(3)
「らっららんっ、ららっ、ららっんら、らんっららっんららー」
きちんと片づけをして、氷和さんにまたぎゅっとしてもらったちびシンジはひどくご機嫌だ。身に余る長さの黒い傘を片手で振り回しながら、あどけない声で陽気に氷和さんに唱和している。
ちびタマも親子二人の斜め後ろを短い足でつかず離れずくっついてきていた。
「ご機嫌だなぁ」
さっきまでこの世の終わりみたいな顔していたのに。
「子供なんてそんなもんだろ。子供心と秋の空」
「女心だろ。まぁ正典にはまだ当分関係ないから覚えなくても問題ないと思うけどね」
了ちゃんは余裕綽々で二、三段後ろからついていくまー坊を振り返る。
「……了一、お前まさか……」
瞬時に蒼白になったまー坊に答えず、了ちゃんは逃げるように氷和さん達をも追い越して耶蘇山の石段を駆け下りていった。
「待て、了一っ!!」
再起不能寸前の表情のまままー坊もその後を追っていく。
「あーあ」
「どうしたの? 了一君と正典君」
振り返った氷和さんに僕は苦笑だけを返した。
昨日迷い込むようにして上った石段は、今は年月と雨に角を削りとられた跡もなく真新しく輝いている。
頭上を覆うように重なり合う森の木々はあいかわらずだったが、曇天を縫って差し込む午前の日差しは心なしか柔らかい。
今のこの山には人を拒むような気配が一切なかった。
さっき行き会った患者を見舞う家族達も、食料を配達する八百屋さんも、教会に礼拝に来た人も、皆当たり前のように石段を上っていった。すれ違うときには二言三言、氷和さんと言葉を交わして。
村にサナトリウムがあっただなんて聞いたことはなかったけれど、どんなところだったのかくらいは聞いたことがある。
この時代、BCGやツベルクリン反応なんかまだ普及していなくて、都市の汚れた空気が結核蔓延の原因だと思われていた。だから郊外の空気のよい高原や海辺にはたくさんのサナトリウムが作られ、治らぬ病にかかった患者達は皆そこに押し込められていったのだ。
少なくともテレビのドキュメントはそういっていた。
黒白のフィルムに映し出されるのは静寂と悲愴がないまぜになったやけに白い建物。
そればかりがやけに目にこびりついてイメージが先に進まないのは、どんなに番組が途中でも、気がつけば父さんにチャンネルを変えられているからだった。
ここは妙な場所だ。
患者達を世話する人は必要だろう。けれど、あんな小さな子がいるのにわざわざ敷地内に住む親がいるだろうか。
彼らは僕たちにも「病院にはあまり近づかないでね」と緩く戒めただけだった。
氷和さんたちだけじゃない。
さっき行き会った人たちにも感染するかもしれないという緊迫感が全くなかった。
親類が入院しているのならともかく、少なくとも何の関係もなく礼拝のためだけに気楽に入れる場所ではないはずだ。
そう。ここはサナトリウムと銘打っていながら、死の臭いがどこにもしない。
「……あるべきなのは」
僕たちの時代の耶蘇山が放っている人を遠ざける雰囲気。
あれは、人の死を抱えた山の雰囲気だった。
山と人と、双方が拒絶しあって生まれるもの。
それが、ここにはない。
急な階段の両端には鬱蒼とした森が続く。
ぱしゃ……っ
ふと、僕は水の弾ける音を聞いたような気がした。
「どうしたの、真至君」
もう石段を下り終わってしまった氷和さんとちびシンジは、こっちを向いて僕が下り終わるのを待っていた。じゃれあったまま行ってしまったのか、その先に了ちゃんとまー坊の姿はない。
考えているうちに石段の中ほどで立ち止まってしまっていたようだった。
「遅いぞ、にせものシンジ! 早くしろっ」
「だから偽者じゃないって!」
ぱしゃん……っ……
「!」
僕は音のした左側を振り向いた。
「い……け……? 池が、ある……?」
「あら、よく知っているわね。向こうにはすごく小さいけど池があるのよ」
聞こえていたのか氷和さんがそう言った。
僕の足は左側を向く。
「タマかも……しれない……」
どうしてそう思ったのか自分にもわからない。どうして向こうに池があると知っているのか、僕にも分からない。
だけど――
「僕、行かなきゃ。タマが溺れているのかも……!!」
僕は氷和さんの同意を得る前に石段から逸れて斜面を横切っていた。
もう、水の音はしない。
あるいはあれは、木々に生い茂った緑の葉から流れ落ちる雫の音だったのかもしれない。
池で溺れているというのなら、あいつはもっと足掻くはずだから。
それくらいタマは性根いじましい。
石段の外の山肌は連日の雨にぬかるんでいた。
靴から染みこむ気持ち悪い冷たさに奥歯を噛みしめながら僕は走る。
「タマ?! いないの、タマ?!」
ぱしゃぱしゃ……ん……
木立が途切れる。
その中には苔むした地面ともつかない森の色をそのまま映したこじんまりとした池があった。
向こう岸の水面には、今さっきまでそこに何かがいたのだと証明するように小さな波紋が残る。
「タマ……?」
呟くと同時に、向こうの茂みがかすかに揺れた。
白い衣の切れ端が視界を掠める。
「誰?!」
気配はもうなかった。
僕の声だけが梢に消えていく。
僕は池の外周をぐるりと回って、波紋の残っていたあたりにしゃがみこんだ。
猫の足跡らしきものなどどこにもない。
やっぱりただの勘違いだったのだ。
「何で僕があいつの心配なんか……」
ため息混じりに緑の水面を覗き込んだときだった。
「誰だ……お前」
水面に映った僕の背後に、一人の少女が映りこんでいた。
白い顔。
顔の造作よりも何よりも、僕の頭には病的なその白さだけが漠然と刻み込まれた。
幽霊……?
僕は水面に映った彼女を見つめたまま凝固する。
同い年くらいだろうか。
茫漠と白かっただけの顔に、薄氷のような、触れたら割れてしまいそうなほど繊細なつくりが浮き上がってくる。
少女は不機嫌だった。
「クランケじゃないんだろ? 見ない顔だものな。どうしてここに来た?」
「どう…してって……猫を探しに……水の音がしたから……」
しどろもどろに僕は答えた。
少女はさらに顔をしかめ、僕を威圧する。
「じゃあ、もう二度と来るな。ここはわたしの場所だ。それだけ約束しろ」
僕は振り返ることもかなわなかった。
昼間なのに薄暗いせいだろうか。
一気にこの場所が不気味なところに思えてくる。
それだけじゃない。
少女からは、色濃く死の臭いが漂っていた。
「返事はどうした?」
死神に魅入られた顔をしていた。
「聞こえてるのか?!」
僕は少女に襟をつかまれて立たされざま、振り向かせられていた。
息をのむ。
間近で見る実物は、水盤に映るよりもなお青白く透きとおっていた。
唇だけが血に染まったように赤い。
「あ……猫を……、猫を見かけなかった? 青みがかった灰色の毛をしていて、結構でっぷりしてるふてぶてしい奴なんだけど」
榛色の瞳がわずかに見開き、瞬く。
「なんだ、前澤の家の客か」
「え?」
「その猫ならタマのことだろ? ああ、そういえばさっきからタマー、タマーってお前の方が捨てられた猫のように呼んでいたもんな」
「なっ。僕は別にあんな奴いなくったっていいんだ。ただ、いつ戻れるかわかんないからここに置いていくのはかわいそうだと……」
余計なことまで口走りかけて僕は思わず口を噤む。
「ふぅん? でもあの仔猫はちびのもんだろ? ふてぶてしいが、別にでっぷりはしてないし」
なぜだろう。何かが僕の心にかちんと引っかかった。
反射的に唇がとがる。
「ちびっていうな!」
初対面のくせに鷹揚な口ぶり。でも、そんなものより何より、ちびという言葉に悔しさを感じた。
「あん?」
ちびというのが僕を指していないと分かっていても。
「僕はちびじゃない」
別の誰かが僕の口を借りて抗議しているようだった。
僕は肩を掴んだままの少女の手を振り払う。
少女は驚いたように、手持ち無沙汰になった手を片方ずつ交互に見返していた。
「何を勘違いしてるのか分からんが、お前のことじゃないぞ。少なくともお前はちびじゃないし」
「わかってる。あのちびシンジのことだろ? わかってるよ」
僕は逃げ出すように少女に背を向けた。
これ以上話していたら、僕は何を言い出すか分からない。
だって、初対面の相手に向かって御しきれない感情をぶつけるわけにはいかないだろう?
だけど、僕は知っている。
あのひとが誰か、知っている。
「待てよ。一方的に怒って変な奴だな」
「先に難癖つけてきたのはそっちだろ? この池だって君一人のものじゃないだろうに、もう二度と来るなとか言うし!」
知っているのに思い出せない。
すぐ側にこの人の記憶があるのに、手が届かない。
「この池はわたしのものだよ」
すかさず少女は僕の背中に言った。
「上にいる奴らは誰もここに池があることを知らないんだ。あのちび以外はな。だからここはわたしとちびだけの場所」
少女は微笑んだ。
僕は走り出す。
ぬれた落ち葉とぬかるんだ斜面に足を取られながら、僕は必死にそこから逃げだした。
これ以上あそこにいたら、僕まで死神に呪われそうな気がした。
胸に吹雪を吹き込まれたように、あのなぜか凄絶さを感じる笑みに僕まで凍りついてしまうかと思った。
森が途切れる。
曇天の下はそれでも山の中より日が当たる。
けれど僕は走り続けた。了ちゃんたちを見つけるまで、安心しちゃいけないような気がしたから。
山の入り口からのびる道路は、田んぼの中で唯一舗装されている。
僕らの時代には晴れていても不穏な空気が漂っていて誰も通ろうとしない道。
なのにこの時代には人が溢れていて、山の入り口近くにはバス停まで置かれていた。
これじゃほんとに異世界だ。
いや、パラレルワールドのようなものなのかもしれない。
だって僕は小さいし、母さんの名前は似ているけど違うし、タマはちっちゃくて痩せてるし、耶蘇山にはサナトリウムがあるし、この辺は活気づいているし……。
僕は、あの少女のことを考えないようにしようとしていた。
なくした記憶を手繰り寄せようとすれば、苦しさだけが先行してやってくる。
開けちゃいけないんだ。
昨日、洋館の扉の向こうに飛び込んではいけなかったように、もうこれ以上深入りしちゃいけないのだ。
「あ、真至!!」
知らない世界。そう思っていたのに、村の中心までの道のりはちっとも変わっていなかった。
気がつけば村で人が最も集まる商店街。内陸に似つかわしくない生臭い潮の香りは、目の前の魚正から漂ってきていた。
その前に、ちびシンジの手を引いた了ちゃんとまー坊が置いてきぼりをくったように突っ立っていた。
「了ちゃん、まー坊!」
「どこ行ってたんだよ! 氷和さん、真至のこと探しに戻っちゃったんだぞ。山の中で迷っちゃいけないからって」
「ええっ? 全然行きあわなかったよ」
「あちゃー。すれちがっちゃったんだ。了一、どうする?」
「どうするって……どうしましょうか、氷菜さん?」
了ちゃんは不意に背後で魚を物色していた客を振り返って訪ねた。
「氷菜……?」
買い物籠を腕にかけた少女は一瞬だけ振り向く。
その顔は、母さんの面影を色濃く宿していた。
氷和さんよりも、ずっとよく僕の母さんに似ている。
「んー、ちょっと待って。今日のおかず、鮭の切り身とあじとどっちがいいか考えてるのよ。邪魔しないで」
何かに集中しているときに邪魔されるのが嫌いなところもよく似ている……。
「どっちでもいいでしょ、氷菜叔母ちゃん。それより僕、あっちのおもちゃの露天見たい」
待ちくたびれたようにちびシンジが言うと、少女の背中に見覚えのある燃えるような威圧感が立ち上った。
少女はくるりと振り向いてちびシンジの前にしゃがみこみ、両手でほっぺたをつまむ。
「真至くーん? お姉ちゃんって呼びなさいって、何回言ったらわかるのかなー?」
「ふ……ぇ……」
ちびシンジが涙ぐむ様は、なんだか他人事とは思えない。
「お姉ちゃんはまだ十四歳なのよ〜? 確かに血縁上は叔母さんだけど、こんな若いお姉さんをおばさんって呼んだらかわいそうだと思わない?」
怖い……さっきの幽霊少女とはまた違った怖さが……。
男の意地なのか、泣くのを堪えて顔を真っ赤にしていくちびシンジがいたたまれなくて、僕は了ちゃんに助け舟を求めた。
「了ちゃん、この人は?」
「あ、ああ。氷菜さん、氷菜さん、」
珍しく茫然と雰囲気にのまれていた了ちゃんが我に返って少女の肩を叩く。
少女は無理矢理貼り付けた笑顔のまま僕の方を振り返った。
「あの、はじめまして」
なんだかその言葉には違和感があったが、少女は気にした風もなくすっくと立ち上がる。
「はじめまして。あなたがもう一人の記憶喪失の人ね。姉も物好きよね。いつも厄介ごと引き寄せてくるんだから」
「は、はぁ。すみません」
僕は苦笑を浮かべて了ちゃんとまー坊の顔を交互に見る。
二人ともやはり苦笑を浮かべていた。
「それで名前は? あたしは田村氷菜。あなたは?」
僕は、思いきり目の前の母さんそっくりな少女を凝視していた。
田村、氷菜。
僕の母さんと同じ名前だった。
母さんは父さんを婿に迎えているから苗字は変わっていない。田村姓のままだ。
……いやだ……僕の母さんがこんな子だなんて……。
くずおれそうになった僕をまー坊が支える。
「こいつは田村真至って言うんだ。奇遇だよなぁ。あんたとちびシンジ足した名前なんだから」
「田村真至? それはまた、たいした奇遇だわね」
母さん――いや、認めたくないからあえて氷菜さんと呼ぼう――氷菜さんは冷たい視線で僕をねめつけた。
ちびシンジ……お前、一体この人に何をしたんだ……?
ちらりとちびシンジを見下ろすと、ちびシンジはとうにけろっとして魚正の店頭に並んだ魚をしげしげと見て回っていた。その小さな頭を中から出てきた大きな手が包み込む。
「お前の叔母さん、相変わらずおっかないなぁ」
からからと笑いながら現れたのは二十歳前後の青年だった。
僕はまー坊を盗み見る。
まー坊は一瞬だけ驚いていたが、すぐににやりと笑って囁いた。
親父だ、と。
「氷菜ちゃん、今日のおかずは決まったかい?」
背の高い好青年。笑顔はどんよりとした梅雨空を吹き飛ばすほど爽やかだ。
「じゃあ、遼二さんがおまけしてくれる方で」
ちょっと頬を赤らめた氷菜さんがにっこり小首を傾げる。
思わず僕たちは互いの顔を寄せ合った。
「歴史が変わるんじゃない?」
嬉しい僕がすかさず言うと、まー坊はあからさまに嫌な顔をした。
「んな馬鹿な。まだ出会ってないだけだって。俺の親父とお袋は見合いして三ヶ月で電撃結婚なんだから」
「えー、でもわかんないだろ。この世界、似てるようで結構常識違うし」
「まぁ、もし氷菜さんが正典のお父さんと結婚したら、少なくとも正典は生まれてこないことになるな」
「げっ。それは勘弁。俺はなんとしてでも阻止するぞ!!」
まー坊は小さく拳を握りしめると、ずいと二人の間に割って入った。
「氷菜ちゃん、氷菜ちゃん、アジにしときなよ。アジならちょうどこれからが旬でいつもよりおいしいよ。ね、旦那?」
遼二さんは素直に感嘆した。
「おお、分かってんじゃねぇか、坊主。よしきた。氷菜ちゃんのために一匹サービスしてやらぁ」
「ありがとうございます。それじゃ二匹くださいな」
「一匹おまけで三匹だな。毎度ありっ」
誉められたまー坊はふふんっと胸をそらす。
「中田君、魚に詳しいの?」
「ふっ。まぁね。晩御飯に困ったらいつでも呼んでくれ」
「ご馳走までしなきゃならなくなりそうだけどね」
「まさかまさか。そこまで図々しくはございませんっ」
いつのまにかまー坊と氷菜さんは和やかに魚の話に花を咲かせ始めていた。
案外気があうのかもしれない。
「まー坊が父親は……やだなぁ」
「はは。それはないない。安心しなよ、真至。僕たちはきっと戻れるから」
さりげなく了ちゃんは言ったが、その言葉はさっきと同じく確信に満ちていた。
「ねぇ、了ちゃん。了ちゃんはもしかして……」
これから何が起こるのか知っているんじゃないの?
そう聞こうとしたとき、はす向かいの通りから荷物が崩れるような重々しい音と同時に、若い女性の悲鳴が上がった。
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