雨降り館

6月15日 (金)  曇り一時雨

(1)  ラジオ体操の歌が聞こえてくる。
「あーたーらしーい、あーさがきたっ、きーぼーおの、あーさーがっ」
 半ばやけくそになったまー坊の音痴な歌声に乗って。
 いくら音痴だからって、流れてる音楽とぜんぜん違うじゃないか。
「うるさい、まー坊」
 僕は無意識に枕元を払った。
 手には何も当たらない。
「起きたか、真至」
 うるさそうに顔をしかめていた了ちゃんが僕を覗き込んだ。
「あれ、なんとかしてよ」
 僕の寝起きはお世辞にもいいとは言えない。
 ラジオから大音量で流れ出す活力いっぱいの第一体操。それだけならまだしも、まー坊はドスン、バタンと全力で腕を振り回しながら飛び跳ねはじめた。
「日課なんだって」
 諦めたように了ちゃんは苦笑した。
 それにしたって、僕にも我慢の限界というものがある。
「まー坊、も少し音量落としてよ」
「はんっ。そんな通夜みたいな音量で体操なんかできるか。せっかく十七年前の放送でラジオ体操できるんだからな」
「ああ、それじゃぁ存分にやらないとね……なんて僕が言うと思ったの?」
 僕は布団から跳ね起きてまー坊のマイラジ2号のボリュームつまみを最小までひねり落としてやった。
「あっ、こら、何すんだよ」
 まー坊は慌ててラジオを取り返し、さっきより少し遠慮がちな音量に戻した。
「真至、お前まだ寝ぼけてるだろ?」
 了ちゃんは僕とまー坊の間に入ってため息をつく。
〈これで六月十五日金曜日のラジオ体操を終ります。皆さんよい一日を!〉
「あーあ、終っちゃった」
 まー坊は布団の上にラジオを放り投げた。
〈六月十五日金曜日、六時四十分。朝のニュースをお送りいたします〉
 生半可な衝撃にめげず、ラジオは放送を続ける。
「ん? 六月十五日、金曜日? 金曜は昨日だろ?」
「やっと目ぇ覚めてきたか」
 棘のある声でまー坊は言うと、了ちゃんの手から新聞を取り返して僕に投げてよこした。
「それ、今朝の朝刊」
 朝日新聞と書かれているが、たった四面、四角四面の薄っぺらい紙が一枚。
 日付は1951年6月15日金曜日。
「せんきゅうひゃくごじゅういち……?」
「そ。十七年前」
「……うそ」
「ほんと。信じないと思って新聞借りてきたんだよ」
「誰から? って、その前にここどこ?」
「鈍いにもほどがあるぜ、真至」
 まー坊が苦笑したとき、僕の後ろでノック音がしてドアが開かれた。
「よかった。意識、戻ったのね」
 春の日差しのように微笑む若い女性。
「……お、母……さん……?」
 花吹雪の舞う中、石段の上で僕の帰りを腕を広げて待っていてくれるお母さん。
 目の前に現れた女性は、その人そっくりだった。
「や、やぁね。私まだ二十四よ。こんな大きな息子はいないわ」
 さっと頬を赤らめた女性は、それでも母親の顔で僕の前まで来ると、遠慮なく前髪をかきあげて僕のおでことおでこをくっつけた。
 かぁっ、と顔に血が上る。
 そのせいか、その人のおでこはとても冷たかった。
「ん? うん。よし。お熱も下がったみたいね」
 ほっぺたを冷たくてちょっとがさがさした手で挟みこむと、その人はにっこりと笑んだ。
「真至ー、鼻の下伸びてる」
「えっ?! まさか、そんなっ」
 慌てて僕はその人の手の間から逃れた。
「うぶねぇ」
「うぶですねぇ」
「うぶなんですよー」
 にたにたと三人は笑っている。
「なっ、何なんだよっ!」
 いきりたって僕は立ち上がった。
 その途端、ぐらりと視界が逆転していった。
「う……あ……」
 まずい。ドアに頭ぶつける……。
 が、不意にまたそのドアは開いたのだ。
 そこには誰も……
「え、うわぁっ」
 床近くに黒い頭が見えて、僕はとっさに体をひねった。
 左腕にずーんと重い痛みが響いた。
 そして、それすら打ち消すような大音量の子供の泣き声。
「あらあら、真至、怖かったわねぇ」
 女の人が慌てて子供に駆け寄り、抱きしめる。
 すると、ぴたりと子供は泣くのをやめた。
「シンジ?」
 僕は了ちゃんとまー坊を振り返った。
 二人はどちらからともなく頷いた。
「真に至るで真至。誕生日が夏至だからそこから一文字と、旦那様からも一文字もらってつけたのよ。いい名前でしょ?」
 女の人は子供の頭を撫でながら慈愛のこもった微笑を浮かべた。
 僕はどう答えてよいか分からなかった。
 心の中がもやもやする。
 面白く、ない。
「ああ、ごめんなさい。私、まだ自分のこと名乗ってなかったわね。私は前澤氷和。この教会で、といってももう教会というよりは結核療養所になってしまっているんだけれど、そこでお手伝いやら看護やらをしてるのよ。この子は前澤真至。あと一週間で五歳になるの、ねー?」
 相槌を求められたシンジは大きな目をいっぱいに見開いて僕を見た。口はきゅっと引き結んでいて、断固として開こうとはしない。
 敵意を感じるのはどうしてだろう……。
「田村、真至です。よろしく、シンジ君」
 僕は中腰になって握手を求めてみたが、そっけなく顔を背けられてしまった。
 後ろでは二人のくつくつと押し殺した笑い声が聞こえる。
「珍しいわね、この子が人見知りするなんて。了一君と正典君にはなついてたわよね?」
 二人の笑い声は堰を切ったように大きくなった。
「ごめんなさいね。普段はこんな子じゃないんだけど。ほら、真至、ちゃんと挨拶なさい」
 叱られたシンジはむっとしたように頬を膨らませて氷和さんの腕を抜け出した。そのまま立ち去るかと思いきや、部屋の入り口で立ち止まって僕に向かって小さくて赤い舌を出していった。
「あのガキ……」
 浮かべた愛想笑いに亀裂が走った。
「真至、そう怒るなって。所詮ただのガキだよ、ガキ」
「そうそう、かわいくないところがかわいいっていうだろう?」
 二人は左右から好き勝手なことを僕に吹き込む。
「本当にごめんなさい。親の顔が見てみたいとか言う? あの子は私が産んで育ててるの。お詫びにたっぷり私の顔を見てちょうだい」
 泣きそうな表情で氷和さんは再び僕に顔を近づけた。
 顔に、熱が上っていく。
 酸素不足の金魚のように、僕の口はパクパクと開閉を始めた。
「氷和さん、ひでー」
 たまらずまー坊は布団の上に転がって腹を抱えて笑い出した。
「もうっ、正典君、失礼よ! 私はほんとに申し訳ないって思ってるのに……」
 と、氷和さんの肩に静かに男ものの大きな手が乗せられた。
「氷和、からかうのはいい加減にしなさい」
 聞こえたのは若いくせにやけに落ち着いた青年の声。そのくせ、困っている風を装いながらちょっと笑いをかみ殺している。
 聞いたことのある声だった。もっと渋くて低かったけれど、毎日聞き馴染んだ声。
 そう。昨日も聞いた。
 悲しげな絶叫だったけれど。
「父さん……」
 顔を上げた瞬間、しまったとは思ったんだ。
 でも、同時に確信した。
「おいおい、僕はまだ君くらい大きな息子はいないよ。まだ三十一なんだ。勘弁してくれよ」
「さっすがおしどり夫婦。すっかりおんなじ返事返してやんの」
 まー坊のからかいに二人は顔を見合わせた。
 なんというか、五歳になろうという子供がいるとは思えないほど初々しい。
 家では決して見たことのない光景だ。
 ……家では?
「もう、からかうんじゃないの。そうそう、真至君、この人は真人さん。私の旦那様よ」
 やっぱり。
 父さんと同じ名前だ。
「遅くなったけれどはじめまして。具合はどうだい?」
「あ……はじめ、まして。田村真至です。具合は、そんなに悪くない……です。まー坊さえラジオ体操始めなければ」
「ラジオ体操? この部屋にラジオはないはずだが。そういえばさっきから誰か別の人の話し声が……」
 父さん、いや、マヒトさんはゆっくりと部屋の中に首をめぐらせ、布団の上で鳴りっぱなしの黒い携帯ラジオに目を向けかけた。
 まー坊は慌ててそれを布団に隠す。
「正典は毎朝やっているので、ラジオなしでも鼻歌にのせてできちゃうんですよ。でも、音痴のくせに大きな声で歌うものだから真至のこと起こしちゃって。この通り、こっちの真至も今朝は機嫌が悪い、というかまだ寝ぼけているみたいなんです」
 さすが了ちゃん。
 口が立つのって、こういう時ちょっと羨ましい。
「あら、うちの真至も寝起き悪いのよ。名前が同じなら性格も似るのかしら」
「昨日見つけたときから思ってたんだが、顔もなんだか似てないか? 俺……というよりは十年後の真至を見ている気がしてくるんだが」
「そうねぇ。言われてみれば顔も真至に似てるかも」
 二人は遠慮なくしげしげと僕の顔を見つめはじめた。
 僕はどうしていいかわからず了ちゃんの方に視線だけ流してみる。
 だが、了ちゃんが助け舟を出してくれる前に、僕の腹の中に棲む虫が一声大きく鳴いてしまった。
 二人の視線は僕のお腹へと流れていく。
「ごっめんなさい! そうよね。昨日から何も食べていないんだものね」
「そうだ、氷和、お前味噌汁の鍋火にかけっぱなしだったろ? 吹いてたぞ」
「きゃーっ、いやーっ、せっかく作ったアサリ汁がーっ」
 ばたばたと氷和さんは階段を駆け下りていく。
「消しといたけどね」
 冷静に見送っていたマヒトさんはシンジそっくりにちらりと舌を出した。
 間髪いれず、下からは盛大に鍋蓋がシンバルばりの騒々しい音を奏でる。
「大丈夫、ですかね……?」
 噴き出しているマヒトさんに僕は本気で心配になりながら尋ねた。
「大丈夫、大丈夫。あの人には神様がついてるから」
 かみ殺しきれない笑いに声を震わせながらマヒトさんはそう答えた。
「カミサマ……?」
 それは、父さんが耶蘇山と同じくらい嫌いな言葉だ。
「そう。君もその力で治癒されたんだよ。医者の俺が認めるのもおかしな話だけどね」
「医者? え? お医者様なんですか?」
「そうだよ。教会の礼拝堂をはさんで向こうにある結核療養所で働いているんだ」
 父さんが、医者?
 そんなこと、知らない。
 じゃあ、やっぱりこの人たちは僕の父さんと母さんじゃない?
 いや。そんなこと当たり前じゃないか。
 第一、母さんの名前が違う。
 僕の母さんは田村氷菜。前澤氷和じゃない。
 そうだ、この人も僕の父さんと同じ名前だけど苗字が違うじゃないか。
 それに、ここが十七年前なら僕はまだ生まれていない。
「真至君、正典君、了一君、多分おそらく、すぐにご飯が出来ると思うから、準備が出来たら下においで」
「はいっ! ありがとうございます!!」
 了ちゃんとまー坊は嬉しそうに頭を下げた。
「ありがとうございますっ」
 やや遅れて僕も頭を下げる。
「そんなに緊張しなくていいんだよ。もっと穏やかな気持ちでいてくれないと。また熱を出すかもしれないんだからね」
 マヒトさんは大きな手で僕の肩を二回叩いて下へ降りていった。
「で? どうなってるの、了ちゃん、まー坊」
 すっかり我が家気分でくつろいでいる二人に、振り返った僕は真っ直ぐ不安と苛立ちをぶつけた。
「俺達だってわけ分かってないんだぜ? ま、イライラしたってしょうもないことだけは分かったけどな」
「ね。あの人のいい仲良し夫婦を見てると、なんか全部馬鹿らしくなってくるっていうかさ」
「そんなことじゃなくて、ちゃんと説明してよ! 一九五一年ってどういうこと? ここはどこなの? あれからどうなっちゃったの!」
「あ、見ろよ、まー坊。サザエさん、こんな昔からやってたのな」
「どれどれ、あ、ほんとだ。てか、ラジオNHKしかやってないんだけど」
「了ちゃんっ! まー坊っ!」
 叫んだ僕に二人はやけにさめた視線だけをよこした。
「朝っぱらから怒ると頭の血管切れるぞ」
「そうじゃなくて!」
「やっぱり入っちゃいけなかったんだよ」
 やっと答えた了ちゃんの声は、どんよりと沈んでいた。
「僕と正典だって、ほとんど真至と一緒にあの館に飛び込んだんだ。そしたら雷が近くに落ちた。近くというか、あれは僕らの飛び込んだ館自体に落ちたのかもしれないけど」
「俺達もそっからは記憶が飛んでるんだ。見つけてくれたのは隣の教会の牧師さんなんだけど、礼拝堂の入り口で三人折り重なるようにずぶぬれで気絶してたんだと。で、慌ててそのまた隣の病院から医者とその奥さん連れてきて俺達をこの牧師館兼、彼ら前澤夫妻の愛の巣まで運んでくれた、と」
「僕らはすぐに目が覚めたし、風邪も引かなかったからぴんぴんしてたけど、真至はすごい熱で。結構危なかったんだよ」
「それで、あの氷和さんが不思議な力で治癒してくれたってわけ」
 二人は淡々と語り継いで、確かめるように顔を見合わせた。
「不思議な力って?」
「んー、こう手の平を真至の胸の辺りにかざしただけだったんだけどね。それだけでうなされてた真至が急におとなしく眠りはじめたんだ」
「了一は見えなかったって言ったけどさ、氷和さんの手の平からあったかそうな白い光が出てたんだよ」
 話がありえない方向に向かっているのは気のせいだろうか。
「ま、信じなくてもいいけど。口外するなって言われたし。でも、氷和さんが助けたのは確かなんだから後でちゃんとお礼言っとけよ」
 言い終えるとまー坊と了ちゃんはおもむろに立ち上がった。
「どこ行くの?」
「どこって、お前、朝ごはんに決まってるだろ。あーさーごーはーん」
「これ以上のことは僕たちもよく分からないんだよ。何せ目が覚めたのは夜中だったから。一応僕たちは記憶喪失みたいなものってことになってる。僕ら三人のことはちゃんと覚えているけど、社会のことがよく分かっていないってことにね。ただ、さっき確かめたと思うけどここは一九五一年だ。それは確からしい。だから、十七年前のこの世界になかったもの、一般的でないものの話はあの人たちの前では控えた方がいいと思う。この時代、どうやらラジオもまだ高価らしいよ。しかもテレビと大してかわらない大きさをしている。聞くにもほんとは視聴料だか税金とられるみたいだしね。もう見られたかもしれないけど、一応僕も腕時計は外しておいたよ」
 了ちゃんはそっと左の袖をめくって見せた。
「俺達の生まれる二年前とはいえ、びっくりするよな。世界じゃ朝鮮戦争やってんだぜ、朝鮮戦争。ベトナム戦争なんて遠い先だ。おまけにまだ戦後の余韻が残ってるときたもんだ。はぁ、俺今日の巨人の星、楽しみにしてたのにな。この家、テレビすらないんだぜ?」
 声とは裏腹にまー坊の足取りは朝ごはんの並ぶ食卓へと浮き足立っていた。
「じゃあ、帰る方法は?」
 これには二人とも歩を止めて力なく首を振った。
「教会っていうのは優しいところらしくてね。記憶が戻って帰る場所が分かるまでいていいってさ。だから、朝食摂ったらとりあえず教会やこの辺を散歩してみないか?」
「そ。焦ったって仕方ない、仕方ない」
 僕は頷くしかなかった。
「もう一つ、いい? タマは?」
 僕らはあいつのせいでこんなところに来てしまったのだ。
 やつあたりするならあいつしかいない。
「それがさ、いなかったみたいだよ。少なくとも礼拝堂で倒れてる僕らが見つけられたときには」
「小生意気なタマって名前の子猫ならここで飼われてるけどな。毛色とかあいつにそっくりだぜ」
 タマまで、いる?
「ねぇ、ここは過去だと思う? それともパラレルワールド?」
「パラレルワールドって、真至、SFの読みすぎだって」
 まー坊は楽しくもなさそうに笑って階段を下りていってしまった。
「両親の名前が違うと思ったんだろ? それに、村ではキリスト教は禁教と同じ扱いだ。ここは村とは違う常識が流れてる。でも、僕は過去だと思うよ。新聞を見た感じ、歴史どおりだから」
 そして了ちゃんも部屋を出て行く。
 僕は残された新聞をもう一度手に取り直した。
「一九五一年、六月十五日。金曜日。トップ記事は経済法令の改廃、独禁法は一部緩和?」
 左には『講和条約、“九月には調印”』の見出しが躍っている。
 まだサンフランシスコ講和条約は結ばれていないのだ。僕らの時代では今まさにこの条約と一緒に結ばれた日米安保条約が世論を騒がせているというのに。
 そして、この世界ではまだケネディは暗殺されていない。十勝沖地震も起こっていない。ガガーリンも死んでいない。もっと遡れば東京オリンピックもまだ開かれていない。
 僕らにとって当たり前の歴史がここにはまだないのだ。
 戦後の爪痕が残る最後の混乱期。
 布団からちらりとはみ出したまー坊のマイラジ2号が物憂げに僕を見上げていた。
 




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