雨降り館
6月15日(金) 曇り一時雨

(2)

 外はやっぱりどんよりと曇っていた。
 かなり大雑把な地域分けの天気予報も、今日の天気は全国的に芳しくないといっていた。
 おまけに六月とは思えないほど寒い。
「っくしゅんっ」
「大丈夫ですか、田村君」
 前を歩いていた牧師さんが歩を止めて振り返った。
「あぁ、はい、大丈夫です」
 朝食のときに紹介された隣の教会の牧師さんだ。
 前澤一家と一緒に牧師館で暮らしていて、朝食風景を見る限り他人というよりはすっかり彼らの家族として溶け込んでいる。特にシンジなんかは「ひとしおじいちゃん」と呼んで膝の上で朝ごはんを食べていたくらいだ。
 昔の人にしては背が高く、ゆったりとした黒い牧師服を纏う体はごま塩の髪を持つ年齢にしては痩せている。その表情はいつも穏やかで崩れることはなかったが、どこかに苦悩めいた翳が見え隠れすることもあった。
 やはり朝食のときに紹介された恰幅がよく朗らかな結核療養所の院長とは静と動、随分とタイプが違う。だが、彼らは彼らで数十年来、学生時代からの友人なのだそうだ。
 桜庭さくらば教会、というらしい。
 牧師館と教会、そしてその隣には結核療養所。ちょっと広場まで駆け出ると、昨日耶蘇山に入ったときと同じ光景が広がっている。しかし、中央のどっしりとした薄ピンク基調の洋館だけは天辺に高々と十字架が取りつけられていた。
 僕の閉じられた記憶と同じように。
「それにしたって、寒い、寒い、寒い!!」
 まー坊はだかだかと地面を蹴った。
 地団駄を踏みたいのは僕も同じだ。
 まー坊も僕も上着を一枚借りて着込んでいたが、それでもちっとも温かくなった気がしない。
 向こうは雨が降らなければまだじっとりと蒸すような湿気が体に纏わりついてくるだけだったが、ここは冷たい北風が無遠慮に服の隙間から入り込んで体熱をかっさらっていく。
「正典、そんなに近くでわさわさ動かれたら風がくるだろ」
「だからっておとなしく歩いてたら凍死しちまうだろうが」
 まー坊の言い分はあながち間違っちゃいない。朝食のときなんか、六月だというのに普通にストーブがたかれていたんだから。
 梅雨は梅雨でもこの年の入梅は半月も早かったらしい。六月のあたま頃からもうこんな曇天が毎日のように続いていて、洗濯が大変だと氷和さんはぼやいていた。
 療養所の方の洗濯物も一手に引き受けているのだからさもありなん。
 それに、テレビのないこの時代に洗濯機が普及しているわけがない。九時過ぎになれば下の村からお手伝いのおばちゃんたちが来てくれるらしいが、空を見た氷和さんは待ってなんかいられないわ、ともくもくと外で洗濯を始めてしまった。
 手伝いを申し出た僕たちに、干すときに呼ぶから、といって。
 水はまだ冷たいだろうに。
 僕は今朝のがさがさの氷和さんの手を思い出した。
「さ、ここです。ここに君達は倒れていたんです」
 僕らが震えている前で、牧師さんはおもむろに観音開きの重厚な木の扉を引き開け、中を指し示した。
 下駄箱を挟んで普通のガラスをはめた引き戸のさらに向こう、白亜の壁に掲げられた十字架が見える。
 靴を脱いで中に入ってみると、下三分の二は木製の壁になっていて、白亜の壁とあいまって明るく落ち着いた雰囲気をかもし出していた。二階相当の高さにある窓は色ガラスになっていて、曇りとはいえ朝の光を取り込んでうっすらと色のついた光を左右に並んだ長椅子に落としている。
 その礼拝堂の入り口から最後部の長椅子の間の通路には、かすかに水に濡れた名残があった。
「ここに、ですか?」
「そうです。昨夜はひどい雷雨で、この近くにもいくつか雷が落ちていました。私はてっきりこの教会にも雷が落ちたものと思っておりました。しかし、教会はこの通り無事で、しっかりと施錠したはずの扉だけが開け放たれ、あなたたち三人がまるで主に救いを求めるようにここに折り重なって倒れていたのです」
 物腰柔らかな口調で描き出される昨夜の話は、聖書を読むかのように澱みなく語られた。
 僕は耳だけ傾けながら、交互に振り返り振り返り、入り口と床のシミとを見比べる。
 あの時、洋館の扉は開き、真っ暗な中に僕はタマを追って飛び込んだ。そして、そう、何かに躓いたような気がした瞬間、頭が真っ白になった。
 あの洋館とこの教会が同じだというのなら、僕はあそこの入り口の段差で躓いたわけだ。
 そして、こっちでも雷が落ちた。
「そんな……ありえないよ……」
「何か思い出したのですか。田村君」
「え? あ、いえ……」
 了ちゃんが首を振るのを見て僕は慌てて打ち消した。
「あなたたちは導かれるべくして導かれたのでしょう。恐れてはなりません。主は救いを求める者を拒んだりはいたしません」
 シンジと遊んでいたときはただの好々爺だったのに、教会に入ったとたんに牧師さんは聖職者の顔になっていた。喋ることまで牧師らしい。
 最奥の中央に掲げられた十字架。両壁に飾られた二枚の宗教画。母の腕に抱かれているような、厳かながら温かくやさしい雰囲気。
 僕の家は仏教だけれど、僕自身にはそれほど信仰心などというものはない。多分父さんや母さんにもそれほど深い想いはなかったはずだ。家には神棚もなければ仏壇もない。宗教行事らしきものといえば、かろうじてお盆に父の実家の墓参りに行くことくらいだ。
 ここは、遠ざけられてきた場所。
 あれほど踏み込むなと戒められた場所。
 それなのに、どうしてだろう。僕はここが懐かしくて仕方ない。
 ミャァ
「タマ?」
 ミャァァ
 ベンチの方からだ。
 幼いけど、聞こえてくるあの鳴き声はタマだ。
 青みがかったグレーの尻尾がベンチからはみ出ている。
「タマ!」
 僕はそのベンチへと駆け寄った。
 ミャァー
「タマ! お前、こんなところに……」
 小さかった。
 両手の平で掬えてしまうほど、タマは、いや、その猫は小さかった。
「そいつだよ。もう一匹のタマ」
 まー坊が言った。
 猫はおとなしく僕の手の平に納まり、ぺろぺろと僕の親指を舐める。
 十年前のように。
「くすぐったいよ……」
「やい! にせものシンジ! それはぼくのタマだ! 返せ!」
 だんっ。
「ぎゃっ」
 僕の足の上にはカかとを立てて乗せられたままの小さな足。
 驚いた僕の手から、猫はしなやかに飛び降りる。
「いったー。っこの、ちびシンジ! 人のことつかまえて偽者呼ばわりするな! おまけに思いっきり人の足踏みやがって……!!」
「ふんっ。ちびって言うな、このにせものシンジ! お前が僕のタマに手を出すからだ」
 子猫はちびシンジの腕の中で嬉しそうにその頬を舐めている。
 ちびシンジもくすぐったそうに目を細める。
 僕は、奥歯を噛みしめ、かすかに握る拳に力をこめた。親指の爪が手に食い込む。
「だめだろ、タマ。あいつはにせものなんだから、なついちゃだめ」
「かっわいくなー」
 かろうじて僕は声を押し出す。
「何言ってるんだ。そっくりじゃねぇの」
「そっくり? どこが? 僕はタマのこと可愛いなんて思ったことないよ」
「見つけられたばかりのとき、真至はタマしか見えていなかったじゃないか。覚えてないのか? 真至のお父さんも入る余地がないくらい一人と一匹だけの世界にこもってたんだぞ」
「な。俺らがタマに触ろうとしても触らしてくれなかったよな」
 見つけられたとき?
 僕はタマと一緒だった?
 いや、そうだ。タマは僕の物心ついた時にはもういたのだから。
 小さいときは、いつも一緒だった。
 このちびシンジみたいにタマは僕の宝物だった。
「じゃあ、僕のタマはどこに行っちゃったの……?」
 どんなに放蕩してても必ず僕のところに帰ってきてくれたのに。
 一緒にこの世界に来ちゃったんじゃなかったのか?
 タマ。
「あのふてぶてしい猫のことだ。きっとどっかで魚掻っ攫ってるって」
 まー坊が軽く肩を叩く。
「それはそれで会いたくないよ。あいつの餌代高くつくもん」
「タマは目が肥えてるからなぁ。うちの魚屋でも一番の目玉商品ばっかほしがるんだぜ」
「いや、ほんと魚正さんにはいつもご迷惑おかけしてます」
「魚正? それならこの山の下にもありますよ」
 それまで傍観していた牧師さんが明るい声で割り込んできた。
「もしかしたら何か思い出せるかもしれませんよ」
 僕とまー坊、それに了ちゃんははっと顔を見合わせた。
 これ以上僕らの存在を多くの人に知られるのはまずくないだろうか。
 それこそ下に降りたら、まー坊の一家や了ちゃんの一家がいるかもしれないのだ。
 しかし、了ちゃんはああ、と大きく頷いた。
「そうですね。うん、何か分かるかもしれない。真至、正典、下に降りてみようよ」
「でも了ちゃん……」
『僕と正典はまだ生まれてないから大丈夫』
 そっと了ちゃんは囁いた。
「そうだな。ここら辺にいたってあんま変わりなさそうだもんな。一応、療養所の方には近づくなって言われてるし」
 まー坊はもう出口に向かって歩き出している。
「彼は随分と気楽なんですね。あなたもあまり固く考えすぎないほうがいいですよ、田村君」
「……はい」
 固く考えすぎ、か。
 よく言われるけど、時代が違うこの世界で怪しまれないためには、多少の警戒心だって必要だろう?
 まー坊と了ちゃんがお気楽すぎるんだよ。
 まー坊はともかく、了ちゃんはぼろは出さないと思うけど。
「さて、そうなると案内する者が必要ですね。私が行ってもよいのですが……」
「牧師さん! 私が行くわ。ちょうど妹のところに届けものしようと思ってたの」
 まー坊と入れ違うように飛び込んできたのは氷和さんだった。
 ちび真至はこそっと牧師さんの裾に隠れる。
 だが、それを見逃す氷和さんじゃなかった。
「こらっ、真至!」
 雷同然の怒鳴り声に僕まで縮み上がる。
「ああ、ごめんね、真至君。真至君じゃなくて、こっちの真至」
 どすどすと長椅子の間を縫ってくると、氷和さんは牧師さんの後ろからちびシンジを引っ張り出した。
「真至! またおもちゃ片付けないでタマばっかり追いかけて!! ちょっと戻って片付けてきなさいっ」
 ちび真至の前にしゃがみこんで大真面目に叱る氷和さんの横で了ちゃんが笑いをかみ殺している。
「真至が叱られてる」
「叱られてるのは僕じゃなくてちびの方だろ? 一緒にしないでよ」
「真至もお片づけ嫌いだろ?」
「だーかーらー」
「それじゃ、氷和さん、案内お願いします。僕たち外回ったりとかして待ってるんで」
「えー、寒いから中で待ってようよ」
 そう言ったって了ちゃんは一度言ったことはほぼ撤回しない。すたすたと僕をおいてまー坊の後を追ってしまった。
 ミャァ
 そして、タマは了ちゃんのあとを追うように、うなだれたちび真至の腕の中からするりと抜け出した。
「あ、タマ」
 泣きそうな声でちびシンジは呼び止めたが、こいつはこいつで昔から人の言うことを聞くような奴じゃない。
「ほらみなさい。タマもお片づけしない子は嫌いだって」
 ぐすっとちびシンジはすすりをあげた。
「お母さんも嫌い?」
「お片づけできない子は大嫌い」
「お片づけしたら、僕も下に連れてってくれる?」
「お母さんが準備できるまでにちゃんと片付けられたらね」
 ちらり、とちびシンジは潤んだ目を僕に向けた。
『手伝ってくれるよね?』
 そう言っている。
「真至ちゃーん? お母さん、一人でお片付けできない子も嫌いだなー」
 ちびシンジはびくっと震えて氷和さんの方に向き直った。
「やるよ。ちゃんと片付けるから、だから……」
 氷和さんは微笑してちびシンジをぎゅっと抱きしめた。
 同じように、僕の心臓が締め上げられた。
 幸福感と、嫉妬。
「大好きよ、真至」
 その言葉は、僕のものだ。
 氷和さんのその腕も、優しい微笑も、あったかい言葉も、みんなみんな――

『どうしてお母さんは僕に優しくしてくれないの?』
『僕が悪い子だから? でも僕、ちゃんとお片づけしたよ? 脱いだ服もちゃんと畳んだよ? 勉強もするよ? ねぇ、だからお願い。ぎゅっとして?』

 さみしいよ。
 さみしくて凍えちゃいそうだ。

 ねぇ、母さん。
 どうして僕をそんな目で見るの?

「真至君? 真至君!?」
「牧師……さん……」
「君、まだ調子が悪いんじゃありませんか?」
「いいえ。そんなことないです。元気ですから」
「でも、真至君顔色が真っ青よ」
 魚眼レンズのように歪んだ視界に心配そうな氷和さんの目。
 ぽろりと何かが零れ落ちて、氷和さんの顔がはっきりと見えた。
 その表情はちび真至に向けられるものよりよほどもすっきりとしていた。
 視界は回る。
「真至君!?」
 ショックを受けることなんかないじゃないか。
 氷和さんは僕のお母さんじゃないんだから。
 うらやましがったってどうしようもない。
「違うんです。ちょっと目にごみが入っちゃって……。そうだ、氷和さん、洗濯物は?」
「洗濯物? ああ、もう干しちゃったわ。そういえば手伝ってもらうっていってたものね。ごめんなさい。明日はお願いするわね」
 明日。
 明日も僕らはきっとここにいるんだ。
「あ、ごめんなさい。明日だなんて。今から村に行けば何か分かるかもしれないわよね。
 ほんとごめんなさい」
「いえ。じゃあ、明日は必ずお手伝いさせてくださいね」
 僕は、何を言ってるんだろう。
 ほら、ちびシンジが睨んでいる。
「それじゃあ、またあとで」
 ここは、よくない。
 あったかすぎて辛くなる。
「お、泣き虫真至、久しぶりだな」
「うるさい」
 僕は口を引き結んだまままー坊の前を通り過ぎて広場を切り、あの桜の木の下まで走った。
 そこからは、まだ田畑ばかりの小さな村が見渡せる。
 桜は咲いていなかった。花の芽すらも膨らんでいない。
 当たり前だ。
 梅雨に花咲くなんて馬鹿げてる。
 けれど――
「こんなに寒いと、この桜が季節を間違えるのも分かるような気がするね」
「……分かんないよ。昨日のあれは幻影か何かだ」
「そう、かな。ま、真至がそう思いたいならそれでもいいけどね。でも、この桜ももうすぐ咲くよ」
 さらりと予言した了ちゃんを僕は眉をしかめて振り返った。
「了ちゃん?」
「なんてね。芽も膨らんでないのに咲くわけないか」
 そうだ。
 咲くわけがない。
 咲いちゃいけない。
「真至、お前、大丈夫か?」
「何が?」
「あの親子、見てるの辛いんだろ? 何なら残っても……」
「何言ってるの。行くよ。僕だってこんなとこに長々閉じ込められたら息が詰まるもん」
 ここは息が詰まる。
 とうに僕のものではない幸せな思い出がたくさん詰まっているような気がするから。




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