(3)
外はまだ雨が降り続いていた。牧師館に戻った僕は、震えが治まるのを待って、サナトリウムに足を踏み入れていた。誰に会おうと思っていたのか、ちゃんと決めてはいなかった。初めに頭に思い浮かんだのは氷和さんだった。そのあとちびシンジの顔が思い浮かんで、結局たどり着いたのは松田医師と真人さんがいる医局だった。
「真至君」
入り口で入ろうか入るまいか迷っている僕を見つけて、疲れきった顔をした真人さんが僕を手招いた。恐る恐る中に入ると、松田医師はいない。
「松田医師は?」
「先生なら入院患者たちの診察に行ったよ。俺はちょっとだけ一休みに」
「氷和さんの具合は、悪いんですか?」
やかんからお湯を注いでいた真人さんの手が止まる。
「結核にかかっていたみたいなんだ。君たちが来た頃はあんなに元気だったのにね、氷雨君のことでいっぱいで見落としてしまった」
氷雨君のことで。胸に刺さったその一言の疼きを感じながら、僕は尋ね返す。
「じゃあ、もうだいぶ前から?」
「いや、氷雨君の看病で疲れて弱っていたところで感染したんだろう。……それにしては急激に悪化したとしか思えないんだが」
客人用のカップに注いだコーヒーを僕の前に差し出して、真人さんは自分のカップに口をつけた。僕は差し出されたカップの模様を見つめていた。洋風の花柄をあしらった白いカップは、茶渋がついているわけではなかったが、だいぶ年季が入っているように見えた。
「ああ、そのカップ。それ、戦前から教会にあるんだよ。今でこそ桜庭教会という名前で鈴木牧師がやっているけど、戦前はミヒャエルというドイツ系アメリカ人の宣教師がここに教会を建ててはじめたんだそうだ。鈴木牧師はミヒャエル牧師の二番弟子だったんだそうだよ。一番弟子はミヒャエル牧師の息子さんだったらしいんだが、残念なことにその息子さんは教会の完成した直後に行方不明になり、ミヒャエル牧師も間もなく戦争のせいで母国に帰らざるを得なくなってしまった。そこで、鈴木牧師が教会のあとを継いだというわけだ」
「結構歴史があったんですね」
「ここを耶蘇山というくらいだからね。ミヒャエルがこの山の頂に教会を作ったのは、主に導かれてのことだと鈴木牧師から聞いたことがあるよ。ここに教会を開けば数多の主の恵みを享けられるだろう、と」
「主の恵み……」
村の真ん中で氷和さんが女性を癒した時のことを思い出す。
「ミヒャエル牧師も癒しの手の使い手だったそうだ。氷和とは何の血縁もないはずなんだが、奇跡は受け継がれた……はずだった」
「力は戻っていないんですか?」
「氷和が、もう使えないと自ら言うんだ。戻ることはないだろう」
「本当に?」
思わず尋ね返していて、僕は慌てて口を塞いだ。
「本当に、とは?」
怪訝そうに真人さんが僕を見つめる。
僕は視線をそらし、彷徨わせ、目の前に浮かんできた覚悟を決めた形相の氷菜さんの顔を頭を振って払い消した。
「氷菜君が何か吹き込んだのか?」
「吹き込んだだなんて、そんな……!」
「何か言ったんだな。氷雨君のことも含めてか」
「それは……」
全て知らぬ存ぜぬを通せとさっき言われたばかりなのに、僕はしどろもどろになって、頷きこそしなかったものの、ぎゅっと唇をかんで不審な表情を見せてしまった。
真人さんはふっと顔を緩める。
「ほんと、君はうちの真至に似ているな。うちの真至も、何か隠そうとしたときにそうやって唇をかんでしゃべらないようにするんだ。視線をそらせてね」
くすくすっと笑う。
「父さん……」
僕の父さんでは、見たことのない自然な笑顔。いつも厳しい顔ばかりして、どこかずっと罰を受け続けているかのようで、それに気づいてからはなんとなく父さんとは目を合わせないようにしていた。なんだ、笑えるんじゃないかって、言いそうになって、僕はまた口を噤む。
「おれは君のお父さんに似ているのか?」
冗談めかして聞かれたものの、僕は思わず顔をあげてじっと真人さんを見つめてしまった。
真人さんの目に、張り詰めた表情の僕が映る。
もし、ここがパラレルワールドなんかじゃなくて、僕らのお父さんたちが若かった頃の本当の過去だったとしたら……もしそうだったなら、ちびシンジは僕自身で、真人さんはあのいかつめしい父さんなのかもしれない。ちびシンジの年齢は僕とあわないし、母親も違うから、もしかしたらぼくだけは違うのかもしれないけど、真人さんは父さんの年齢から十五年引いた年齢と同じだし、母さんだって十五年前は今の氷菜さんくらいの年齢だったはずだ。
でも、だとしたら、ちびシンジはどこに行ってしまったんだろう。僕はどこから現れたんだろう。
「君が他人のような気がしないのは、本当に真至の未来の姿のような気がしてしまうからかな」
そうかもしれないとも言えず、再び俯いた僕の頭を、真人さんはぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜるように撫でた。この撫で方も知ってる。小さいとき、たまにやってくれたことがある。それから、そうだ、四歳年下の僕の弟の真一にも、今でもたまにやってるのを見かけることがある。母さんも真一には目じりが下がるんだよな。
ちり、と脳内に蘇った父と母、それから真一三人の仲睦まじい姿に胸が焼け付いた。五歳以前の記憶がない僕。母のどことなく嫌なものでも見るような目つき。やたら僕にだけ厳しいような父。まるで、僕だけ家族じゃないかのような疎外感。
僕は、どこへ行ってしまったんだろう。
ちびシンジは、どうなってしまうんだろう。
氷菜さんの言うことが本当だとしたら、氷雨さんが力尽きて亡くなって、氷和さんが力を失って寝込んで……生き返らされたちびシンジがただで済むものだろうか。
もし僕が何か知っているなら、今すぐ全て思い出せればいいのに。懐かしさとか既視感とかじゃなく、ちゃんと。ちびシンジの年齢は、ちょうど僕の記憶が始まる年齢と同じじゃないか。すごく嫌な予感だけはするのに、何がどうなるかわからないから、結局僕は、お世話になった人たちに何もしてあげられない。
――氷菜さんと一緒に氷雨さんの遺体を池に放り込んだのに?
つい、今しがたの記憶が蘇って、再び僕の手は震えた。手に残った氷雨さんの弾力ない足首の感触が蘇る。
なんてことを……僕はなんてことを……。
視界に広がるのは光差し込む礼拝堂の祭壇上に掲げられた十字架。
ただならぬ気配に気がついたのか、真人さんが大きな手で僕の手を包み込んだ。
「大変だー!」
その温もりにすがる前に、まー坊の大声が遠慮なく扉を開く音とともに入り込んできた。
「氷雨さんの遺体がなくなってる!」
一気に背中をつめたいものが駆け抜けていった。僕はするりと真人さんの手の中から自分の手を引き抜いた。
「なんだって?!」
真人さんは僕が手を抜いたことに気づかず、慌てて立ち上がりまー坊の前に立つ。
「あ、真至、お前こんなところにいたのか。探したんだぞ」
真人さん越し、まー坊がちらりと僕をのぞきこんだ。
「あ、ああ、ごめん、先に帰ってきちゃって」
「事情はあとだ。とにかく礼拝堂に来てくれ。今、了一が犯人の痕跡探ってるから」
了ちゃんが、犯人探しをしてる? そんなの、すぐに気づかれてしまうに決まってるじゃないか。
まー坊は入ってきたかと思うとあっという間に出て行った。真人さんもそれに続こうと一歩歩を進める。
「真至君?」
はたと振り返って、僕に来ないのか、と目で尋ねる。
「行き、ます」
全身がかちこちになっていくのを感じながらも、僕は上ずる声で頷いた。
雨の降りしきる外を渡り廊下の向こうに見ながら、僕は足跡が残っているんじゃないか、とか、サナトリウムの患者の中に、誰か僕と氷菜さんの姿を見た人がいるかもしれないと、考えられる不安という不安を全て挙げてみた。だからといって、うまい言い訳がこの僕にすぐに考えつくわけがない。
「本当だ、いない」
一足早く礼拝堂に入った真人さんが、祭壇から転げ落ちた棺を覗き込むまでもなく、茫然とした声を上げた。
僕は、自然、その光景から顔を背けた。
「真至?」
まー坊が不審気に僕の名を呼ぶ。
「氷雨さんの遺体がなくなったって聞いたら、真至が一番に騒ぐと思ってたのに……なんで顔背けるんだよ」
その言い方は、まるではじめから僕を犯人と当て込んでいるようだった。
何で疑うんだ。その言葉が喉元まで突き上げてきたけれど、僕は顔を上げることさえできなかった。
「何か知ってるのか、真至?」
ゆっくりと僕の前に歩み寄ってきた了ちゃんが、首を傾けて僕の顔を覗き込む。
目が合った。
瞬間、僕は目さえもきつく閉じた。
「まさかほんとにお前が犯人か? 棺桶から遺体盗みだすなんて、死者への冒涜もいいところだろう?!」
大股に歩みよってきてまー坊が僕の胸倉を掴み寄せる。
「死者への、冒涜……」
心の中で呟いたはずの言葉は、いつのまにか唇を震わせていた。
「どこに……やったんだ? どこに隠した!?」
堪えきれない怒声と共に、真人さんが振り返る。
全身は一度びくりと震えて、完全に凍りついた。
(氷菜、さん……)
情けなくも、僕はすべて氷菜さんのせいにしようとしていた。氷菜さんがはじめにやりだしたのだ。僕はただ、氷雨さんの足が泥にまみれるのを見るのが嫌で……。
「雨の中、二人で何か細長い物を教会から持ち出しているのを見た患者がいるんだ。桜の根元が掘りかえされた跡があったけど、あれも心当たりがあるのか?」
静かの了ちゃんが僕を見つめる。
「二人でって、何も僕とは限らないだろ。桜の根元に何が埋まってたかなんて、僕知らないし……」
顔をそむけたまま、なぜか込み上げる笑いと共に言い募った直後、僕の左頬は一瞬にして熱く灼かれていた。
僕は頬をおさえることも忘れて、呆然と真人さんを見上げる。
そこにはあの父さんの顔があった。いかつめしく眉間に皺を寄せて目に冷たい炎を宿した
、見慣れた僕の父さんの顔が。
「掘ったのか? あの入口の桜の木の下を、掘り返したのか?」
尋常でなく、真人さんの手は、唇は、震えていた。怯えて痙攣しているようにも見える。
僕は真人さんと睨みあったまま、ゆっくりと腹に息を吸い込んだ。身体はまだ震えている。だけど、真人さんのこの様子は、知っているのだ。何が埋まっていたか。何のためにそこに埋められていたのか。
そう、もしかして全て知っているのかもしれない。氷和さんが先代の牧師の奇跡の力を受けつげた理由も、本当は何か分かっているのかもしれない。
「猫の骨が出てきたよ。ほら、そこに散らばっている」
「真至!」
まー坊が悲鳴を上げた。
真人さんはもう一度棺周りに散らばった白い骨を観察する。
ニャァ
時を同じくして、タマが気だるげに身体を揺さぶって礼拝堂に入ってきた。
真人さんはタマを一瞥する。
「真至、お前、自分が何したか……」
「罪を犯したのはどっちなんだろうね。僕たち? それとも、氷和さんたち?」
ニャァァ
そんなこと問うなと言いたげにタマが鳴く。
「そうだよね。僕を甦らせるためにはじめに手を汚したというのなら、原因は僕だよね。父さん、氷雨さんの遺体なら、蛍の池に眠らせてきたよ。きっともう、誰の手も届かないくらい深い池の底だ」
「もう一人は……氷菜か」
「理由は教えてくれなかった。でも、人柱だと言っていた。どういう意味? 知ってるんでしょう、父さん。それとも、知らずに氷雨さんと氷和さんを犠牲にしたの?」
父さんの――真人さんの顔色は見る間に白くなっていった。
「私は……犠牲になんかなってないわ。犠牲じゃないわ、こんなの」
答えることなく顔をそむけた真人さんに代わって、弱々しい、だけど強い意志のこめられた氷和さんの声が入口から響いてきた。礼拝堂の入口の柱に寄りかかるようにして、氷和さんの姿が現れる。傍らには鈴木牧師が寄り添い、足元にはちび真至がちびタマと共にひっついている。
「氷雨の遺体がなくなったって牧師さんに教えられて来てみたら……本当だったのね。蛍の池に眠らせてきたというのも本当なの?」
僕は氷和さんの方を振り返って深く頷いた。
「はい」
「氷菜が人柱にする、と」
「やめてほしいなら僕が人柱になるかと聞かれましたが、結局僕は氷菜さんを手伝ってしまった。氷雨さんの魂はあの池にあるからと言われたら、身体も一緒にしてあげずにはいられなかった。あの池で、僕は何度か彼女に会っていたから」
震える両腕を互いの手で抱きしめるように掴んで、僕はまっすぐに氷雨さんを見据えた。氷雨さんは動揺する気配はない。ただ、悲しげに僕を見ていた。
「人柱って、何ですか?」
僕は、もう一度尋ねた。氷和さんと真人さん、両方を交互に見つめながら。
「……不治の病の治癒から蘇生までを行える力。それが初代桜庭教会の牧師ミヒャエルの力だった。ミヒャエルがどうやってその力を手に入れたのか。彼はこの山に教会を開くまではただの人間だった。それがこの山に教会を開いてから、人々に治癒を施し、死んだ者を生き返らせられるようになった。同時に、教会の完成と共に一人行方不明者が出ている。ミヒェルの一番弟子であり、息子のヨハン」
歴史の教科書でも朗読しているかのように、静かに過去を紐解いたのは了ちゃんだった。その了ちゃんの視線は鈴木牧師に向けられている。
「初代の人柱としてその蛍の池とやらに沈められたのは、先代牧師の息子、ヨハンだった。違いますか、鈴木牧師」
了ちゃんの視線に射すくめられて、鈴木牧師は全身を震わせ出す。
「違う。私は……私では……私は何も……神の、お告げだったんだ……奇跡には犠牲がつきものだから……ヨハンをこの山の中心に据えよと……さすればこの教会には人が神を求めて集い、村に、町に、日本に信仰が広まるだろう、と……」
一歩、二歩と後退しながら、鈴木牧師は上ずる声でうわ言のように呟いた。
「わ、私は、神の御心に従っただけだ!」
がたん、と音を立てて鈴木牧師は玄関の階段から足を踏み外し、そのまま仰向けに倒れていった。折も悪しく、その先にあった教会の扉が外に引かれるようにして開かれる。入り込んでくる雨の音。薄暗闇の礼拝堂に差し込んでくる鈍色の光。倒れていった鈴木牧師が、石畳に頭を打つ音は聞こえなかった。しかし、新たに現れた五人の警官たちの足元に倒れこんだ鈴木牧師は、自力で起き上がることはなかった。少なくとも僕らの目の前では。
「警察です。前澤真人、前澤氷和、それから鈴木均。福地村の突然死に関して、結核菌を村中にばら撒いた容疑で出頭命令が出ました。御同行願えますか」
白い紙を広げて、真ん中のちょび髭をつけた一人が厳しい視線と共に真人さん、氷和さん、それから警官に助け起こされても意識の戻らない鈴木牧師を一瞥した。
「なお、すでに松田栄輔は本部に向かっています。病院も牧師館も捜査令状が出ています。無駄な抵抗はなさらないように」
「先ほどの話も含めて、たっぷりと聞かせていただきましょうか。今回、村人が一斉に一家につき一人ずつ亡くなった件について。それから、ここで治療を受けて退院した政財界の先生方が一斉に亡くなった理由についても」
紙を丸めて胸にしまったちょび髭警官は、獲物を追い詰めた肉食獣のようににやにやと嫌な笑みを浮かべて、ぐるりと僕らを見渡した。
「それからそこの子供三人。君たちは先週、突然教会にいつきはじめたというが、村人の誰も君らの素性を知らないようだね。どこかの国のスパイかもしれない。君たちにも来てもらおうか」
横柄な態度でちょび髭がそう言うと、僕らはあっという間に後ろ手を縛られ、教会から、いや、耶蘇山から引きずり出されたのだった。
教会には、ちびシンジとちびタマ、それに僕のタマが残るだけになってしまっていた。
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