雨降り館
6月18日(月) 晴れのち曇り

(1)

 一晩中、昨日氷菜さんに投げつけられた言葉が呪いのように頭の中で渦巻いていて、僕は夜明けまで寝返りを打ちつづけていた。横たえた身体は熱に浮かされているせいか、寝返りを打つたびに関節が軋み、うっすらと目を開けただけでもかすんだ視界に痛みを感じた。
 結局、僕は昨日、病院の庭で雨に打たれているところをまー坊と了ちゃんに見つけられて牧師館まで運び込まれたらしい。夜遅くまで額の上の手ぬぐいを替えてくれていた二人も、今は疲れて両横で軽い寝息を立てている。
 ここに来てから、なぜか僕一人が周りに迷惑をかけているような気がする。
 漠然とした焦燥感と不安とが言葉に結実すると、急に手洗いに行きたい気分と強烈な喉の渇きとが襲ってきて、僕はうっすらとカーテン越しに忍び入ってくる夜明けの光を頼りに下に下りていった。
 ふらつく足は足音を立てないようにしようとしても、どうしても夜明けの静けさに溶けきれずにホールに響く。せめて足を滑らせないようにと身体を半ば預けた手すりは、手に身体によく馴染み、柔らかく温かく僕の身体を押し返した。
 ――昔、よくこの手すりを滑り台にして遊んで怒られたっけ。
 不意に浮かんできた情景に、僕は階段の上で足を止める。
 周りは大人ばかりで、一人遊びばかりが上手くなっていく。一人では山を降りることも、お母さんを心配させてしまうから出来なくて、いつもこの手すりや裏庭の楡の木に縄をかけて作ったブランコに乗って一人で遊んでいた。たまに病院に同い年くらいの子供が来ても、大概うちに来る人たちは元気に遊べるような状態ではなくて、僕が友達になろうと病室に出入りをはじめると大人たちは皆いい顔をしなかった。
 今思えば、大人に囲まれていたからだろうけど、背の高いお父さん達を見上げて顔色ばかり気にしていた。はしゃぎまわっている振りをしていても。タマだけが僕のことを何でも知ってくれていた。
 ああ、あと、氷雨お姉ちゃんも。
 この階段を滑り台にする時はいつもついていてくれたし、ブランコだって背中を押してくれた。それから蛍を探しにいった時も、籠にたくさん蛍を取って僕にくれた。いつも一緒にいてくれた氷雨お姉ちゃんが、僕は大好きで大好きでたまらなかった。たまに遊びに来る氷菜おねえちゃんも、氷雨お姉ちゃんが入院するまではとっても優しかったのに。
 いつからだろう。
 氷菜お姉ちゃんが僕を冷たい目で見るようになったのは。
 僕は、池に落ちたことがある。四歳の時だ。山の中をタマを追いかけて走っていて、喉が渇いて池の水を掬おうと屈みこんだあと、僕の視界は暗く混迷した。そのあと、からかもしれない。氷菜お姉ちゃんが変わってしまったのは。氷雨お姉ちゃんが病院に入院してしまったのは。牧師館の人々が、どこかよそよそしくなってしまったのは。
 何かを隠すように。みんながみんなを監視しあっている。目を覚ました僕にはそんな気がしたのだ。
 無邪気なふりをして僕はそれを探ろうとしていたんだけれど、結局真相は分からなかった。真相にたどり着く前に、僕はこの牧師館からいなくなっていた。
「っ痛……」
 ずきりと差し込むような痛みに、僕は思わず頭を押さえた。
 どうしてそんなことを知っているのだろう。記憶を手繰ればいくらでもここに住んでいたときのことを滞りなく思い出すことができる。熱のせいで妄想でもしているんだろうか、僕は。同じ名前だからって、あのちびシンジになりきっているだけなんだろうか。
「だから、もうやめようといったはずだ」
 ぼそりと低い声は、階下から聞こえてきた。居間からはうっすらと灯が廊下にもれている。
 マヒトさんの声のようだったけれど、あまりに真剣で確信が持てない。
「でも、やめたらたくさんの人が命を落とすことになるわ。せめてあなたの研究が実用化されて、医学の力であの人たちを治すことが出来るようになるまでは……」
「氷和。君は平気なのか? 君は氷雨君に全ての苦痛を押しつけているんだぞ?」
「そんな人聞きの悪いこと言わないで」
「そろそろ教えてくれてもいいんじゃないのか? 一年前、一体何があった? 真至が池に落ちたとき、君たち三姉妹で何をした?」
 僕はごくりと生唾を飲み込んだ。下に聞こえなかったかと心配になるくらい大きな音だった。だけど、氷和さんもマヒトさんもそんな音など耳に入らないくらい睨みあっていたに違いない。
「何も……」
「そんなわけあるか!」  マヒトさんの怒鳴り声に空気が凍った。
「ごめん。怒っているんじゃないんだ。ただ、君だって分かっているだろう? 君が誰かを治すたびに、氷雨君の病状が悪くなっていくことくらい。この一年間見てきたけれど、関係ないなんてどうしても思えないんだ」
 宥めるマヒトさんの声に沈黙が続いて、ようやく氷和さんは溜息をついた。
「池から真至を引き上げた時、息を……していなかったの」
 僕はがっちりと奥歯を噛みしめてぎゅっと唇を引き締めた。
「心臓も、動いていなかった」
「人工呼吸をしたんだろう?」
「それでも息が戻らなくて……そうしたら氷雨がいつの間にかびしょぬれのタマを抱いていて……」
 続きは裏口から押し入るように駆け込んできた松田医師の声でかき消された。
「氷和ちゃん! 真人君! 氷雨ちゃんが……!」
 一つ間を置いて、マヒトさんと氷和さんは裏口から病院へと飛び出していった。
 三人が病院に戻った頃合を見計らって、僕はお手洗いを済まし、どんより曇った黎明の空の下を池に走った。
 東の空こそ朝を受け入れる準備を始めていながら、足元はまだ暗い。懐中電灯を持ってくればよかったと思ったけど、取りに行く間も惜しい。
 氷和さんの話の続きを、氷雨さんは知っているはずだった。
 聞かなきゃならない。なんとしても聞かなきゃ。
 もう、二度と会えなくなってしまう前に、会っておかなきゃ。
「よぉ、でかシンジ。泣きそうな顔してどうした。いや、もう泣いてるか?」
 氷雨さんはいつもの朽ちた幹の上に腰掛けて消えかけの蛍と戯れていた。
「氷雨さん!」  氷雨さんの姿は消えかけの蛍の光にさえかき消されてしまいそうなほど薄かった。それでもいつもと変わりなく笑っている。
 僕は氷雨さんの前に仁王立ちになり、正面から氷雨さんを見下ろした。見上げる格好になった氷雨さんは怯える様子もなく不敵に微笑んでいる。
「何か聞いたか?」
「分かっているなら……分かっているならどうしてやめさせないんだ!」
 僕は、ここに着いたらいの一番に聞こうと思っていることとは別のことを口走っていた。氷雨さんの姿が、風がそよとでも吹いたら掻き消えてしまいそうなほど実体なくなってしまっていたから。だからきっと、そんなことを言ってしまったのだろう。
「姉さんの治癒のことか? あれなら構わん。少しでも救われる人がいるのなら……」
「その他大勢が助かっても、氷雨さんがこんな目に遭っていたら何の意味もないじゃないか! 氷和さんが治癒なんてしなければ、氷雨さんはあそこまで悪くならなかったんでしょう?」
「そんなことはない」
 簡潔に氷雨さんは言って首を振った。
「私の命はそもそもいつ尽きてもおかしくなかった。私たちは残された時間を有効に使っているだけなんだよ」
「そんな言い訳で納得できるか! どうして助かろうとしない? どうして元気になろうとしない? こんな湿気た池の畔なんかじゃなく、どうして教会の庭でちびシンジと遊んでやらない?」
 氷雨さんの肩を掴もうとした手は見事にすり抜けて、僕は氷雨さんの身体すら通り抜けて古く湿った木の幹に鼻をぶつけていた。
「間が抜けているな、でかシンジは」
 上からはからからと笑う声が聞こえてくる。
「前は掴めたはずだ。君の手を、前は掴めたはずだ! どうして今は触れることすらできなくなってる?」
 身体を起こした僕は真正面から氷雨さんの顔を覗き込んだ。氷雨さんは空とぼけた笑みを口元に浮かべているばかりだ。
「真至、私の命はね、ちび真至にあげたんだよ」
 ようやく氷雨さんが囁いた時、蛍は氷雨さんの手から一匹、また一匹と下に落ちていった。
「姉さん達の話の続きを聞きに来たんだろう?」
「どうしてそれを……」
「お前が盗み聞いていたことくらいお見通しだ」
 ばつが悪くなった僕は氷雨さんから視線を逸らす。
「私はね、真至が大切にしていたあの小さな子猫の命を奪って自分の命と混ぜ、姉さんを通して真至に造った命を吹き込んでもらったんだよ」
 思わず僕は氷雨さんを見返した。
「そんな馬鹿なと思ったんだろう? でもお前は見ているはずだ。町で姉さんが村の人を治している姿を。奇跡はあるんだ。一番の奇跡は真至を蘇らせたことだった。今の奇跡はその時のおこぼれに過ぎん」
「命を、操ったというの?」
 氷雨さんはにっこりと笑うと、掌から数匹の蛍を飛び立たせた。蛍は薄暗い森の中を飛び立っていき、森の木々の間からはほのかに紅色がかった曇天が見えている。
「私は出来るだけ長生きをしなければならない。奇跡を続けるためにも、出来るだけ長く……」
「そんなの、長く苦しみが続くだけだ。たとえ大勢の人を救えたとしても、氷雨さんの命を引き換えにしていいはずがない」
「いいんだよ。私は真至が元気にしている姿を見られるだけで、十分なんだ」
「でも真至は十分じゃない。ちび真至は氷雨さんをお嫁さんにするって言っただろう? あいつは本気だ。本気で君を……」
 氷雨さんはすっと僕の頬に白くほっそりとした掌をあてがうと、そっと赤い唇を僕の口元に寄せた。
「お前はどうなんだ、真至? 私を嫁にとは望んでくれないのか?」
 何も言えなくなっている僕をよそ目に、氷雨さんは楽しげに笑っている。
「もし真至が望んでくれるなら、私は……」
「望むよ! だからもっと生きてよ! 生きようとしてよ! 元気になったら約束どおり僕のお嫁さんにしてあげるから、だから……」
「ちび真至が一丁前の口を利くようになって」
「違う! 僕はちび真至じゃない!」
「そうだった。だから許されるような気がしたのかもしれない」
「許す? 何を?」
 氷雨さんは目の前に僕がいることなどお構いなく立ち上がり、すり抜けて池の淵に立った。
 命を散らしきった蛍たちが最後の気力で池の上に光の線を描いている。
「神様と約束をした。お前を助ける代わりに、次は私がここに来いと。それでも、大分猶予してもらった。お前が元気になるところを見るまでは。お前が無事に成長するところを見るまでは。欲を言えばキリがない。それでも、一年待ってもらった」
「待って。どこに行くつもり?」
 氷雨さんの背中はもう対岸の蛍が見えるほど透けてしまっていた。
「お別れだ、真至。大きくなったお前を見られてよかった」
「何、言ってるんだよ!」


 ニャァ


 不意に、池の対岸から野太い猫の鳴き声がした。
 一声で、僕にはそれが僕のタマの声だと分かった。
 タマはゆっさゆっさと腹を揺らしながら蛍を掻き分け、氷雨さんと相対するように池の淵に立つ。
「ああ、お別れではなかったな。私はずっとお前の側にいる。何年一緒にいられるかはわからないけれど、お前の側にいるよ、真至。だからもう、泣くな」
 泣いているつもりなどなかった。
 でも氷雨さんがそう言うなら、きっと泣いていたのだろう。
「泣き虫の嫁になるつもりなどないぞ」
「本当に? 本当に氷雨さん、これでいいの?」
 泣いてよじれた心を体現するように身体を捻って、僕は氷雨さんの腕を掴んで振り向かせた。
 掴んだ感触はなかったけれど、氷雨さんは僕の方を向いてくれた。
「嫌だと思うなら、変えてくれ、真至。そのために、お前は来たんだよ」
 笑みを残して、氷雨さんは池の上を音も立てずに滑らかに渡っていった。反対側からタマも同じように音も立てずに池をわたり、一人と一匹は池の中心で見つめあった。
 その姿をどこから湧いたのかわからないほど大量の蛍たちが覆い隠していく。
 氷雨さんの姿もタマの姿も見えなくなってしばらく。蛍の群れを掻き分けてタマだけが腹を揺らしながら池をのっしのっしと歩き、僕の前に来ると一つ、足に絡みついて媚びて見せた。
 池の中央に集まっていた蛍たちは頭上から差し込んできた朝の光に飲み込まれるように消えていく。
 やがて蛍の明かりのなくなった池の中央には、もう氷雨さんはいなかった。


 ニャァ


 タマが一つ鳴く。
 僕は呆然と池の上を眺めていた。
 タマは時もわきまえず、僕の足にじゃれついてくる。
 僕はひたすら涙が出るに任せて立ち尽くしていたが、やがて涙も枯れた頃、タマを抱き上げた。
「お前、氷雨さんだったのか?」


 ニャァ


 ふてぶてしいばかりだと思っていたタマは、やっぱりふてぶてしく鳴いた。
 僕は、意を決して池を後にした。
 おそらく、教会に戻れば一番聞きたくない報せが入っているはずだった。
 それでも僕は聞かなきゃならない。
 人として最期を迎えた彼女の姿をこの目に焼き付けなければならない。
 そうでなければ、到底今あったことも、腕の中のタマのことも信じられそうになかった。
 山を登る僕の肩に、朝の冷たい雨が降りかかりはじめた。









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