「仲間に入れて欲しいならその花びら、持って来いよ。咲いてるんだろ? 桜の花。蛍が飛び交う池がある? なら蛍捕まえて持って来てみせろよ」
どつかれて尻餅をついた僕を見下ろして、そのガキ大将は腕組みして嘲笑った。
「どうせ全部嘘なんだろ? この嘘つき真至」
「嘘じゃない! 嘘じゃないんだ!」
這いずるようにして僕はガキ大将から離れて立ち上がり、一目散に昔家のあった山を目指した。
嘘じゃないって証明してやる。
花なら咲いている。
一昨日の朝から新緑に赤く煙る一点が広がりはじめているから。
蛍なら、飛んでいるはずだ。
去年……氷雨お姉ちゃんと一緒に見たのはこの時期だったから。
去年、だよね。
うん。去年だったはずだ。
どんなに今いる場所がちがくったって、僕が氷雨お姉ちゃんと一緒に蛍を見たのは去年なんだ。
山の入り口は、夕闇に沈んで不気味な雰囲気を漂わせていた。
麻の注連縄だけが白く浮き立つ。
僕は一歩踏み出す。
石畳はすぐに足裏に馴染んだ。
だけど、一歩踏み込んだだけで全身に得体の知れない重苦しさがのしかかった。
その澱みを掻き分けて、僕は石段を駆け上がる。
桜が咲いているのは分かってる。
だから、上まで駆け上がる前に池に寄って蛍がちゃんと飛んでるか確かめておこう。
石畳を右にそれて、池を目指す。
氷雨お姉ちゃんと一緒に蛍を見たあの池を。
ぬかるむ斜面を勘を頼りに走り抜き、もうそろそろ着くはずと思うのだけど、なかなか蛍の灯は見えてこない。
そして、次の一歩踏み出したところで。
僕の体は少しだけ前に傾ぎ、冷たい水の中に飲み込まれていった。
雀の鳴く声が聞こえている。
他には季節はずれな鶯。
郭公に鶫に……
雨が、降っていた。
薄明かりの中、細く白い雨が木立を抜けて降り落ちてくる。それは頬を濡らし、頬を伝って湿った丸太へと落ちていく。
懐には小さな温もり。
「ちび? ちびシンジ!?」
僕の傍らで丸くなっていたちびシンジは目を閉じていた。
気のせいか荒い呼吸を繰り返しながら。
飛び起きた僕は、木の洞の天井に頭をぶつけた。
「いった……ぁ……」
頭のてっぺんをおさえて僕は唸る。
その声でちびシンジは目を覚ましたようだった。
とろんとした目で僕を見上げる。
「だいじょうぶ?」
寝ぼけた声で心配そうな目を向けて。それから一度目をしばたかせた。
「なんだ、にせものか」
「ちょっ。せめてシンジはつけようよ。偽者だけだといたたまれないから!」
「ばーか」
寝言よろしくちびシンジは呟いてまたぐったりと目を閉じた。
どうしてこんなところでちびと二人で眠っていたんだろう。
眠る前の記憶を僕は必死で引き寄せる。
氷雨さんが消えて、そのあとちびがもう少し蛍を見たいって言ったから付き合っているうちにちびが寝てしまって。そこで背負ってでも帰ればよかったのに、僕は木の洞を見つけてここなら安心かなってちびも引きずり込んで、ほんの少しの惰眠を貪るつもりで目を閉じた。
そこまで思い出したところで、俄かに僕は悪寒に襲われた。
中に何かはびこってしまったかのように重い喉。寝起きだからかもしれないけれどぼんやりする頭。
「風邪、ひいちゃったのかな」
六月とはいえ梅雨は寒い。特にこの時代の梅雨は昼間でも軽い服装だけでは耐え難い。
「あれ、もしかして」
僕はちびのおでこに手をあてた。
冷えた指には心地よさを通り越した熱と、ねっとり絡みつくような汗。
「ちび?!」
僕はちびを抱き起こした。
「うるさい」
だるそうにうっすらと一瞬目を開けて、ちびはすぐにまた目を閉じる。
「大変だ」
そうでなくても日まで昇ってしまって、ちびとでか二人揃っていない真至に上では大騒ぎになっているはずだ。少なくともちびの方は氷和さんをはじめとしてみんなに心配されているに違いない。
氷和さんなんか氷雨さんのことでも心労がたまっているだろうに。
焦りが高じて混乱しそうになったときだった。
「聞こえたって。確かにさっき馬鹿が叫んだ声がした」
「だからってどうして真至がこんな誰も踏み込まない方にいるんだよ。真至はこっちに池があるなんて知らないはずだろう?」
不意に、どこからか懐かしい声がこだましてきた。
「一昨日、氷和さんに聞いたら途中から階段それてこっちの方に走っていったって言ってたぞ」
安心するような力強い声はまー坊。
「……まさか」
それにちょっと神経質めの高い声の了ちゃん。
ということは、二人して僕を探しに来てくれたんだ。
確実に近づいてくる二人の声にほっと一息ついたところで、僕はもてあまし気味だったちびを背に負って洞から出ようと幹の端に手を掛けた。
「昨日昼に見た真至の靴、泥で汚れてたんだ。石段上り下りする分にはあそこまで泥こびりつかないだろ」
「……だって、自分が死んだ池だぞ?」
「俺がお前に殴られた場所だな」
神妙に言い換えたまー坊は、ようやく僕を見つけたようだった。
けして頭がぼーっとするからではなく、茫然と二人を見つめる僕を。
「真至……」
「真至!!」
二人の顔は一瞬ひきつりかけたが、すぐにぱっと明るさを取り戻した。
「おっ前、何でこんなとこにいんだよ! 心配したんだぞ!」
「あ、ちび真至も一緒だね。よかった。氷和さん、目の下にくまつくって心配してたんだぞ」
口々に喜びの声をかけてくる。
だけど、僕にはそんな言葉は聞こえちゃいなかった。
「了ちゃん、自分が死んだ池ってどういうこと?」
さっと冷水を浴びせられたように二人の顔色は青ざめていった。
「何言ってるんだよ。僕はそんなこと一言も言ってないよ」
「うそ! ちゃんと聞こえたよ! 僕が、この池で落ちて死んだって」
酸素不足の魚のようにぱっくりと口をあけた了ちゃんはまー坊と顔を見合わせた。
生唾を飲み込んでまー坊が言う。
「了一は落ちたなんて一言も言ってないぞ」
「うそだ! だって……」
「僕は、自分が死んだ池だぞって言ったんだ。落ちたなんていってない」
観念したように、了ちゃんはゆっくりと言葉を区切りながらそう言った。
「こら、了一!」
「いいんだよ」
眉根を寄せて抗議するまー坊を了ちゃんは簡単に制した。
「やっぱり言ったんじゃないか……!」
頭がぼんやりする。
叫んだ側から、僕はどうして問い詰めちゃったんだろうと後悔しはじめてる。
大声に驚いたちびが少し身じろいで、僕はその重さに座り込んだ。
「真至、お前、思い出したのか?」
「思い出したって……?」
目の前は急に朝霧がかかったように白く染まっていく。
「僕が、死ぬ前のこと?」
そんな鎌かけに、二人は簡単に息をのんだ。
どうやら、僕は本当に死んでいたらしい。
まー坊はともかく、了ちゃんまでがそんな悪質な嘘をつくわけがないのだから。
笑いがこみ上げてきた。
何がなんだか分からなくて、とめどなく僕は気の抜けた笑い声を立て続けた。
「僕は何にも知らないよ。死ぬ前のこと? 死んでたなんて知るもんか。じゃあ何? 今の僕は幽霊? 氷雨さんみたく幽霊になってここにいるって言うの?」
ああ、もしかして氷雨さんもこんな気持ちを味わったんだろうか。
でも、僕は確かにここに存在している。肉体もある。氷雨さんのように消えたり現われたりできるわけじゃない。
「ヒサメさん?」
不思議そうにまー坊が尋ねた。
「そうだよ。僕とちびはここに氷雨さんに逢いにきたんだ。蛍を一緒に見るために」
「氷雨さんて、サナトリウムに入院してるっていう氷和さんの妹さん?」
「氷菜さんの双子の姉貴だな」
昨日のうちに知ったのだろうか。
さもありなん。昨日あれだけ大騒ぎになっていたのだから、かまえない客人に理由くらい説明するだろう。
「はは、そんなまさか。だって昨日は危篤状態だったって」
「一命は取り留めたの?」
「あ、ああ」
了ちゃんの返事に、僕はようやく胸の奥のつかえをとることができた。
「もういいよ。帰ろう。ちび、熱あるんだ。早く連れ帰ってやらないと」
僕はもう一度ぐったりとしたちび真至を背負いあげる。
「でも……」
引きとめようとしたのは了ちゃん。
「じゃあ、一つだけ教えて。僕が死んだのはいつ? ちびくらい小さかった時? それとも、僕がこの山で見つかった後?」
僕は交互に了ちゃんとまー坊の顔を見た。
「この時期だった? まー坊に言われて、蛍と桜の花びらを持ってくるって言った時?」
最後に視線を据えたまー坊は息を呑んだようだった。
「そのときだよ。でも、死んだって言ってもすぐに息吹き返したんだよ、真至は」
「僕は?」
「そう。タマに呼ばれて真人さんが助けに行ったんだ。だからお前はすぐに引き上げられた。そのかわり、タマが死んだ」
「はぁ? どうして?! だってタマはいるじゃないか!!」
そういえば、ちびタマがいない。
「ちびタマは? ちびタマはどこ行ったの?」
僕は呆然と視線を当たりに彷徨わせた。
あんなに池の周りを元気に跳ね回っていたちびタマの姿はどこにもない。
「まさかっ」
僕はちびシンジをおろして池に駆け寄った。
何も、浮いてはいない。
緑色の藻と睡蓮の葉が池を覆っているだけ。
でも、この下に沈んでいるかも……。
ぷかぷかと浮かぶ白い塊。
そんな縁起でもないものが目の前に現実味を帯びてちらつく。
どんなに目を閉じて首を振っても、それは引き上げられる様までまざまざと。
ミャァ
それはか細く一鳴きし、僕の足元を通り過ぎてちびの方へと歩いていった。
「タマ……? お帰り、タマ」
目を開けたちびシンジがちびタマを腕に抱え込んでまた目を閉じる。
「タマは確かに死んでたんだよ。池で真至と一緒に浮いてた。俺、了一に叱られて真人さんの後追いかけてって見たんだよ。だから、本当だ」
「なら今僕んちにいるタマは何なの? まー坊がいっつも粋のいい魚くれてたあの性悪タマは何なの?」
「お前が目ぇ覚ます前に新しく田村家に来た猫だよ」
「は? まさか」
「タマとそっくりだろ? でもタマの墓が暴かれた後もなかったし、別な奴としか考えられないんだよ」
「了ちゃんまでまたそんなこと」
僕はせせら笑った。
「あるいはあのタマ、幽霊だったとかな」
ぼそりとまー坊は呟く。
「いい加減にして!!」
霧が深くなっていく。
まー坊も了ちゃんも、一体どうしちゃったんだよ。
冗談にしても、たちが悪すぎる。
冗談、だよね……あの夢も……。
桜が咲いている。
紅い、紅い桜。
花びらが散る。
雨に紛れて、吹き散らされていく。
広場の入り口のあの桜の木の根元、タマが出てきて一声鳴いた。
ニャァァァァ
紅い花びらは風に翻弄されて、ぺろりと伸びてきた炎の舌が飲み込んだ。
タマは僕を導いていく。
蛍の飛び交う池へと。
待って、タマ。
行かないで。
真っ暗だけど騒がしい。
僕はやっとタマに追いついたその場所で、喉が乾いていてつい、池の水を掬い取った。
ニャァァ
とん、と軽い衝撃がお尻に当たって、僕は。
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