雨降り館

6月16日 (土)  晴れ

(1)  僕はなんだか眠れなくて、左右の了ちゃんとまー坊を起こさないように静かに布団から抜け出した。
 こっそりと一階の誰もいない客間の窓の鍵を開け、外に飛び降りる。
「うわぁ」
 思わず窓を閉め忘れるほど、目の前には昼間の大雨が嘘のように澄んだ星空が広がっていた。
 誘われるように僕は誰もいない広場へと駆け出す。
 それはもう言葉にはならない。
 頭上には一面、紺碧のビロードに銀の砂をまいた夜空。天頂を横切るのは、雨に塵芥をさらわれて綺麗なものだけを浮かべた星の大河。
 月の光はどこにもない。それにもかかわらず天を衝く木々は、地上は、星灯りに青く照らし出されてほの白く輝いていた。
 僕はここまで明るい星の夜を見たことがなかった。寝つけなさに外に出てきたかいがあったというものだ。
 けれど、僕はすぐに寝付けなかった理由を思い出して顔をしかめた。
 どうして寝つけなかったのか――
 昨日はあまりにたくさんのことがあって、興奮していたのかもしれない。
 でも、それだけじゃなかった。
 寝ようと了ちゃんが電気を消した途端、僕の目の前には昼間の氷菜さんの顔が浮かび上がっていた。それは何度目をつぶって揉み消しても、うつらうつらと眠りの腕に抱かれようとする度に目の前に迫ってくるのだ。
 あの後。僕らが氷菜さんの表情に釘付けになっていた後、氷菜さんはすぐに僕らの視線に気がついて無理矢理微笑を作った。
『信じられないでしょ。でも、姉は生まれつき人を癒す力があるらしいのよ。どうやら上のサナトリウムの入院患者も何人かその力で治しているらしいのよね』
 氷菜さんは今立っている舗装された道路を辿るようにして山のほうを眺めやる。
『この道路、やけに立派だと思わなかった?』
 さっき消し去ったはずの影が再び頬に忍び寄りはじめる。目には嘲笑。
『田んぼと畦道ばかりの中にあったら、目立たないわけないよね』
 了ちゃんの答えに氷菜さんは頷く。
『この道路はね、姉に結核を治してもらった代議士の先生さんたちが造ったのよ。姉の不思議な力のことは村の外には秘密ってことになってるんだけどね、あの療養所は結核が治るっていう噂だけは見事に広まっちゃったみたいで、以来あのサナトリウムにはお偉いさんばかり来るの。村も万々歳よね。姉の力一つでお金に苦労することがないんだもの』
『ありがたいことじゃん。金に苦労しなくていいならさ』
 おどけたように言ったまー坊に氷菜さんは冷たい視線を容赦なく突き刺した。
『村の人たちは騙されてるのよ。何かあったら自分も治してもらえるって思ってるんだから。みんながみんな、治してもらえるわけじゃないのに』
 背筋に氷が張っていくような低い声。顔は完全にさっきの影に覆われていた。
『氷菜さん……それってどういう……』
 僕が口を開いたとき、氷菜さんはすでに僕らに背を向けて歩き出していた。僕の声が聞こえない距離でもあるまいに、振り向きもせず、一人で角を曲がっていく。
『変な奴』
 その孤独そうな背中に向かってまー坊は口をへの字に曲げたまま呟いた。
 入れ違うように人垣が崩れ、合間からちびシンジの手を引いた氷和さんが出てくる。
『あら、氷菜は? さっきまでいたわよね?』
 朝と何一つ変わりない気さくな微笑に僕らはほっとした。あの氷菜さんの顔を見た後だけに、氷和さんはより慈愛深い聖母のように見える。
『それが、帰ってしまったみたいなんです』
 僕が答えると氷和さんはちょっと顔を曇らせ、ため息をついた。
『あの子ったらもう……』
 氷和さんは知ってるのだろうか。氷菜さんがどんな顔で氷和さんを見つめていたのか。
『氷和さん、あの……』
『そんなことより、真至君』
 思わず問いかけようとした僕の言葉を意図的だったのかたまたまだったのか、氷和さんは笑顔で遮っていた。
『無事だったのね。よかったわ。心配したのよ? いきなりどっかいっちゃうんだもの』
 ほっとした安堵の表情。それは、僕が幼い頃夢見ていた母さんの顔。
 心ほぐされた僕は、氷菜さんのことを言い出せなくなってしまった。
『ご心配おかけしました』
『いいのよ。でも、不用意に山の中は歩かないほうがいいわね。今は梅雨なんだから地面も滑りやすいし、小さな山だけど意外と迷いやすかったりするのよ。たまにぬかるみだと思えば池だったりもするし、とにかく危ないから』
 池――
 今度は昼間の死神に取りつかれた少女の面影がよみがえる。

 ミャァ

 星が瞬く音が途切れた。
「お前、ちびタマじゃないか」
 星灯りで明るいといっても、色までがはっきりわかるわけじゃない。それなのに小さなタマのブルーグレーの肢体は、昼間太陽の下で見るよりもより鮮やかに輝いていた。
「お前も眠れなかったの?」
 しゃがみこんで手を伸ばすとちびタマはぺろりと僕の指先を舐めた。調子に乗った僕が背中を撫でようとすると、今度はすかさず後ろに飛びすさる。
 これでは好かれているんだか嫌われているんだか分からない。
 そっけなくても僕のタマは僕のことを好きでいてくれてるのが分かったものなのに。
「僕のタマはどこいっちゃったんだろうね」
 ため息まじりにそう呟くと、ちびタマはまた僕の足元にすりより、ゆっくりと長い尻尾を波打たせた。
「お前じゃないよ。とてもよく似てるけど、あいつはもっと年取っててずうずうしいの」
 再び背を撫でようとすると、ちびタマはまたするりと僕の手から抜け出した。そのまま数メートル離れてくるりと僕を振り返る。
 その先には下へ下りる石段がある。だが、人の通らない夜中は灯りすらともされず、境の分からない真っ暗闇が餌を待つようにぽっかりと大きな口をあけていた。
 ちびタマは、来いと言っていた。
 機嫌がいい証拠に尻尾をゆっくりと地面に打ちつけながら、金色の瞳で僕の視線を搦めとる。
 僕は心定まらないまま一歩踏み出していた。
 それを了解の合図と取ったのか、ちびタマは闇の向こうにゆっくりと走り出す。
「おい、ちょっと、ちびタマ?!」
 僕が呼び止めると、ちびタマは顔だけこっちに向けて「来ないの?」と小首を傾げてみせた。
 あれじゃまるで人間と同じだ。人間と同じように相手の心を推し量ろうとしている。
 僕のタマと同じにおいがした。
 猫のくせに人間くさい猫。
 だけど、ちびタマは僕のタマじゃない。あいつはもっと大きくてでっぷりとしてて……

 ミヤァァ

 鳴き声ももっとかわいげがない。
 それなのに僕は、ちびタマが再び僕に背を向けて闇の大口に飲み込まれるなりその後を追いかけていた。
 おととい石段の前でタマに魅入られたように、またしても僕は引っ張られたのだ。あの金の両瞳に。
 段差すら見えないだろうと覚悟していた階段は、ちびタマの通ったところだけが青白く発光して道のりが敷かれていた。その道を辿る僕の体は、まるで殻だけになってしまったように軽くて、石段を踏んでいるはずの足は雲の上を行くように心もとない。
 ともすれば転びそうな足取りで石段の半分以上を下り終えたとき、ふとちびタマは下りるのをやめて石段を左に逸れた。
 さすがに僕は足を止める。
「ちびタマ、そっちに行くのか?」
 僕がついていくのをためらっているのが分かったのか、ちびタマは足を止めて振り返る。
 不自然に僕を魅了する金の瞳も、このときばかりは目の前にちらついた死神の少女の幻影に打ち消されていた。
「そっちはだめだ。もう二度と来るなって言われているし、本当に幽霊だったら夜なんかには会いたくないし」

 ミャァァァァ

 「来たくないなら来なくてもいいけどね」と、ちょっと不機嫌な鳴き声は語っているようだった。その証拠に、ちびタマは顎をしゃくって僕らが今来た石段の上方を指す。
 真っ暗だった。
 どこに段差があるのかも、その先が確かに上へと続いているのかも分からないほどその先は真っ暗で何も見えない。
 下も然り。

 ミャァ

 「それ見たことか」とちびタマは胸を張る。
 なんかだんだんこいつがかわいくなく見えてきた。
 名前が同じなら、性格まで似るものなのだろうか。
 げんなりした僕を見て、ちびタマは満足したように悠然と山の斜面を渡っていく。
 その先は明らかにあの死神の少女の池。
 いたらどうしよう。そんな思いばかりが募りながらも僕は引き返す勇気がなくてちびタマの後についていく。
 と、前方に灯が見えた。
 灯という言い方が正しいのかは分からない。
 林立する木立の合間合間に不規則に飛び交う無数の緑がかった黄色い光。それは時に群れ、時に一つ二つ放物線を描いて離れていく。
 ちびタマは恐れることなくその先へと進んでいった。
 帰る術を持たない僕は、仕方なさ半分、興味半分でちびタマの後に続く。
 木立が途切れ、僕がその先に踏み込んだ瞬間、光は漣だって奥へと流れていった。
「蛍……? 蛍だ……!」
 思わず僕は叫ぶ。
 僕の時代、田舎とはいえ村の中央を縦断する川の上流にはダムができ、工場ができ、僕が中学に入る頃には川にいた蛍はすっかり影を潜めてしまった。
「ちびタマ、お前は僕にこれを見せたかったのかい?」
 蛍たちは闖入者の存在を忘れたように、再び池の上を相手を求めて彷徨いはじめる。上下左右自在に宙を舞うその姿は、昼には緑に埋もれて目立たなかった池に投影されて天地二つの平行世界を織りなしていく。

 ぱしゃん……

 誰もいなかったはずの対岸に水音が上がった。
 わずかに蛍たちは動揺し、僕の周りに集まり来る。
「二度と来るなといったのに」
 その声に怒りも憤りもなかった。ただ淡々と諦めたように呟く。それなのに僕には少女が大いに僕を責めているような気がした。
「はっきり約束するなんて僕は言わなかったはずだよ」
 思わず口から飛び出したのは謝罪の言葉ではなく自己弁護のための詭弁。
 池の縁に現れた少女はむっとしたように僕を見据えた。
「そういえば言質をとる前にお前は逃げてしまったんだったな」
 震え上がると思っていたのに、思いのほか僕は平静だった。呆れた少女の声に人間味を覚えたからだろうか。
 ちびタマはそんな少女の足元に恐れることなくじゃれつきに行く。
「タマ、お前がこいつを連れてきたのか。ほんと、仕方ない奴だな。ちびとの約束を破ってしまったじゃないか」
 ちびタマは反省の色もなく、喉元をくすぐられて気持ちよさげな唸り声を上げる。
「お前、何かこいつに気に入られるようなことしたのか? お前の探すタマはこいつじゃないはずだろう?」
「さぁ。僕は別に何もしてないよ。眠れなくて外に出ていたらそいつに連れてこられただけ。……ねぇ、帰れっていわないの?」
 ここに来たら、開口一番少女は帰れと言うと思っていた。だが、いつまで構えていても少女がその言葉を口にする気配はない。
 不意に少女は顔を上げ、ちびタマを胸に抱えて一歩、裸足の真白い足を水面に踏み出した。そのまま少女の足は水に沈むことなく濡れることなく、浮石でも辿ってくるかのように危なげない足取りで池を渡り、舞い降りるように僕の前に降りたつ。
「驚かないのか?」
 にやりと少女は笑った。
「……驚いてもいいけど……」
 ただ確信しただけだった。
 昼間、この少女からやけに強く死臭を感じた理由を。
「死んでいるの?」
 思い切って訊ねると、逆に少女が驚いた顔をした。
「その言い方、結構失礼じゃないか?」
「じゃあ、生きててもそんなことが出来るっていうの?」
「……まぁ、普通に生きてる奴には出来ないだろうな」
 少女の裸足の足は池の縁のぬかるみに立っていながら真白いまま。青みを帯びた蛍に取り囲まれて凛と立つその姿は、死神に魅入られた人間というより、むしろ人魂を従えた美しい死神そのものだった。
「君は何者なの?」
「……さあ?」
 少女はおどけたように肩をすくめた。
「お前こそ何者なんだ? タマにここまで気に入られるなんてちびくらいだったのに」
「さあ?」
 同じように僕も肩をすくめてみせた。
「でも、僕はそのちびと同じ名前だよ」
「真至っていうのか?」
「そう。漢字まで一緒」
「真に至る。真人さんからの一文字と生まれた日の夏至から一文字とって真至」
「意味もつけ方もすっかり同じ。だからかもしれないよ。このちびタマが僕にもなついてくれるのは」
 僕が腕を差しのべると、ちびタマは勢いよく少女の腕から僕の腕へと飛びうつってきた。
「君はマヒトさんも知ってるの?」
 少女は名残惜しそうに、僕の腕に移ってしまったタマを眺めていた。
「まあ、な」
「サナトリウムの患者さん?」
「そう……だな。うん、クランケだ」
 自分の素性をいちいち思い出して確認しながら少女は頷く。
「なんだ。本当に生きてるんだ?」
「死にながらだけどな」
「え?」
 少女の低く呪うような響きは、こんなに近くだというのに僕にはちゃんと伝わっていなかった。いや、言葉自体は届いていたんだ。ただ、僕には即座に意味まで頭が回らなかった。
「なんでもない」
 少女は、僕が意味を飲み込む前にうやむやのままその話を立ち消えにしようとした。
「なんでもないって……」
「そんなことより、ちびと同じ名前に免じて特別にお前がここに来てもいいことにしてやってもいいぞ」
 さっきとはうってかわって朗々たる声が偉そうに告げる。
「あのねぇ、僕はちびタマに連れてこられたんだよ?」
 顔を上げた少女はくるりと僕に背を向けて池の上を飛び交う蛍に目を向ける。
「明日はちびもつれて来い」
 昼間からは、いや、ついさっきの声からは想像もつかないほど、その声は慈愛深さを秘めていた。
「蛍が飛びはじめたら、ほんとは一番に見せてやる約束をしてたんだ。だから、今日お前が先に見てしまったことはちびには内緒だぞ?」
「言われなくても言わないよ。これ以上嫌われたくないし。あいつ、僕のこと仇か何かみたいに思ってるみたいなんだ。ちびタマに触っただけでにせものシンジ扱いされたし」
 少女はちょっと肩を丸めて笑った。
「やっぱりまだまだちびはちびだなぁ」
 内心、またあの得体の知れないむかつきを覚えながら僕は問う。
「君はちびシンジとはどういう関係なの?」
「ちびとの関係? うーん、婚約者? 大きくなったらこんなわたしのことをお嫁にもらってくれるらしい。奇特だよな」
 一応押し殺している笑い声は、だが一層愉快さを増してゆるゆると生暖かな空気に溶けていく。
「婚約者?」
「そう。でもあいつ、歳も歳だけどまだまだ子供だろ? 早くちびって言わなくても済む日が来ればいいんだけどな」
 僕は、なぜか胸の奥深いところに痛恨の一撃を喰らったような気がした。
 そんな日は、来ない。来なかった。僕は、最後までちびって呼ばれ続けていた。
 失われた記憶が蘇ったわけじゃない。ただちびシンジの気持ちだけがうっすらと僕の元に戻ってきただけ。
「おい……どうしてお前が泣く?」
「なっ、別に泣いてなんかいないよ」
 一匹一匹の蛍の灯はぼんやりと縁が滲み、重なり合い、大きな灯火となる。
 火照った瞼に、すっと冷たい指先が触れた。
「分かりやすい嘘をつくな。知らんぷりできないだろうが」
 思わず僕は少女の手を振り払っていた。
「子ども扱いするな!」
 手の甲で目の辺りをごしごしとこすってから少女を見ると、少女は茫然と僕を見ていた。
「昼間といい、お前はよっぽどわたしに触られるのが嫌なんだな」
「……」
 違う。そう言いたかったのに、そう言っていいのか僕は迷った。
 目元にはまだ少女の指先の冷たく柔らかい感触。
「悪かったな、不用意に触ってしまって」
 蛍が少女に群がりはじめていた。従えられるためではなく、迎え送るために。
「多分、うつらないとは思うが……」
 蛍たちは少女の手足の先を歪んだ灯火で覆い消していく。
 残された顔にはもの悲しげな微笑が宿っていた。
 謝らなきゃ。そんなつもりだったんじゃないって、謝らなきゃ。
「ごめんな」
 先にその言葉を口にしたのは少女の方だった。僕は一度言葉を飲み込み、少女の手を振り払ってしまった自分の拳を握った。
「今日……今日、起きたらお見舞いに行くよ! こんなんじゃなく、ちゃんと君と話したいんだ。だから名前を教えて。僕はまだ君の名前を聞いてない!」
 けれど、少女の姿はたくさんの灯火の中に飲み込まれてしまった後だった。




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