雨降り館
6月19日(火) 雨

(2)

「あいや、どうしたね。傘もささないで。びしょ濡れじゃねっか」
 山裾まで続く灰色の空に押しつぶされそうになっている緑の水田。いや、山裾まで続いているんじゃない。山に包み込まれているのだ、この辺りは。商店街の通りから裏路地を一つ、二つ抜けただけで、あっという間に、あるのは田んぼと小さな用水路、それからぽつんぽつんと点在する家ばかり大きい農家だけになる。その中の一つに、田村の家もあった。田村の家は昔大地主だったというだけあって、戦前は山裾まで見える限りの田畑が田村のものだったという。それを戦後の農地改革で大部分が安値で買い叩かれて、田村で土地を貸して耕させていた小作人たちのものになった。今でも、祖父は何も言わないが、祖母は苦々しげにその時のことを口走ることがある。すぐに我に返って硬く口を閉じてみせるが、その辺に見える新しい農家の家々は、昔うちの小作人だった人たちの家なのだと、ふとした瞬間に呟くことがある。だけど、祖母は優しい人だった。実の子がない分、僕の母である氷菜を血を分けた子の様に慈しんでいた。周りからは甘いといわれるほどに。そこだけは祖父も同様なのだったが。それは、昨日氷雨さんの訃報を聞きつけてやってきた氷菜さんは、一体どんな思いでこの二人と一緒に暮らしていたのだろう。
 どんなにきつく抱きしめても逃げ出そうとしないタマを抱えて、僕は雑草の中に泥水ばかりがたまっていく畦道を、一心に下だけを見つめて歩いていた。傘はすでに持っていなかった。きっとタマを両手で抱えなおして商店街の人たちの間を潜り抜けている間になくしてしまったんだろう。教会から借りたものだったのに、帰ったら牧師さんに叱られるだろうか。いや、人を許すのが仕事のあの人がこっぴどく僕を叱り飛ばすはずはないか。
 全身ずぶぬれになっていることには、水路から上がってきたちょっとだけ若返っている祖父に声をかけられて気がついた。
 はたと僕は立ち止まる。頭の薄くなり具合はかわらない祖父と見詰め合って、思わず「おじいちゃん」と言いそうになって、固く唇を引き結んだ。
「おめ、教会の客人だえん? こったなとこさまで来て、迷ったのか?」
 ああ、僕の知っているおじいちゃんは髪が全部真っ白だけど、この頃はまだ髪が真っ黒だったんだ。そりゃそうか。氷菜さんの父親なんだから。まだおじいちゃんと言われるには早すぎる年齢のはずだ。
 合羽を着たおじいちゃんは僕の正面に立つと、しげしげとずぶ濡れの僕を見つめ、一言だけ「」、と言った。
 僕は声に出して返事することもなければ頷くこともなく、下だけを見ておじいちゃんの後についていく。途中でタマが小さく僕を気遣うように鳴いたが、僕は見慣れた田んぼの畦道を辿って、田村の家に招かれていた。
「サキ、このぼんず、拭いてやってけで」
 自分は土間で合羽を脱ぎながら、手ぬぐいを持ってきたおばあちゃんにそう言うと、おばあちゃんは心得たように手ぬぐいをもう一枚持ってきて僕の身体や頭を拭きはじめた。僕は甘えるのが本当であるかのように、ただタマを抱えて突っ立ち、背中に腕が回されかけると後ろを向き、おばあちゃんの拭きやすいようにくるくると、回っていた。
「氷菜のこと、口の悪い嫌な子と思ったえん?」
 おじいちゃんが中に入っていってしまうと、やっぱりまだだいぶ若いおばあちゃんはこそり、と僕の耳に囁いた。
 僕は即座に頷くわけにもいかず、かといって否定する気にもなれず、俯いたままタマの背中に絡まってできた毛玉を見つめていた。考えることはただ一つ。早くここから立ち去らないと、おじいちゃんとおばあちゃんにも迷惑がかかってしまう。
 そうだ、氷菜さんが帰ってくる前に帰らないと。
 どこへ?


 ニャァ


 教会、と答えるように、タマが短く鳴いた。
「身体、冷えたえん。今、火、用意すっから中さ上がって……」
 どうしてこの人たちはこんなにも無用心なんだろう。商店街で、村中でなんて言われているのか、分かっていないんだろうか? 昨日の氷菜さんの台詞を諌めることもできずにただ頭を下げて、氷菜さんの後を追うしかなかったこの人たちが、僕と氷菜さんが鉢合わせしたらなんと言うつもりなんだろう。
「氷菜は少し妄想癖のある子なんだ。横浜からあの姉妹三人がおらほを頼ってこっちに疎開さ来たときはとても仲のいい姉妹でな。んだども、おらたちのところも食うもんはね、着るもんはね、そんな仲で三人娘っこ張り面倒見ろって言われてもな。そしたら、氷和ちゃんは看護学校出てらったからサナトリウムの看護婦さなるって、自活できるって言ってくれてな。双子の氷雨ちゃんと氷菜と、二人置いてくれねかって頼まれたんだども、一人ならまだしも年頃の娘っこ二人だえん? 親父がな、どちらか片方だけにしてけでって言って、双子でも先に生まれた氷雨ちゃんが教会預かりになって、氷菜がうちさ来たんだ。ここさきたときは氷菜もいい子だったんだども、あるときから人が変わったように、姉たちのこと悪し様に言いふらして歩くようになったんだ。その最たるものが……」
 いつもの悪い癖が出ていることに気がついたのだろう。おばあちゃんははたと口を噤んだ。
 でも、僕の聞きたいことはその言葉の続きだった。
「その最たるものが?」
 僕は俯いたまま小さく低い声でぼそりと先を促す。
 おばあちゃんはきょろきょろと辺りを見回して氷菜さんがいないことを確かめると、そっと僕の耳に囁いた。
「氷和ちゃんの息子の真至君、溺れて一度死んだんだと。その真至君を助けるために、氷和ちゃんと氷雨ちゃんが助かったちびタマの魂を真至君に入れて生き返らせたんだと」
 タマは鳴かなかった。耳をぴくぴくと数回動かしただけだった。
「それ以来だって言うんだ。氷和ちゃんが結核やそのほかにもいろんな人の病気を治せるようになったのは。氷雨ちゃんが体調崩して寝たきりになったのは。それを考えるとあながち氷菜の嘘とも思えねくて……」
 おばあちゃんは僕の身体を拭きながらも、考え込むように遠くを見つめていた。養い親としての近所からの目もあっただろう。それでも自分の娘を信じたい。そんな思いとやはり人一人を生き返らせたなどというばかばかしい話を信じていいわけがない。その間を、祖母はずっと行ったり来たりしているようだった。
 僕に死んだ記憶はない。あの不入山の池で溺れるという恐怖を感じた記憶だけは残っている。それに、考えてもみろ。一体、どうやって猫の魂を人間の身体に移しこむというんだ? どうやって人の命を削り分け与えて人の寿命にすることができるというんだ?
 僕はもう一度タマを見た。知っているのはこいつだ。こいつに聞くのが一番早い。だけど、どうやって?
 土間に下ろされたタマは、くるっと丸まって昼寝でも始めようかという体制を整えている。人の言葉を話せたって、到底教えてくれそうにはない。それなら、氷和さんか氷菜さんに聞くのが最も手っ取り早い。手っ取り早いけど、できたら苦労しない。
 それとも、氷菜さんと直接向かい合えばことの真相を包み隠さず話してくれるだろうか。
「まぁ、呆れた。どこに消えたのかと思いきや、まさか私の家に来ていたなんてね」
 玄関の扉ががらがらがらと滑りの悪い音を立てて開いたかと思うと、傘を手に持ってずぶぬれになった氷菜さんが僕を睨みつけて立っていた。
「これ、氷菜」
 形ばかり叱る言葉を投げかけた祖母には構わず、氷菜さんは寝そべるタマを見るとにやりと口元を歪め、ぐいと僕の手首を握って引っ張った。
「痛いっ」
 咄嗟に叫んだが、痛かったのは手を引く強さのせいじゃなくて、握った氷菜さんの手の冷たさにだった。よもや、誰もこれが人の手の温もりだとは思わないだろう。氷でできてでもいるようにその手には温度というもの自体が存在していなかった。
 思わず僕は彼女を凝視する。
 が、すでに氷菜さんはこっちを向いてはいなかった。
「来なさい」
 相変わらず偉そうな命令口調で僕の手を引っ張って土間から外へと僕を引きずりだす。
「どこに行くの、氷菜?」
 過保護な祖母の口から出た言葉は、客人の僕への気遣いの言葉でもなく、氷菜さんの所業に対する非難でもなく、氷菜さんをただただ心配する言葉。
 あんな娘でもなぜ愛せるのか、僕にはわからなかった。
 氷菜さんは祖母の心配をよそに、傘を放り投げて、僕の手首だけを強く握りしめて、田んぼの畦道を泥の水たまりがあろうが蛙が跳ねていようが構わずにまっすぐに歩いていく。
 知っている。この道は僕の家からまっすぐに不入山へと向かえるあの道だ。僕の時代にはもう注連縄でしめきられてしまったあの石段の参道が続く道。あの町中の公道から続く参道とは別の場所にある道。登りきると、目の前に洋館が現れる、あの。
 氷菜さんは息を切らすことなく石段を登っていく。急ぐわけでもなかったが、歩を緩めることもない。ただ黙々と上り続け、あの蛍のある池へと向かう道さえも振り向かずに通り抜け。その間に、ますます氷菜さんの手は冷たくなっていく。棺に納められた氷雨さんの手よりも、もっともっと。
 もはや氷よりも冷たい手に触れられていること自体が苦痛になってきたとき、俯いていた僕は足元の石段にこびりついている薄紅色の花びらに気がついた。
 手がほどかれる。
 僕は上を見上げる。
「咲いてる……」
 血を吸ったように赤い桜が、梅雨の冷たい雨に打たれてなお赤く狂い咲いていた。その向こう、十字架を掲げた洋館が静かに佇む。
 氷菜さんは何を思ったのか、狂い咲く桜の下に屈みこんでその幹元を掘りはじめた。
「な、何やってるんだよ」
 雨足は強くなる。それでも桜は降り散らされる気配はない。氷菜さんは爪の間に泥が入りこびりついていくのにも構わず、土を掻きつづける。
 間もなく。
 氷菜さんが掻きだした幹元には、小さな欠片の塊が現れていた。土にまみれていたそれらは、降る雨に洗われて次第に白くなっていく。
「骨?」
「そう。ちびタマのね」
 骨は確かに小さな頭と背骨、それに付随する四つの足が横たえられる形で残っていた。氷菜さんはそれを順番にはお構いなく集めて両手に抱えて立ち上がった。
 同じ年の女の子がすることとは思えなかった。何かしらの覚悟がなければここまでためらいなくできるわけがない。
 氷菜さん、真実を教えて。
 そう問いたいのを飲み込んで、僕はずぶぬれで骨を抱えて教会へ向かいだした氷菜さんの後を追った。
 何か意味があるはずだ。ついていけば分かるはず。
 氷菜さんの役割が。
 氷菜さんが吹聴して歩いていることが本当なら、氷和さんは命さえも掌で操り、氷雨さんはその力の原動力となっていた。三姉妹、同じ場所にいたというのなら、氷菜さんだけが何かしらの変化がなかったわけがない。
 観音開きの形になっている教会の扉を、両手の塞がっている氷菜さんの代わりに開けてやると、氷菜さんはまっすぐに氷雨さんの棺に向かい、その棺の中にちびタマの骨だという白い欠片を流しいれるようにそっと撒いた。
「してはいけなかったのよ。人を生き返らせるなんてこと、してはいけなかったの。してはいけないことをすれば報いを受ける。氷和も氷雨も神様が与えてくれた奇跡だと言ったけれど、私はそうは思わなかった。神様は試したのよ。私たちが己の欲を律して神に背かずに生きていけるかを。あの二人は試練という言葉は好きだったけれど、試すという言葉は嫌いだった。だから、自分の都合のいいように事態を解釈して愛する者を失った悲しみを先送りしようとしたのよ」
「神は試したりなんかしない。踏み絵のように、己のために信仰を確かめたりはしない」
「そう。信仰は挫けそうになる心の支えとすべきもの。悲しみを乗り越える杖とすべきもの。何の神様を信じていたって、私はそれは同じだと思う。人がよりどころを探して見出した思索の産物。それが神。キリスト教でも、仏教でも、神道でも、人の心に根ざして支えるもの。けして、奇跡をおこすために信じるものではない。まして、都合よく与えられた奇跡を信仰と結びつけるべきではなかった」
 ちびタマの骨の欠片と共に眠る氷雨さんの遺体を見下ろしていた氷菜さんは、ふと祭壇の奥に安置されたマリア像を見上げた。
 きゅっと引き結んだ唇、決意に溢れた目。
 それは、初めて氷雨さんと氷菜さんがそっくりに見えた瞬間だった。
 守るべきものを守ろうと覚悟を決めた時の顔。
「氷菜さんが守るものは、氷菜さんの信仰ですか」
「……そうよ」
 誰がいちばん信仰深いか、僕は見誤っていたようだった。人々に信を説きともに祈り奇跡を起こす氷和さんがいちばん信仰深いのだと思っていた。その氷和さんを煩わしいものでも見るように見ていた氷菜さんは、きっと悪魔にでもとりつかれているのだと、思っていた。
 そうだ。氷菜さんは、悪魔にとりつかれているのかもしれない。おそらく、これから彼女がやろうとしていることは、再生ではなく、氷和さんと氷雨さんが築いてきた奇跡の破壊。
「止めてもいいのよ? 私、小さなあなたさえも殺す覚悟はできているの」
「それは、……止めてほしいんですか?」
「馬鹿言わないで。あとで邪魔されるといやだから今のうちに言ったんじゃないの!」
 振り返った氷菜さんは僕の胸倉を掴んで叫んだ。
 僕は、情けないことにどうしたらよいのか分からずに睨みつける氷菜さんを見つめていた。
「奇跡の時間は終わってしまったの。あとは、いかにこの村の人たちが傷つかないように、外部からの圧力をはねのけるかなのよ」
 氷和さんの奇跡に報いて造られたという村の大道。もしかしたらその道路を寄付した人も、今頃はもうこの世にはいないかもしれない。不治の病を抱えた金だけはある人たちが来たというあのサナトリウム。全快して退院していった人々がもたらした恩恵の一つ一つを僕は知らない。それでも、この時代栄えていて、僕らの時代、すっかり存在すらも影をひそめるようになった道路、不入山、その他もろもろ、全てがこれから失われるのだ。
 ふと思い至った。氷菜さんの信仰は、別にあのマリアでもイエス・キリストでもなくて、正義に基づいた自分の信念にあるのではないか、と。この村の人たちを傷つけてはいけない、謀ってはいけない、路頭に迷わせてはいけない。十五歳の農家手伝いのただの少女にできることなど限られている。それでも、彼女は守るつもりなのだ。自分の信念を。ひいては、この村を。
 十七年後、何の取り柄もなくなって、近郊のマンション開発の波にのまれかけている僕らの村。何もない、そう嘆くばかりだった僕らの村。でも、大人たちは誰もないことを嘆く者はいなかった。諦めたかのように、日々、息を殺して毎日を暮らしていた。ごくたまにあの山を鬱陶しげに眺めながら、まっすぐ、自分たちの足元に広がる田んぼや畑だけを見つめて。誰も、田村氷菜という名の僕の母を悪く言う者はいなかった。
 僕は答えを知っているじゃないか。何が誤っていて、何が正しかったのか、人々の見定めた未来を僕は知っている。
 でも、だけど。
「奇跡にすがりたい人々の気持ちは……」
「奇跡なんて二度と起こらないわ。いいえ。悪い奇跡なら今盛んにおこっているわね。氷和の治療した患者たちがばたばたと亡くなって」
「だからって、君にどうすることができる? どうすればこの村を救えるという?」
「救う。救う? この村を、わたしが? そんな大それたことなんかするつもりないわ。あるべきものをあるべき場所に返す。それだけよ」
「それは僕らも含まれているの?」
「もちろんよ。あなたたちにも元の世界に戻ってもらわなくては。人々がこれ以上不必要に奇跡を信じ込まないように。それから、サナトリウムも教会も、この山から人を追い出すの。もうだれも踊らされる者が出ないように」
 確固たる決意を、氷菜さんは僕の胸倉を掴んだまま、僕の瞳に一言一言区切りながら刻み込んだ。
「まるでジャンヌ・ダルクだ」
「冗談でしょう。わたしはわたしよ。きっとこれからわたしがやることは悪魔の所業に見えることでしょう。殉教するつもりもなければ、そもそも、わたしはキリスト教徒でさえない。氷和姉さんが横浜から幼い私たちを連れて不安の中たどり着いたのがここで、氷和姉さんはきっとここの牧師と信仰というものに癒されたのでしょう。氷雨は真至を助けられるなら自分の身さえ投げ出すと言った。信徒ではなくても、それだけの覚悟があったのよ。でも、どんなに奇跡を見せられても、わたしは、わたしだけは揺らいではいけないと心に決めたのよ。いつか姉たちが暴走してしまっても、わたしだけは止められるように。止めるのが叶わなければ、せめて、彼女たちの作り上げた間違いだらけの奇跡をすべて壊してしまえるように。わたしは己の信じるところに誓った。いいのよ? 悪魔と呼んで」
 見惚れるほどうっとりとした微笑を浮かべた氷菜さんは、トン、と掴んでいた胸倉を押し放った。僕は後ろに二、三歩たたらを踏んだ後、固い長椅子の上に座り込んだ。
「今じゃなくても、いずれそう呟くでしょうけどね。村だけで済んでいるうちならまだしも、外にまで広がり過ぎてしまった今となっては、よほどのことをしなければこの村は外圧で押しつぶされてしまうでしょうから」
 ふいっと、氷菜さんは踵を返して再び氷雨さんの棺を覗き込んだ。
「さようなら、氷雨」
 そして、僕の足元にのたのたと寄ってきたタマを見る。
「悪いけど、約束だからその通りにするわよ」
 タマはニャァともなかなかった。ただ氷菜さんを見つめていた。猫と見つめあうのも限界があったのか、再び氷菜さんは僕を見た。
「そうね。丁度いいわ。ちょっと手伝ってくれる? リヤカーかねごでもあればと思っていたんだけど」
 そう言ったかと思うと、氷菜さんは氷雨さんの棺に両手を差し入れ、わきに腕を通して氷雨さんの遺体を棺から引きずり出そうとした。
「なにするんだよ!」
「氷雨にはもう眠る場所が決まっているのよ。いつまで誰もいないこの礼拝堂に放置しておくつもり? それとも、何? あなたがかわりに人柱を継いでくれる?」
「人柱……? 眠る場所って、どこだよ」
「決まっているでしょう。あなたもよくそこで氷雨と出会っていたはずよ。すでに氷雨の魂はあそこに囚われている。身体も一緒にしてあげないと、かわいそうでしょう?」
 悪びれない口で氷菜さんは氷雨さんの遺体をあの蛍のたくさんいる池に放り込むのだと言った。
「そんなこと、手伝えるものか。今牧師さんを呼んできて……」
 僕が慌ててそう言っている間にも、お構いなしに氷菜さんは氷雨さんの遺体を棺から引きずり出した。台の上の棺が転がり落ち、遺体の重さを支え切れずに氷菜さんも一緒に座り込む。が、彼女はめげなかった。立ち上がると氷雨さんのわきに後ろから腕をからめて、ずるずると出口へと運びはじめる。そう、堂々と、中央の入り口から出そうとしていた。
「そんなことして誰かに見られたら……」
「誰も来ないわ。村の人たちはそれどころじゃないから。牧師さんも、真人さんも姉さんも、ね。今が好機なのよ」
 口元にうっすら笑みを浮かべ、額には汗を浮かべ、氷菜さんは氷雨さんの遺体を礼拝堂から運び出してしまった。
 外は相変わらずどしゃぶりの雨が降っている。出口から続く小道はぬかるんで水たまりができていた。
 なぜ止めなかったのだろう。
 あとで僕がそれを後悔を持って回顧することはなかったけれど、思い返してみれば絶対におかしかったとわかるはずだった。見過ごしただけでもおかしいのに、何も声を出せずに引きずられ泥まみれになろうとした氷雨さんの冷たい枯れ枝のような両足首を、僕はいつの間にか持っていたのだから。


 ニャァァ


 教会を出る時、タマが一度だけ鳴いた。あとは、僕の足に絡みつくように大人しく体を雨に打たせながらくっついてきていた。
 氷菜さんの言う通り、蛍の池につくまで、僕らは誰にも会わなかった。
 昼間の蛍の池は、雨が降って霧がかっているせいか、夜よりもおどろおどろしい気がした。緑の藻が水中に蜘蛛の巣のように張り巡らされているのがありありと見えたせいかもしれない。
 僕らは、その池の中に氷雨さんの遺体を投げ入れたのだった。
 緑色に曇った水飛沫をあげて氷雨さんの遺体は池の水面を潜り、重石もつけていないのに、引き寄せられるように藻の下へ下へと沈んでいった。 「手伝ってくれてありがとう。でも、あとはもういいわ。あなたはあとはもう、自分のことだけを考えて。いつでも帰れるように残り二人の仲間と一緒に教会にでも閉じこもっていなさい。そして、お祈りでもしていればいいわ。自分たちの世界に帰れますように、と。あの教会は、祈れば叶えてくれる。本当、おぞましい場所。どれだけ高い対価を払わせられるのかしれたもんじゃない。それでも、氷雨の命を奪ったのだもの。あなたたちを返すくらいの借りは残っているでしょう」
「氷菜さん……氷菜さんが嫌悪しているのって……」
 氷和さんでも氷雨さんでも、ましてキリスト教という教えでもなくて。
「あの教会そのものなの?」
「連れてこられた時から嫌だったのよ。牧師館に住むなんてもってのほかだったわ。何かは分からないけれど、あの建物は人の心を吸い取る。狂わせる。だから、近寄りたがらなかったわたしを見て、本当は田村の養子に決まっていたのは氷雨だったのに、氷雨が無理にわたしを田村の養子に、と言い出したのよ。何が何でも自分はここにいたいんだ、って心にもないことを言って。氷雨が唯一安らげる場所がこの池だと言っていた。だから、真至が落ちた時は、本当にもう、氷雨にとってはここさえも忌まわしい場所になってしまって、どこにも行く場所がなくなってしまうところだったの。そうね。真至が生き返ることに執心したのは、氷雨もここを奪われたくない一心だったのかも知れないわね」


 ニャァァァァ


 タマが一声鳴いた。肯定とも否定とも取れない。もう、僕には彼女が何を考えているのかも、その声音からは読み取れないけれど。
「行きなさい。そして、ここのことは何があっても口にしてはだめよ。わたしのことも買いかぶらないこと。いいわね?」
 悪魔になるのだから、と。言外に氷菜さんは言っていた。自分にはもう関わるな、と。何も知らないとしらを切りとおせ、と。
 僕は、今頃になって震えはじめる全身を励まして、牧師館へと帰った。
 了ちゃんとまー坊はまだ帰ってきてはいなかった。










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