(3)
山中の池の畔。
すでに日は落ちたのか、木立をすり抜けて差し込んでいた金朱の光は色褪せ、どこからか聞こえる蛙の鳴き声だけが鮮やかに黒い池の水面を震わせるはじめていた。
同時に、ちびシンジも一緒に身体を震わせていた。
「どうしたの? 寒いの?」
ちびシンジはぎゅっと唇を噛みしめたまま首を振る。だが、すぐに僕のシャツの裾を小さな手の平で握った。
「なんだ、お前、恐いのか」
僕はちびシンジを抱えあげて抱っこしてやった。
懐中電灯なら持って来ている。
察したのかどうなのか、夕暮れ時にここに来た時にはすでにちびタマが池の周りを跳ね回っていた。
だけど、ちびシンジも一緒に遊ぶのかと思いきや、昼間見た氷雨さんの姿がよほどショックだったのか、ちびシンジはちびタマになど目もくれず、池にすら境界と思われるぬかるみから先には一歩たりとも踏み込もうとしなかった。
「氷雨お姉ちゃん、来るかな」
大人しく僕の膝に乗っけられたまま、自信なさげにちびシンジは呟いた。
「来るよ。約束したし」
「ずるい」
「ずるくない。ちび、お前こそずるいじゃないか。氷雨さんにあんなに大事にされて……っうっ」
不意にとすっ、と腹部にちびシンジの肘が打ち込まれた。
「お……前……」
五歳児のくせに、いや、五歳児の細い肘だからこそ、的確に場所を突けたらしい。
僕は呻きながら上体を折る。
その隙にちびシンジはするりと僕の膝から滑り降りた。
「やい、にせものシンジ! お前、氷雨お姉ちゃんのこと好きなのか?!」
ちびシンジは僕の前に仁王立ちになって、容赦なく僕の後頭部に怒声を投げつけた。
僕ははたと呻くのをやめた。
ゆっくりと顔を上げるとちょうどちびシンジの真一文字に結ばれた唇が見えた。
「僕が氷雨さんを……? だって僕はまだたった二回しか会ってないし、詰られたりいじめられたり、特に好きになるようなことは……」
すっと目の前を今日の一匹目の蛍が通り抜けていった。
蛍に紛れて消えゆく少女の幻想が鮮やかに甦る。
「ほら、好きなんじゃないか」
大人ぶった口ぶりでちびシンジは非難する。
「そんなんじゃないって、別に」
「だってずるいって思ったんでしょ? 僕ばっかり大事にされてって、言ったよね? それって嫉妬っていうんだよ」
嫉妬?
いくらなんでも五歳児の知ってる言葉じゃない。
「氷菜叔母ちゃんが教えてくれたの」
「氷菜さんが?」
昨日の悪魔にとりつかれたような翳さしたあの形相が、氷雨さんの幻想を蛍ごと吹き散らしていく。
「一体なんだってそんなことわざわざ教えるんだよ」
ちびシンジはちょっと俯いた。
「お母さん、嫉妬してるんだって」
「氷和さんが、嫉妬? まさか! あの人はそんなのとは無縁の人でしょ? 一体誰に嫉妬するっていうんだよ」
「……氷雨お姉ちゃん」
泣きそうなちびシンジの声に、僕は思わず顔をしかめた。
「そんなこと冗談に決まってるって。何だって氷雨さんが氷和さんに嫉妬しなきゃならないんだよ」
「氷雨お姉ちゃんはお父さんが好きなんだって。病院でもいつも一緒なんだって。だから、お母さん嫉妬してるって……」
「そんなわけないだろ! なに真に受けてんだよ、あんな女の言葉!」
じわりとちびシンジの目に浮かんだ涙が蛍の明かりに照らされて光った。
「ごめん」
頭の天辺まで上り詰めた憤りが急速に足の指先まで落ちて、土に返るわけでもなく重く溜まっていく。
「あんな女って言ってもお前の叔母ちゃんだったよね。怒鳴ってごめん」
怯えたちびシンジの頭を撫でつけて、僕は空を遮る木立を見上げた。
「お母さんね、氷雨お姉ちゃんだけ治せないの」
「え?」
「何回もほかの患者さんにするように治癒しようとしたの。でも、何回やっても全然効果がないの。氷菜叔母ちゃんはそれはお母さんが氷雨お姉ちゃんに嫉妬してるからだって。治んなきゃいいって思ってるんだって。だから治せないんだって」
普通、こんな小さい子にそこまで言うだろうか。
何度振り払っても目の前に浮かぶ邪悪な残像に僕は首を振る。
「そんなことないよ。だって氷菜さんは氷雨さんがマヒトさんといつも病院で一緒だから嫉妬してるって言ったんでしょ? それなら早く直って退院してもらえばいいだけじゃないか。治癒が効かないからって氷和さんが氷雨さんに嫉妬してるっていう理由にはならないよ」
僕はそっとちびシンジの頭を撫でてやった。
「氷菜叔母ちゃん、おかしいの。一年くらい前から、ずっと変なの。前は氷雨お姉ちゃんよりも優しかったんだよ。僕、大好きだったのに……」
「氷菜さんが優しかった? 氷雨さんよりも?」
耳を疑うような言葉に僕は思わず聞き返す。
ちびシンジはこくんと頷き返した。
「そりゃ別段あの氷雨さんが優しいとは思わないけどさ……」
ばしゃん
僕の言葉は突然の水音に掻き消された。
びくりとさっきよりも激しくちびシンジが震える。
痙攣でも起こしたのかと思うほど震えながら、ちびシンジはおそるおそる後ろにある池を振り返った。
「タマ!」
甲高い叫び声。
弾かれたようにちびシンジは僕の腕から飛び出し、池の縁で急停止した。
その間も苦しげにもだえる水音は続く。
僕も慌てて池の縁に駆け寄り、だけどやっぱりちびシンジの隣まで来たところで、そこから一歩も前に進めなくなった。
小さなタマが溺れている。
黒い池の水に捕らわれて、白い飛沫を跳ね飛ばしながら必死にもがいている。
水上を滑らかに行き来していた蛍はあまりの音に遠ざかってゆき、池はどんどん暗くなっていった。
助けなきゃ。
そう思っているのはちびシンジも一緒だろう。
だけど。
恐かった。
叫びだしたくなりそうなのを、僕もちびシンジも必死にこらえる。
どうして竦むの?
ちびタマの命がかかっているっていうのに、どうしてこのぬかるみから一歩も踏み出せないの?
歯がゆさと恐怖とが拮抗しながら、僕らは震えていた。
「お前たちは来るな!」
雷のように、その声は落ちてきた。
僕らの震える足と身体は、撃たれたように震えるのをやめていた。
池の中央、もがくちびタマの上に青い光が凝る。
現われたのは、氷雨さんだった。
白く透き通る腕でちびタマを掬い上げ、茫然と見上げるちびシンジの腕に返してやる。
「よかった、無事で」
心底安堵したように氷雨さんは僕ら二人の顔を見比べて微笑した。
蛍が再び寄り集まる。
「氷雨さん!!」
「氷雨お姉ちゃん!!」
行ってしまう。
蛍が氷雨さんを連れて行ってしまう。
「行かないで! 一緒に蛍見るって約束したじゃないか!」
そう思ったら、僕は蛍のベールを突き破って氷雨さんの腕を掴んでいた。
冷たく所在無い空気のような腕。
掴めたと思ったのが不思議なくらい、その腕には肉感も生気もなかった。
氷雨さんは苦笑する。
「誰が帰ると言った?」
「あ……」
顔に血が上る。
ぼんやり突っ立ったまま氷雨さんの腕を捕らえ続けていた僕の腕を、業を煮やしたちびシンジが子供らしいやり方で上から断ち切った。
「なんだ、ちびがいっちょ前に嫉妬か?」
ぴくりとちびシンジは震えたが、氷雨さんの手は離さなかった。
「まあ、いいから少しここから離れろ。落ちたら事だからな」
再び、僕とちびシンジは同時に息をつめる。
やにわに呼吸が苦しくなった。
胸の辺りが押しつぶされる。
でも、それは僕よりもちびシンジの方がひどいらしかった。
僕が胸を押さえて息をつく間に、ちびシンジはごろりと転がって湿りきった土の上で転げもだえはじめる。
「ちび? ちびシンジ!? こら、しっかりしろ! ちび!」
「ちびシンジ?」
氷雨さんに目で促されて、僕は急いでちびシンジを池の縁から引き離し、さっきまでいた場所まで運んだ。
ちびシンジはまるでほんとに溺れていたかのように激しくむせだす。
ミャァ
こんな時なのに、さっきまで自分が苦しんでいたはずのちびタマは暢気な鳴き声をあげた。
ミャァァ
「うっ……タマ……タマ……!! 誰か、助け……」
ちびシンジの目が虚ろになる。
僕は無我夢中でちびシンジの柔らかいほっぺたを両手で挟むようにしてはたいた。
「起きろ! ちびシンジ! お前は溺れてなんかいないよ!! こら、ちびシンジ、目ぇ覚ませ!!」
一回、二回、三回。
ぱたりとじたばたされ続けていたちびシンジの手足の動きが止まった。
一度目が見開かれて、くたりと疲れきったように体が弛緩していく。
「ちび!? ちびっ!?」
揺さぶろうとした僕を、氷雨さんの細く白い腕が止めた。
「だって、ちびシンジが……!」
「気を失っただけだ。大丈夫、死んだわけじゃない。ちょっと疲れただけだろう」
「でも……」
氷雨さんはそっとちびシンジのおでこに手をあてがい、安堵と悔恨とが入り混じった笑みを浮かべた。
「悪かったな、ちび。思い出させるようなこと言って」
氷雨さんに触れられているというのに、ちびシンジは気づきもせずに等間隔で寝息を立てる。
「思い出させるようなことって?」
「お前が一緒に来てくれて助かったよ、でかシンジ」
「でか……っ、って」
「だってこいつがちびならお前はでかシンジだろ?」
「そ、そうだけどさ」
ちびと一緒くたにされたのがどうにも納得いかない。
しかめた僕の顔を見て、氷雨さんは無邪気に声を立てて笑った。
「なんだよ、自分こそ死にそうになってるくせに」
「ああ、お見舞いに来てくれたのに大変なとこに出くわさせちまったな」
まるで昼間の少女は自分ではないかのように氷雨さんは笑いながら言った。
「……生きてる、よね?」
僕は窺うようにおそるおそる少女の透き通った綺麗な顔を覗きこんだ。
「何とか、な」
苦笑まじりに氷雨さんは頷いた。
「なんだよ、それ」
「そのまんまだよ。お前と約束したからな。明日、ちびも連れて来いって」
氷雨さんは眠るちびシンジの頭をいとおしげに撫で続ける。
「そうだよ。せっかく蛍見に連れてきてやったってのに、眠っちゃうんだから馬鹿な奴だよ、ちびシンジは」
悪態とため息とを同時に吐き出して、僕はようやくほっとできた。
昼間、ちびシンジをつれてあの病室を出た後、僕はずっと広場のベンチでぼんやり座っていた。
窓辺のカーテン越しに看護婦さんやマヒトさんがせわしなく立ち回っているのを、胸を錐揉みされる思いで見上げていた。
怖くてもう確かめにもいけなかったんだ。
生きてるか死んでるかなんて。
たった二回だ。
今も入れればこれが三回目。
それなのに、僕は彼女のことが心配で心配でたまらなかった。
同じく僕の横で大人しく縮こまっていたちびシンジと、その思いは変わらなかっただろう。
蛍が飛んでいる。
その光をちびタマがまた無邪気に追いかけている。
「あんなに飛び跳ねてたらまた落ちる」
苦々しさをこめて僕はちびタマを捕まえるために立ち上がった。
「また?」
ふと氷雨さんが呟く。
「またでしょ? さっきもどうせ蛍追いかけてて転げ落ちたんだ」
「そう……だな」
何が気になったのか、曖昧に氷雨さんは笑った。
僕はちびタマが浮かれて飛び跳ねた瞬間に腕の中にしっかりと捕まえる。
ミャァァァァ
「こら、ちびタマ、嫌がるんじゃない!」
僕の腕から抜け出ようとするタマは毛を逆立て、爪を立てて威嚇する。
「タマならともかく、お前がそんなに威嚇したって僕は怖くないよ」
そう言うと、ちびタマはがぶりと僕の腕を噛んだ。
「痛っ! こら、ちびタマ!!」
痛みに腕が緩んだ瞬間に、ちびタマは僕の腕から抜け出して、再び蛍を追いかけはじめた。
「でかシンジ、少し遊ばせてやれ。そいつもちょっとは学んだんだろ。池の側まではあまりいかないようにしてるみたいだ」
「でも……」
「落ちたらまた私が掬い上げてやればいい」
自分が人外のものであることを認めるような発言に、自然僕の眉根は寄った。
「氷雨さんの手を煩わせないで済ませるのが一番でしょ?」
「そりゃそうだけどな。でも、でかシンジ、お前もあまり近づかないほうがいいかもしれない。夜のその池は何でも引き寄せたがる。蛍はその姿を美しく映し出すその水面で、人間なら水面に映る蛍で」
黒い水面に黄色とも黄緑ともつかない灯がゆらめく。
時にその灯は風に水面を揺らされて形すらも朧になった。
覗き込めば、掬いとりたくなる。
ただの像と分かっていても、灯は水面に映っている限り、手を伸ばしても逃げはしない。
不意に、ぞっと背中が粟立った。
池に近づきすぎたらしい。
慌てて僕は飛び退る。
「なぁ、でかシンジ。お前はどこから来たんだ? 前澤の家には記憶喪失って言ってるらしいが、嘘なんだろ?」
湿った丸太の上にシンジを膝に載せて座った氷雨さんは、にっこりと僕を見て笑った。
「……言えない」
「それは言ってるも同じだぞ?」
「言ってない」
「どうせ私の口から前澤の家の者にばれることはないぞ?」
「ねぇ、どうして前澤の家の者、なんて言い方するの? 実のお姉さんなんでしょ? 義理のお兄さんなんでしょ?」
話を変えようなんて思っていなかった。
ただ、あまりに突き放したようにあの家に住む人々をそう呼ぶから、さっきちびが言っていたことが気になってしまったんだ。
氷雨さんは、ゆっくりと笑みをしまいこんだ。
「そうだよ。でも勘違いしてくれるな。私はあの二人が好きだよ。もちろんこのちびも。牧師も松田先生も」
「じゃあどうして! どうしてそんな他人みたいな言い方するんだよ。僕、まだ一日泊まっただけだけどさ、あの牧師館に住んでる人たちみんな家族みたいだったよ。ちびなんか牧師さんのこと、均おじいちゃんって親しげに呼んでたんだよ?」
「あそこはそういう場所だからな。苗字も違う他人同士が肩を寄せ合って生きてる場所だ」
池の縁を見下ろす氷雨さんの目はただただ静かだった。
怒っているのでも、恨んでいるのでもない。
でも、喜んでいるわけでもないようだった。
「氷雨さんは……」
「私は、もう随分長いことあそこに棲んでいるんだ。もともとは横浜から疎開して来たんだ。今氷菜のいる田村の家が父の叔母の家だったから、そこを頼って。他に地方に住んでいる知り合いを母は知らなかったらしい。姉の氷和が十七、私たちはまだ八つの時だった。父は戦争で死んだ後で、母は後から来ると言いながら、結局空襲で死んでしまった。あのご時勢だ。突然来た甥の娘三人なんて手放しで受け入れてくれるはずもなくて、私たちはここまで来たものの、行き場を失ってしまったんだ。そこを牧師が拾ってくれた」
苦味を含んだ笑みが同い年の少女の頬に広がっていく。
終戦をくぐりぬけてきた少女は、僕なんかよりもよっぽど大人に見えた。
「ちぇ」
小さく僕は舌を打つ。
絶対に僕は敵わないのだろう。
例えば僕がほんとにこのちびシンジだったとして、どんなに歳を重ねてから時を飛び越えてきても、彼女は僕よりもずっと年上の顔をし続けるのだ。
「何がちぇなんだ?」
「なんでもないよ」
「ふぅん。まあ、そういうわけで私は七年になるのか、あそこに棲んでいるんだ。その間、戦争が終って少し余裕が出てきたのか田村の家が氷菜を引き取って、姉はサナトリウムの医師としてやってきた新米と結婚して、ちびが産まれて……」
氷雨さんは何かに気づいたように一度、言葉を切った。
「私は……安心したんだ。結核にかかって隣の病棟で生活を始めて、命が削られていくのに、治りたいとは思わなかった。治ったらきっとまたあの牧師館に連れ戻されるから」
ちび真至の頬の上にほのかな光が滴り落ちた。
「マヒトさんが好きだったの?」
僕は彼女の顔をできるだけ覗き込まないようにしながら、疑惑の一言をそっと訊ねかけた。
氷雨さんは、小さく首を振った。
「……嘘つき」
僕は呟いた。
飛び交う蛍に向けて。
その言葉で蛍が一匹でも落ちたら僕の言ってることが真実。
そんなばかげた賭けをこめて。
でも、蛍は一匹も落ちはしなかった。失速すらしはしない。
「私には、ここしか居場所がないんだ。長いことこんな山の中で寝て暮らして、もう都会に出て何かしようなんて気も起きなくて。だからといって、あの牧師館もこの村も、慣れすぎて居心地が悪いんだ」
「居場所……」
僕もずっと感じていた。
得体の知れない違和感。
もしかしたらきっと、氷雨さんの感じるものと僕の感じるものは違うものなのかもしれない。
でも、落ち着ける居場所が欲しい、その想いは一緒のような気がして。
「戻っておいでよ。僕がいるから。一緒に……探そうよ、居場所」
彼女の頭を抱き寄せていた。
幽霊でも触れられるのが嬉しい。
でも、肉体を持つ彼女を抱きしめてあげたかった。
そう思った自分に、僕はちょっと戸惑う。
慌てて手を離す。
蛍のせいだ。
心の中で責任転嫁して、黙り込んでしまったままの氷雨さんをうかがう。
「ごめん」
これじゃあ失恋した女の子につけ込む悪い奴みたいじゃないか。
「えっと、あの、別に他意はないというか……」
「偽者シンジ」
「え?」
「お前氷雨お姉ちゃんに何した?」
蛍の光に照らされて、ぱっちりとちびシンジが目を開けているのが見えた。
「な、何も」
僕は首を振る。
疑わしげな目で見上げるシンジの頬に、再び光の雫がいくつかこぼれる。
「泣かせたな? 氷雨お姉ちゃんを泣かせたな?」
起き上がったちびシンジは、問答無用で僕に殴りかかって来た。
低い位置に突きこまれてきた小さな拳を、僕は何とか受け流す。
「ちび、違うんだ」
どうしようかと思ったとき、氷雨さんの白い腕が伸びてちびシンジを後ろから抱きすくめた。
思わず、僕の背までが彼女の腕を感じたような気がして肩が縮こまった。
「違うんだ、ちび。でも、ありがとう」
ミャァ
時を告げるようにちびタマが一つ鳴いた。
蛍がちびシンジを抱きしめたままの氷雨さんに集まりだす。
「真至、お前はこのちびなのか?」
光に包まれながら彼女は顔を上げる。
泣いてる顔に無理矢理笑みを刷いて。
「……分からない」
「そう、だったな」
「違う! 本当に分からないんだ! ここは過去なのかもしれないけど、いろんなことが僕たちの世界と違ってて……あ……っ」
口走っていた。
ごまかしてると思われたくなくて。
「それに、僕とそのちび真至、年齢があわないんだ。もし僕がちび真至だったとしたら」
「僕が偽者シンジと同じなわけないだろうっ!」
勢いよくちびシンジが叫ぶ。
氷雨さんは笑ってちびシンジをより深く、その胸に抱きしめた。
「違かったら嬉しいけど、ちびじゃないと嫌だな」
そっと、僕たちの背中を包み込んでいた温もりは消えていった。
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