白井 昭の軌跡・日本の鉄道の軌跡


常に新しく
〜パノラマカーと東京モノレールの時代〜

■戦争直後の鉄道趣味

 戦後間もなく、私は外国の鉄道を研究している方たちとの交流を始めました。友人がたくさんできて、これが後の蒸気機関車の保存や産業考古学の研究などいろいろなことに役立ってくるわけです。
 昭和20年で戦争に負けたものですから、今度は鉄道の研究が自由になりました。そして「東京鉄道同好会(戦後初の全国的な鉄道趣味団体で鉄道友の会の前身)」というのが昭和21年くらいにできました。この名古屋グループで亡くなられた小島さん(故・小島元一郎氏・元鉄道友の会名古屋支部支部長)とかと組織的に行動するようになりまして、いろいろなところへ行くようになりました。
 現在、大井川鐵道にあるC11312という蒸気機関車は、私が昭和63年に三重県から持ってきたのですが、これが昭和21年7月に日本車輌へ見学に行ったときに新車でできかけでした。まだ番号も付いていない。だから感慨無量という感じでした。当時も写真は撮りませんでした。相変わらず紙と万年筆でした。
 「鉄道友の会」が昭和28年から組織され、私たちの組織(轍美会)が「鉄道友の会名古屋支部」(鉄道友の会の支部第1号)へと発展して行きました。


■アメリカに追いつけ 〜日本の鉄道の新しい夜明け〜

 当時の日本の電気鉄道には、昭和30年くらいまでは全くアメリカの技術を真似ていたという側面がありました。今とは少し違いますね。
 戦前の日本の鉄道の技術は、アメリカから10年くらい遅れて歩いていました。それが昭和16年に戦争が始まると、海外からの技術の伝承が一切入って来なくなってしまいました。そのため、アメリカはどんどん進歩する。日本は資材も無いので退歩する。
 それが昭和20年に戦争に負けて、またアメリカと連絡が取れるようになると、ある1面の憧れみたいなもので、アメリカの電車に近いものを作りたいということから――食べるものも無かったのですが――寝食を忘れてアメリカの文献を取って勉強を始めました。
 随分分からないことも多かったですね。例えばHSCブレーキのセルフ・ラップなどは日本には全然存在しませんでしたから。わけの分からないことが一杯ありました。また、わけの分からないなりにまたそれはすごく魅力的でした。そして、分からないなりに必死になって勉強しました。
 当時、既にアメリカではモーターはトラックマウント、カルダン駆動とも言いますが、新しい形のものがかなりの部分で普及していました。
 日本もまず追いつくということで、一生懸命やったので、できたのが名鉄でいうと5000形です。これはほとんどアメリカのデッドコピーです。オールモーターカーでダイナミックブレーキ、HSCブレーキを付けました。それがほぼ完成版となったのが小田急のSE車(3000形)です。SE車というのは、そのパーフェクト版でありましょう。


▲落成当時の5000形

 まだ名鉄の5000形は中途半端でいろいろと不自由な点があったのですが、それを完全に消化したのがSE車でした。
 結局は−−よく本に出ますが−−これらの技術が後の新幹線につながっていったわけですから、ニューヨークの地下鉄などのいろいろな電車からSE車が生まれ、それらから新幹線が生まれたということです。例えば新幹線のWNドライブがウエスチングハウスでした。ブレーキをかけるときに電気ブレーキが効いたらその分だけ「ロックアウトバルブ」により空気ブレーキをカットアウトし、足らない分だけは「インショックバルブ」によりエアーを少しだけ出します。これらのシステムは今度,新幹線の300系でオールエレクトリックみたいなものになるまで,ずっと継承していました。


■競争に勝つ

 名鉄は創立以来、国鉄を非常に脅威に感じていました。流線型の3400系が生まれたのもそういったところからです。
 私が昭和23年に名鉄に入社して叩き込まれたのは、「速度にしろ運賃にしろサービスにしろ、国鉄に負けるようなことをやるやつは会社を辞めろ」と。これは今でも抜けないですね。「敵に負けるようなことをやるんだったら仕事ははじめからやるな」と。
 競争というのは大事なことですし、競争から進歩が生まれて行きます。それがなかったら安住してしまいます。
 ですから5000形のときも、1つは「アメリカに追いつけ」だったですけれども、もう1つは,当時昭和30年頃から東海道線が電車になるということで、これに負けたら名鉄はつぶれてしまう…。「死んでも勝たねばならん」ということで,オール転換クロスシートをやりました。
 ですから昭和23年、私が名鉄に入社して受けたことは、純技術的にはアメリカに追いつくための猛勉強、そして商売的には「国鉄に勝て」ということでした。
 5000形の頃は完全に勝っていましたし、国鉄もあまりやる気が無かったのですね。本数もごく少なかったです。
 国鉄の方は「ちゃんと動けばいいや」という感じでした。ところが名鉄はいずれ国鉄に潰されてしまう。だからサービスにしろスピードにしろ半歩でも前進しておかなければならなかった…。


■技術・考え方は進歩したか

 この5000形のとき、すでに私たちは最高速度125Km/hを達成しました。しかし、いまだ最高速度がやっと120Km/hで,私たちにすれば名鉄は怠けているという感じです。140Km/hくらいで走れて当たり前じゃないかと。それを言うと「だって線路が…」とか言い始める。それではJRに負けてしまう。
 昭和30年に既に125Km/hで走ろうと考えていました。125Km/hというとヨーロッパではスイス国鉄のローカル線など、のろい方の標準です。オーストリアの国鉄あたりも125Km/hくらいでしょう。今はもう少し上がっているでしょうか。ドイツ、フランスなどになると160Km/hとか速くなるのですが、スイスみたいな狭い国でも125Km/h〜140Km/h位というのが相場みたいなものです。
 それに比べると、日本の在来鉄道というのは「軽便鉄道」で人並みはずれて遅い。しかしそれがなかなか今の名鉄の人たちには分からない。「だってこれ以上はできんよ…」とすぐに言う。昭和30〜35年からかなり経つのに進歩していない。


■発想の転換

 7000形パノラマカーは昭和34〜35年頃から計画しました。当時始まりかけていたマイカー時代への布石もありましたが、もう一つは国鉄との競争ということがあったわけです。それがなかったら間違いなく生まれていなかったでしょう。
 一方、私の理想では「お客様に楽しんで頂く電車」を目指そうとしました。
 それまでは「お客様を運ぶ電車」,あるいは「鉄道が自慢をする電車」ということだったのですが、それを全部ひっくり返したものを考えていました。
 パノラマカーの開発の時には、国鉄に負けないためには「発想の転換」が必要であると考えました。ただ、同じカテゴリーでやっているだけでは負けてしまうと。国鉄にも優秀な人はたくさんいますし、第一、国だという事でお金もたくさんありますから。
 これには鉄道友の会名古屋支部のみなさんが随分仲間に入って、ああしたらいい、こうしたらいいという提案をしてくれました。そしてそれを名鉄の方へ挙げて、随分採用をしてもらいました。
 また、随分鉄道友の会のメンバーと語り合いました。「夏の暑い日に、車内を冷房にして、前の見えるところでビールを飲もうじゃないか…」。それは夢のような話でした。 3400形でも「乗ったお客様が楽しむ」という要素は全然無かったと言って良いと思います。外から見てかっこいいから、人気取りになるということくらいで。もちろん、3400形の場合オール転換クロスシートなので、乗り心地は良いです。しかしそれは単なるアコモデーションであって、本当に旅や鉄道に乗ることを楽しむということとは少し違う要素でしょう。
 日本の主な鉄道は国鉄から進みました。そのため、列車の先頭は蒸気機関車あるいは電気機関車です。これでは前が見えるわけはありません。ですから「乗客に前を見せる」という発想は全然育たなかったわけです。
 一方名鉄の方は名古屋市電からスタートしておりますから、前を見せるという要素は多少あったのです。そこに名鉄と国鉄との違いがあったのです。


▲鉄道ピクトリアル 1961年7月号表紙(実物はカラー・交通科学博物館所蔵)


▲パノラマカーのPhoenixのエンブレム


■「パノラマ」の仕掛け人

 私は7000形の名前を完成の前から「パノラマ展望車」にしようと考えていました。しかし当時の新聞などには「全面展望車」ということで名前はまだありませんでした。私が「パノラマ展望車」という、会社で議決していない名前を発表してしまうわけには参りません。
 そこで、「パノラマ展望車」という名前をニックネームみたいに使ったら、それにマスコミが一斉に乗り、「パノラマ展望車」と「パノラマカー」という名前に自動的に決まってしまいました。だから誰も議決はしないけれども、自然に決まってしまいました。ただし、仕掛人は私でしたが。


■前代未聞のデザイン変更

 7000形は発表後にデザインがボンネット形からボックス形(コーチ形)に変更されました。これは前代未聞のことでした。
 ボンネット形のデザインを見て、私は「だめだ」と言いました。するとそれを聞いた当時の大社長、土川さん(故・土川元夫氏)が「変えよう」と言われたのです。私も変えてくれと言うつもりで言ったわけではなかったのです。「こんなみっともないやつは気に食わん」と言ったのです。
 デザインについては、土川さんが「お前(白井)じゃだめだ、デザイナーを呼べ」ということで,萩原先生(萩原デザイン事務所・萩原政男氏)にお願いしました。
 その結果、できたのが今の姿です。この車両は、ほとんど初めてデザイナーの手を借りた鉄道車両でした。


■四面楚歌の中で

 このデザインに対して、一番猛反対だったのは名鉄自身でした。名鉄の10人中5人位は「運転台が狭い」とか「前にいる乗客が危ない」とか言って反対しました。私にとっては四面楚歌でした。
 一方運輸省はこのデザインに対して、全面にオイルダンパーを付け、ガラスは複層あわせガラスとして事故対策を行い、その試験結果が十分にリーズナブルであればよろしいということでした。ですから、運輸省の方がむしろ明快でした。
 名鉄の実務派も、「こういうものくらいはやってゆかないと、最後には負けるぞ」と言う側と「とんでもない、乗客を一番前にさらすなんていうのは根本的に保安の原則にもとるものだという側の2派に別れましたが、賛成派はあまりおりませんでした。鉄道友の会の人達だけでした。
 当時、鉄道友の会の人達は私にとっては精神的支援として非常に大きかったですね。
 当初、運転台への登り降りには車内の真ん中にエレベータータワーみたいな箱を設けて、運転手はそこを登り降りする予定でした。しかしこれではだめだということになりました。そこで現在のパノラマカーのように車両の側面からステップで登り降りするようにしたのです。また、鉄橋のように外に降りられない場合のために、車内に非常梯子を付けました。一度も非常梯子を使ったことはありませんが。


▲乗務員室後ろの室内扉(7020)


▲運転室に入る乗務員

 鉄道友の会の人たちに随分アイデアを出してもらったり、精神的な支援をしていただきました。パノラマカーの誕生には、鉄道友の会が大きな役割を果たしたのです。
 このような時期にこれだけのものを生み出したわけです。今でもそうですが、私も反骨精神というか、パイオニア精神を持っていて、人が「だめ」と言っても自分が「良い」と思えばやってしまいます。また、そうでなければろくな仕事はできないですね。

■パノラマカー誕生の時代背景

 パノラマカーもタイミングが良かったと思います。マスコミ的に言うと「高度成長期の申し子」でした。
 パノラマカーが入ったことによって、名鉄の乗客はかなり増えました。これは当時、パノラマカー自体が刺激になったという事以外にも、好景気であったからという要素もあります。また、当時はマイカーはまだまだ問題になりませんでした。
 乗客は非常に増える、収入は増える、電車は4両編成を6両編成にする…。
 パノラマカーを計画したときには、名古屋本線は10両編成にしたいと考えていました。間もなく10両編成にしないとだめだということで、10両編成の試運転もやりました。未だにこれもできないでのですが…。
 編成を短くしてロングシートにしますというのは逃げであって、やはり編成を長くして、クロスシートで快適に乗って頂くのが本道なのです。


■車の時代へ

 パノラマカーの運転台は非常に狭いので、乗務員から「こんな狭いところで」と言われては困るわけで、「その辺にスバルがいっぱい走っているじゃないか」と。自動車の発想で乗務員にも運転台の狭さが納得されました。だから、スバルが無いと7000形はできなかったかもしれません。
 ちょうどマイカー時代のパイオニアがスバルであったわけですが、よもやそれがここまでになるとは思いませんでした。現在、名鉄グランドホテルの社長をやっておられる神野さん(神野三男氏/当時名鉄取締役・企画室部長)が「今に車の時代になる」ということを、そして「車の時代とはどんなものかということを、当時の私たちに説明されました。しかし、どれほど言われても実物を見るまでは分かりませんでした。まだ当時の相手は国鉄東海道本線しか考えられなかったのです。よもやスバルくんだりが名鉄の敵になるとは全然想像がつきませんでした。 それは昭和40年代からでしょうか、マイカーでいよいよ乗客が減り始めたのは。


■パノラマカーの技術

 パノラマカーは基本的にはアメリカの新しい技術によるものでした。
 ただ、空気ばねは、一番はじめはファイヤーストーンなどが始めたのですが、その後日本がうまくこなしたため、どちらかと言えば日本のオリジナルという感じの技術ですね。
 HSCブレーキ(HSC−D型電空併用セルフラップ式電磁直通ブレーキ)は、まさに生粋のウエスチングハウスHSCブレーキのデッドコピーです。
 メインコントローラーは、GEのMCM(パッケージタイプ制御装置)というのですが、全く同じものが1948年頃からアメリカでたくさん走っておりました。
 台車の駆動の方の中空軸は、アメリカのウエスチングハウスのものが歯車カップリングですから、日本では狭軌のためできませんでした。これをホローシャフトでやったのが東洋電機で、BBCの技術を真似してきました。最近ではカーボンファイバーのカップリングなどを使い、向こうより良くなって…。
 オリジナルのものはほとんどない、はっきり言ってアメリカのコピーです。 その後の7500形では、130Km/hの運転を目指して空気ブレーキの速度制御、連続無段式定速制御,回生制動方式、電光式速度計、自動軌条塗油装置(速度に応じて軌条に給油)を採用しました。


▲パノラマカー初期の台車FS355Aと東洋電機製平行カルダン駆動装置の銘板
名鉄資料館展示にて 2003年1月7日撮影 写真提供:朝倉昭二氏(中部産業遺産研究会)


▲7000形パノラマカーに1961年度ブルーリボン賞が鉄道友の会より贈られた
写真は鉄道友の会より贈られたブルーリボン賞の記念の楯。
1991年撮影・当時は博物館明治村内の土川記念館に保存されていた。現在は名鉄資料館に保存されている。


▲7001に貼られている鉄道友の会から贈られたブルーリボ賞のプレート


■幻のパノラマSUPER

 パノラマカーでは「乗客が楽しめる車両」という基本的な理念から、ミュージックホーンとかスピードメーターとか、いろいろなものを試作しました。
 車両の全面には今のように絵の方向幕をモータードライブで、例えば河和へ行くときには「水中翼船」が出るようにするとかです。これらも20年後に流行しだしたので、試作は20年先取りしていました。ただ、当時トランジスタなどの電子装置、要するにスピードメーターとミュージックホーンも電子装置のかたまりなんですね。これが極めて高価で極めて不安定だったのですね。ミュージックホーンもすぐに音階が狂うし、スピードメーターも頻繁に狂って、当初は大変だったですね。
 それからパノラマカーを作ったすぐ後に、私は「パノラマSUPER」を作りたかったのですね。そのためにモックアップまで作っていろいろな実験をやりました。3700形で実用向きのリクライニングシートの試験もやりました。モックアップもおもしろいですよ。中間車の真ん中にドームを2つ付けて、しかも前に窓を付け、ここへ乗客を乗せようと。アメリカのドームカーや、初代ビスタカー(近鉄10000系特急車)の「ビスタドーム」が2つできるわけで、架線試験車をもっとパノラミックにしたもので、今でもやりたいのですけどね。しかし、30年後にこの夢が「パノラマDX」や「パノラマSUPER」で実現したのは本当に嬉しいですね。


■自分だけの楽しみ

 ミュージックホーン(トランジスタホーン)の回路の組み立ては小糸製作所が行ったのですが、作曲をどこへ頼んだかについてはunknownにされてしまいました。相当な方が作曲したと思いますが、結局名鉄の著作権ということになりました。私もどなたかお名前も聞かなかったし、向こうも言わなかったと言うことです。
 今やサイパン島からテニアン島へ行く高速艇にまであのミュージックホーンがついているのです。 私の自宅はたつみが丘(愛知県知多市)なんですが、ちょうど谷になっていて、朝一番の5時何分かにパノラマカーが入ってきて、ミュージクホーンがこだましてハーモニーになって結構いい感じに朝が来たなあと…。自分でつくったやつだから…。
 私の家は2階からパノラマが走っているのが見えるように作りました。その2階に私の部屋があるのです。


■ぼくらの特急

 パノラマカーのPRのために映画も製作しました。この「ぼくらの特急」には名鉄も相当力を入れており、当時随分お金もかかりました。
 この中で一番傑作なのは、東海道本線の「こだま」と競争させたところです。これはヘリコプターで待ってまして、連絡を取りながら「それ『こだま』が来たぞ」と。パノラマカーは木曽川から「それ走れ」と。なかなか並ぶのが大変でした。
 それから、豊橋方の複線区間を2本の列車を平行に走らせて、パノラマの正面を走りながら撮影しました。今の10分ヘッドのダイヤでは想像もつきません。名古屋本線の国府のあたりで左側も上り列車、右側も上り列車。特に名古屋−豊橋感は列車本数も少なかったのです。終戦まで信号機は接近点灯式といって,電気代はもったいないといって信号機は消してあったのです。列車が接近すると初めて赤か青が点く。そのくらい本数が少なかったのです。あの映画も1つの歴史になってしまいました。
 パノラマカーの映画は、パノラマカーの製作の開始から取材しており、当時、PRのためにこれだけのものを作ったこと、またそのために併走、10両化などの活動を記録に残す価値があると思います。 この映画「ぼくらの特急」は当時、映画館でPR用として上映されました。そのあとでも名鉄モノレールのPR用映画を製作しています。

▲「ぼくらの特急」の1シーン(併走する電車から撮影した走行中の7000形パノラマカー)


■時期尚早だった犬山のモノレール

 犬山のモノレール(昭和36年5月26日認可・犬山遊園−動物園前間1.57Km・日立製車両)も全く新交通として今の大江に試験線的に作ったわけですけれども、これも時期尚早で、大阪モノレール、あるいは千葉のモノレール程度に普及してくるまでには30年くらいかかってしまいました。パノラマカーでは最近のデザインコンセプトを30年前に先取りし成功しましたが、あまり先を歩きすぎてもうまくゆかないことも多いのです。


■東京モノレール


▲開業当時の東京モノレール 左から100形・100形・300形(昭和島車両基地)
写真提供:東京モノレール株式会社殿
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 私が東京モノレールに行ったときは、結構張り切っていったのですが、今考えてみると、まだ若かったものですから得意になって…。
 名鉄の名古屋運転区の乗務員の機関誌に私が書いた文章があるのですが、とにかく下は運河があって、その上を橋が架かっていて、その上を高速道路が走っている。さらにその上をモノレールが走る。まさにアメリカ並だということで、私はこれをやりに行くのだと…。
 東京モノレールも随分苦労しました。これもいろいろと苦労する要素があったのです。
 ドイツのALWEGという会社のライセンスで始まったのですが、これが概念だけの特許があってドイツ向けの設計はありましたが、羽田向けの具体的な設計はありませんでした。
 もう1つは当時−−今でもそうなんですが−−世界の技術に軽量化と小型化で日本が追いついて行かなかったのです。同じものがドイツで1tでできれば、日本では1t半になってしまったのです。全部足してみたらタイヤの負担力は持ちません。大阪モノレールとシドニーモノレールを比べてもらうとよく分かるでしょう。 また、大井川鐵道を例にすると、アブト式の電柱を立てるときに、基礎に私が入ったら落ちるような深さと大きさの電柱の基礎を作っている。こんなもの不必要ですよ。「電柱は立っていれば良いんだから,1m四方くらいの基礎で良いじゃないか」といったら、「新幹線の設計でやりました」と。そういう無駄なことをする。「こんなに立派なものを作って副社長に誉めていただけるかと思っていたのですが、叱られるとは心外です」と。何しろ馬鹿でかければ良いと思っているわけです。ですから、できたものは馬鹿みたいなものになるから、ドイツやスイスの設計者が見ると非常に蔑むのです。これをだめな設計者だと。一方、日本の方はそれを良い設計者だと思っているのですね。
 さらに、もう1つは−−会社が非常に良い勉強をしたのですが−−運輸省の航空局からおいでになった方、東京の私鉄からおいでになった方、それから日立からおいでになった方とその他いろいろな方がおられたのですが、合成部隊であったために、考え方のベースが役人ベースのものもあるし、メーカーベースのものもあるしということで、何一つけめるのも大喧嘩になりました。こういうことで寄合所帯、第三セクターは当然非常に大変である,信楽高原鉄道事故(1991年に発生したJR列車と信楽高原鉄道列車との正面衝突事故)も起きやすいということがよく分かりました。その意味では大変良い勉強をしました。
 東京モノレールのソフトは全部名鉄がやりました。浜松町の駅長は今の豊橋鉄道の社長をやっている神野さん(神野義郎氏),営業部長は今の名鉄観光サービスの社長をやっている犬飼さん(故・犬飼栄輝氏・元名古屋鉄道株式会社副社長)、車両の設計は私です。名鉄がいなかったらできなかったでしょう。しかし、途中で撤退してしまいました。名鉄にしてみれば、今にして思えば非常にしまったなあと。ただ当時は赤字が大きくて、名鉄には保持できなかった。そこで日立が保持して今日まで至っているわけです。しかし私は残念だとは思っていません。名鉄にとっても私個人にとっても勉強代として十分に価値があったと思います。


■1人2役

 東京モノレールに私は名鉄の社員として行きました。出向ではありませんでした。人が足りない上に、人を有効に使うため,1人分の給料で1人分以上の仕事をさせようということでした。ですから、名鉄で7500形の設計が済んだら−−当時まだ新幹線が無いですから−−プロペラの飛行機で羽田へ行く。羽田へ行けばモノレールはすぐですから、そこで東京モノレールの設計の打ち合わせをドイツ人と行う。それがすんだらまた飛行機で名古屋に帰る。ですから当時、小牧−羽田のプロペラ便には随分乗りました。しかしそれだけの飛行機代を払っても、もう1人雇うよりは人件費が得だったわけです。ただ、給料は増えませんでした。名鉄は(東京モノレールから)もらっていたと思いますが…(笑い)。
 このように名鉄では百貨店創設、東京モノレール,国際空港など重要なプロジェクト毎にチームを派遣し、人を機動的に使っています。


■タイヤの寿命

 そのとき論議したのは−−ホイールベースが長いために2軸の場合タイヤがひどく減るので−−1軸ボギーにするか連接ボギーにするかということです。
 私は当時、連接ボギーにすることを主張したのですが、結局ドイツもそんなことに関するノウハウも設計もありませんでした。ただ、概念的なものがあるだけでした。あとは日本で図面を引けというわけです。 それで、どうしても1軸ボギーもしくは連接ボギーができなかったため、2軸で車両の設計・製作を行ったわけです。そのため、タイヤはどんどん減ってしまいました。当時,ブリジストンは全然使いものにならなくて、ミシュランがやっと使えましたが、それもどんどん減ってしまいました。
 乗客が減ったのが、そのうち高速道路が込みだしたために、乗客が増え、儲かるようになりました。そこで2代目のボギー車を作ったわけです。今の車両は全部ボギーになっています。タイヤはブリジストンもどうやらミシュランに追いついて、ミシュランの半分以上の寿命があるようになったということで−−まだ完全には追い付かないようですが−−なんとか実用になる段階になってきました。


■冬眠の時代

 昭和40年代から後、国鉄も私鉄も怠けてしまったのですね。国鉄は労務問題などで沈滞化し、私鉄も輸送に追われて夢を失ったため、その後の20年間「冬眠の時代」があったわけです。
 名鉄は6000形ばかり造った。そう言っては悪いのですが、あんなものは誰にでもできるのですね。また国鉄の方も同様で、新幹線の同じ形(0系)をどんどんと…。
 国鉄の方は昭和38年くらいから既に収支は赤字になっていました。新幹線ができたと覆い隠してきてしまった。もし私鉄なら会社が潰れてしまいますから、赤字なら必ず何らかの手を打つわけなんですが,「親方日の丸」ですから最後には給料はもらえる。私鉄だったら給料は入らないのですが。そのまま来てしまったのが結局昭和60年の倒産…。
 その20年間、内面的な進歩が全然無かったのです。海外からは遥かに遅れて、まさにソ連とそっくりの形になったのですけれども、私鉄の方もあまり笑えません。国鉄ほどの労使関係の荒廃は無かったけれども、本当の会社のエネルギーとしてはそれで良かったのかと言うと、私に言わせれば「怠慢の時代」であったと。20年間発展させようという意欲が無かったと。別に外国並に改良しないからと言って給料が下がるとか、もらえないということは無いわけですから、同じ設計のものをどんどん造って、輸送だけをやっておれば飯を食って行けましたし、黙っていてもお客様は乗ってくれましたから。
 この間、国鉄では赤字がどんどん出ていたために大変な論議があったのです。それで、一度は特にサービス、性能面ではなくて経営面からテコ入れしようというのでやったのが「生産性運動」というものでした。しかしやりすぎてしまったために,結局それが裏目に出てしまいました。現場の一番の味方であった中堅幹部がサラシ首になるということになったのです。従って、一番大事な課長級の人たちが金輪際国鉄のためにはやらないよということで、みんなふてくされたようなことになってしまいました。
 赤字は益々増える、政治家は食い物にするということで、在来線では103系をどんどん造ったし、新幹線では0系ばかりどんどん造ったのです。一方、日本が何もしないうちにフランスなどは一生懸命やったわけです。
 スイスもすごいですよ。大井川鐵道の姉妹鉄道の客車は,座席は50席もあるのに自重が3t半なのです。その代わりに車輪はアルミです。直径は30cmくらい。なぜ鉄にしなければいけないのですか、なぜ860mmなければならないのですかというわけです。驚異的ですよね。急勾配で極限ですから。ある意味ではオートレースの車と同じです。オートレースの車にはヘッドライトも無いし速度計も無い。なぜならば、それを付けたらそれだけ成果が下がるということです。
 スイスも非常に立派にやっています。またドイツのLRVも実にシンプルで収支性が良いのです。そういうのと伍してゆかなければ遅れてしまいます。この20年間のブランクを埋めるのは大変ですね。


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