雨降り館

6月21日 (金)  晴れ

 落ちていく。
 落ちていく。落ちていく。
 池の底へと、落ちていく。
 見上げれば水面越しに蛍たちの輝きを仰ぎ、見下ろせば緑の藻が迎え入れるように腕を広げている。
 まー坊もいた。了ちゃんも、氷菜さんもいた。
 みんな、落ちていく。
 落ちて、藻にからめとられていく。
 ――タマ、助けて、タマ。みんながあるべきところに帰れるように。
 藻が揺れた。
 蛍たちの光が水中にまで降りてきて、氷菜さんを包み込み、引き上げはじめた。それから了ちゃん、まー坊も包みこんでいく。
 でも、僕は。
「帰りたいか?」
 突如、藻の中から氷雨さんが起き上がってきて僕の手を掴んだ。
 驚いて僕は手を振り払う。
 氷雨さんは苦笑した。
「お嫁さんに、してくれるのではなかったのか?」
 意地悪く、そう言う。
「氷雨さん……」
 僕は真っ直ぐに氷雨さんを見つめられなかった。
「ごめんなさい、氷雨さん。こんなところに……」
「気に止むな。これは氷菜にわたしが頼んでおいたことだから。わたしが死んだら、この池に葬ってほしいと。夏至の候、見上げれば蛍たちが見えるこの池に。お前との思い出が詰まったこの池に。わたしが望んだんだ」
「でも……」
「ぐずぐずいつまでも考える奴は嫌いだぞ。……姉のことは残念だったが、あれしか時のめぐりを断ち切ることができなかったんだろう。本来ならあそこは氷菜が助けに入ってかすり傷で済んでいた場面だった。氷和姉は教会で自死していたはずだったんだ。でも、ちび真至が教会に飛び込んでいった。了一の言葉を通して、お前が氷和姉のことを信じてくれたからだよ。ありがとう、真至」
 ふわり、と氷雨さんが微笑んだ。
 僕の胸は、泣きたくなるほどにしめつけられた。
 愛しさにしめつけられたんじゃない。別れの時が迫っているからしめつけられたんだ。
「何度も何度も、わたしたちは同じことを繰り返していた。同じ時間の中で、何度も何度も。了一も、何度もお前たちを先に逃がすために、追いかけてきた村人たちを教会の前で食い止めていて帰り損ねていた。お前と正典は、炎の渦巻く教会の中で氷和姉の亡骸を見つけて絶望したまま煙に巻かれて気を失い、未来に戻っていた。何度も何度も、わたしたちは同じことを繰り返しては絶望していた。今度こそ、今度こそと思いながら同じ歴史を繰り返す。そもそもは、お前かわいさに」
 氷雨さんは小さく笑い声を漏らした。
 僕をタマの魂と引き換えに蘇らせたという、あの話も本当だということなのだろう。そのために氷雨さんの命も削られ、氷和さんの運命を狂わせ、氷菜さんも辛い目を見たのだろう。
「氷和姉はもちろん、氷菜もお前がかわいかったんだ。覚えているだろう? わたしが入院する前までは、お前は氷菜のほうになついていたんだから。わたしたちは後悔していないよ。お前を生き返らせたことが過ちだったとは思っていない。相応の償いはする覚悟はできていたんだ。でも、ようやくこれで終わらせられる。わたしがここにいる限り、次の真至はもう溺れさせたりなんかしない」
「だから、だからこの池に……?」
「そんな顔をするな。お前の笑顔を見たらわたしも眠りにつけるから、だから、な?」
 僕は、腕を掴んでいた氷雨さんの腕を引き寄せた。
「ありがとう」
「ああ。さようなら、真至」
「……さようなら、氷雨さん」




 誰かが名前を呼んでいる。ひっきりなしに、僕の名前を。
「ああ、よかった」
 僕の名を呼ぶ声が途切れて、安堵の声がかわりに漏れた。
「父、さん……」
 かすむ視界の中に初めに見つけた父さんの顔。火に包まれた教会に飛び込んでいった父さんよりも皺がたくさん増えて、めったに笑わなくなった父さんの顔。
「よかったぁ。真至、お前だけ目ぇ覚まさないから心配したんだぞ」
 続いて大げさに溜息をつくまー坊。
 見上げた天井にはステンドグラス。ゆっくりと視線をおろしてくると、大きな十字架があって、祭壇が赤い絨毯の延長上に厳かに置かれている。
「言ったとおりだったでしょう? 夏至の日にここに来れば帰ってきてるって」
 胸を張って父さんや了ちゃんのお父さんである村長さんたちに説いているのは、安藤了一先生。
 その笑顔を見た瞬間、僕の体からは血の気が引いた。
 了ちゃんを取り戻し損ねた。
 氷雨さんが一緒に戻してくれると思っていたのに。
「真至、僕ならいるよ、ここに」
 起き上がった僕を、落ち着いた笑顔を浮かべた了ちゃんが覗き込んでいた。
 僕は了ちゃんと安藤先生とを見比べる。
「どうして……?」
 了ちゃんが戻るのなら、もうこの世界にはいなくなっているものだと思っていたのに、先生はにやりと笑った。
「お帰り。残念だったな。口うるさい先生がいなくなってなくて」
「そ、そんなことは……」
「ひでぇよな。初めからどうなるか分かってて俺たちのこと廊下に立たせてたらしいぜ、こいつ」
「先生に向かってこいつとはなんだ、こいつとは」
「はぁ。どうして十七年でこんなに人格変わってんだろう、僕ったら。僕は絶対こういう大人にはならないようにしよう」
「え、い、いいの?」
 安藤先生を振り返って溜息をついた了ちゃんに、思わず僕は訊いていた。
「いいって、僕と安藤先生が同じ時間にいること? そんなの、今更だよ。僕が生まれる二年前からもう一人の僕はいたんだから」
「苗字が変わってるのは子どもがいない伯父の家に引き取られたからなんだけどな。十七年後、帰ってきたお前たちに会うのを支えに今まで生きてきたんだ。まさか自分にももう一度会えるとは思わなかったけれど」
 笑って了ちゃんの頭を撫でた安藤先生は、心から安堵しているようだった。
「真至だって、過去で小さな自分と一緒に過ごしていただろう?」
 うるさそうに安藤先生の手を振り払って、了ちゃんが言った。
「言われて見れば、なんともなかった」
「だろ? いいんだよ。俺はこれからもお前たちの先生。敬えよ?」
 にやりと笑った安藤に、了ちゃん自身とまー坊が溜息をついていた。僕は、なんだか分からないふわふわした気持ちで曖昧に相槌を打ち、ふと辺りにもう一人の姿を探した。
「父さん、母さんは……来てないの?」
 父さんは驚いたように僕を見つめ、ゆっくりと後ろを振り返った。そこには、父さんの背中に隠れるようにして僕を見守っていた氷菜さんと真一の姿があった。
 目が合うと、氷菜さんは怯えたように僕から目をそらそうとした。
「母さん、ただいま」
 僕は、目をそらされる前にそう言った。母さんは再び僕を見つめ、父さんを押しのけて僕のことを抱きしめた。
「お帰り、真至」
 それから。
 教会は都市開発の予定通り取り壊され、耶蘇山だった不入山も削られ、均されて宅地造成が開始された。村は隣の市と合併して福地村の名前も消えてしまった。
 あの氷雨さんのいる蛍の集う池も、梅雨に咲く赤い桜もなくなってしまった。
 一年と経たないうちに様変わりしてしまった景色を校舎から眺めて、僕はそっと溜息をついた。
「真至、そうため息つくな」
「だって、今までの歴史ではあの山はずっと不入山のままだったんじゃないかって」
「村の人を近寄らせず、あの狭い山の中で同じ歴史を繰り返しながら?」
「そっちの方がよかったなんて思ってやしないよ。了ちゃんと無事に中学卒業できることが何よりの奇跡なんだから」
「でもずるいよな。進学校受けるなんて聞いてなかったんだから」
「いいじゃないか。二人とも受かったんだし」
「真至は何でもそつなくこなすからよかっただろうけど、俺なんてどんだけ勉強したことか。親父にゃ魚正潰す気かって言われたけど、一人だけ置いてかれるなんて真っ平だったからな。こうなったら魚正は弟に任せて、俺は大学まで行ってラジオ作りを究めてやろうかと思って」
 卒業証書を片手に、まー坊はふふん、と鼻を鳴らした。
 床板が軋みをあげる校舎から出ると、まだ冷たい三月の風が膨らみはじめた芽をつけた桜の枝の間を吹きぬけていった。その風の中に、薄紅色の花吹雪が流されていく。
 下級生たちが「卒業おめでとう」の声とともに、二回の窓から紙で作った花吹雪を流していたのだった。
 安藤先生は僕らが戻って以来、以前にも増して元気になり、どうやら美人と婚約したらしい。了ちゃんに言わせれば、その彼女は厚化粧で服の趣味も悪い、という話だったけれど。最近ではニセモノ真至が現れた時のちび真至の気持ちがよく分かる、と僕によくぼやいてくる。
「あ!」
「どうした、まー坊」
 校舎を出ようとしたとき、少し前まで不入山のあったほうを指差してまー坊が大きな声を上げた。
「あそこ、桜が咲いてる!」
「そんなわけないだろ。今はあそこはブルドーザーが走り回ってるんだから……」
 笑い飛ばそうとした了ちゃんの表情も、まー坊の指の先を見るなり凍りついた。
 促されるまでもなく、僕も振り返る。
 風に舞い上げられる砂埃の中、確かにそこには、赤い桜の花が咲いていた。






〈了〉
200909062057




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