■保存鉄道への道
明治村にある12号機関車(昭和32年10月12日付廃車)の保存を昭和38年頃に手がけました。
岩倉の車庫の中に保存してあったものを用は無いというので壊すということでした。しかし、これは大事だから何とかして保存して下さいということで、鉄道友の会名古屋支部で名鉄の社長さん(故・土川元夫氏)にお願いしたのです。
幸い「分かった」ということで犬山ラインパーク(現・犬山モンキーパーク)に(静態)保存したのです。そのおかげで今日、明治村のSLがあるのです。
この前、JR西日本の本を見ていたら、「義経号」が現在動く最古のSLであると記述してありました。これは間違いでして、12号の方が古いのです。
保存すると言うことは、それ自体は単純なのですが、そういう古い鉄道文化財に対して価値があるという事に、ほとんど誰も気づいていなかったのに対して気づいたという事、さらにそういったものを捨ててしまうのではなく保存するという活動は新しい動きでした。
結局、12号が動き出すのは大井川鐵道の2109号の動態保存よりも後になってしまいました。
昭和37年くらいに明治村の計画が始まりました。ここでは最初から鉄道の計画があって、私も鉄道の計画の委員になりました。ですから、明治村の12号の鉄道建設、それから京都市電の動態保存については私も功労者の1人であるということが言えるわけです。
京都市電は私が京都から持ってきました。西尾の車庫で保管しましてね…。
12号の方もいろいろありました。例えば連結器が鎖連結器(チェーンバッファ)で、これが残っていなかったのです。
これは当時淡路交通(現在はバス路線のみ)から手に入れました。淡路島が離れ小島であったために、まだ鎖連結器が残っていたのです。そこで淡路交通の重役さんに「お金は相当かかってもいいから、鎖連結器を分けて下さい。」とお願いしたら、「そういうことであればお金は頂けません。ただで持っていって下さい。その代わりに『淡路交通寄贈』ということを書いて下さい。」ということでした。その重役さんが立派なのに関心しました。
そうして淡路交通から鎖連結器を頂いて、12号と蒸気動車に取り付けました。今、12号、客車、蒸気動車、尾西の1号に鎖連結器がついていますが、これらのうち幾分かは新品(レプリカ)です。
最近では誰にも知られていないのですが---知られていないことそのものがよろしくないと思いますが---12号のボイラーの煙管が腐食してしまって、新品のボイラーに変えたのです。その新品のボイラーは、昔のランカシャーボイラーとは全く設計が違います。すると正しい意味での文化保存にはならなくなってしまうわけです。極端にいったら---私たちボイラー屋から言うと---中身はディーゼルエンジンでも同じだと。そういうことで名鉄の杉山さん(杉山孝雄副社長)にお願いをして、はずしたボイラーも明治村に展示してあります。しかしその価値や、どういう意味を持っていていかに大切であるかということがわかる人が全然いません。
戦中・戦後でも(名古屋工業専門学校の)機械工学科の一番大切なことは、飛行機よりも蒸気のボイラーであったわけです。何をおいても蒸気ボイラー、蒸気機関ができない人は機械工学卒業とは言えないと。こういうことで私もランカシャーボイラーから始まって、多管式ボイラーまでいろいろ勉強させられました。それが蒸気機関車の保存に対して結構役に立ちました。
なぜ機械工学科へ行ってボイラーを勉強したかというと、蒸気機関車が好きだったからこれを選んだということです。それが大井川鐵道や明治村の蒸気機関車の保存につながったのです。
■海外に学ぶ
保存の大きな原動力となったのは海外との交流でした。もしそれが無かったなら、やりたいなあというくらいは考えても、決してやるという決断はできなかったであろうと思います。
これは本当に大変なものです。アメリカ、イギリスだけじゃなくて貧乏なニュージーランドとかオーストラリアはもちろんのこと、東ヨーロッパ諸国も保存を行っています。やはり文明先進国なんですね。やっているということはそういうことに対して価値観を持っているということです。
そういうことを海外からさんざん吹き込まれまして、それで私も理解して日本もやらなくてはいけない、あるいはやってもいいと考え、保存を始める決断をするに至ったのです。
■2109号保存へ
大垣市(岐阜県)の西濃鉄道で2100形のSLを廃車にするということになりました。西濃鉄道もこれは文化財だからということで、かなりがんばって保存していました。しかし株主からは---当時はまだ鉄の値段が高い頃でした---屑鉄にすれば相当なお金になるというこことで、それに対して鉄道友の会があの手この手でサバイバル活動を行ったのですが、どうしても廃車せざるをえないということになりました。
そこで私が大井川鐵道の重役会に図りました。「まあ、騙されたと思って一度これを大井川鐵道に持ってきて走らせませんか?」と。そこで、「やってみるか」ということになりました。
昭和45年7月、2109号は大垣から東海道本線を通って大井川鐵道に来たのです。
これが日本人の情けないところで、2109号が大井川鐵道に来て、「文化財が来た」ということで新聞に出たのが大垣の教育委員会の目に止まりました。すると「西濃鉄道がなぜ国宝級のものを静岡県へ売るんだ、けしからん。」と。ところが「なんとか大垣で保存できないか」とさんざん言ってきたのです。そのときは「屑鉄のどこが文化財だ」と言っていた先生方が、新聞に出したら「けしからん」と。もうそのときには既に遅しで戻すわけにはいきません。このあたりが保存の価値観の問題で、その当時、産業考古学とか産業考古物とかいった概念が無かったのです。
■SLのコレクション
2109号の保存を始めてみましたら、これが産業考古学的価値観ではなく、物珍しさ的価値観でNHKが取材に来ました。
それからコレクションがどんどん進みました。昭和46年には(井川線で)ドイツのクラウス(17)、コッペル(1275)、そしてイギリスの2100形(2109)で3重連をやりました。
そのころは日本人もそういうものを大事かなあと思い始めたころなのでしょうか?
その頃から本線で走らせようと言うことを言い出しました。しかし、これは非常に迷いました。やはり1億円単位のお金の出入りがあるというわけですから、ちょっとやってみるかというわけにはいかなかったのです。
■An Old Dream Comes True
昭和46年、私はイギリスの保存鉄道を見に行きました。その前からもいろいろ教えてもらっていたので、こういった世界が盛んで、価値観を持っていると言うことまでは分かっていました。
イギリスで実際のことを見たり聞いたりしてきて、まあ、なんとかやっていけるかなと、いけるという自身は無かったけれども、いけるのかもしれないという見当をつけることが出来ました。
そのときイギリスで、「Operatingにはあまり比重を置くと顎を出しますよ」と言われました。「むしろほかのものに重点を置きなさい」と。つまり、Drinking、Eating、Camping、Shoppingその他いろいろなことで儲けることを中心にしてTrain
Operatingの方は最小限にしないとやって行けませんと。
ところが大井川鐵道では少しだけというわけには行かないのです。金谷から千頭まで40Km近く行かなくてはいけないので迷ったのです。しかし概念としてその他いろいろなことをたくさんやろうということは良い勉強になりました。ですからはじめからSL酒を作ったり、SL弁当を作ったりしました。
大井川鐵道では最近1日3往復という日が大分増えました。そうすると蒸気機関車が途中ですれ違う、あるいは千頭の駅で2本の煙が上がって2つが行き違うということがあります。するとこれは「Old
Good Days」だなあという感じがするのです。
ですから、蒸気機関車の本線運転は大井川鐵道のオリジナルで始めたのではなく、イギリスの真似をして始めました。その経営的判断はイギリスに学んで行ったのです。
大井川鐵道は創立以来蒸気機関車で輸送を行っていたので、蒸気機関車の運行には都合が良かったのです。それで、やってみたら順次お客さんが増えてゆきました。興味があるのは客種が老若男女、幅が広いということです。それからどういう価値観で来ているのかなかなか見当がつきません。従って、今後お客さんが減るのか増えるのか分かりません。しかし今ではほぼ安定してお客さんがあります。
これも正しいのかどうかは全然わかりませんが、私がリタイヤしないうちはなるべく原型を保ちたい、そしてピエロ化したくないと。
特に自慢したいのが、オハ35という客車です。これが戦前の良き日本の頃から戦中のものの無い頃、系列全部を保存してあります。大井川鐵道ではかたくなに原型を守っているのです。これだけ見てもまさに産業考古学なのです。例えば部品とか、板一つ見ても戦前の良き時代、満ち足りた時代、戦争中のものの無い時代、戦後になるとトイレのホウロウの表示板がプラスチックになるとか。見事に時代の変化を映しています。これはなんとか−−案外価値の分からない人が多いおかげで−−盗まれていません。これはできたらそのまま残したいと思います。
▲今の鉄道車両ではもう見られない(オハ35
857)
大井川鐵道では今でも古き良き時代を生でくみ取ることができますし、沿線では蒸気鉄道を中心にした生活がまだ生きています。
つまりイギリスの保存鉄道(Preservation Railway)並になってきました。
■オールドパワーの活用
このSL列車の運転に合わせて中高年パワーの活用を考えました。SLおじさん、SLおばさん、機関士、補修などで活躍しています。これは生活のためではなくて生き甲斐としてやっているところに価値があり、中高年の生き甲斐の一つのモデルとなっています。
これは欧米の保存鉄道のボランティアとの中間と言ったところです。
SL運転については、この他にもタイ国よりC56形SLの帰国や、阿里山鉄道との姉妹化の経過など、興味あるお話がたくさんありますが、今回は省略します。
■アプト式鉄道の発端
アプト式鉄道の計画は、昭和45年くらいの、私が大井川鐵道に行った当時から始まりました。長島ダムを造るために線路が沈むということになったのです。そのころからいよいよマイカーが実質的に実力を得る時代になてきて、軽便鉄道というものは時代遅れの最たるものとなってきました。そのため、ダムが出来れば井川線は廃止にして、すばらしい道路を造りましょうということで、話がかなりまとまりかけていたのです。しかしそれはちょっと待って下さいと。法律では−−長島ダムは国が造るのですね−−国が造るダムで沈む学校、病院、道路、鉄道は機能を代替するだけのものを造るという国の法律があるのです。時代遅れだからと言って鉄道をやめてしまうというのでは地元は後悔をしますとということで、鉄道存続運動というのが起きたわけです。というより起こさせたのですが。パノラマカーの時と同じです。それで存廃で随分もめました。
その時、私が良心的にかなり心配したのは−−今度の付け替えで100億円で付け替えたのですが−−アプトが出来れば良いというものではなくて、本当にみんなのためにならなくてはいけないということです。やったとたんに大赤字で、3年経ったら全部やめてしまったといったらこれは良心的に良くないわけです。このへんをどのように判断するかは大変に難しいところなのですが、とにかくやめては損だということでみなさんの意見が一致したわけです。
その途中で石油ショックになりました。そこで、「いや待てよ、動くものは車ばかりではないな」ということで、俄然勢いづいて残ることになったわけです。しかし、残したとしても必要のないものを残しては、当然、歴史的必然ですぐ消えてしまいます。そこで何か価値のあるものを求めなければなりませんでした。ただ残しただけでいずれやめてしまったのでは、100億円は国家的な損失になってしまいます。そこでアプト式鉄道が出てきたのです。
■スイスとの姉妹鉄道縁組
その間の1977(昭和52)年、スイスのアプト式鉄道(BRIENZ-ROTHORN鉄道)と姉妹鉄道になりました。どうして姉妹鉄道になったかというと、この原点はスイスにありました。スイスは戦前、イギリス人の観光客で儲かっていました。また、戦前はアメリカ人の観光客で生計を立てていました。しかし1970年代になるとだんだんアメリカ人の姿が少なくなってきました。しかも来た人がお金を落とさなくなり、これは大変だということになりました。
そこでこの次にお金が余るのは日本らしいと…。そのへんのインスピレーションですね。それで、日本にスイス政府極東観光局を1975年くらいに創り、そこでいろいろなキャンペーンを行ったのです。その中でどうもスイスのアプト式鉄道は大井川鐵道とよく似ているのではないかということになりました。それでは姉妹鉄道になったらどうかということになりました。これも結婚みたいなもので、一気に成立してしまいました。これも一つこじれると、スイス人もドイツ系だから屁理屈を言うのです。つまり、大使館が良いと言ったと思ったら、今度は観光局がだめだと言うとか、両方良いと思ったら、相手の地元が反対だとかです。ところがこの姉妹鉄道化のときには不思議とうまく成立したのです。
そしていろいろな議員先生などの人々をスイスへ連れて行き、アプト式鉄道を見せました。それでアプト式というものはいいなあということで、井川線もアプト式鉄道にすることになり、「アプト式鉄道期成同盟会」というものができたのです。なんだか「やらせ」の犯人みたいになってしまいましたが、まさにその通りですから仕方がないですね。パノラマにしろアプトにしろ。
そして10年かかって平成2年に大井川鐵道のアプト式鉄道が完成したのです。
■本物の観光鉄道
スイスの立派なのは、さすがに観光で100年以上生活してきた国だけあって、観光というものを十分に理解しているということです。我々もスイスと姉妹鉄道になって1992年でちょうど15年になりますが、毎年欠かさず人を派遣しています。初めは私が行っていましたが、飽きてしまったのと、後継者に行かせないといけないということで、今は若い人を行かせているのです。その15年で私が一番感じたのは、スイスの観光鉄道というのは付け焼き刃ではなく、本物だと言うことです。ですから我々が何度行っても無意味であるからもっと若い人を行かせなければなりません。若い人に勉強させなければ、とても10年や20年ではあの本物の観光の対応というものは出来ないということが分かりました。
本当にスイスと姉妹鉄道になって良かったと思います。未だにとてもかないません。
■21世紀を目指す姉妹化・トラスト活動
スイスのほか、シェイ式SLで有名な台湾の阿里山森林鉄道(注:文字コードを「繁体字中国語にしないと画面に表示されません)とも姉妹化し、交流していますが、このような国際的関係は21世紀にこそ花開き、実を結ぶものと楽しみにしています。
私は種を蒔いた人というわけです。
また、大井川鐵道では昭和62年より日本ナショナルトラストと協力して、市民の所有するC12形SLと客貨車の保存運転を引き受け(車籍は大井川鐵道)、また産業考古学会や日本鉄道保存協会の幹事を引き受けていますが、これらの文化的な活動も21世紀には必ず価値が出てくるものと信じています。
■日米電鉄比較論
今、私が関心を持っているのは、日本の電鉄技術が主としてアメリカから技術移転をしたものであるため、日本の古い私鉄電車とアメリカのトロリーミュージアムに動態保存中の電車に共通点が多いということです。
アメリカには多くの電鉄歴史協会があって、その技術史、特に1920年以前については日本より遙かに充実した研究があるほか、多くのトロリーミュージアムで明治期の電車を今でも走らせています。
私は名鉄のモ510形をカリフォルニアのオレンジ鉄道博物館に寄贈し、保存することを願っていますが、ここには100両近いカリフォルニアの電車の一大コレクションがあり、名鉄デキ300形のそっくりさんが−−勿論向こうが元祖ですが−−今でも走っています。
面白いことに車両のナンバーの字体は多くが名鉄と同じ「ボールドローマン」です。
西海岸にはブッシュ大統領の別荘地のあるケネバンポートに世界で最初、最大のトロリーミュージアムがあります。
そしてAMM形エアブレーキは、名鉄でもアメリカでもたくさん使われてきましたし、瀬戸電の使ったGE58形というモーターはアメリカでも各所で使われ、近鉄奈良線のデボ1形の元祖そっくりさんもアメリカで生まれました。
私はこれらを素材情報として、日米の電鉄技術者が協力し、両国の電鉄技術比較論、技術移転史研究の着手を提唱し、その口火を切りたいと考えています。
余談ですが、明治・大正の関西の電鉄はアメリカ並であったのに対し、関東は随分遅れていて、アメリカに比較すべき見るべきものが少なかったというのは事実です。
■保存鉄道としての問題点
大井川鐵道は観光鉄道でもありませんし、博物館でもありません。経営主体が利益を求めるという企業なのです。ですから−−今はなんとかやっていますが−−やって行くことができなくなったら、一番初めに保存鉄道としての部分がだめになるという弱点があります。現在、既にそれが出ているのは2109号の蒸気機関車です(現在は動態に復元後、日本工業大学に保存中)。この2109号は本線を運転するにはあまりにも旧式なのです。これをなんとか動態保存にしたいのですが、それをやるためには資金が出てきません。ということは、動態保存をしてもそれは「稼ぎ」にならないということです。
さらに私が心配しているのは、何年かして私がいなくなったら、今度は本当の価値が分からなくなってしまうということです。そういった時には、日本ナショナルトラストか明治村に引き取ってもらい、保存をしてもらいたいと思います。
保存鉄道で大切なものは、優秀で熱心な現場の人と、優秀なリーダーです。この2つが揃わないとだめです。2109号よりもっと危ないのは、国電の一番古いモハ1型(現在、JR東海にて復元後、保存中)という木造の電車です。これがボロボロになってしまい、何とも保持が出来ないのですが、もちろん引き受けてくれる人はありません。
こういったことが実態なのです…。
大井川鐵道では鉄道車両だけでなく、周辺のものも保存しています。例えばイギリス製のターンテーブル(1897年(明治30)年製)や投炭練習機等です。他に、保存物の資料となるように、保存物の記念乗車券も出しております。
日本では蒸気機関車の保存しかやっていません。欧米のような市電とか木造の客車とか、ましてや貨車とかに対する価値観が格段に低いということは、基本的にはこれらの産業文化財に対する認識の立ち後れに他ならないと思います。
保存鉄道、あるいは産業考古学は共に非常に若い学問であり、時代をリードする考え方です。ですから我が日本でも21世紀には必ず伸びて行くことでしょう。
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