(2)
牢の外に出てからしばらく、僕たちは息を潜め、壁に張り付くようにして出口を模索していた。タマは一度、階段の方向を間違えて壁に突き当たり、引き返してようやく見つけた階段を上っていく。その間どの牢にも氷和さんや真人さん、松田医師の姿はなかった。一体、まだ取調べを受けているのだろうか。もしそうならば、取調室に乗り込まなければならないのだろうか。知っているはずのタマは、そ知らぬふりをして僕らを率いて歩く。そのタマがようやく立ち止まったのは、一階の奥、地下牢への階段を上りきって、見えた出入り口の明かりとは逆方向にある白い扉の前だった。
取調室1。
やはり、取調室の前だった。
本気かよ、タマ。そう言いたいのを我慢して、僕らは三人顔を見合わせる。ドアを蹴破って中には入れたとして、中にいるのは泥棒を捕まえたり、田舎とはいえ時に迷い込んできた凶悪犯を素手で血に付させることくらい簡単にやってのける警官だ。僕たちが三人でかかっていっても、一人押さえ込んでいるうちにもう一人にやられることだろう。
「それにしても、ここに来るまで誰にも会わなかったな。さっきまでおまわりの声、聞こえてたと思ったのに」
十分に低く声を落としてまー坊が腕を組んで呟く。
僕はちらりとタマを見下ろす。タマはつんと僕にそっぽを向いたまま、じっと取調室の白い扉を見つめていた。
やがて、まー坊の言葉に頷きあぐねていると、取調室の仲から、がたん、という椅子が倒れるような音がした。続いて、ゆっくりとドアノブが回される。
僕らは慌ててロッカーや積み重ねられた段ボール箱の陰に隠れ、息を潜めて中から人物が出てくるのを待った。
がちゃりという音がして、一息開けて扉が開かれていく。初めはゆっくり。しかし、すぐにそれは中から倒れこんできた人物によって急速に押し開けられた。
「氷和さん!」
僕は思わず大きな声で叫んで、倒れこんでいく氷和さんの下にしゃがみこんで肩を抱きとめた。
氷和さんは僕の肩に顔をうずめたまま、大きく肩を揺らしながら息をしている。その音がひゅーひゅーと僕の耳を掠めていく。
「大丈夫ですか、氷和さん」
「真、至……。だめ! 近寄らないで!」
力なく僕の名を呼んだかと思うと、氷和さんは思い切り僕を突き飛ばした。僕は為す術なく廊下に尻餅をつく。
「真至!」
警官たちを恐れて物陰で僕と氷和さんを見守っていたまー坊と了ちゃんまでが飛び出してくる。その二人の足元を縫い、両手を廊下について息荒く何かに耐え忍んでいる氷和さんの横をすり抜けて、タマが音もなくするりと取調室の中に入っていった。
「あ、こら、タマ!」
僕が声を上げたときには、とうにタマは取調室の中にいた。が、中からは誰の声も聞こえてこない。
思わず僕たちは氷和さんを見やった。そして、タマに続いてまー坊が中を確かめに飛び込んでいく。やがて中を一回りして戻ってきたまー坊は氷和さんの前にしゃがみこむと、憎しみのこもった目で氷和さんを見つめた。
「あれ、あんたがやったのか?」
低く氷の上を這うような声に、氷和さんの肩が震えた。
「そうなんだな?」
まー坊の二度目の問いには、氷和さんの肩は震えなかった。青ざめた顔が静かに上げられ、まー坊を見据える。怯えたのはまー坊の方だったらしい。しゃがんだままじり、と一歩後退する。氷和さんはそのまままー坊を追い詰めるのかと思いきや、思いのほかしっかりとした動きで立ち上がった。立ちくらみによろめくこともなく、じっと真っ直ぐに見つめたその先は交番の玄関。明かりの中にぽっかりと明いた黒い空間に向けて、氷和さんは幽霊のようにゆらりゆらりと歩き出す。
「待てよ!」
その背に向かってまー坊が叫ぶ。
「ばあちゃん殺したのもあんたなのか? 肉屋のおっちゃん殺したのも? 村中のみんなを治したふりして殺したのは、あんたなのか?」
抑えた声にこめられていたのは静かな怒り。しかし、そのまー坊の怒りさえ、今の氷和さんには届いていないようだった。氷和さんは足を止めることなく歩き続ける。
それを見やって、了ちゃんが取調室の中に入って小さく呻き声を上げた。僕は氷和さんを気にしながらも、取調室の中に一歩踏み込んだ。
途端、鼻をついた異臭に顔をしかめた。生ものが腐って汁がこぼれだしたような腐敗臭。その臭いの源になっていたのは、長机の手前と奥に倒れていた警官だった。二人は藍色の警官の制服を着ていたけれど、襟や袖からのぞく手足は緑と茶色に変色し、形は床の上で崩れかけていた。
思わず、僕は口元に手をあてた。
了ちゃんはいち早く衝撃から立ち直り、取調室から外に出る。僕もそこにいられなくて慌てて後を追った。その後ろからタマがついて出てくる。タマの尻尾が外に出るのを待って、僕は取調室の扉を閉めた。
「まー坊。もしかして、まー坊のおばあちゃんもあんな形で……?」
それ以上を言葉にするのははばかられて途中で言葉を濁したけれど、まー坊ははっきりと頷いた。
「癒されたはずだったのに、いきなり全身が腐り落ちていった。痛い寝かせてる布団の中でもどんどん水分が外に出ていって、ひどい臭いなんだ。白い布団もあっという間に茶色く変色して濡れていく。見てらんねぇよ、あんなの。俺らが現れたからばあちゃんがあんなになったんだって言われて、俺のせいじゃないって思いながらも、誰のせいにしろ、あれはあんまりだと思った。同じだったんだよ、あの中のおまわりたちと同じだ。あいつだよ。あの女がやったんだ」
まー坊が氷和さんをあの女呼ばわりするのに、ずきりと胸が痛んだ。だけど、僕には氷和さんを庇う言葉が見つからない。
「後を追おう」
冷静な了ちゃんの声に促されて、僕とまー坊は外に出た。
午後の空気を漂わせながらも、喪に服す村は不気味なほどに静かだった。昨日にまして、誰一人外を歩いていない。雨だけが舗装された大きな道路を強く打ちつけるでもなく黒く濡らしている。そのど真ん中を、氷和さんはふらふらと歩き続けていた。向かう先は耶蘇山。あの教会のある場所。
「待ってください」
その言葉は、発してはみたものの、まるで氷和さんの耳には届いていないようだった。氷和さんは立ち止まることも首を傾げることもなく、冷たい小雨の中を時折上半身を曲げるようにして咳き込みながらも歩きつづける。僕らは止めることもできずにただひたすら後ろから氷和さんの後を追い続け、そうこうしているうちに商店街も途切れて見慣れた山道となり、雨に濡れて尚満開に咲き誇る赤い桜の下を潜って牧師館に到着していた。
氷和さんは「ただいま」とかすれた声を漏らして牧師館に入っていく。僕らは入っていいものか否か、牧師館の入り口で立ち止まった。
中にはちびシンジがいるはずだった。それからちびタマが。
しかし、それほど考えあぐねる間もなく、何かに操られているかのようにふらふらと氷和さんは牧師館から出てきた。
「氷和さん!」
今度こそ僕らは氷和さんの行き先に立ちふさがって氷和さんを止めた。氷和さんは分かっていたかのように立ち止まり、僕らを順に見渡す。
「病院の人たちを山から下ろしてちょうだい。今は幸いそれほど重症の患者はいないはずだから、みんな自力で山を下りられるはずよ。病院の患者さんたちには、私たちに何かあったら下山するように言ってあるから」
「何かあったらって、……こうなることを分かっていたの?」
青ざめた僕の問いに、氷和さんは一度だけ瞼を閉じ、肯定も否定もしないまま再び口を開いた。
「夜になったら真至を連れて池へ向かってちょうだい。そこで一晩、何があっても外には出てこないで」
「氷和さんは?」
「真至にはあなたたちの言うことを聞くようによく言い含めてきたから。いろいろ押し付けてしまってごめんなさい。でも、もしそのためにあなたたちが現れたのだとしたら――お願いね。それから、真至君」
まー坊と了ちゃんを順に見た後、氷和さんは僕に目を留めてそっと腕を広げた。その腕で、同じくらいの高さにある僕の肩を包み込む。
「さっきはごめんなさい。無事に大きくなった姿を見て安心したわ。うちの子のことも、よろしくね」
僕がはっと息を飲み込む音が、氷和さんには聞こえただろうか? 氷和さんはゆっくりと腕を放すとにっこりと微笑んだ。まるで女神のように。
「じゃあ、またね」
「あ……、あ……母、さん……?」
僕の呼びかけに、氷和さんは一度足を止め振り返ると、にっこり笑った。
「元気でね、真至」
「母さん……!!」
再び僕は呼び止めたけれど、氷和さんはもう、立ち止まらなかった。真っ直ぐに教会の入り口へと進んでいく。真っ直ぐに背筋を伸ばして、咳き込むこともなく、堂々と歩いて両手で教会の扉を開く。
「氷和さん!」
僕たちは口々に氷和さんの名前を呼んだけど、氷和さんは振り返らないままに教会の中に入っていった。
追いかけなかったのは、追いかけられなかったからだ。近づこうとする者を拒む雰囲気が氷和さんの周りには張り巡らされていて。
しばらく、雨が降る中玄関の屋根下にも入らず、僕らは茫然と静かに閉じられた教会の入り口を見つめていた。
「まー坊、了ちゃん、僕、ちび真至についているから、まー坊と了ちゃんは病院の人たちを下山させて。みんな山を出たら、池に行こう」
二人はまたしばらく僕を見つめたあと、分かった、と頷いて病院の方へと走っていった。
僕は、二人が病院に駆け込んでいくのを待って、赤い桜の咲く後ろを振り返った。幹の裏側から、雨を弾く赤い傘の端がちらりと見えた。
「いいの? お姉さん止めなくて」
木陰から様子を窺っていた氷菜さんが、出てくるでもなく、ちらりと顔を出した。
「いいのよ。まだ、あれは姉じゃない」
そのまま氷菜さんはくるりと教会に背を向けて山を下ろうとする。
「ねぇ、何もできないの? 僕は何のために……」
僕は氷菜さんのあとを追いすがっていた。
下りかけた石階段の途中で、氷菜さんは立ち止まり、僕を振り返る。
「決まってるじゃない。あなたは自分を助けに来たのよ。あなたの役目はそれだけ。自分以外、誰も救えない。そうなっているのよ」
「そう、なっている?」
鸚鵡返しに尋ね返した僕を、氷菜さんは真っ直ぐに指差した。
「あなたももう一人の大きくなった自分に救われた。だからそこにいるんでしょう? よく思い出してごらんなさい。ニセモノ真至って、誰かのことを呼んでいたことはない?」
ずきりと胸が痛んで、僕は顔を歪めた。その顔を見て氷菜さんが笑う。
「そうね。何度も何度も繰り返されているこの悲劇を、あなたは一度も変えられていない。たとえ全てを変えることは難しくても、もう一つくらい、変えてもいいかもしれないわね。そう、一つずつ、事実を修正していくの。ええ、それがいいわ。わたしだって同じことの繰り返しは飽きるだけ。楽しくてやってるわけじゃないのよ? だから、教えてあげる。あなたの未来、あなたの友人と同じ名前の人がもう一人いない? その人は、この事件の知られざるもう一人の被害者よ。その人だけでも救ってごらんなさい。もちろん、自分もね」
赤い傘はくるりと翻ると、濡れたいしに滑り転ぶこともなくあっという間に山を下り終えていった。
「なんだよ」
呟いては見たけれど、それほど不満がたまっていたわけではなかった。
誰だろう。もう一人の被害者って。未来にもう一人僕の友人と同じ名前の人がいるって? それって、つまりまー坊か了ちゃんかどちらか? わざわざ氷菜さんがああ言うってことは、ただ同じ名前というわけでもないのかもしれない。
誰だ? 一体誰が?
「真至、何ぼさっとしてるんだ。ちび真至のことほったらかしかよ」
サナトリウムの入院患者たちを率いたまー坊が、黒い傘を差して早速参道へと差し掛かってきていた。
「ああ、早かったね、まー坊。了ちゃんは?」
「まだ病院で少し重くわずらってる人たちを起こしているよ。大丈夫、了一に任せておけば間違いはない。それより、ちびと氷和さんのこと、頼んだぞ」
「う、うん」
僕が道を明けると、まー坊は後ろの人たちに配慮しながらゆっくりと石階段を下っていった。
雨は小降りになり、どす黒い雲がうっすらと朱色を孕みはじめていた。
←6月20日(水)(1) 書斎 管理人室 6月20日(水)(3)→