雨降り館
6月14日(金) 曇りのち雨

(2)

 雨は一時的に強さを増していた。
 まるで僕達を山に向かわせたくないかのように雷鳴は轟き、舗装されていない道路には轍の跡に沿って深々と泥水が溜っている。そんな水溜りを飛び越え、田んぼの畦道をバランスをとりながら駆け抜けてきたところで、僕は不用意にも濡れた草に足を滑らせて用水路に落っこちた。
「大丈夫か、真至」
「なんとか」
 泥まみれの僕の前に躊躇いなくのばされた了ちゃんの手に引き上げられて、僕は深くため息をついた。
 明日風邪を引くのは間違いない。いや、その前に母さんにどやされるのが先か。
「なぁ、おい、あれ」
 はなから傘などさしていないまー坊が寒さに腕をさすりながら、はたと何メートルか先で立ち止まった。
「どうしたの、まー坊」
 まー坊の見据える先は、雨糸の向こう、深い山の暗闇に沈み込む耶蘇山の入り口だった。
 いつもなら誰も入れないよう、耶蘇山なのに太い注連縄しめなわを張って入り口を塞いでいるのに、今日はそれが見あたらない。
 かわりに最近頻繁にみかけるようになった首の長いショベルカーが二台、それにダンプカーとブルドーザがそれぞれ一台ずつ入り口の前で静かに雨に打たれている。
「了一、お前なんか聞いてる?」
 村長の末の息子はゆっくりと首を振った。
「耶蘇山を取り崩すなんて聞いてないよ。場所は分からないけど、近々住宅メーカーのモデルルームを造るって話なら一昨日聞いたけどさ」
「それだ」
 耶蘇山の入り口は近くで見ると思いのほか広かった。
 誰も入る者などいないというのに、門のようにそびえる赤松の間からは大分風化して角の取れた石段が鬱蒼と繁る山の奥へと続いている。
 注連縄はその入り口の赤松の根元に無造作にうち捨てられていた。
「罰当たりなことするねぇ」
 何が変わるというわけでもないが、了ちゃんは注連縄を丁寧に木の根元に置きなおした。
「それにしても、なんかヤな感じだな」
 口を引き結んでまー坊は石畳の先を見つめる。
「注連縄をしてたのが分かる気がするね。入るなって、大人達が口をすっぱくして言うのも、あながち間違えていないのかもしれない」
 僕は、了ちゃんたちほど冷静ではなかった。
 鼻腔に立ち込める雨に潤びた緑のにおい。
 深緑の闇は何があるというわけでもないのに僕の目を捉えて離さない。
 石畳に足が縫いつけられて、好奇心に一歩前に踏み出すことも、恐怖で一歩後ろに飛び退ることも出来ない。
「真至? 真至!」
 すぐ耳元で叫んでいるはずのまー坊の声がやけに遠かった。
 ふと、闇の向こうで何かが動いた。
 ニャァ
 聞き覚えのある甘ったるい猫の鳴き声。もうそんなに若くないくせに、媚びる声だけは一人前に甘ったるい。
「タマ」
 青みがかったグレーの毛色。昔の引き締まった優美な体はどこへやら。腹の辺りの肉はやや垂れて、脚回りもずんぐり一・五倍に増量している。うちで飼われていながら野良猫同然の風来坊で、あちこちから餌をかっぱらって暮らしている恥知らず。
 まー坊のとこの魚正なんて毎日のように襲われるものだから、今じゃタマの来る時間になるとわざわざ店の前にタマ専用の魚を載せた皿を置いて被害対策しているほどだ。
 金色の両瞳が緑の闇の中で閃いた。
 ニャァァ
 手招くように挑発して、タマは体型に似合わない軽い足取りで石段を駆け上がっていく。
「待て! どこ行く気だ、タマ!」
 僕の足は簡単に石段から離れた。
 操られるかのように一段目へと足をかける。
 だが――
「真至!」
 ぱんっ、と両頬に痛みが走った。同時に、目の前から深緑の闇が払拭される。
「ッ痛……」
 タマの姿は見えなくなっていた。
 そのかわり、了ちゃんが怖い顔で僕を覗き込んでいる。
「了ちゃん、力入れすぎ」
 じわじわと熱くなってくる両頬をさすりながら、僕は本来感謝するべき了ちゃんを恨みがましく見つめた。
「正典の銅鑼声で目が覚めなかったのは真至だろう? これくらいは許してくれよ」
「分かってるけど……ほんとひたひ……」
「かわいそうに。了一のびんたは半日経たずにほっぺたが腫れるんだよなぁ」
「まー坊、そこまではたかれるなんて、一体何したの?」
 僕は何気なく問いかけたつもりだった。だが、まー坊は珍しく視線を泳がせて了ちゃんを振り返った。
「……なんだっけ?」
「僕が覚えてるわけないだろう? 加害者はすぐに忘れるものなんだから」
 了ちゃんが白を切っているのはすぐに分かった。
 十年の付き合いだ。了ちゃんがどんなに嘘をつくのが上手くても、僕には見抜くことが出来る。今のはそんなのを引き合いに出すまでもないけれど。
「さ、正典の痛い思い出なんかどうだっていいだろう? 風邪引く前に早く上に行って桜の花を楽しもう」
「了一、俺、もう寒い……」
「なら帰れば? 真至、こんな奴ほっといて行こう」
 了ちゃんは躊躇うことなく石段を上りはじめた。
「ううっ、冷たい奴」
 まー坊も駆け上がっていく。
 僕は、またしても彼らの背中を追いかけた。
 足は軽い。
 動かされているような気もしない。
 いつもそうだ。
 僕は彼らの背中ばかりを追っている。彼らに導かれて歩いている。
 この世界に来たときから。
 ニャァ
 どれだけ上ったんだろう。
 息を整えようと立ち止まった瞬間、何かが木陰から飛び出してきて僕の足に絡みついた。
「タマ……お前、本当にいたのか」
 ニャァァ
 黄金の瞳が上機嫌に僕を見上げる。
 否。
 奴が見上げていたのは僕ではなかった。
「あ……!」
 薄紅の花びら。
 頭上には、雨に負けじと風に踊る薄紅の絨毯が広がっていた。
 幻なんかじゃない。手を伸ばせば花弁が指にたくさん張りついた。雪のように消えることもない。
 石畳の終わりに立つ二本の石柱。その片方の側に寄り添うようにして、狂い咲く山桜の大木はあった。
「了ちゃん! まー坊!」
 思わず僕は上に向かって叫んだ。
「真至、しーっ」
 了ちゃんが上から駆け下りてきて、慌てて僕の口をふさいだ。
「タマまでいるのか」
 足元を見下ろして了ちゃんは困ったような表情を浮かべる。
「了ちゃん、桜だよ! ほんとに桜が咲いてる!」
「ああ」
 あれほど楽しみにしていたわりには、了ちゃんの反応は薄かった。
「何かあったの?」
 僕は重くなったタマを抱えあげて訊ねた。
「まあ、来いよ」
 言われるままに階段の隅っこよりを上っていくと、まー坊が桜の大木にへばりついて向こうを覗き込んでいた。
「何してるの、まー坊」
「真至、お前もちょっとだけ覗き込んでみろよ」
「え、ああ、うん」
 僕の記憶が正しければ、この向こうに広場とあの教会がある。
 おそるおそる僕は桜の幹から顔を出した。
「あった……!!」
 声は殺していた。
 けれど、抑えきれない驚きと喜びが声を震わせた。
「記憶の通りか?」
「うん。ここだよ。ここだ……」
 僕はここを知っている。  僕はここに来たことがある。いや、ここにいたことがある。
 山桜の大木。
 石段を駆け上がってくると、満開の桜の下で微笑んで待っててくれたお母さん。
 お母さん?
 ちがう。
 あれは僕の母さんじゃない。
 僕の母さんはもっと年を取っていて、いつも野良仕事の作業着を着ていて、所帯じみて疲れた顔をしている。それに、僕にはあんなに優しく微笑んではくれない。
「誰」
 呟いたところで、了ちゃんとまー坊にその人が見えているはずがなかった。
 僕の、知らない記憶。
 そう、あれは僕の知らない十年前以前の記憶だ。
 その記憶の蓋が今にも開こうとしている。
「だ……めだ……」
 僕はその記憶の蓋を開けにここに来たのだ。
 恐いと思いながらも来たくて仕方がなかったのは、僕が見つけられる前の記憶を全てここに置き忘れてきたからだと思っていたからだ。
 それなのに、僕は無理矢理蓋を押し閉じた。
「真至、無理するな」
 了ちゃんはぽん、と僕の肩を軽く叩いた。
 瞬間、僕はまた彼らの元に戻っていた。
「ありがとう」
 あのまま連れ去られるかと思った。
 連れ去られて、見ず知らずの記憶の中に閉じ込められてしまうんじゃないかと。
「おい、出てきたぜ」
 まー坊の手招きに、僕と了ちゃんはまた木陰からそっと広場の向こうを覗いた。
 よく見ると、その風景は記憶の中のものとはちょっと違っていた。
 広がった敷地のど真ん中の奥に佇む教会こそ変わってはいなかったけれど、その左右にもっと別の建物もあったはずだ。それに、中央の丈高い建物に掲げられていたはずの十字架は消えて、今はただの洋館になっていた。
 そして、その洋館の扉から黄色いヘルメットをかぶった作業着姿の人や、背広姿の大人たちが八人あまり、ぞろぞろと出てきた。
「静かにしろって、こういうこと?」
「そう。見つかったら厄介だろう?」
「そりゃそうだけど……あの人たちは?」
「さっきは入っていく背中しか見えなかったんだけど、正典、」
 人並みはずれて目のいいまー坊はじっと目を凝らした。
「えっと、あそこにいるのは了一の親父さんと……おい、あれ真至の親父さんじゃないか?」
「え?!」
 思いもしないことに僕も大人たちの方に目を凝らした。
 村の開発を掲げて二期目の当選を果たしたばかりの村長の左隣、心なしか肩を落として顔を伏せた父さんの姿が見えた。
「なんで?」
 父さんは村の開発なんかとは何の関係もないはずだ。村役場の職員でもないし、建設業者に勤めているわけでも、住宅販売会社に勤めているわけでもない。一人っ子だった母さんのとこに婿入りして、田んぼと林檎畑を世話するしがない農家だ。
 まして、村で一番この山を避けていたのは僕が見る限り父さんだった。
 訊ねることは愚か、耶蘇山の「や」の字でも口にしようものなら、心臓が縮み上がるほど鋭い視線が浴びせかけられる。
 村人の反応は純粋におどおどと恐れるだけだ。なのに、父さんの反応は恐れというよりも異常なほど怒気をはらんでいた。
 何より、なんとしてでも僕をこの山に近づけまいと戒め続けたのは父さんなのだ。
 僕が理由もなくこの山を恐れるのは、父さんの呪縛が効いているからかもしれない。
 その父さんが。
「どうして……」
 呟きだけが漏れ出したときだった。
「あ、こら、タマ!!」
 するりとタマが僕の腕を抜け出し、洋館の入り口の前に集まる大人たちの方へと駆け出したのだ。
 大人たちが振り返る。
 だが、僕はもうタマを追いかけて広場まで駆け出してしまっていた。
「真至!!?」
 悲壮な父さんの叫びが天を衝いた。
 ニャァァァァ
 タマが立ち止まって僕を呼ぶ。
 こいつ、馬鹿にしやがって。
 僕は了ちゃんやまー坊の腕を振り切ってタマを追いかけた。
 父さんが突進してくる。
 僕はその腕をすり抜けて。

 洋館の扉が開いた。

 するりとタマはその中へと逃げ込んでいく。
 僕は、一瞬だけ立ち止まった。
 警鐘のように雷が鳴り響く。
 近い。
 ニャァ
 短くタマが鳴いた。
「タマっ!」
 僕は洋館の中に踏み込んでいた。
「真至っ!」
「真至!」
「真至ーーーーっっっ」
 了ちゃんとまー坊と、それに父さんの叫び声。
「了一っ?!」
 そう、あと、聞いたこともないほど痛切な村長の悲鳴。
 全ては、落雷の轟音と光に飲み込まれて白い空ろになった。





←6月14日(金)(1)   書斎  管理人室  6月15日(金)(1)→