雨降り館あめふりやかた



 幼い頃、そう、もういくつのときのことだったかも忘れてしまったけれど、僕は確かに 見たんだ。
 しとしとと小雨が降る梅雨の入り、霧が立ち込める濃緑の山に一点、ひっそりと花開く 紅の山桜を――






6月14日 (金)  晴れのち雨

(1)

 外は雨が降っていた。
 とはいえ、朝から降っていたわけじゃない。つい今しがた降りはじめたのだ。
 ついてない。
「気象庁め。いつも予報を外すくせに」
 テレビ局やラジオ局は苦情が減ると喜ぶかもしれないが、僕にとっては面白くないことこの上ない。
 あと三十分、もってくれればよかったのだ。
 受けられもしない授業が終るまで、あと三十分。
 そうすれば、僕は今日こそあの山の謎を解くことができたかもしれなかったのだ。
「そう怒るなよ。まだ小雨だし、もしかしたら授業が終る頃にはあがってるかもしれないだろ?」
 先生に言われたとおり生真面目に両手にバケツを持った了ちゃんがのんびり宥める。
「でもそろそろ梅雨だろ? もしかしたら入梅したのかも」
 顔も上げずに言ったのはまー坊。
 とうにバケツ二つを放り出し、しけった木造廊下に座り込んでザーザーとしかいわないラジオを熱心にいじくっている。
「それ、自作?」
「そ。記念すべきマイラジ2号。徹夜でつくったんだぜ」
 二台目で記念すべきも何もない気がするが、まー坊は得意満面で僕の前に掌サイズの黒い箱を差し出した。
 チューニングがあっていないのか、相変わらずラジオからはひどい騒音が流れ出している。その音は雨足を強めはじめた外の鬱陶しい音とよく似ていた。
「まー坊、そんなの学校に持ってくるから立たされる羽目になったんだよ」
「学校に来ただけ俺、偉いじゃん。ほんとは家で細かいとこ調節したかったのにさー。了一、お前安藤と同じ名前なんだから、そんなにがみがみ言うなって言っといてくれよ」
 まー坊はちらと背後の教室の窓を振り返って安藤がいないことを確認すると、ポケットから精密ドライバーを取り出してラジオの蓋を開けだした。
「ちょっと、まー坊!」
「だーれも見てやしないって。大体、了一みたく真面目にバケツに水汲んで立ってる馬鹿がどこにいるってんだ」
「ここに」
「だから、馬鹿は了一一人でいいの」
「別に僕だって何も考えないで突っ立ってるわけじゃないんだよ。バケツ持って立ってるだけでも多少は腕の筋力向上につながると思えばこそ、熱心にやってるんじゃないか」
「たった三十分やそこらで向上するんなら、どこの運動部もバケツもって筋トレするだろうさ」
「正典はそれで鍛えたんじゃないの? 『廊下に立ってろー』の安藤の授業でばっかり何かしら問題起こして率先して廊下に出て行くのは、てっきりバケツを持ちたいからだと思ってたんだけど。違うのかい? 野球部の剛腕ピッチャー殿」
 まー坊は恨めしげに了ちゃんを見上げた。
「教師のくせに生徒に授業を受けさせない安藤って、生徒会で問題にならないの? 生徒会長殿」
 不毛な二人のやり取りから逃れるように、僕はまた窓の外に視線を移した。
 雨は強くなったり弱くなったりを繰り返しながら窓ガラスを少しずつ濡らしていく。時にがたがたと風が窓を枠ごと揺らして、穏やかに流れ落ちていた水滴の軌跡を歪ませていった。
 その向こう。
 山がある。
 緑の常緑樹に覆われた小高い山だ。
 今は山の天辺に少し灰色がかった白い霞がかかっているが、それほど高く険しいわけじゃない。せいぜい丘がちょっと進化したようなものだ。
 僕は見えないと分かっていて、その山の中腹に目を凝らした。
「出た? 桜」
 どっちが先に愛想を尽かしたのか、了ちゃんが僕を覗き込んだ。
「出た? って、お化けじゃないんだよ」
「お化けみたいなものじゃないか。六月の梅雨時になると花を咲かせる桜なんて」
「そりゃそうかもしれないけどさ」
 お化けと同じものだとは思ったことがなかった。
 村のみんなは今の僕のようにちょっと遠くから眺めることしか出来ないから恐怖心も手伝っておかしな想像をするのかもしれないけれど、僕は実際にその花を間近で見たことがあるのだ。
 あの山の中腹はちょっとした平地になっていて、真ん中には高々と十字架を掲げた教会がある。その左には二階建ての小さな洋館が、右には学校の校舎のように横長の洋館が一つずつ隣接していて、広場を挟んだ南側の向かい、教会と山道との入り口に一本、大きく枝を張り出した山桜が立っている。
 そう、あの紅い点の正体が山桜だと知っているのも、知っている限り僕だけだ。
 だから、誰も僕の言うことをまともに信じてくれる人はいやしない。
 だけど確かに毎年あの山の半ばには梅雨に赤く色づく花が咲くのだ。
 今も、ほら。
「咲いた……」
 目がおかしくなったのかと一瞬思った。
 だが、今確かに白い靄の中にぼんやりとピンク色をした灯が点ったのだ。
〈東北地方もようやく入梅した模様です〉
 やけに鮮明にラジオから男のアナウンサーの声が飛び出した。
「やった! これでオッケー」
 ラジオを掲げ持ってまー坊が立ち上がる。
「やれやれ。これでまー坊のラジオ熱も下がるね」
「まだまだ! 次は記念すべきマイラジ3号の製作に取り掛からねば。今度はもっと小型にするんだ」
「今のでも充分市販の物より小さいだろ?」
「ちっ、ちっ、ちっ。甘いよ、田村真至君。技術者たる者、常に最小軽量化を心がけねば。そしていつか世界に羽ばたく極小ラジオを作るんだ!!」
「ラジオよりテレビの方が売れると思うけどな」
「いーや。ラジオは不滅だね。何てったって深夜番組が面白い。ラジオは夜更かしの友だ」
 なるほど。
 野球一辺倒だったまー坊がラジオにはまったわけはそれか。どうりで授業中の居眠りも増えるわけだ。
「だからって自分で作んなくたって……」
「正典の住んでるあたりは電波悪いんだよ。最近高層マンションが近くに立っちゃったから」
「ああ、ベッドタウン開発構想とかいう奴か」
 世間は高度経済成長真っ只中と浮かれていて、県庁所在地に隣接するこの村も最近では建設業者の出入りが著しい。手はじめとして建てられたのがまー坊の家の近くの二十階建 てのマンションだ。だが、村一番の商店街の近く、モダンを追求したと謳うマンションも遠くから見れば山に囲まれた真っ平らな田園の中に取り残された滑稽な恐竜のようだった。
「そ。あれのせいで肝心なとこが聞こえないんだよな。だから自分でもっと感度のいいラジオ作ろうと思ってさ」
 まー坊はゆっくりと首を回しながらラジオをポケットの中にねじ込んだ。
「さてと。了一、授業終るまであと何分?」
「まだ二十分もあるね」
 中学生に似つかわしくない大人ものの腕時計を確認して、了ちゃんはうんざりしたようにバケツを下ろした。
「お前、筋トレはもういいの?」
「疲れた」
「じゃあ、俺達だけ先に授業終わりってことで」
 まー坊は教室の方を確認もしないで廊下を昇降口に向かって歩き出した。
 了ちゃんもバケツを片付けもしないで後に続く。
「ちょっと、了ちゃん! まー坊!」
「真至、行くぞ、耶蘇山」
「えぇっ!? 雨降ってるのに?」
「桜咲いたんだろ?」
「でも……」
 本当は、僕一人で行こうと思っていたんだ。
 あの山、耶蘇山は立ち入り禁止の山。本来ならその名前を口に出すことすら村人の間では忌まれている。その理由は、僕達中学生世代だと誰も知らない。訊いてもいけないし、興味を持ってもいけなかった。そう言われれば、逆に僕達くらいなら誰しも興味を掻きたてられるものだけれど、実際、同級生の中で話題になることはほとんどなかった。
 そう、話題になるとすれば、この季節、雨が降りだすと授業中にもかかわらずぼんやり窓の外を眺めてしまう僕が、安藤に指されて廊下に立たされるときくらいだ。
『あいつはあの山にとり憑かれてるんだよ』
 陰でそう噂する同級生がいることも僕は知っていた。
 年代に関わらず、あの山は不入山いらずやまとも呼ばれるくらい村の中で忌まれているのだ。
 そして僕自身、あまりこの村に受け入れてもらえている気がしない。
 特にこの入梅の季節ともなれば、了ちゃんやまー坊が側にいても心のどこかに隙間風が吹くのだ。
 ここは僕の居場所じゃない、と。
「真至! 行くのか? 行かないのか?」
「行かないなら俺と了一で梅雨の桜堪能して来るけどな」
 了ちゃんとまー坊は皆が奇異な目で見る僕を受け入れてくれている。ちゃんと居場所をくれている。梅雨に桜が咲いていると言っても、怪訝な顔をしたり嫌そうな顔をするどころか、僕が心の中で求めたとおり、面白そうにちゃんと話を最後まで聞いてくれた。
 彼らにとってはあの山はタブーではないのだ。
 怖いなどとはおくびにも出さず、ああやって率先して僕を連れて行こうと手招いている。
 ほかの子達とどこが違うのか、もう彼らと付き合って十年になるけど僕は未だによく分かっていない。
 まぁ、一人が廊下に出されれば芋づる式に自分から何か問題を起こして(了ちゃんの場合は堂々と手を挙げて許しをもらって)廊下に出ておしゃべりに興じるような奴らだってことくらいは分かっているけれど。
 僕はちら、と教室のすりガラスの向こうを透かし見た。
 教室の中を歩き回りながら国語の教科書を音読をする安藤の声が聞こえる。
「怖いのか? 真至。十年前、自分が見つけられた場所だから」
 冷静な了ちゃんの声は僕をどきりとさせた。
「大丈夫だって。神隠しなんて大人たちの戯言だ。たとえそうだったとしても、一度返した奴をまた攫うなんて野暮なこと、山の神様ならしないだろ」
 耶蘇山を不入山と呼ぶようになったのは、行方不明だった僕があの山で見つかってから、というわけではないらしい。
 そのずっと前から村人達は恐れている。
 そうでなければあんなに村の隅々まで箝口令が行き届いているわけがないのだ。
 僕らの知らない何かが、昔あの山であったはずだ。
 僕の心象風景に眠るあの山の中程、空高く掲げられた十字架を冠した教会と二つの建物、入り口で出迎える大きな山桜。
 それらはきっとあの山がキリスト教の意味を持つ耶蘇を冠して呼ばれるのと無関係ではないはずだ。
「そうそう。なに、三人で行くんだからいざとなっても何とかなるよ」
「それ、ものすごく根拠ないね」
「なに言ってんだ。俺と了一がついてってやるんだぞ。心強いことこの上ないだろ」
 心の中の隙間風がぱたりとやんだ。
 吹き穴がなくなった心は温かさに膨張し、僕は溢れ出てきた笑いを静かに喉元で押し殺した。
「授業参観じゃあるまいし」
 僕は恐かった。
 だから、気になっていながら七年もあの山に近づくことさえできなかったのだ。
 なにが恐いのかは分からない。もしかしたら村人達と同じものを恐れているのかもしれない。
 本能が、近づくことを拒否していた。それなのに、やはり本能で知りたいと思うのだ。
 あの山に何があるのか。
「わかった。行くよ」
 僕が一歩踏み出したとき、背後で勢いよく窓が開いてにゅっと手が伸びた。
「田村、どこに行くんだ? 小川、中田! お前達も何をもう帰る気でいる!」
 安藤の怒声は雷と一緒に落ちた。
 あまりの光と音に目がくらむ。
 だが、おとなしく安藤に首根っこを掴まれたままでいるわけにもいかなかった。
「せんせー、お先にさよーならー」
「安藤先生、ずっと立っていたら貧血になってしまったみたいで。すみませんが今日は早退します」
 あっけに取られて言葉を呑む安藤を僕は見上げた。
「すみません。後で補習なり何なり受けますから」
 鬼の腕のように太い腕を振り切って、僕は一心不乱に二人の後を追って走り出した。
 ぎしぎしと床板が悲鳴を上げる。
 高層マンションより先に学校を建て直すべきだろう。
 そんなどうでもいいことを考えているうちに、僕は雨の降る校庭へと転がり出ていた。




書斎  管理人室  6月14日(金)(2)→