雨降り館
6月16日(土) 晴れ

(2)

 僕が目を覚ましたのはもうお昼も過ぎた頃だった。
「了ちゃん、まー坊、どうして起こしてくれなかったんだよ!」
 とうに昼ご飯を済ませてきた二人に僕はごねた。
「起きたって暇なだけだぜ? 帰れる手がかりなんて簡単に見つかるようなもんじゃないし」
「それに真至、夜中にどこか行ってただろう?」
「え、そうだったのか? ずるいぞ、お前! 一人でどこ行ってたんだよ?」
「どこって……」
 蛍に飲み込まれていく少女の顔が浮かび上がる。
「はっはーん。その顔じゃ女と逢ってただろう?」
 鋭い、まー坊……。
「え、ほんとに女……?」
 自分で言っておいてまー坊は驚いて聞き返す。
「女っていえば女だけど……」
 あれは女性とかいう以前に人間ですらなかったような気が。
「そうだ、お見舞いにいかなきゃ」
「お見舞い?」
「うん。どうやら隣のサナトリウムに入院しているらしいんだ」
「真至、ちゃんと説明してもらおうか?」
 うっかり喋ってしまった僕に了ちゃんがにっこり笑って詰め寄った。
「ちゃんとって、僕もちゃんと事情を知ってるってわけじゃなくって」
 そうだ。あの少女の話をしたら池のことまで言わなきゃならなくなる。あの池は少女とちびシンジの秘密の場所なのに。
『明日はあのちびも連れて来い』
 会ってくれるだろうか。池でなくても。
 本当にこの世に生きているんだと確かめたいと思うのは、おかしなことだろうか。
 それに、ちゃんと謝ってからじゃないとあの池に踏み入ってはいけない気がした。
「あ、僕ちびシンジ探しに行かなきゃ!」
 僕は了ちゃんとまー坊の問い詰める視線を振り切って部屋を飛び出した。
「あら、真至君、おそよう」
 下に降りると氷和さんが箒を持って部屋を掃いていた。
「お……はようございます。寝坊してしまってすみません」
「寝坊なんてかわいい程度じゃないけどね?」
 氷和さんは笑いながらちょっと僕を睨んだ。
 僕の肩は思わず後ろに引ける。
「まあいいわ。お腹すいてるでしょ? お昼ごはんのおにぎりが台所にあるからお食べなさいな」
「はい! ありがとうございます」
 恐縮して返事した僕を見て、氷和さんはくすくす笑っている。
 この人がほんとに昨日、カリスマぶりを発揮して不思議な力で妊婦さん一人救った人なんだろうか。どこからどう見ても氷和さんはどこにでもいる普通の若い女性で、付け加えるならお節介なくらいとっても面倒見のいいお母さんというところだ。今だって昨日のあの神々しいほどの厳粛な雰囲気は微塵もない。
「あ、そうだ。ちびシンジみませんでしたか?」
「真至? さぁ。家にいないなら広場で遊んでない? そうでなきゃ……また真人さんのところに行ったのかしら」
 もう、と氷和さんはため息をついて箒を置いた。
「ちょっと探してくるわね。サナトリウムに出入りしてたら大変だもの」
「あの、僕も行っていいですか? お見舞いしたい人がいるんです。だめ、ですか?」
 氷和さんはじっと僕を見つめた。
 驚くのも無理はない。単純に考えて、昨日今日来たばかりの異邦人にサナトリウムにお見舞い人がいるわけがないのだから。
 でも、氷和さんは戸惑いながらも二つ返事で頷いてくれた。
「いいわよ。その人に会えたら思い出せるかもしれないものね」
 そうだ。あの少女と話していて感じたもどかしさ。実体のある少女と会うことが出来れば僕は何か思い出せるかもしれない。何か確かな過去をつかめるかもしれない。
「はい。もしかしたら」
 触れてはいけないものだとも思う。忘れてしまったくらいなのだから、開けない方がいいのだとも思う。けれど、そのままにしておいてはいけない気がした。
「じゃあ、これ、一応つけていってね」
 家を出掛けに氷和さんが僕に渡したのは大きなガーゼを何枚も重ね合わせた白いマスクだった。そのガーゼからはほんのりと消毒のにおいがした。
「ねぇ、真至君のお見舞いしたい人ってどなたなの?」
 教会の前を歩きながら軽い足取りでサナトリウムに向かう氷和さんが振り返る。
「名前は分からないんです。でも、入院しているのは確かみたいで」
「ええっ、名前分からないの? うーん、まぁうちに入院してる患者さん二十人くらいだからすぐに見つかるかしら」
「氷和さんや真仁さんのこともよく知っているみたいでしたよ」
「私達と親しいってこと?」
 そう訊くと氷和さんは破顔した。
「あそこに入院してる人たちはみんな私や真人さんと親しいわよ。家族みたいなものだもの」
「家族、ですか」
 氷和さんは大きく頷いた。
 僕は昨日の氷菜さんの話を思い出していた。
 ここの入院患者はお金持ちや代議士の偉い先生が多いという。
 僕なんかはそんな肩書きを聞いただけでも硬くなってしまうのに、家族といった氷和さんは目の前にその人たちの顔でもあるかのように実に屈託なく笑っていた。
「そうねぇ。じゃあその人、何歳くらいの人? 性別は?」
 僕は即座に別れ際蛍に包まれて消えていく少女の大人っぽい顔を思い浮かべていた。
「歳は……僕と同じかちょっと上? くらいで、女の子なんです」
 語尾がちょっと尻すぼみになったのは氷和さんの目がからかいに満ちたものになったからだ。
「あっあの、別に何かあるって言うわけじゃなくって……!!」
「ふぅん。何かあるんだ? ふぅん」
 にやにやと氷和さんは僕の顔を覗き込む。
 僕は間近で見るその顔にどきどきしていた。
「顔赤いわよ〜」
「そっ、それは……」
 氷和さんが間近で見つめるせいだなんて言えない。
「あら。でもおかしいわね。真至君と同い年くらいの女の子って言ったら……」
 心臓が限界近くまで達したとき、氷和さんは不意にくるりと背を向けて唇の下に手をあてて空を仰いだ。
「ねぇ、その子とどこで会ったの?」
「どこって、い……」
 池であったことは内緒なんだった。彼女と真至と、そして僕の。
「い?」
「いやぁ、どこだったかなって」
 笑ってごまかそうとした僕を氷和さんはため息まじりに見返した。
「真至君、あなた、人生は真っ当に歩みなさいよ? 真至君は嘘つける人種じゃない。うちの真至もだけどね」
 急に真顔で言われたその言葉はなぜかお母さんに諭されているようで、僕の心に深く沈み込んでいった。
「まぁ、言えないんじゃしょうがないわね。可能性ある子から当たってみますか」
 思案をめぐらせていた氷和さんがそういったときだった。
「おお! 氷和君! 大変だ! 今君を呼びに行こうとしとったとこだったんだ!」
 鼓膜を痺れさせるようなドラ声がサナトリウムの方から僕たちを直撃した。
「松田先生。どうなさったんですか?」
 恰幅のいいお腹周りを揺らしながら転がるように駆け出してきたのは、サナトリウムの院長の松田先生だった。
 普段血色のいい赤ら顔をしているのだが、今ばかりは蒼白に近い。
「氷雨君の容態が」
 氷和さんにはそれだけで充分だったらしい。
 瞬時に、氷和さんは見たこともないほど血相を変えてサナトリウムの入り口に駆け込んでいった。
「氷雨さんって誰ですか?」
 置いてきぼりにされた僕は、息を切らしている松田先生に向き直った。
「氷和君の妹さんだよ。君と同い年くらいの。もう長いこと昏睡状態だったんだが……」
 僕は松田先生の言葉を最後まで聞くことなく氷和さんの後を追っていた。
 僕の直感が彼女だと告げていた。
 よく思い出してみればあの面影は氷和さんや氷菜さんと重なって見えるじゃないか。
 ただ、あまりに透明で生きている感じがしなかったから気がつかなかっただけ。
 はじめて入ったはずのサナトリウムの中を、僕は案内も請わずに三階まで駆け上がり、迷うことなく東の一番端の小さな個室の扉を開けた。
「あ……っ」
 僕は、息をのんだ。
 ベッドには確かに昨夜会った少女が横たわっていた。
 だが、その体はもう枯れ枝のように細くて、顔は青白いを通り越して土気色に近かった。
 遅かったのではないかと思うほど。
 そのベッドの周りでマヒトさんは唇を噛みしめながら矢継ぎ早に看護婦さんたちに指示を出し、氷和さんはなす術なく今にも粉々になってしまいそうな少女の手を握っている。
 と、入り口で立ち尽くす僕の足に何かが転がるようにぶつかってすり抜けて行った。
「氷雨姉ちゃん! 氷雨姉ちゃんっ!!」
 どこから聞きつけてきたのだろう。ちびシンジだった。
 マスクもせず、少女の枕元に駆け上がってその肩を揺らす。
「だめだよ! まだ死んじゃだめっ。僕まだ大きくなってないでしょ? 氷雨姉ちゃんお嫁さんにできるくらい、僕まだ大きくなってないんだから、死んじゃだめぇっ!」
「真至、そんなに揺らすな。痛がってるだろう?」
 わずかに歪んだ少女の顔を見て、マヒトさんがちびシンジを少女から引き剥がす。
「離して! 僕、氷雨姉ちゃんの側にいる!」
「だーめーだ。氷雨お姉ちゃんはお父さんが必ず助けるから、家で待ってなさい」
 そこではじめてマヒトさんは僕に気がついたようだった。
「真至君……どうして」
 問いただそうとしたらしいが、マヒトさんはすぐに首を振って暴れ続けるちびシンジを僕の腕に押しやった。
「悪いが、真至を頼む」
 僕の目の前で、問答無用で病室の扉は閉じられた。
「離せ、このバカしんじっ! 僕は、僕だって……!」
 暴れるちびシンジを抱く腕に僕は強く力をこめた。
「帰ろう」
「嫌だっ。このままお別れなんて嫌だっ」
「馬鹿! 縁起でもないこと言うな! 約束してるんだろう? 蛍」
 ちびシンジはその一言で暴れるのをやめた。
「なんでしってるの?」
 その声は今にも悔しさに折れてしまいそうなほど沈鬱だった。
「今晩、池に行こう。お前を連れて行くって約束したんだ」
「僕と氷雨姉ちゃんだけの秘密だったのに」
「ごめん。僕が見つけちゃったんだ。氷雨さんは悪くない」
「そうだよ。お前が悪いんだ。バカしんじ」
 一瞬殴りたくなったが僕は必死でこらえた。
「だから、ちゃんと連れて行け」
「……うん」
 うなだれるように呟かれた言葉に、僕は静かに頷いた。





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