(3)
僕はマスクをつける暇さえ惜しんでサナトリウムに飛び込んだ。
あまりの勢いに驚き立ち尽くす患者さんや看護婦さんたちの間を縫って、面会謝絶と記された札の下がる病室に駆け込む。
「た、田村君?」
ノックもなしで入った僕に、付き添っていた松田先生はのけぞりながら呆れた声を漏らした。
「すみません、でも、どうしてもちゃんと生きてるか確かめたくて」
僕は真っ直ぐベッドに横たわる氷雨さんの元に向かった。
白い掛け布団と白い枕カバー、それに白いシーツ。
その中に埋もれるように青白い少女の顔はあった。
やっぱり、生きているようにはとても見えない。
「本当に? 本当に生きているんですか?」
「自分で確かめてみるかい?」
松田先生はそっと掛け布団から氷雨さんの腕を引き出してくれた。
所々注射を刺した跡が残り、不健康に透き通る肌からは青い脈が浮き上がっている。
その細い手首に僕は言われるままにそっと指を押し当てる。
かすかな温もり。
わずかな鼓動。
生きてる。
確かに生きてるけど……。
「君はどうしてそんなにこの子にこだわるんだい? 会ったことなどないはずだろう? 前澤君も氷和さんもとても不思議がっていたよ」
「それは……」
言っても信じてくれないに違いない。
でも池のことは、了ちゃんとまー坊が僕たちを連れ帰ってくれたときにみんなに話してしまったことだろう。
熱に浮かされていた僕はまー坊の背に負ぶわれているばかりで、牧師館に到着したときのことすら朧にしか覚えていない。
「池の側で見つかったんだってね」
多少の棘を含んだ低い声で松田先生が訊ねた。
「ご心配をおかけしました」
「どうして君があの場所を知っていたんだい? どうして真至君を連れて行ったりなんかしたんだい?」
僕は俯いたままじっと氷雨さんの顔を見つめていた。
目覚める気配は皆無。
だけど、僕の口から全てを告げたらもう二度と氷雨さんはあの池に現われてはくれないような気がして。
口を開こうとしない僕に、松田先生は深いため息をついた。
「もう二度と真至君を連れださないでくれないか? 本来なら私でなく前澤君や氷和君が話すべきことだろうけれど、真至君は去年その池で溺れているんだよ」
「え?」
ちびも溺れている? あの池で?
「なんだ、思い当たることでもあったのかい」
「あ……」
「怯えただろう? どうしてそこで連れ帰ってきてくれなかったんだ」
松田先生の言うことは至極最もで。けれども僕はやっぱり俯くことしかできなかった。
「ごめんなさい」
呟いて、僕は握りっぱなしだった氷雨さんの手を松田先生に返した。
松田先生はその手を掛け布団の中に戻しながらもう一度ため息をつく。
「君たちは教会のお客人ということになっているがね、住んでいるわけではないんだよ?」
「ええ、わかっています。僕たちも、早く戻りたいとは思っているんです。ええ、早く」
僕はそのまま眠り続ける氷雨さんと松田先生に背を向けた。
「時に、具合はもういいのかい? あまり免疫のない状態でここに入ると、また後で氷和君を疲れさせることになってしまうよ」
僕はふと足を止めて松田先生を振り返った。
「氷和さんはどうしてあんなことができるんです? ここの患者さんも実は氷和さんが治してるって、本当ですか?」
松田先生の表情が険しくなるのを承知で、僕は氷菜さんの言っていたことも含めて口にした。
松田先生の表情は変わらないままだった。そのかわり今度は先生が俯き、何度となく口を開いては閉じ、開いては閉じと繰り返し、最後に深く息を吐き出した。
「氷菜君かい? そんなことを言ったのは」
渋い声に疲れたため息が続いた。
僕は沈黙を以って肯定にかえる。
「氷和君が何故そんなことをできるのか、それは氷和君自身に聞いてみるといい。そしてこのサナトリウムの患者達のことだが、氷菜君の言うとおりだよ」
松田先生は追い出すように僕を一瞥すると、青白い氷雨さんの顔に視線を落としたまま、二度と僕を見ようとはしなかった。
僕は口を引き結び、病室を後にする。
廊下は病状のいい患者たちが集まって井戸端会議を開いており、ひそひそ声や笑い声でささやかに賑わっていた。その人たちの間をすり抜けるように、僕は顔を伏せたまま外まで一息に駆け去る。
生きていた。
氷雨さんは、まだちゃんと生きていた。
なのに、どうしてこんなに空しさが胸に溢れてくるんだろう。
どうして、こんなに涙が溢れてくるんだろう。
真白いシーツとなんら変わりない顔色。枯れ枝よりも存在感のない手首の感触。眠ったまま瞼を開けようともせず、時に身を委ねきっているあの少女のどこが、生きていると形容できる状態にあるだろう。
死んでいないのとどこが違うというのだろう。
むしろ、昨晩池で見た死神のような透け方をした氷雨さんの方が、よっぽど生きていた。
「はぁーっ」
病院から飛び出して、時期も終った桜の木陰で肺の中の空気全てを吐き出す。ぺしゃんこになってしまうんじゃないかってくらい吐き出して、最後に小さくため息をついた。
あらんかぎりの息を吐き出せば、ちょっと胸を緩めてやればあとは勝手に空気は入ってくる。冷たさと湿気を含んだ空気。
何でもよかった。自分が生きてるんだって実感が得られれば、排気ガスにまみれた空気だって吸えば独特の濁った風味で生きてる感覚を取り戻せたかもしれない。
病院を振り返る。三階、東の端っこ。
きっとあの部屋の住人は、すでに自ら息をしたいなど思ってないに違いない。早く時が最後のひとかけらまで命を削り取ってくれるのを、ただひたすら大人しく待っている。そんな重さが部屋中に満ち満ちていた。
どんなに僕が生きていてほしいと願ったところで、ちびシンジがお願いしたところで、当の氷雨さんに通じることはないような気がした。
あれは、もう生きることをやめてしまった人の顔だ。
時の終わりが見えている患者の顔だ。
そして、僕もなぜか彼女が長くないと理解していたのだ。
理解?
少し違う。そう、これはすでに過去のこととして記憶されているという感覚。
「何でだよぉ」
背を丸め、両腕で抱え込んだ頭の上に、ぽつりと無情な雨粒が染みこんできた。止んだとばかり思っていたのに、雨はその一粒を皮切りに堰を切ったように零れ落ちてきた。
なんて冷たい雨だろう。
どうせならこの違和感を消してくれるくらい降りつづけばいい。あまりの冷たさに感触もなくなるくらい、僕を打ちつづけてくれればいい。
「濡れてるわよ」
蹲ってしまった僕に、見かねたような間を置いてふと影がさした。
「氷雨、さん……?」
上から降ってきた声は、氷雨さんそっくりで。僕はつい期待一杯に顔を上げていた。
「……悪かったわね、氷雨でなくて」
次に降ってきた冷たく強張った声は、間違えようもなく氷菜さんのものだった。
同じ形の口から発されているというのに、顔を見ただけでこれほどまでに印象が変わるものなんだろうか。声というものは。
目が合ったその一瞬で、僕はその場に凍てついた矢で串刺されたような気分になった。氷菜さんはそんなに私が嫌い? とばかりに嘲りを浮かべ、僕を見下ろす。
「すみません、氷菜さん。そういうつもりじゃ……」
「期待したんでしょう? 氷雨かもしれないって。嘘、つかなくてもいいのよ?」
かざされた傘の下、氷菜さんはぐっと顔を近づけて僕のことを覗き込んだ。
「私には真実が見えるもの」
氷菜さんの目は、あの蛍のいない池のように暗く淀み、底が見えなかった。
「真……実……?」
溺れそうになる。藻が足に絡みついて、水中深く引き込まれていくように。
「そう、真実。人々が心の下に隠し持っている本当の心が、私には見える。みんな自分のことばかりよ。あなたも一度覗いてみればいいんだわ。どんなに優しい顔をして優しい言葉をかけてくれたって、その人が一番大切なのは自分だけ。そんな人間、自分の都合が悪くなればさっと逃げてしまうわ。姉さんのようにね。それで、あなたは何をしているの、こんなところで」
「な、何って、お見舞いに来たんだ。氷雨さんの」
氷菜さんは目を見開くと一呼吸おいて目元を眇め、たがが外れたように口から嘲笑をあたりに撒き散らした。
「お見舞い? 氷雨の? ばっかじゃないの。あんな死体見たって何の意味もないじゃない」
「死体? 死体なんかじゃない! 氷雨さんはまだ生きてるじゃないか。脈もあるし、呼吸もしているし……」
「ほうら、嘘をついた。病室で氷雨の姿を見たとき、あなたは生きてるようにはとても見えないと思った。そうでしょう? あんなの、ミイラもいいところよ。どうしてあんなにしてまで氷雨を生かしつづけているか、真至君、知ってる? 姉さんはね、氷雨の命を使ってたくさんの結核の人たちの寿命を延ばしているのよ。治ったなんて、嘘。末期の患者ばかりが治ったように見えるのは、ただ寿命を延ばされただけ。見ていなさい。氷雨が死ねば、みんな死ぬわよ。姉さんが寿命を延ばしてやった末期患者たちは、みんな、ね」
「そんな……馬鹿馬鹿しい」
「馬鹿馬鹿しい? 見たでしょう、一昨日。姉さんが妊婦を不思議な力を使って助けた様を。あれで氷雨の具合は急変したわ。姉さんは氷雨の具合が悪くなるのを分かっていて、勝手に氷雨の命を人に分け与えているのよ。いいえ、逆ね。患者達の苦しみを全て氷雨に押しつけているのよ。実の姉だというのに、引き取り手がないという理由で病院のベッドにくくりつけてしまったのよ、あの人は」
刺々しい言葉は、何にも勝る毒だった。
「もう……いい加減にしてくれ。そんなのは君の勝手な被害妄想に過ぎないだろう? もしかして、氷和さんに嫉妬しているんじゃないのか? 村人達の人望も厚い上に、自分の好きな人を旦那さんにしている氷和さんに……」
ぴしりと頬に鋭い痛みが走った。
「馬鹿にしないで。どうしてみんなあの女に騙されたがるの? あの女は天使面しているけれど、本当は悪魔なのよ? そうよ、悪魔は私じゃない。あの女よ。氷雨の魂を少しずつ削り取っているあの女こそが悪魔なのよ。なのに誰も信じちゃくれない。今に痛い目に遭うんだから」
すっと氷菜さんは僕の横をすり抜けていった。
強さを増した雨が僕の背中を打ちつける。
「いい? 真至。人ってのはね、自分に都合のいいことしか信じられないもんなのよ。生きてるように見えたって、本当は死んでることだってあるんだから」
氷菜さんは背中を向けたまま捨て台詞を残して病院へと入っていった。
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