(2)
どれが本当かなんて誰にも分からない。
所詮僕が見た夢。
熱にうなされて、了ちゃんたちの言うことを真に受けてみた夢。
現実と虚構とが奇妙にごっちゃになって、僕はじっとり寝汗をかいて目を開けた。
「帰りたい」
了ちゃんに差し出された水差しから水を一杯飲んだ後、僕は一言呟いた。
「もういい。帰りたい。了ちゃんもまー坊もなんか変だもの。早く僕らの時代に帰りたい」
何が何でも帰ってやろうと、僕は固く決心していた。
「帰りたいって帰れてんなら、俺らとうに帰ってるだろうが」
「そうそう。その方法が見つからないからここにいるわけで」
「了ちゃん!!」
びりびりと喉が痛さを増した。
咳きこむ僕に、了ちゃんはもう一度水差しを差し出し、落ち着かせるように背中を撫でる。
「了ちゃん。言ったよね。帰れるって、言ったよね?」
「……言ってないよ。僕はもうじきあの桜が咲くって言っただけだ」
「あの桜が咲いたら帰れるんでしょう? どうすれば帰れる? あの木をあっためてやればいい? そうだ、火が燃えてたんだ。だから桜は咲いたんだ……!」
夢の中で見た紅蓮の炎の中で散っていく無数の花びら。
帰れる。
あの木の花が咲けば、帰れる。
僕は額に乗せてあったタオルを振り落として布団からはい出た。ライターは? 燃えそうな新聞は?
「真至!」
熱に浮かされて僕は捜し求める。この教会を燃やせるものを。
「帰るんだ。元の世界に、帰るんだ」
ふらつく足で心もとない布団を踏みしめて、右へ左へお酒でも回っているかのように僕の足は行方定まらず揺れ動く。
空中を掻き分けて姿勢をとるそんな僕の手を、まー坊は乱暴に布団に引き倒すように引っ張った。
僕はいとも簡単に布団の上に転がる。
「なにすんだよ! まー坊! 邪魔しないでよ!!」
「邪魔すんなって、お前、世話になってるこの教会のもん燃やす気かよ?!」
「そうだよ! だってそれ以外帰る方法が思いつかないんだ。でも花びらが燃えれば風が吹いて蛍が飛んで……!!」
びたん、と了ちゃんが問答無用で僕の額に冷たく絞りなおしたタオルを叩きつけた。
「頭を冷やせ」
「幽霊だから冷えないよ」
「いつまで言ってる。真至は結局死ななかった。それでいいだろ」
「よくない」
「何が」
「池に近づけなかった。夜だけだったけど」
「気のせいだろ」
「ちびも同じところで止まってた」
「だから?」
苛立つ了ちゃんの声に釣られるように僕の声もどんどん苛立ちを増していた。
「僕は死んでるんだよ!!」
「そうとは限らない。池で溺れただけかもしれない」
「もういいよ!」
布団にもぐりこんで僕は二人に背を向けた。
二人は顔を見合わせるにちょうどいい間沈黙した後、そっと僕の側から離れていった。
「真至。氷和さんに後で詫びいれとけよ。こんな時にちび連れまわしたのはお前なんだから」
「氷和さんも疲労がたたったみたいだしね」
二人の声にはいたわりも何もない。
呆れた響きだけを部屋に落として出て行ってしまった。
静まり返った部屋には静かな雨音。
「うあぁぁぁぁっっ」
布団をかぶってひとしきり叫んだところで、僕はまー坊の残していったマイラジ二号を敷布団の下から発見した。
そっとつまみを回してラジオをオンにする。
ザァァァっという砂嵐の後、何度か前後させるうちにラジオは不鮮明ながらも音楽を流しはじめた。
『めーだーかーの学校はー』
時代がかった硬質なおばさんの歌声が暢気に僕でも知ってる童謡を歌っている。
この歌、こんな昔からあったのか。
感心する前に僕の唇は一緒に口ずさんでいた。
「だーれが生徒か先生か、みんなで元気に遊んでる」
あまりにうららかすぎて、僕はいつの間にか涙ぐんでいた。
どうして泣けてくるのかなんて分からない。
いつの間にか重なり合っていたあどけない歌声は、ラジオが違う曲を流し始めても部屋の外から聞こえ続けていた。
扉一つ挟まれてくぐもっていたその歌声は、ノック音に続いて扉が開かれたことで鮮明にちびシンジのものと分かった。
「偽者シンジー、お薬だぞー」
さっきとはうってかわって元気そうな声が布団越し、僕の背中に届いた。
僕は慌ててラジオを消して布団から顔を出す。
ちびシンジはお盆に白い錠剤の入った小さな小瓶をのせてよたよたと歩いて来た。
「ルル……?」
見覚えのある名称に僕は思わずしのび笑いを漏らした。
「あ、笑ったな! これははつばいされたばっかでとってもよくきくんだぞ」
「発売されたばっか?」
「そう。この間お父さんが嬉しそうに仕入れてきたの」
「……僕、実験台?」
そう訊ねると、ちびはあからさまにむかついた顔をした。
「もう僕がいつも使ってるの! 半分に割って、お水で飲んでるの」
ふくれっ面が不覚にもかわいらしくて、僕は柔らかいその頬をつまんだ。
熱は、ない。
「ちび、お前、熱は?」
「下がった」
けろっと言ってのけたその目はいつもの輝きを取り戻している。
「さては僕に伝染して治したのか」
「人聞きの悪いこと言うな」
「へぇ、難しい言葉知ってんじゃないか。鼻たれ小僧のくせに」
「なんだよ! せっかくお薬持ってきてあげたのに!」
ぷんっと怒ったちびシンジはばたばたと布団をたたき出す。
「ああ、ごめんごめん」
舞い上がるほこりにむせながら僕はちびを宥めにかかった。
「真至ー、水忘れてるぞー」
なかなか機嫌を直そうとしないちび真至に骨を折っていると、コップに水をたたえたマヒトさんが開きっぱなしのドアから顔を出した。
「あ……」
目が合ってすぐ、僕は会釈するように顔を伏せた。
「すみません。一晩中シンジ君を連れ出してしまって」
布団とにらみ合いながら、口早に僕は謝った。
「シンジもせがんだんだろう? 一概に君だけを責められはしないけれど、せめて日が変わる前には戻ってきてほしかったね」
「……すみません」
垂れたままの頭に大きな手の平が乗せられた。
どっしりと重くて、片手で僕の頭なんか覆いこんでしまえるほど大きな手。
その温もりは、父さんの手と同じものだった。
「それで、もうお互いちゃんと謝ったのかい?」
「え……?」
「まだ! だってシンジったらひどいこと言うんだもん」
ぷいっとふくれたちびシンジを、苦笑しながらマヒトさんは僕の方に向けなおす。
「じゃあ、今、お互いごめんなさいをして終わりにしよう。あと、田村君は心配をかけて人たちに具合がよくなったらきちんと謝ること。いいね?」
「はい」
「小川君や中田君にもだよ? 彼ら、一晩中寝ずに君のこと探してたんだからね」
もしかしてさっきの喧嘩を聞かれていたのだろうか。
それにしたって、一晩も……?
「了ちゃんとまー坊は今、どこに?」
にわかに申し訳なさが胸に募ってきて、僕は勢い込んで聞いていた。
「氷和が買い物にいけなくてね。おまけにいつも手伝いに来てくれる人たちも揃いも揃って熱を出して寝込んでいるらしいんだ。洗濯は溜め込めても食料はないと困るからね。村まで買出しをお願いしたんだよ」
「氷和さんが……? 手伝いの人たちまで……?」
僕は呟く。
同時に、ちびに視線を戻した。
濁りなく濡れて煌く黒い瞳。
その目はわずかに気圧されたように何度かまばたく。
「ちび、ごめんな、ちゃんと連れて帰ってやらなくて」
「……僕こそ、ごめんなさい」
マヒトさんの見守る前で、僕らは互いに言葉よりも目で相手のことを慮り、逸らすタイミングを計っていた。
すっと先に外したのは、謝りながらも腑に落ちた様子のないちびの方だった。
それを待って、僕はちびの持ってきた風邪薬とマヒトさんの持って来てくれた水とを一息に飲み干し、掛け布団から這い出た。
「真至君? 熱は?」
驚いたマヒトさんが僕を寝かせに飛びかかる。
だけど、僕は一刻も早く了ちゃんとまー坊に詫びてしまいたかった。
どうかしてたんだ。
絶対に、さっきの僕はどうかしていた。
そしてその前に、倒れさせてしまったお詫びを氷和さんにしたかった。
「あの、氷和さんも熱出したんですか? それって僕がちびを連れ歩いて一晩中行方不明だったから?」
勢い込んで訊ねた僕に、マヒトさんはただゆっくりと微笑んで見せた。
「大丈夫だから」
慣れたようなその表情に、僕はそのときころっと騙されていた。
そして、すぐに頭の中は氷雨さんのことで一杯になっていた。
「じゃあ、氷雨さんは? 氷雨さんの容態は?」
問いかけた瞬間、マヒトさんの眉間に微かに寄った皺を、僕は見逃さなかった。
「あ、おい、真至君!?」
会わなきゃ。
約束したんだ。
「何とか持ち直したが、眠ったままだよ。って、おい、田村君!」
僕は着るものをかき集めて上から羽織り、マヒトさんが止めるのも聞かず、外へ向けて一目散に階段を駆け下りた。
めまいや足のふらつきは、気にならなかった。
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