
嬉しげにククルが叫ぶ。
なるほど。あの女性がディユ主任。
常識の欠片もない実験を強行し、帰り資金がないからと被害者に募金させ、投獄されても当日中に迎えもよこさなかった最低の上司様。
「ククル、相変わらず情けないわねぇ。そんな小娘に捕まって。さっさと振り切ってこっちに来なさい」
ああ？ 今なんつった？
「小娘だと〜？」
「なぁに？ あなたなんかまだ若干二十歳の小娘なんでしょ？ 私何か間違ったこと言ったかしら？」
腕組みをしてふふんと顎を上げる。
ああ、あの人を見下した目、すっごくむかつく。
でも。
「ふ、ふふふふふふふ」
「どうしたんですか、小柚香お嬢様。ノリノリだったのに女王様の地位奪われて壊れちゃいましたか？」
「違うわよっ。あんたも聞いたでしょ、ククル。小娘って言ったのよ。まだ二十歳の娘！ わたし、まだまだ娘として通用するってことよね！！！」
「……馬鹿か」
「今なんか言った！？」
「いいえ。でも、小柚香お嬢様。僕、そろそろお暇します。ディユ主任が呼んでいますので」
きつく掴んでいたはずの腕は、簡単にするりと抜けていった。体温、とまでは言わないけど、身体の横がひっそりうすら寒くなる。
そしてククルはひらひらとディユ主任の横で手を振っていた。
わたしは唇を噛みしめ、さらに噛みしめ、奥歯を噛みしめ、ククルでもディユ主任でもなく最も近くにいた刑務官のおっちゃんを熱い視線で凝視した。
おっちゃんは視線に気づいてじりりと脂汗をかきながら後ずさる。
それに気づいたほかの警備員や刑務官たちもじり、じりとわたしを牽制しながらこっそり後ずさり出したかと思うと、次の瞬間、喚声を上げながら雪崩を打ったように出口へと殺到した。
あとに残されたのは対峙するわたしとククルとディユ主任。
つと、ディユ主任の紅い唇の端が引きあがった。
「ようこそ、敷島小柚香さん。会いに来るのが遅くなって悪かったわね」
くっくっくっくっと喉の奥でいやーな笑い声を鳴らしながらディユ主任はわたしを見る。
すごく嫌な目つきだ。品定めするような……そう、例えば彼氏の元カノを見るときのような目。
勿論、わたしにそんな覚えは微塵もない。ええ、ないったらない。こっちで知り合った男性なんてククルだけだし、ククルにキスしようとしたのはデスキッスの効能を確かめるためだったんだしね。
「帰してください」
わたしも負けじと鋭い美貌の持ち主を睨みつけた。
「帰せないとは言わせないわよ。帰しなさいったら帰しなさいっ」
「無理よ」
怒声は、怜悧な一言によってすっぱりと断ち切られた。
「無理？」
聞き返すわたしの声は呆けたように気が抜けている。
「ククルから聞かなかった？ 帰すためのシステムは資金切れで開発途中になってるって」
「それでも帰してもらわなきゃ困るんです！」
拳を握って自分を奮い立たせるために叫んだ言葉も、ふぅん、というディユ主任のため息のような音にかき消された。
「それで帰って向こうで何がしたいわけ？ 調べたところ、あなたってば別に特に誰にとっても重要な人物ってわけじゃないみたいじゃない。恋人はいない、高飛車な性格のせいで親友と呼べる人もいない、両親は借金まみれで離婚済み。せっかく入れてもらった大学だって、何を思ったのか全然適性のない学部選んでるし。何やってるの、あなた？」
するすると、自信にあふれた女は人の痛いところだけをつまみあげた履歴を口で並べ立てた。
何も、知らないくせに。
そんな表面的なことしか分からないくせに。わたしの気持ちとか、嫌いで別れたわけじゃない両親の気持ちとか、そんなこと何も分かろうともしていないくせに。
「だから何よ」
腹の底から呪いのこもった低い声が湧き出した。
「だからなんだっていうのよ。好きなことだけできるのが人生じゃないでしょうが。うまく計算して事進められる人間ばかりじゃないのよ、あっちの世界は。なによ。この世界なんて、戸籍がないものが罪を犯せば翌日死刑？ 現代かちょっと近未来っぽい見かけしてながら、困って募金してもらってるのに詐欺働くおばあちゃんはいるわ、異世界の人間勝手に実験台にしてつれてきちゃうわ、道徳とか人間的な感情ってもんがなくなってんじゃないの、あんたたち！？ 大体、帰る方法もないのに自分たちの研究完成させたいがために危険な実験で人攫ってきて、ごめんなさいもないとはどういう了見してんのよ！ とりあえず謝んなさいよ！ わたしだって悪いことしたときには下げる頭くらい持ってるわっ」
一息に怒鳴り散らしてわたしはここに残った二人を見上げた。
女はまだ女王の貫禄を崩さず目の前に君臨し、その白衣の裾に隠れるようにして立っていたククルははじめこそおどおどしていたが、ふと、顔を伏せて笑んだようだった。
なぜその顔が見えてしまったのか、わたしは知らない。
あるいは、ククルは見せたかったのかもしれない。裁きを下した瞬間のその顔を、わたしに。
「やはり、この世界は間違った方向に進んでいたようだ」
その声は、聞き覚えのあるとても懐かしい低い声。
「出たわね、ルヴァシュ」
歪んだ感情に任せて赤い唇を引き上げ、いち早くククルを振り返ったのはディユ。
ククルは、ゆっくりと顔を上げる。
「……お兄ちゃん」
金髪は黒く染まりかえり、外国人のように彫深かった顔は見覚えのある、だけど
ずいぶんと大人びてしまった顔に変わっていった。それはまさに幻の魔法が解けるかのように。
「ずいぶんとご無沙汰じゃないの、ルヴァシュ。人の部下に成り代わっといて私に挨拶もないなんて。なめた真似してくれちゃって。どこにやったのよ、うちのククル！」
ディユは慣れたようにククルの――ううん、隣のお兄ちゃんの胸倉を掴みあげた。
「分かってて好きにさせてたのは君だろう、ディユ。気づいていたならさっさと俺を締め上げればすんだことだ。そうしなかったのは……俺の小柚香お嬢様でも見てみたかったのかな？」
余裕に満ち溢れた声は、傲慢な発言すらも思わず納得してしまいそうになるほど自信に裏づけされていた。
胸倉を掴んだままのディユの反応は、背中だけ見る分には特にない。ただ、胸倉を掴む手を緩めなかったことだけは確かだ。
「って、ちょっと！ 俺の小柚香お嬢様って何よ！ 俺のって何よっ！！」
「聞くとこはそこじゃないでしょ、小柚香お嬢様」
ちょっと小首を傾げて、隣のお兄ちゃんはにやりと笑った。
何？ 何なの？ なんかすごく嫌な感じがするんですけど。何この予感。なんかものすごく馬鹿らしいことに巻き込まれたような気がするんですけど。
「貴様……神だからって何でもしていいと思うなよ？」
「それは俺にふられた負け惜しみ？」
「馬鹿にするなっ」
ドラマで使い古された修羅場のごとく、ディユは胸倉を掴んでいた右手を離して隣のお兄ちゃんの頬めがけてはたき下ろす。
「いってー」
隣のお兄ちゃんは苦笑混じりにそう言って張られた頬に手を当てた。
「だけど、君とはこれで終わりだ。今度こそね」
ふっと隣のお兄ちゃんの姿はディユの前から消えていた。かわりに現れたのはわたしの背後。
わたしは幽霊でも見てしまったような恐いような不安なような複雑な気分に襲われた。
手は伸びてわたしの肩にそっと置かれる。
ほんとならここでわたしは振り返ってこう聞くべきだったろう。
「お兄ちゃん、神様ってどういうこと？ ほんとに神様なら、わたしのこと元の世界に帰せるんじゃないの？」
と。
だけど、わたしは虫の居所が悪かった。
何せ、勝手にわたしの前に現れて、陳腐な再現ドラマを強制的に見せてくれたのだから。わたしの存在なんか完全に無視して！
わたしはむんずとのせられたお兄ちゃんの手を掴み取った。
大きな手だ。
ククルよりはちょっと小さいけど、わたしの覚えている天体望遠鏡のピントをどきどきしながらあわせていたお兄ちゃんの手よりもずっと大きくて、もっと大人びた男の人の手になっていた。
その手にわたしは唇を寄せる。
「壊してやるわ、こんな世界……」
お兄ちゃんは手を引くことなくわたしの口づけをその手の甲に受け入れた。
音もなくお兄ちゃんの手は石膏のように灰色い塊に変わっていく。
「あっ、この馬鹿娘が！ 柱にデスキッスを与えたらお前ごとこの世は滅びるんだぞっ？」
叫んだディユはぐいっとわたしをお兄ちゃんから引き離す。
だけど、振り返ったとき、お兄ちゃんの身体はすっかり美術館にでもあるような石膏像に変わっていた。
不意に、大地が咆哮した。
ぱらぱらと落ちてくる天井のかけら。それらは次第に大きくなっていき、ドスン、がんっと重なり合うように壁も倒れていく。
なぜか、ディユはわたしの頭を守るように抱えていた。
「ちっ、あの馬鹿、本気か。小柚香お嬢様が内部にいれば壊せまいと踏んだのに……」
「それってどういう……」
「小娘、私に唇をつけるなよ。死にたくなければな。それと、ルヴァシュ！！ どこかで見ているんだろう！？ 私がこの娘だけ人質にとったと思うなよ？ お前の身体も向こうから取り寄せ済みだ。自分だけ元の世界に戻ってのうのうと暮らせると思ったら大間違いだからなっ」
ディユは男張りの啖呵をどこかへ向かって吐き捨てると、より一層わたしの頭をかばうように抱きしめた。
わたしは窒息しかけたせいなのか、地面の揺れに耐え切れなくなったのか、意識ごと身体に込めていた力を手放した。
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