雨降り館
6月19日(火) 雨

(1)

 牧師館には朝から誰もいなかった。帰ってきたと思った氷和さんも、一昨日僕たちが心配をかけたせいであまり体調は良くなかったのだ。点滴が必要になって朝早いうちに病院の方に移されたらしい。ちび真至も氷和さんの側にいるとごねて、ちびタマと一緒に病院にいるはずだった。
 午前中、ひっきりなしに高熱を訴える人々が訪れていた病院は、午後になった途端にぱたんと人の影が途絶えていた。村からも人の気配というものをほとんど感じなくなっていた。
 恐ろしくなるほどの静寂の中、次に訪れたのは電話の嵐だった。電話に出たのは鈴木牧師だったが、受話器を置く度に再びベルが鳴る。その度に、鈴木牧師の顔色は悪くなっていく。
 教会は、氷雨さんの遺体を安置したまま見守る者もおらず、ひっそりとしていた。葬儀どころではなくなっているようだった。救いなのは、まだストーブが必要なくらい肌寒いということ。真夏だったら、一日放っておいただけでも氷雨さんの遺体は悲惨なことになっていたことだろう。
 外は、昨日から降り続けている雨が、昨日と同じように朝から降り続いている。
「水が溢れて植えたばかりの田んぼがめちゃくちゃだね」
 傘を片手に村を見下ろしていた僕は、同じく傘を片手に村を見下ろす了ちゃんに話しかけた。
「この年は大冷害で、冬にはいつもは行かない家でもみんな出稼ぎ列車に乗ったって言うよ」
 村誌にはそう書いてあった、と了ちゃんは小さく付け足した。確かにこの年の梅雨は寒過ぎるかもしれない。雨が降っているというだけで、吐く息まで白く染まってしまいそうだ。それにしたって、寒いからといって溢れる水路をそのままにしておいたら、自分たちの住んでいる家さえも床下浸水、下手をしたら床上浸水してしまうじゃないか。こんな時は村の青年たちを集めた消防団がいの一番に外に飛び出してくるはずだろう? どうして誰も土嚢を積みに出てこないんだろう。そう、誰一人として、村の中を歩いている人がいないのはなぜだろう。
「真至、マー坊を迎えに行こうか。もしかしたら帰れなくなっているかもしれない」
 ふと思い出したように言った了ちゃんの言葉に従って、僕らはぬかるんだ石階段を飛び跳ねながら下り、村一番の綺麗に舗装された大道を通って中田魚店へと向かった。行く途中、何台か黒塗りの車がサナトリウムへの道を登っていくのとすれ違ったが、了ちゃんは無言のまま全てシャッターの下りた商店街を抜けて中田魚店の前へと進んでいった。
「静か、だね」
 まだ昼の二時過ぎくらいだったはずだ。それなのに、買い物客や食べこぼしを求めて彷徨う復員兵らの姿はおろか、店そのものが一つも開いていない。それは中田魚店も例外ではなかった。下ろされたシャッターに向かって声をかけるのも気がひけたから、僕たちは恐る恐る裏の母屋の玄関へとまわってみる。
「喪中……?」
 それは音に出して言うべき言葉ではなかったのかもしれない。しかし、達筆なのか、荒れ狂う思いのまま筆に乗せられて紙に染みつけられた文字は、その意味以上に深く沈む何かを持って僕の心に食い込んできた。
「おばあちゃん、亡くなったのかな」
「真至、あれ」
 僕の呟きには答えず、了ちゃんは軽く僕の肩を叩いて後ろを振り返らせた。
「え……」
 思わず、僕は言葉を失った。
 中田魚店の隣は、石川精肉店だった。その母屋の玄関口がちょうど中田魚屋の母屋の玄関と向かい合っていたのだが、その玄関にも、まっ白い半紙に二文字、「喪中」と記されていた。
「待ってよ。え、なに、どういうこと?」
「昨日、遼二さんはお母さんのほかにも村中で高熱で倒れた人が出ていると言っていた。石川さんのところもその一人だったんだよ」
「じゃあ、商店街全部閉まってるのって……」
「どこもかしこでも家の誰かが亡くなった……のかもしれない」
「そんな馬鹿な」
 はは、と深刻そうに俯いた了ちゃんを笑い飛ばそうとした時だった。
「出て行ってくれ。出て行けって、言ってんだよっ!!」
 目の前で中田家の玄関の扉が引きあけられて、中からマー坊が文字通り転がり出てきた。
「お前たちだ。お前たちが悪いんだ。お前たちさえ来なければ、こんな病、流行ることもなかったんだ。おっかあは一度は結核、完治してたんだ。なのに、なのに、どうして昨日は氷和ちゃん、駄目だったんだ? なぁ? お前も見てただろう? 必死で氷和ちゃん手ぇかざして俺たちも祈ったのに、おっかあ、あっという間に全身真っ黒になって死んじまったじゃないか。そうだよ、お前だよ、くそガキが。お前がいたから、氷和ちゃん、力が出せなかったんだよ。なのに、最後の最後まで居座りやがって、この厄病神っ」
 殴られたのか、マー坊は口元ににじんだ血を手の甲で拭って、唇をかみしめたまま激昂する遼二さんに深く、頭を下げた。
「マー……」
「お前たちまで何しに来た! 今度は俺の命でも取りに来たか?」
 遼二さんの怒りの矛先はあっという間に玄関先に突っ立っていた僕たちにも向けられた。
「違います。僕らはただ、マー坊が帰ってくるのが遅いから……あの、御愁傷……」
 せめて弔いの言葉だけでも、と思った時だった。遼二さんの手から真っ白な礫が投げつけられ、拡散して僕たちの肩や胸を滑り落ちていった。
「帰れ、帰れ! とっとと帰ってくれ!」
 体中に降りかかった白い小さな粒は、思わず指にとって舐めると塩辛い味がした。不意にふつり、と僕の身体の中に煮えたぎるものがわきあがった。
「ちょっと! いくらなんでも塩撒くことはないんじゃないですか? 僕らはともかく、マー坊はあなたの……」
 息子かもしれないんですから。
 僕が何を言おうとしたのか、了ちゃんは咄嗟に悟ったのだろう。上半身についた荒塩を払ったしょっぱい手で僕の口を思い切りふさいだ。その手を僕は振り払う。
「悲しいのはわかります。でも、マー坊は一緒に祈ってくれたんでしょう? あなたのお母さんのために、治りますようにって祈ってくれたんでしょう? 横でへらへら笑ってたわけじゃないんでしょう? 人の死は、変えられるものじゃない。誰かのせいにするものでもない。違いますか?」
 一息に吐き出し終えたとき、僕の肩は上下に動いていた。
 遼二さんはあっけにとられて僕を見つめている。マー坊も、ここまで声を荒げた僕を見たことがなかったに違いない。知らない人間でも見るかのような目つきで僕を見つめていた。
「違うわね」
 静かに否定する声は、細い玄関の路地のさらに後方から聞こえてきた。
「また、氷菜さんですか」
 未来の僕のお母さんになるはずの人。だけど、僕は小さい時からこのお母さんが苦手で、今も、何でもかんでも否定しては人を笑いものにし、悪意を隠すことなくぶつけてくるこの人が嫌いだった。氷雨さんと双子だったというのは嘘に違いないと思うほどに、僕はこの人が苦手で嫌いだ。
「嫌な子。そんな目でわたしを見ないでくれる?」
 どっちが嫌な子なんだか。遼二さんの前でも変わらない悪態を見せてほしいものだ。
「氷菜ちゃん……」
 氷菜さんの名を呼んだ遼二さんの声音には、どこか答えを求める弱さが潜んでいた。その声音に気づいているのかいないのか。恋する少女らしい表情の欠片もなく、氷菜さんは底意地の悪い笑みを口元に浮かべてみせた。
「人の死は変えられない? 違うわ。変えられたから、あなたは今そこにいる。誰かのせいにするものでもない? 違うわ。あなたが生きながらえたのは、氷雨の命を使ったからよ。それと同じ。遼二さん。あなたの大切なお母様が亡くなったのは、氷雨が死んだからよ。みんな同じ。サナトリウムで療養して氷和に治してもらった偉い人たちも、結核移されたこの村の人たちも、氷和の手で治された人はみんな同じよ。氷雨に全ての病を押しつけていただけなんだから。でも、氷雨は死んでしまった。氷雨はいなくなってしまった。なぜか。彼らが現れたからよ。彼らが氷雨の魂をあの猫の身体に閉じ込めてしまったのよ」
 びしり、と僕の腕のなかの大きなタマを指さした氷菜さんに、辺りからは嘆きとも得心ともつかないため息が方々から溢れだした。悪意を含みながらもよく通る氷菜さんの声に、いつのまにか雨戸までしっかりと締められていた戸口が開いて、隣の石川精肉店のおばちゃんや、向かいの八百屋のおじちゃんや、そのほかにもこの狭い路地を覗き込むようにして多くの人が氷菜さんの演説に耳をすませていたのだ。
「あの猫が氷雨ちゃんを奪ったのかい?」
「あの猫が、氷雨ちゃんを殺した」
「あの猫が……」
 うなされるように人々はうつろに繰り返し、直後、ぎろりと白目をむく一歩手前の目で僕の腕の中のタマを睨みつけた。思わず僕の腕は強くタマを抱きしめる。
 タマは鳴かなかった。
 早くここから連れ出せとも言わず、僕と目も合わせずまどろんでいる。こんな時なのに。
(氷雨さん!!)
 苛立つ気持ちは心の中でだけ叫び散らして、僕はあちこちからタマを奪い取ろうと伸びてくる手をかいくぐって、中田家の玄関前から逃げだした。
 逃げ込める場所なんて一か所に決まってる。あの山の中の教会しかない。それなのに、僕の足は見慣れた商店街の小道に騙されでもしたのだろうか。田村の、自分の家の方へと向かっていた。










←6月18日(月)(2)   書斎  管理人室  6月19日(火)(2)→