光の大地 空の海

4.はぁ? 救世主じゃなくて破壊者だぁ?!


 敷島しきしま小柚香さゆか、あと十八時間で二十一歳。
 ぎりぎりまだ二十歳の女子大生。
 そんなわたしは、日々激動する世界を的確に把握し分析するために経済学を学ぶ超現実派(のつもり)。
 昨日も国際経済学の講義に出て帰宅途中、あろうことかいつの間にか異世界に引きずり込まれ、帰るために募金活動をしていたら詐欺のおばあちゃんにはめられて警察にしょっ引かれ、救いの手が差しのべられることなく牢屋の中で一晩過ごして目を覚ましたところだった。
 体が痛い。
 こんな堅い台の上で、よくも一晩熟睡できたものだ。
 昨夜は一服盛られたのかとも思ったけれど、どうやら単に疲れて寝ついてしまっただけらしい。
「ダメじゃん、わたし……」
 夜という逃げるに絶好のチャンスをみすみす潰してしまったのだから。
 寝ぼけ眼に見える景色は、昨夜と変わらず鉄格子の内側の世界。
 明り取りからさんさんと輝く光は降ってくるものの、その光が照らし出すのはごく一部。その光に避けられた部屋の隅に申し訳程度に囲ってある簡易トイレで用を済ませ、その横で手を洗い、ついでに石鹸で顔を洗って眠気を払う。
 こんな囚人生活もあと一、二時間きり。
 あと半日後には、わたしはこの世から消えている。
「うわ、マジで?」
 自分でしんみり言っといて、その言葉はどきりと心臓を貫いた。
 いやな焦燥感が肩から背中を覆っていく。
 これはさ、ほんとにほんとに、まずいんじゃない?
 語られるフィクションてのは、やっぱどうにかなるようにできているのよ。
 ここで殺されて、その後怨霊になって祟ったって、何もロマンチックな、あるいは胸躍る物語にはならないわけよ。
 そうよ、そうなのよ、小柚香。
 このままじゃ、わたしの物語じんせい、終っちゃうわよ?
 ふわりとお味噌汁の匂いが鼻をくすぐった。
 どうやら死刑囚にも最後の朝餉はつけてくれるらしい。
「666号、朝飯だ」
 化粧けのない刑務官のおばさんが、乱雑な言葉と共に隅っこの小さな扉を開ける。
 じゃらじゃらと音をたてるその手には、どこか他の部屋の鍵もついた鍵束も握られていた。
 あれを奪おう。
 見た瞬間、わたしは心に決めていた。
 逃げるためならどんな手でも使ってやろうと、一瞬で心が固まった。
 その前に。
 腹ごしらえはきっちりしよう。
 トレーを回収する時にあの小さな扉はもう一度開かれるはず。
 コトを起こすのはそのときでも遅くはない。
 神妙な表情を装って、わたしはいただきます、と味噌汁に箸をつけて一口飲んだ。
 おばさんはじっとわたしの様子を鉄格子の向こうから観察している。
 いつか向こうへ行ってくれるだろうと、ちらちら気にかけていたのだが、おばさんは一向にわたしの前を動こうとしない。
 仕方なくわたしはご飯に集中することにした。
 とはいえ、トレーには味噌汁以外、定番の麦飯とおしんこの小さなお皿だけ。
 これだけ?! と思わず叫びたくなったが、これだけでもないよりかはよほどマシといい聞かせ、わたしはそれらを口に流し込んだ。
「ごちそうさまでした」
 おばさんはよっぽど暇だったのか、結局わたしのことをずっと凝視していた。
 これではちょっとタイミングが計りずらい。
 食べ終わったトレーを回収するためにおばさんがあの太い腕を伸ばしいれてきたところを引きずり込み、はまって動けなくなったところで鍵束を頂こうと思っていたのに。
 もしや、いかにも手練そうなこのおばさん、そういう手口にも慣れっこになっているとか?
 ……手口。
 なんかほんとに犯罪者らしくなってきてない?
 いやいや、嘆いている場合じゃない。
 ちらり、とわたしはおばさんの顔を窺った。
 が、わたしの視線は鉄板の如き彼女の能面に弾かれて、無残に撥ね返る途中で黒く薄汚れた床に散っていった。
 ――敗北。
 いやな予感にわたしは身を震わせる。
 その隙に、おばさんの太い腕はわたしの前からトレーを引き出してしまっていた。
「……な……」
 呻くわたしにおばさんは、ちらりと見せた横顔ににやりと勝利の笑みを浮かべる。
「っ!」
 かっとなったわたしは、その狭い空間に腕を滑りこませ、おばさんのこれまた太い足首を掴み、思いっきり引っ張った。
「きゃぁぁぁぁぁぁっっっ」
 体に似合わぬ高音の悲鳴をあげておばさんの巨体は倒れていく。
 しまった。
 だから顔に近い腕の方から引き入れようと思っていたのに。
 でも躊躇している暇はなかった。
 わたしは予定通りじたばたするその足を引っ張り込む。
 引っ張りこんだんだけれど……太すぎて膝の手前で止まってしまった。
 おまけに鍵束はすっころんだ拍子に遠くに飛んでしまっている。
 おばさんは振り返り、もう一度にやりと笑った。
「ちっ、くっ、しょーっ」
 お嬢様なら絶対吐かない言葉を叫んで、わたしはおばさんのその大根のような足にかぶりついてやった。
「ぎゃぁぁぁぁっっっ」
 悲鳴が上がる。
「はふぁふぃふぇふぉひはっはは、はふぃふぁふぁふぉふぇ!」
 放して欲しかったら鍵束をよこせ!
 これは絶大な効果をもたらすはずだった。
 はずだったのに……。
「……うそぉ……」
 噛み付いていたはずのわたしの歯は、一瞬にして自分の歯とがっちりかみ合っていた。掴んでいたはずの大根足は、するりと消えてなくなっていた。
 それどころか、おばさんは着ていた服と靴だけを残して綺麗さっぱりわたしの前から消えていたのだ。
「ちょっと!! どこ消えちゃったのよ! 消えられたら鍵とってきてもらえないじゃないっ!」
 がなると同時に大勢の獄吏達が狭い廊下に雪崩れ込んで来た。
 そして、一人残らず大仰な悲鳴をあげた。
「ぎゃぁぁぁっっっ、江藤がやられたぁぁぁぁっ」
「破壊者が! 破壊者がっ!」
「誰か所長を呼んで来いっ!」
「だから昨日のうちにやっちまえって……!」
「鎮静剤だ! 鎮静剤を持って来いっ」
「持ってきて誰が打つんだよ! 俺はやだぞ! デスキッスの餌食にされるのはっ!!」
 慌てふためく男たちは口々に動揺を吐き散らす。
「……デスキッス? なにそのダサい名前」
 笑い声すら洩らすこともできず、茫然とわたしは呟いた。
 が、男達は今度は蜘蛛の子を散らしたように我先にと通廊から外へと逃げ出していく。
 後には再び昨夜の如き静寂と、遠くに離れた鍵束への歯がゆい思いが残された。
 何がなんだか分からないまま、ただ漫然とさっきの男達の叫んでいた言葉の断片断片だけが頭の中をよぎっていく。
「破壊者……、デスキッス……」
 一回、二回、三回。
 何度繰り返し考えたってわけが分からない。
 だって、異世界トリップもののセオリーによれば、トリップしてきた少女がその世界を救うことに最終的な目標があるはずじゃない。
 善良な少女に破壊の役目なんて背負いきれるわけがない。
「あ、そっか。わたしもう二十歳過ぎてんだった……」
 そうか。そうよね。
 十代の清い少女になら夢ある冒険もできましょう。
 世界を救うなんて熱い大儀を課すこともできましょう。
 だけど。
「二十歳を過ぎたすれっからしの女子大生には、破壊者っていう悪役がお似合いだっていうことなのね?」
 逆恨みと言うなら言えばいい。
 そもそも夢見がちなわたしの固定観念が、更に甘い夢を見せていたのだから。
 そうよ。
 さっきだって公権力に逆らっちゃったじゃない。
 自分が助かるためにおばさんの足に噛みつくなんて、それだけでもう常軌を逸してる。あの心理状態なら犯罪者たる資格は充分。
 それに。
「デスって……あのおばさんほんとに死んじゃったのかな……?」
 ざくりと冷たい良心という名のナイフが心臓を切り裂いていった。
 ぎゅっと冷たい掌が乱暴に心臓を握りつぶしてくれた。
 ぽろりと。
 昨日の昼からこっちに来て以来初めての涙が、埃まみれの汚い床に更に暗い染みをつけて蒸発していった。
 その染み跡を掻き消すように、じゃらりと金属音を立てて下の隙間から鍵束が勢いよく滑り込んで来た。
「おはよ、小柚香お嬢様」
 涙を拭う暇もなく、爽やかなその声にわたしは瞬時に顔を上げる。
「ククル!!」
「はぁい」
 睨み付けているにもかかわらず、金髪碧眼美麗な顔の持ち主はへらへらと笑って手招いた。
「殴りたかったら、まずは自分で鍵開けて出てきてね〜」
 こともなげに脱獄を勧める声に逆らうことなく、わたしは鍵束を手に取った。
 シールに書かれた名称を頼りに怪しい鍵を一本ずつ鍵穴に入れ、十六本目にしてようやくわたしがくぐってきた鉄格子の扉は開いた。
 わたしは鍵束を握りしめ、前屈みに牢を出る。
 そして諸悪の根源、ククルの前まで行くと、腕を振り上げ、勢いよくその首に両腕を回して微笑んでやった。
「な、なに?」
 若干青ざめたククルが引き気味に上半身をのけぞらせる。
「あんたにならくれてやってもいいわ、デスキッス」
 わたしはぐい、とククルの顔を引き寄せた。
 










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