雨降り館
6月15日(金) 曇り一時雨

(4)

 振り返ると、白い軽トラックの脇には道路にはみだすようにダンボール箱と大きな風呂敷包みがうずたかく乱雑に重なり合い、その下に若い女性が一人、うつぶせの状態で下敷きになっていた。
「は、春恵!!」
 トラックの止まっている軒先からすっかり動転して飛び出してきたのは三十前後の男性。
「了ちゃん、まー坊!」
 僕は二人を促して道路を横断していた。
「大丈夫ですか? 僕の声、聞こえますか?」
 下敷きになっている女性の前に跪いて声をかけると、すっかり青ざめた女性はうっすらと目を開けて呻いた。
「赤……ちゃんが……」
「赤ちゃん?!」
「こりゃ大変だ! おい、あんた、おろおろしてないで荷物をどけるんだよ!」
 まー坊が女性の前を行き来するだけの男性を一喝する。
 了ちゃんはすでに黙々と荷物をおろしにかかっていた。
「大丈夫ですよ。すぐに荷物どけますから、気をしっかり持っていてください」
 そうこうしているうちに商店街の店主や通りを歩いている人達が寄り集まって荷物を取り除いていく。
「ぼ、僕も……」
 ちびシンジまでもがふらふらと寄ってきた。
「ちびシンジはだめ! 残りの荷物が崩れてきたらお前まで下敷きになるぞ!」
「ちびって言うな! にせものシンジ!」
 あ……。
 ちびシンジは口を尖らせて地団駄を踏む。
 その反応は、さっき僕が池のほとりで見知らぬ少女に対してやってしまったものとすっかり同じものだった。
「じゃあ、ちびはお姉さんの手、握っててあげて」
 僕ははじめて親近感を覚えて、ちびシンジの頭の上に軽く手を乗せて言った。
 かわいくないちびシンジはすぐにその手を跳ね除ける。でも、べろべろっと舌を出して見せたのは一瞬。次の瞬間には地べたに座り込んでダンボールの下からはみだした若い女性の手を握っていた。
「やるじゃん、ちびシンジ」
「まぁね」
「お前じゃないよ、にせもの君」
「だからにせものじゃないって! まー坊の馬鹿っ」
 人手が多く集まったおかげで、軽トラックの荷台よりも高く積みあがっていた荷物はあっという間に取り除かれた。
 だが、荷物の下から現れた女性の体は流れ出した血に染まっていた。
「春恵ぇぇぇぇっ」
 女性の夫らしき青年は叫び、へなへなと女性の脇に座り込む。
 これにはさすがに荷物をどけていた男達も、周りを取り囲んでいた女達も絶句し、あるいは悲鳴をもらした。
 が、すぐに力強い声が飛ぶ。
「誰か! 誰か氷和ちゃんを呼んで来い!」
 それは一縷の希望のように人々の悲鳴を期待に溢れたざわめきに変えていった。
 僕と了ちゃんとまー坊はその変貌振りに顔を見合わせる。
「そうだ、氷和ちゃんだ……!」
「氷菜ちゃん、お姉さんは今どこだい?」
「姉……ですか?」
 人垣に埋もれかけていた氷菜さんは輪から押し出され、すぐ目の前にいた僕を見た。
「姉はあなたを探しに行ったのよね?」
 緊迫感、というよりはその声は不満と不機嫌に彩られていたのだと思う。
「はい……」
 僕は曖昧に頷く。
 どうしてこの緊急事態に頼りにされるのが医者ではなくて氷和さんなのだろう?
 村には病院がなかったのだろうか? もしなかったとしても、名を呼ばれるのは氷和さんではなく父さん――マヒトさんか、院長のはずじゃないのか?
 しかし、誰もそう言い出す人はいなかった。
「誰か、山までひとっ走り行って氷和ちゃんを呼んで来い! 誰か足の速い奴!!」  
「じゃあ、俺が……」
 いささか焦り気味な魚正の遼二さんが人垣を掻き分けだす。
 だが、その垣根はすぐに外側から開いた。
「あの、皆さん集まってどうしたんですか?」
 のんびりとした声は氷和さんのもの。
 村の人々は口々に観音様でも拝むように氷和さんの名前を呼ぶ。
「氷和ちゃん! この人を助けてやっておくれ。流産しちまいそうなんだよ!」
「え、流産ですって?!」
 氷和さんは慌てて血溜まりに横たわったままの若い女性に駆け寄った。
「あ、あ、あ、あ、あ、あなたが家内を助けられるんですか? あなたが家内を……?」
 僕たち同様、事態が飲み込めないらしい青年は、難しげな顔で若い女性の顔を見つめていた氷和さんの肩を揺さぶる。
 ふ、と氷和さんの表情が緩んだ。
「大丈夫ですよ。助けられます」
 その表情は、さながら観音菩薩。いや、慈悲深き聖母マリアを思わせた。
「皆さん! 皆さんも私に力を貸してくださいませんか? この女性とお腹の中に宿った命を救ってくださるよう、主にお願いするのです」
 人々は、老若男女問わず一斉に両手を組んで跪いた。
 慌てて僕たちもそれに習う。
 薄目を開けて周りを窺うと、誰もが熱心に目を閉じて震えるほど手に力をこめていた。
「御恵み深き我らが主、イエス・キリストよ。この者が哀れと思し召しますのならば、どうか私にこの者の傷を癒す力をお貸しください。アーメン」
 氷和さんは滔々と言葉を紡いだ後すばやく十字を切り、その指先で女性の腹部に触れた。
 と、細い二本の指先からほのかに淡い光が女性の腹部を覆うように広がっていく。
 危うく僕は声を上げそうになった。
 そんな僕を、祈るふりをしてやはり薄目を開けていた了ちゃんがすかさず肩で軽くつつき、首を振ってみせる。
 と、腹部を光に覆われていた女性の表情は次第に安らかになっていき、それと共に光は少しずつ薄れていった。
 ほっ、と氷和さんの肩から力が抜ける。
「皆さん、ありがとうございます。これできっとこの方とお腹の中の赤ちゃんは救われるでしょう」
 目を開き、顔を上げた人々の顔には深い安堵が漂う。
 ただ一人、いまだ半信半疑な顔の旦那さんを除いて。
「本当に……本当に家内は……?」
「ええ。ですが、すぐに病院に連れて行ってあげてください。検査と消毒はしておいたほうがいいでしょう」
「ありがとうございます!」
 安らいだ表情の奥さんの体を受け取って、若い旦那さんは感激したように涙で目を潤ませて頭を下げた。
「ありがとうございます」
 か細い声ながら、目を覚ました奥さんも微笑してお礼を言う。
「感謝なら、あなた方の助命を乞うて下さった村の皆さんとそれを聞き入れてくださった主、イエス・キリストに」
 間もなく、気の利いた誰かが呼んだ救急車が到着し、若夫婦は頭を下げ下げ救急車に乗り込んでいった。
 あとに残された人々は氷和さんを中心に再び歓喜に沸く。
「あれが、僕の風邪を治してくれた力……。目の前で見たっていうのに、僕はまだ信じられないよ……」
 その場で茫然としていたために輪から取り残された僕たちは、やはり茫然としたまま沸き返る人々の背中を見ていた。
「奇跡って、あるんだな……!」
 僕らの中でも適応が早いまー坊は、感嘆の声を上げたまま放心している。
 僕の中にも次第にじわじわと感激のようなものがこみ上げてきていた。
「ねぇ、了ちゃん。すごいよね、氷和さん。氷和さん、すごいよね……」
 だが、了ちゃんは返事をしなかった。
 了ちゃんだけが複雑な表情で村の人々の背中を見ていた。
「了ちゃん?」
「ん? ああ、すごいよな」
 義務的な返事だけを返して了ちゃんの視線は彷徨い、やがてそれは、僕らのように輪から一人ぽつんと取り残された氷菜さんのもとで止まった。
 思わず僕は息をのむ。
 その表情は、鬼か悪魔のように荒んだ影にどす黒く染まっていた。
 いっそう厚くなった黒雲からは、雨が降りはじめようとしていた。





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