（２）
サナトリウムに入院していた氷雨さんが亡くなったのは、昭和二十六年六月十八日、午前六時のことだった。身体を清められ、十字のついた棺に納められた氷雨さんが桜庭教会の聖堂に安置されたのは、それから数時間たった午後のことになる。
朝から降りはじめていた雨は、いつの間にか山を抉るような強いものに変わっていた。
ニャァ
僕は腕に余るほど大きく、湿気のせいでぐったりしているタマを抱え、了ちゃんとマー坊と共に聖堂に足を踏み入れた。
祭壇の前に置かれた棺の中の氷雨さんは、ベッドの上で日に日に生気を奪い取られていた時よりも、顔色こそ青白かったが、心なしか人間らしい面立ちを取り戻しているように見えた。それは、単に死化粧として施された頬紅のおかげだけとは言い切れないような気がした。
「ご愁傷様です」
棺に寄り添い続けている氷和さんと真人さんに、僕はありきたりでしかない声をかけ、棺に白い百合の花を一輪投じた。
「どうして？ どうして氷雨は治せなかったの？ どうして神様は私に力を貸してくれなかったの……？」
氷和さんは僕のことなど視界にも入れず、棺に取りすがり、うわごとのようにあれほど讃えていた神を詰っていた。そんな氷和さんを見て、牧師さんは困惑顔でたしなめる。
「氷和、やめなさい。氷雨ならばきっと今頃天で美しい歌声に迎え入れられていることでしょう。氷雨は誰もが憧れる天に召されたのです」
「誰もが憧れる天、ねぇ。本当にそんなものあるのかしら？ 本当に氷雨はそんな所に行ったのかしら？ ねぇ、氷和姉さん、姉さんなんか氷雨のために涙なんか流さなくったっていいのよ？ 分かってて今まで氷雨の命を削り取ってきたんでしょう？ 嘘泣きもいい加減にしたら？」
牧師の努めて穏やかな声を嘲笑うかのように、聖堂に入ってきた氷菜さんは憎しみと怒りをそのまま甲高い声にのせてを聖堂の天井高く響き渡らせた。
「氷菜、こんなときに何を……」
後ろから喪服に身を包んだ養い先の田村の両親が冷や汗交じりに転がり込んでくる。だが、氷菜さんはそんなことにはお構いなしだった。聖堂と入口とのはざまでちびタマを抱えて座り込んでいたちび真至に気づいて、わざわざ戻ってちび真至を見下ろす
「いいわね、あんたはのうのうと生きていられて。覚えておきなさい。あんたの命は氷雨の命と引き換えに手に入れたものなんだからね」
びくりとちび真至は震え、ちびタマの背に顔を強く強く埋める。そんなちび真至にはそれ以上構いもせず、氷菜さんはつかつかと長椅子と長椅子の間を足早に歩き、氷雨の棺に寄り添う氷和さんたちの前に立った。
「姉さん、分かっているの？ 氷雨は姉さんが殺したのよ？ ――ああ、でも、わかっているから嘆いているのよね。あなたの信仰する神さえも詰って」
くつくつと氷和さんに嘲笑を投げ落とすと、氷菜さんは不意に神妙な顔になって棺の中を覗き込んだ。
「かわいそうな氷雨。でも、大丈夫よ。約束はわたしが必ず果たすわ。だから、安心して」
ニャア
氷菜さんが囁き終わると、タマは一声鳴いてするりと僕の腕を飛び出した。
ニャアァ
タマは氷菜さんの足にすり寄っていく。
氷菜さんははじめ怪訝そうにタマの姿を見ていたが、ちび真至の腕の中の小さなタマと見比べて、はぁっと小さく溜息を漏らした。
「あんたもばかね」
タマの前にしゃがみこんだ氷菜さんは、確かに呆れた顔をしてそう言った。そしてどこか愛おしそうにタマの頬を撫でた。
氷菜さんも……全てを知っている？ 知っていて、もしかしてずっと悪役を買って出ていたんだろうか。
「氷菜さん……」
僕が呼びかけると、氷菜さんはタマに向けていた表情とは打って変わってぞっとするような顔で僕を見上げた。
「ねぇ、もしかしてあんた達のせいじゃないの？」
氷菜さんが見ているのは僕だけじゃなかった。隣の了ちゃんやマー坊も順に見回しながら立ち上がる。
「あんた達がこの村に熱病を撒き散らしたんじゃないの？ あんた達が来てこの三日で、いきなり村で熱病が流行りはじめたって言うじゃない。そのせいで氷和姉さんは村の人にも力を使わなきゃならなくなって、結果的に氷雨の命が削り取られたんじゃないの?!」
直接悪意を投げつけられて、僕は目が眩みそうになりながらようやく呟く。
「熱病？」
「ははっ、知らないふり？ 昨日今日と患者が増えて病院がばたばたしてたのにも気づかなかったの？」
氷菜さんの軽蔑の視線に耐えられなくなった僕は、了ちゃんとマー坊に答えを求める。
「お前はサナトリウムに入り浸りかと思えば熱出して寝てたからなぁ。村で熱病が流行っているのはその通りだよ。サナトリウムの洗濯のおばちゃんも熱出して来られなくなったって聞いたし、魚屋の常連のばあちゃんも熱出したらしいし」
腕組みをしたマー坊は眉間に皺を寄せたまま教えてくれた。
「だからと言って、僕たちが熱病を持ち込んだ犯人にされちゃたまらないけどね」
了ちゃんの言葉など聞くそぶりも見せず、氷菜さんはくつくつと笑いながら聖堂の真ん中でくるくると回った。
「まだまだ増えるわよ。氷和姉さんが氷雨の命で余命を贖った患者たちがばたり、ばたりと倒れるわ。みんな真っ黒になって死んでいくの！」
負の予言は聖堂中に響き渡り、入口で縮こまっていたちび真至を震え上がらせた。
「氷菜、いい加減にしなさい」
氷雨さんの棺から顔を上げた氷和さんは、弱々しく氷菜さんを顧みた。氷和さんと氷菜さんの視線が一瞬から見合う。
えもいわれぬ沈黙が破られたのは次の瞬間だった。
「氷和ちゃん！ 氷和ちゃん、氷和ちゃん、氷和ちゃん！」
氷雨さんを弔いに来た人々をかき分けて、中田魚店の真っ黒に日焼けした遼二さんが中に転がり込んできた。遼二さんは氷雨さんの棺に寄り添う氷和さんの姿を見つけると、迷わずその前にひれ伏した。
「氷和ちゃん、氷和ちゃん！ おっかあが、おっかあが……」
ただならぬ様子に、マー坊がぴくりと反応し、遼二さんの傍らにしゃがみこんだ。
「ばっちゃんが、どうしたんだ？」
「真っ黒になって、血を吐いて、熱出して……四十度振り切ってんだ。助けて、助けてくれよぉぉぉ。またあの時見たく、手ぇかざしてさ。いくらでも俺、神様に祈るから。氷雨ちゃん亡くなった直後で大変だってのはわかってるけど、頼むよ。この通りだ、頼む……！！」
頭を床にこすりつけての血を吐くような遼二さんの懇願に、氷和さんの表情は悲しみに暮れたものから、やや意識を取り戻したかに見えた。
「行きましょう」
氷菜さんには弱々しかった声が、今は責任感に裏付けられたしっかりとしたものになっていた。氷和さんは涙を拭いて立ち上がると、まっすぐに教会の外へ向かって長椅子と長椅子の間を歩きはじめた。
「ああ、氷和ちゃん……他にも、他にも村中のみんながあちこちで具合悪くしてて……」
氷雨さんを弔いに来たはずの村人たちまでが氷和さんの周りに集まり、次々と自らの押し隠していた要求を口にしだす。
「必ず助けます」
毅然と答えた氷和さんは、入口に蹲るちび真至には目もくれずに通り過ぎていった。
「お、母さ……」
ちび真至は、呼びかけてはいけないものに呼びかけてしまったかのように口を噤み、ちびタマの背に顔を埋めた。
――さみしかった。僕のお母さんなのに。お母さんはみんなの、村の聖母様なんだ。僕が邪魔しちゃいけない。僕が、お母さんの、村のみんなの邪魔をしちゃいけない。
ちび真至の思いが届いたのか、僕自身の記憶だったのか、それはわからない。でも、僕自身も何か痛いものを胸に抱えたような気分になった。
「俺も行きます」
マヒトさんもすかさず氷和さんの後についていく。ちび真至は置いてきぼりだ。
「了一、真至、俺もちょっと行ってくる！」
そしてもう一人、マー坊までが真っ青になって遼二さんたちの後を追っていった。
傍らでは氷菜さんが笑っている。小さく、くすくすくすくす、と噛みしめながら。
「何がおかしい」
思わず苛立った僕には構わず、氷菜さんは足取りも軽やかに聖堂の出口へと踵を返した。
「さぁ、聖女が魔女に変わる瞬間を見に行かなくちゃ」
堂々と聖堂を出て行く氷菜さんの後ろから、申し訳なさそうに僕の祖父母によく似た二人がぺこぺこと頭を下げながらついていく。
僕の腕の中のタマは、ちび真至を見ていたたまれなくなったのだろう、僕の腕を飛び出し、僕の代わりにちび真至の傍らに寄り添ってくれた。
聖堂には、僕と了ちゃんとちび真至、それに鈴木牧師と棺に納められた氷雨さんの亡骸だけが残された。
窓を打つ雨の音がいやに大きく聞こえてくる。
「タマ、戻ってきたんだな」
「……うん。ねぇ、了ちゃん、知ってるんでしょう？ この先この村がどうなるか」
そっと僕は了ちゃんに囁いた。
了ちゃんは誰もいなくなった聖堂の入り口を見つめたまま口を開く。
「蔵にあった村誌なら小さいうちに読み漁った。何があったかは知ってる。でも、端折られて書かれた史誌に何の意味がある？ 村誌には不思議な力を持った氷和さんのことは一言も触れられていない。それどころか名前すら出てこない。不入山は、その昔教会があったから耶蘇山と呼ばれていたことがあった。だがその教会も、併設していたサナトリウムと共に焼け落ちて十字架を失い、今はだれも足を踏み入れない山になってしまった。そう書かれてあるだけだ」
「嘘だ」
淡々と語る了ちゃんに、僕は思わず呟いていた。
「この村の住人がみんなキリシタンだったことも一言も触れられていない。昔からここには寺があり、廃仏毀釈もどこへやら。ずっと仏教だけを信じてきたって。有名な寺は円弧寺と西両寺。村民の墓はすべてそこにあることになっている。大昔から」
「でも、了ちゃんは僕たちが元の世界に戻れることを知っている。それは、なぜ？ 助けたいんだ。変えたいんだ。ここはパラレルワールドでも何でもない。僕たちの世界の過去だ。だから、マー坊は遼二さんを追いかけて行ったんだろ？」
「マー坊のおばあちゃんはマー坊が生まれる前に亡くなったそうだからね。たとえ、本当に繋がっていなくても、繋がっているかもしれないと思えばいてもたってもいられなかったんだろう」
「了ちゃんは？ 了ちゃんはどうなの？ あるんだろ、了ちゃん家も」
言い募ると、了ちゃんは困ったように笑い、棺に納められた氷雨さんにつと視線を落として祈るように瞼を閉じた。
「僕の命もあなたからもらった。真至、見ていただろう？ ここに来たばかりの時に、トラックの荷物に埋もれた妊婦さん。氷和さんに救ってもらったあの妊婦さんが、僕の母さんなんだよ」
「え？ 了ちゃんの？」
「お腹の中にいたのは僕の姉だ。あの時母さんを助けてもらえなかったら、今頃僕も存在していなかった」
ニャァ
ちび真至の傍らでタマが鳴く。
「氷菜さんに対抗して、僕も一つ予言をしよう。本当にするための予言」
了ちゃんはふっと力の抜けた微笑を浮かべると、鈴木牧師に聞こえないように僕の耳に囁いた。
「僕たちは今度こそ歴史を変える。そして、今度こそ三人で帰るんだ」
了ちゃんは微笑をすぐにひっこめると、僕の手首を握って出口へと向かいはじめた。その後、了ちゃんは何か大がかりな儀式を始めたわけでもなければ、高熱に苦しむ村民たちを救う奇跡を起こしたわけでもなかった。
さらに言えば、その日、村に奇跡は起きなかったという。
祈りは天には通じず、看取るだけ看取って疲れ果てた氷和さんが真人さんに抱えられて牧師館に戻ってきたのは、深夜も遅くのことだった。
マー坊は、結局その晩帰ってこなかった。
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