(3)
夕方前から上がった雨は黒雲とともに去りながら、やがて燃えるように見事な夕焼けを引き寄せ、宵には満天の星空となった。参道の入り口に佇む赤い桜は徐々に暮れなずんでいく空の中でいよいよ赤みを増してほのかに輝いてさえいる。まるでここが終点だと教えんばかりに。
不気味なほどに静かだった。いつもは夕暮れ時から聞こえてくる虫の鳴き声も何かを悟ったようにぴたりと止まっていた。夜鳴く鳥たちも息を潜め、山全体が死を待っているかのようだった。
「お母さん、出てこないの?」
ちびシンジが心細げな声で僕の洋服の裾を引いた。
あれから何度教会の扉を叩いたことだろう。正面も、牧師館から渡り廊下で繋がる裏口も。石で窓を叩き割ることすら試みたけれど、教会は何か堅い守りで包まれているかのように、氷和さんを飲み込んだあと何者も中に入れようとはしなかった。一目中の氷和さんの姿を見出そうと窓を覗き込んでも、全ての窓に黒いカーテンが引かれ、明かり一つ見出すことができなかった。
僕はちび真至に答えてやることもできず、ただ口を引き結ぶ。
『夜になったら真至を連れて池へ向かってちょうだい』
暗闇の中、了ちゃんの持つ懐中電灯の赤い光の眩しさに氷和さんの言葉を思い出す。
「真至、氷和さんのことは僕が何としてでも連れ出す。だから、真至はちびを連れて氷和さんの言うとおり池へ」
先ほどからやたら山の下の村の方を気にしながら、次第に焦燥感を滲ませはじめた了ちゃんが、最後通告でもするかのように静かに、しかし反論を許さない厳しさをこめてそう言った。
僕はさらに顔をしかめる。
裾を掴むちび真至の手を握る。
まー坊はまだ下から戻ってこない。もしかしたら警察に捕まってしまってるんじゃないだろうか。下山する時の様子からして、患者たちがまー坊を警察に突き出しているとは思えないけれど。もしかして、氷雨さんが言い残していった犠牲者ってまー坊のことだろうか。
不安が重なるように覆いかぶさってきて、手足を冷たくしていく。
「真至、聞いているのか、真至!」
了ちゃんに揺さぶられてもまだ、僕は決断できずに閉ざされた教会の窓を見つめていた。ちび真至はさっきから一言も喋らない。だけど、ここから動きたくないのは、痛いほどきつく握られた手から伝わってきていた。
「聞いてるよ」
僕もちび真至の手を強く握り返したときだった。
「おーい、了一ーっ、真至ーっ」
下から駆け上がってくるまー坊の声が聞こえた。赤い桜の灯火の下を通って、手を振りながらまー坊が息を切らして駆け寄ってくる。
「どうしたの、まー坊。病院の人たちは?」
「患者たちなら下の医者がみんな公民館に押し込めた」
「押し込めたって……」
「ああ、大丈夫。ひどい扱いを受けてるってわけじゃない。おまわりも患者たちに罪はないことは分かってるようだった。ただ、事情聴取とかはされるかもしんないけど、俺たちよりかはましだろ。それより、」
「それより?」
「山焼きだ」
「山焼き?!」
絶望したようなまー坊の深く沈んだ声に、僕の素っ頓狂な声が重なった。
「そうだ、今村の奴らが氷菜に唆されて松明持って山の下に集まってる。氷和が警察から逃げて教会に立てこもっているから、燻りだしてやろうって」
「氷菜さんが……」
今更驚きはしなかった。双子の姉の遺体を池に投げ込んだくらいだ。氷菜さんなら、今度は氷和さんの命を危うくするようなことだって言い出すだろう。
「それにしたって、村の人がそんな簡単に……」
「簡単に集合したから俺が走ってきたんだよ。あいつら、自分の身内、酷い姿で殺されてんだ。ぎらついた笑い浮かべて嬉々として集まってた」
「殺されたって、氷和さんが直接手にかけたわけじゃないんだろ?」
「同じだよ。治癒の過程を経ているのかいないのかの違いだ。お前だって見ただろう? 取調室のあの遺体」
目裏に蘇りかけた緑のものを払うように、僕は目を閉じ、息を吸いながら開いた。
「氷和さんがやったって証拠はどこにもない」
かろうじてかすれた声が漏れ出る。
まー坊は不憫そうに僕を見つめた。
「自分もそう思ってるくせに」
「思ってない。思ってない、思ってない、思ってない!」
僕の怒声にちび真至が震えた。
「ごめん」
まー坊に向けるでもなければちび真至に向けるでもなく、僕は呟いた。
まー坊は溜息とともにもう一つの事実を吐き出す。
「村の奴ら先導したの、氷菜だけじゃないんだよ。おまわりの奴らも一緒になって焚きつけてた」
「……狂ってる……」
思わず僕は呟いた。そして、もう一度。
「この村は狂ってる……」
「そうよ。狂ってるからわたしが全部きれいにするの」
聞こえていたのだろうか。顔をあげると、氷菜さんが赤い桜の下に赤々と燃える松明を持って立っていた。その背後にはずらりと老若男女、百人ほどが火のついた松明を持ち、憎しみをたぎらせた目でこちらを睨みつけていた。すでに氷菜さんの台詞など聞こえていないらしい。その中には昨夜来たちょび髭も、魚正の遼二さんも混ざっていた。
「制裁を……」
「神はいない」
「奇跡などありはしない」
口々に呟き憎しみを募らせながら、氷菜さんのたった一言を今か今かと待ち焦がれている。
ちび真至の震えが僕にまで伝わってきて、僕は思わずちび真至を抱き上げ、抱きしめた。
ミャァ
ちび真至の腕の中でちびタマが弱々しい鳴き声をあげる。
「逃げろ、真至、正典」
了ちゃんがとん、と僕の肩を叩いた。
僕はからからになった口から無理やり唾を飲み込んで了ちゃんを振り返る。
「何馬鹿なこと言ってんだよ。お前も逃げるんだよ、了一」
「了、一?」
今更なのに、僕は記憶を手繰るようにその名前を呟いた。
『了一、お前安藤と同じ名前なんだから、そんなにがみがみ言うなって言っといてくれよ』
いつだっけ。まー坊がそんなこといってたのは。そうだ、この世界に来る直前、廊下に立たされていたとき。
僕は思わずじっと了ちゃんを見つめた。
「僕は行かない」
すでに腹をくくった表情で、了ちゃんは僕らにそう言った。
「今度こそ、氷和さんを助ける」
今度は小さく付け足すように。
「なんだよ、今度こそって」
「命の恩人なんだよ。兄がまだ母親のお腹の中にいる頃、助けてもらったんだ。だから、死なせられない」
表情を引き締めて、了ちゃんは握って石を再び教会の窓に打ちつけはじめた。
「母は、この日氷和さんを助けられなかったことを今でも悔やんでるんだ。兄を妊娠していて身動きが取れなくて。父さんも警察や消防団に根回しするので遅くなってしまった。あの日、母が荷物に押しつぶされていたら今の僕もいなかった。だから、僕しかいないんだよ。母さんは取調室の警官たちのように酷い姿にはならなかった。今でもちゃんと元気で生きてる。氷和さんの天使の力は本物だよ。村の人たちの祈りもあったんだろうけど、純粋な気持ちで僕たちを助けてくれたんだ、氷和さんは。それだけは、信じてくれ」
僕たちに背を向け、了ちゃんは一心に窓ガラスを石で叩き続けていた。その窓ガラスが、次の瞬間、ぴしり、と音を立てて皹が入った。
「あと、もう少しだ。もう少し」
そう呟きながら、さらに力強く窓を打ち付ける。
僕の腕の中でちび真至がもがいて飛び降りた。着地した場所にあった石を掴んで、ちび真至はもう一度僕を見上げる。
どうして僕は……赤の他人の了ちゃんでさえ信じているというのに、どうして僕は疑ってしまったんだろう。どうして僕は、さっき氷和さんが教会に入っていくのを引き止めなかったんだろう。きっと、蔑むような目で見ていたことだろう。いなくなるならその方がいいと、どこかで思っていた。
僕はちび真至を抱き上げた。ちび真至は手の届く位置にある窓を石で叩き割りはじめる。
「ちっ、仕方ねぇなぁ」
あれだけ憎んでいたのに、まー坊も顔をしかめたまま教会の窓を打ちつけはじめる。
「無駄よ。姉さんは出てこないわ。たとえ窓が割れたってね。出てこられるわけ、ないじゃない。村のみんなをどん底に突き落としたんだもの。人だけじゃない、国の保護まで奪って」
「国の保護が受けられたのは誰のおかげ? 村の人たちの重い病が治ったのは誰のおかげ?」
氷菜さんの言葉に、僕は負けじと言い返す。
そうだ、あの時もそう言ってやりたかった。嫌いな奴の腕の中でただ泣きじゃくりながら窓を叩き割ろうと、か弱い腕で石を握るより、何より、出来ることならそう言ってお母さんを守ってあげたかった。
「奪うくらいなら初めから与えなければいいのよ」
「与えられるくらいなら、初めから乞わなければいい」
ぐっと氷菜さんは言葉に詰まったようだった。
「君も、壊さなければならないくらいなら、初めから止めていればよかったんだ」
氷菜さんからの答えはなかった。
かわりに「行け」と掻き消えそうなほど小さな声が聞こえた。
人々の足音が散らばっていく。牧師館に、病院に、そして、教会に。
教会の僕らのところに真っ先に走ってきたのは遼二さんとちょび髭だった。僕らは必死になって窓を叩き続けた。大きく広がっていた皹はやがて内側に、外側に、ガラスの破片を散らして大きな暗い穴を晒した。
安堵する間もなく遼二さんとちょび髭の手が伸びてくる。
「父ちゃん、ごめん」
その二人に、まー坊が小石を投げつける。怯んだ二人の動きが鈍くなる。それを見届けて、僕は一度おろしたちび真至を見つめた。
「真至、頼む、お母さんを迎えにいってくれ」
「頼まれるまでもない。僕のおかあさんは僕が守る」
胸を張ったちび真至を抱えあげてやると、ちび真至はころんと窓から中に飛び込んでいった。
あんなに僕は勇敢だっただろうか。
胸にこみ上げる苦笑を飲み下して、僕は後ろを振り返って息を呑んだ。
燃えていた。
牧師館が炎に巻かれて赤く燃えていた。牧師館だけじゃない。いまや病院からも教会の屋根越しに、黒い煙が星空を汚していくのが見えた。そして、教会の正面入り口にも杉の葉や薪が積み上げられ、火がつけられていた。
僕は慌てて、叩き割った窓のすぐ横にある裏口のドアノブを回しはじめた。ドアノブは回れど回れど、押しても引いても開く気配はない。それならば、と体当たりを繰り返す。
「無理よ。開くわけがないじゃない。教会があなたたちを拒んでいるんだもの」
ゆっくりと氷菜さんが歩いてこちらに近づいてくる。
その時、嘲笑う氷菜さんの気持ちを逆撫でるかのように扉ごと僕の体は中に転がり込んでいた。
「約束、守ってくれなかったのね」
中に転がり込んだ僕を見下ろしていたのは氷和さん。その腕に抱かれていたのはちびタマ。
ニャァァァ
つと、いなくなったとばかり思っていた僕のタマが外から入り込んできて氷和さんを威嚇した。
「ちび真至は?」
「いなくなってしまったわ」
「いなくなった?」
「あなたが約束を守ってくれなかったから、私の真至がいなくなってしまった。池に逃げてさえいてくれれば、私の真至は助かったのに」
するりと氷和さんの手が僕の首に伸びてくる。
ニャァァァァァ
嘘だろう、と言う間もなく氷和さんは僕の首を絞めはじめる。
「次はあなたが私の真至になりなさい。あなたが死んで、私の真至に……!」
「つ、ぎは、って……じゃあ、あの、チビは……? 僕、は……」
どうなってるんだ? あのチビ真至は過去の、小さかった時の僕じゃなかったのか? この燃え上がる炎の中、池に逃がされて、池に突き落とされて――気がついたら五年の歳月を飛び越えてあの池のほとりで父さんに見つけられたんじゃなかったのか?
思い出せる限りの記憶をつぎはぎして予想していた顛末とは全く別の展開に、僕は酸欠になりながら喘いだ。締め上げられる氷和さんの指から冷たいものが中に分け入ってくる。それは血液に乗って体中を冷やし、全身、手足の指の先まで入り込み、感覚を痺れさせていく。
溶けていくようだった。身体中が全て分解され昇華されていく。
ニャァァァァ
タマが氷和さんに襲い掛かっていた。しかし、氷和さんは腕に噛み付いたタマを腕を一振りして振りほどくと、再び僕の首に力をこめはじめる。タマは振りほどかれた勢いで教会の中まで飛ばされ、祭壇に体を打つと動かなくなった。
「真至! 真至!」
了ちゃんとまー坊もそれぞれちょび髭と遼二さんに羽交い絞めにされて教会から引き離されていく。
そんな。そんな……これじゃあ誰も救われない。誰も、何も。こんなのは僕の過去じゃない。違う。氷和さんがこんな怖い顔で僕のことを殺そうとするはずがない。
それとも、僕だったのか?
あのちび真至じゃなく、僕がちびになったり、大きくなってからまたこのときに戻ってきてまたちび真至に……いや、ちび真至はちゃんといたじゃないか。あの勇気ある小さな真至が。
じゃあ、僕は誰だ?
――ニセモノシンジ。
ちび真至の声が聞こえるようだった。
ぞくり、と僕は震える。
まさか、また繰り返すのだろうか。
また、小さくなって池に落ちて時を越え、何度でも僕はここに戻ってくる羽目になるのか?
そんなわけはない。そんな記憶はない。こんな、氷和さんに殺されかける記憶なんて――
「真、至……」
薄れ行く意識を、頬に落ちて伝うものが繋ぎ止めた。
目を開く。
ぼろぼろと涙をこぼす氷和さんの顔があった。同時に、もう半分には目じりを吊り上げ、邪悪に唇の端を引き上げた氷和さんの姿が。
遠く、建物が焼け落ちていく音とともに雷の鳴る音が聞こえる。
一瞬緩んだ氷和さんの手を、僕は力づくで引き離して横に転がった。
息を整える間もなく、体は軋みを上げ、氷和さんは僕に腕を伸ばしてくる。その腕に、再起したタマが再び飛び掛った。
「タマ、大丈夫……か……?」
喉が嗄れてうまく声が出せない。だけど無理やり僕は体を起こす。
「あ、れ……」
両足はちゃんと教会の床板を踏んでいた。それなのに、視線の位置が教会の奥に設えられた祭壇よりも低くなっていた。声も心なしか高くなっている。
「あ、あ、あ……」
「ああ、真至」
氷和さんは再びタマを振りほどくと、小さくなった僕に両腕を伸ばす。慈愛のこもった母親の顔で。
僕は、転がるように教会の外に逃げ出した。さらに僕しか見えていないかのように追いかけてくる氷和さんを見て、牧師館から伸びてくる炎の手をかいくぐって、燃え上がる牧師館と病院、そして教会を眺めて笑いさざめく人々のいる広場へと転がり込む。
小さい体だといつもよりも歩数が多くかかる。その分息も切れる。
「おお、悪魔の子だ! 捕まえろ!」
燃え上がる建物だけに集中しているかと思いきや、人々は目ざとく中央に転がり込んできた僕を見つけ、群がってくる。
「やめ、もう、やめ……やめてぇぇぇぇぇっっっっ」
叫んだ瞬間、轟音とともに空から白い光が突き落ちてきた。その光は炎に包まれる教会の天辺にある十字架を打つ。ぐらりと揺らいだ十字架は、そのまま前のめりになって落ちてきた。
「わ、わぁぁぁぁ」
僕に群がりかけていた人々は蜘蛛の子を散らしたように引き返していく。
僕は、恐怖感に足を囚われたまま、叫び一つあげられずに落ちてくる十字架を見上げていた。
「真至ー」
お母さんの声が聞こえた。緊張感のない、まるで鬼ごっこをしていて最後に残った子を捕まえる時のような明るい声。
「来ないで。来ないで……」
震える唇で僕は降ってくる十字架を見つめたまま呟いていた。
しかし、次の瞬間、十字架は僕の視界から消えていた。一瞬きして見えたのは、炎の照り返しを受けて赤みを帯びた露草の鋭い葉だった。
恐る恐る僕は体を起こす。そして、振り返る。
「お母、さん……」
さっきまで僕がいたところにお母さんは倒れていた。その背からはあの十字架が斜めに突き立っていた。
「お……お……」
言葉が出ない。何も言葉が見つからない。その真っ白な頭の中に、冷えた氷菜さんの声が振ってきた。
「おやすみ、姉さん。安らかに」
安らかに?
「どうして、どうしてそんなこと言えるんだ? どうして!?」
僕は隣に立って氷和さんを見下ろしていた氷菜さんの肩を掴んでいた。
「見てごらんなさい。姉さんの顔。ほっとした顔してるでしょ」
言われて振り向く。
確かに、氷和さんは穏やかに笑っていた。でもそれは小さな僕を追いかけていた時の表情そのものだった。
「違う!」
「違わない! あなた、聞いたわよね。どうして壊さなきゃならなくなる前に止めなかったのかって。止められなかったからよ。見れば分かるでしょ。人は集まって一つ何かのことに意識を向けさせられると、たとえその中の一人が何を言ったって聞かなくなるのよ。見たでしょう? 目的を達成するまで、目が覚めないのよ」
氷菜さんが周りを見渡した。釣られて僕も首をめぐらせる。いつもの視線の高さで。
さっきまで松明を持って気を逸らせ、囃し立てあっていた人々は、いまや茫然と炎に包まれる牧師館や病院、教会を見つめていた。そしてある者は、氷和さんの変わり果てた姿に気づいて悲鳴を上げ、駆け寄りはじめていた。
「氷和ちゃん?! 氷和ちゃんっ!??」
口々に悲鳴を上げ、駆け寄るものは駆け寄り、気の弱いおばちゃんはその場に倒れこむ。
「なんで、何でこんなことに? 俺たちは一体……?」
「確か氷菜ちゃんが来て、教会に悪い病原菌が巣食ってるから焼き殺してほしいって……」
「俺たちはそんな言葉を信じたのか?」
人々は驚きざわめき、氷菜さんの姿を探しはじめる。氷菜さんは早々にその場から離れようと石段を下りはじめていた。
「田村氷菜はどこだ? 田村氷菜を探せ!」
「その前に火だ。火を消せ! 山が燃えるぞ!」
「水だ、水を持ってこい!」
広場が混乱しはじめる。その混乱に乗じて遼二さんとちょび髭の手を振り切ってきたまー坊と了ちゃんが僕の腕を引いた。
「逃げるぞ」
「逃げる? 逃げるって、どこへ?」
僕は氷和さんを見下ろし、首を振る。
「了ちゃん、これは了ちゃんの知ってる歴史と同じ?」
「……一部同じだけれど、一部違う。今まではずっと、教会の窓は割れなかった。ちび真至が中に転がり込むこともなかった」
「じゃあ、僕はいなくなるの?」
「今存在してるなら問題ないだろ」
「でも、いずれ僕は……」
頭の中で何かがぷちんと切れた音がした。口から意味もない言葉を撒き散らして、僕は了ちゃんたちの手を振りきり、炎の中に煙る教会へと猛進していく。
あの中にまだちび真至がいるはずだ。あの中にまだ……。
おいでとばかりに教会の入り口が開く。
「俺が行く」
僕の動きは、一本の腕によって止められていた。
鍛えられた太い腕でもなければ、折れそうな細い腕でもない。ただ、確かに何人もの命を救ってきたはずの人の腕。
「真人さん……」
真人さんはすでに水をかぶってずぶぬれになっていた。
「どうして……」
「取調室を開けっ放しにしたまま、あいつらが氷菜についていったから」
真人さんは忙しく消火活動にいそしむちょび髭をちらりと見やると、悔しげに拳を握った。
「頼む。真至だけは助けさせてくれ」
僕は頷いていた。
「よろしくお願いします」
真人さんが教会に飛び込んでいくのを見届けると、僕は腰から力が抜けてぺたんとその場に座り込んだ。
天を見上げる。
「神様。もしいるのなら、雨を降らせてください。せめて教会の火だけでも消えるくらいの雨を」
祈るまでもなかった。
黒い煙の中から、一粒、大粒の雨が僕の頬に振り落ちた。それから額に、唇に。やがて、細い雨は白い煙幕のように炎を吹き上げる教会や牧師館、病院を包み込んだ。
その中央から真人さんが小さな真至を抱えて出てきたのは、間もなくのことだった。
人々が真人さんたちの周りに集まっていく。
「行こう、真至。氷菜さんが心配だ」
まだ放心状態の僕の腕を、了ちゃんとまー坊が引っ張りあげても尚、僕の体は言うことを聞かないままだった。それでもかまわずに二人は僕を引っ張って鎮圧されはじめた火事の明かりを頼りに石段を途中まで下りて立ち止まった。
「池は、こっちだったか」
「こっちだな」
まー坊たちは、氷菜さんを追いかけるといいながら、石段をそれてあの蛍の池のある方へと向かいはじめた。
どうして池の方なんかに向かっているのだろう。もしかしたら今頃池に氷雨さんの遺体が浮かび上がっているかもしれないのに?
「や、だめだ。やめてくれ、近づかないでくれ、もうこれ以上、近づかない、で……」
ニャァ
不意に、雑木林を潜り抜けて、黄金の瞳を持つ猫が僕たちの前に躍り出た。
「タマ……タマ……!」
僕は了ちゃんたちの腕を振りほどいてタマを追いかけた。足はどんどんぬかるみに嵌っていく。
「真至、待て、真至!」
まー坊の声にはっと気づくと僕の周りでは蛍たちが乱舞していた。タマの姿は消え、蛍の光の中に氷雨さんの姿が浮かび上がる。
「氷雨さん……ごめん、僕、氷和さんのこと……」
涙に目が潤んだかと思った瞬間、氷雨さんの姿は掻き消え、再び蛍の群舞の中に戻った。
「真至、お前、池に引っ張られるところだったぞ」
ぐい、とまー坊が池の縁に立った僕の両脇に腕を差し入れて引き止めている。
「まー坊……どうして行かせてくれなかったの」
「そんなの決まってんだろ。行き先が違うからだよ」
怖い顔でまー坊は僕を睨みつけていた。
「お前は俺たちと一緒に未来に帰るんだよ」
「未来に?」
「そうだよ。真至たちは帰るんだ。僕が、氷菜さんを引き止めるから」
群舞していた蛍たちが一気に池の対岸に引き寄せられていった。その対岸にいるのは、ぼんやりと蛍を見つめていた氷菜さん。蛍たちが自分の方に向かってきても身じろぎ一つしないで蛍を見つめている。
「行くんだ、早く」
了ちゃんは僕を抱えるまー坊の背中を押したようだった。険しい顔をして了ちゃんを振り返っていたまー坊が、情けない声を上げて僕ごと前に倒れてくる。
水面が耳元で派手な音をたてた。
僕はまー坊の重みで沈んでいく。
同時に、対岸側にも白い泡が沸き立っていた。
――氷菜さん、了ちゃん……?
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