白井 昭の軌跡・日本の鉄道の軌跡


まだ街は暗かった
〜少年期から名古屋工業専門学校の時代〜

■鉄道を好きになった頃 

 私は昭和2年に岡崎で生まれました.親戚が川名(名古屋市昭和区)の近くにいましたので,また,先祖が豊橋にいましたので,豊橋−岡崎−名古屋の間を愛電(愛知電気鉄道)の特急でよく行き来していました.それが私が鉄道を好きになったきっかけのような感じがします.
 昭和10年以前は不景気な時代で,愛電の吉田(現在の豊橋)行きの特急が当時の3300形1両だけで走っていました.2両連結にするだけの乗客も無く,その1両も10人くらいの乗客で,特急ですからあまり止まらないのでちょっと侘びしい感じでした.
 当時の名古屋のターミナルが堀田,神宮前(愛電),柳橋(名岐),省線(東海道本線)が名古屋でした.たぶん愛電の特急が堀田にも止まったと思うのですが,豊橋から名古屋の東部方面へは堀田で降りて市電に乗り換え,鶴舞公園の前を通って行くのが近道でした.ただ,犬山とか津島へ行こうというときには神宮前まで行き,市電の大津町線で栄町へゆき,そこで乗り換え,さらに柳橋で乗り換えました.犬山へ行くのはなかなか大変だったことでしょう.
 当時はお宮参りが多く,私も津島神社へよく参りました.ですから名鉄と市電が非常におなじみでした.どういうわけか東海道本線の方は乗る回数が少なかったです.
 当時,東海道本線の熱田−豊橋と愛電の神宮前−吉田では運賃は98銭くらいで同じでした.しかしスピードは愛電の方が徹底的に速かったですし,東海道本線は今と比べると本数は非常に少なかったです.


■文明の象徴

 私に強烈な影響を与えたのは,昭和12年頃に鉄道関係が非常に革新したということです.
 昭和12年,名鉄の3400形の流線型が完成しました.これは当時としては非常にモダンでした.今でもデザインをやっている形にお聞きしますと,3400形は1つの完結したデザインであったとのことです.今でも「モダンボーイ」などと呼ばれて人気を保っていますが,エメラルドグリーンに輝いていた昭和12年当時のインパクトは大変なものでした.


▲落成当時の名鉄3400形

 東海道本線の方では,C53という流線型の蒸気機関車,汎太平洋平和博覧會では−−これはろくに動きませんでしたが−−キハ43000形という流線型の気動車が登場し,社会的にも鉄道の地位が向上しました.
 その当時,社会的に価値があったものは軍艦と鉄道と飛行機でした.ただ,飛行機よりは鉄道の方が重要性が遥かに高かったです.ですから文明の象徴というものがC53という蒸気機関車や3400形の電車とかでした.
 中でも感心したのが名古屋市電の1400形です.その前の1300形とは対照的でした.1300形は非常に重くて丈夫だったのですが,1400形ではそれを全部ひっくり返したのです.
 1400形は当時の名古屋大学工学部電気工学科の古田教授という方の指導で軽量化しました.当時はモーターの出力をどんどん大きくするという方向に進んでいましたが,これをパワーダウンして,なおかつ速く走るように車両も軽量化しました.当時はモーターの出力をどんどん大きくするという方向に進んでいましたが,これをパワーダウンして,なおかつ速く走るように車両も軽量化しました.モーターは1300形では50馬力だったものを,1400形では45馬力としましたが,スピードは1300形より速かったのです.当時の日本としては近代的なものでした.
 ただし,この1400形が世界一流の市電として我々は教わっていたのですが,当時のアメリカあるいはヨーロッパの電車と比べてみると,すでにモーターのトラックマウントとかをやっておりまして,中学生と大学生くらいの違いがあったということを後になって知りました.
 いずれにしても1400形は流線型でもあるし,紫色の電灯を点けていまして,非常にモダンでした.文明のシンボルでした.
 まだ街は暗かったです.昭和12年,市電が東山(名古屋市千種区)まで延びたわけですが,1400形を夜,辛抱強く待って,遥か遠くからくる紫色の明かりが見えてくると暗闇に文明を見い出したような感じになりました.そのころの動きが私に鉄道に関して大きな影響を与えました.


■古典蒸気機関車


6250型(6255)蒸気機関車 (記録写真 蒸気機関車 1, 西尾克三郎・黒岩保美, 交友社刊より)

 そのころから,どういうわけか煙突の長い古典の蒸気機関車(長い煙突が旧式の象徴であった),あるいは古典の客車には尊敬の念を抱いていました.これは勉強したとかではなく,本能的に何かあったのでしょうか.それが今の産業考古学とか文化保存とかと結びついているのではないでしょうか.
 当時,熱田駅でイギリス製の6250形という蒸気機関車が長い間入れ替えをやっていました.これはかつての東海道本線の花形でした.特に新橋から名古屋あたりまでの系統では,6250形がほとんどの旅客列車とかを引っ張っていました.小さいのですが,スピードは速くて設計上優れた機関車でした. 熱田駅で入れ替えをやっていた頃は,普通の人には老いさらばえてオンボロだと,私にはかつてのすばらしい存在のものがなおかつ頑張っていると見える. 今もある神宮前の大踏切を跨いで6250が貨車をつないで1時間くらい行ったり来たりしていました.その車輪の上のスプラッシュカバーの縁どりは,真鍮が金ピカに磨かれ,燦然と輝いていました.そしてイギリスのネルソンという会社のメーカーズプレート誇らしげに輝いていました.それらがかつての栄光を表していました. 6250は明治時代,「女工哀史」の女工達が紡いだ生糸をイギリスに売ったお金で購入されたもので,そういった意味からも非常に価値の高いものでした.


■情報不足の時代

 昭和16年頃からはいろいろと鉄道の写真を撮っていたのですが,全て軍の機密に関するということで,写真撮影は禁止でした.さらに鉄道に関する情報が現在の情報過多という状況とは逆で,全然ありませんでした.
 僅かにあったのが『子供の科学』とかです.これにも鉄道のことはめったに出ませんでした.それで,飢えたように情報を求めていました.
 私のやったことは,国鉄の管理局に潜り込んで局報を−−それも軍用列車が全部出ていますから軍秘ですし,うっかりしたら逮捕されてしまいます−−をもらってきました.国鉄の方も「こいつは軍の秘密を売るために来ているのではない,こういうことが好きなんだ」ということを理解してくれる人がいました.
 そのころは鉄道趣味には2つの側面がありました.1つは「鉄道キチガイ」と言って常人扱いにされなかったという面です.ということは,一般市民の低レベルの人にはそれが何であるのか理解できなかったわけです.ですから今でも発展途上国へ行くと,こういうことをやっても全然分からないらしいです.
 もう1つは今よりは遥かに優遇してもらえたという面です.鉄道の機関区へ行くと,学校で勉強していて鉄道のことを研究しているということで,逆に尊敬の念を持たれました.たとえば名鉄なら当時としては非常に高いであろう,回生ブレーキのついて1.5mくらいある貴重な図面を,「僕が持っていても分からないですから」といってくれたり,あるいは飯田線ではED19という機関車に乗せてもらったりしました.今はそう簡単には乗せてもらえないのではないでしょうか.ですから,鉄道の人からは今よりは遥かに貴重がられました.
 いずれにしても情報不足ということで,それが一番の悩みの種でした.
 当時は写真は禁止ですし,フィルムも随分高く,写真は撮影したけれども焼き付けるお金がありませんでした.戦争前は自分で焼きましたが,それも戦争中は学徒動員などでできなくなりました.そのため,珍しいものを見たときは,今ならば写真を撮るのですが,当時は手で描くわけです.ですからディテールは良く分かりますね.台車などはイコライザー型かウイングバネかを良く見ておかないと,描く段になるとできないわけです.そんなことで戦争中も結構楽しんでいました.
 戦前は「鉄道趣味」という雑誌がありまして,これは当時の大学生がやっていたわけですが,当時の大学生のレベルは今の大学のレベルからは1ランクくらいは上のところばかりで,ある程度ハイ・ソサエティーといった感じでした.ですから,ほんの中身はとても高尚でしたし,文章も流麗で美しかったです. そういう本が昭和10年ころあったのですが,紙が無くなるとそんな趣味の時代じゃないということになってきました.ましてや列車そのものが戦争に直結しているということで,みんな消えてしまいました.
 当時,仲間が多少おりました.ごく少ないですが,5〜6人おりました.学校の中で好きな人が集まって活動をしていました.


■戦争と鉄道

 戦争中は,本当は管理局報を見なくても列車を見ているだけで戦争の状態が分かりました.
 昭和12年頃までは,白帯(1等),青帯(2等),赤帯(3等)のピカピカの急行列車が華やかに走っていました.
 太平洋戦争が始まるやいなや,軍用列車ばかりになりました.それから出征兵士を送る列車.昭和19年頃になると病院列車ばかり.乗っているのは全部負傷兵ばかり.どこからどこへ行くのかは分かりませんが,1列車全部病院列車というのが3つも4つも続けて来る.「この戦争はだめかもしれない…」というのは目で見て分かりました.だからそんなのを下手にメモしていると御用になってしまいます.外に対しては隠したいですから.
 病客車というのは,白帯に赤十字のマークが付いており,記号が『スヘ』(例えばスヘ30)であったのですぐに分かりました.初めはそんなのはめったに通らなかったのですが,しまいにはそればかりになってしまいました.
 敗戦後はアメリカ軍が車内が畳敷きだったのをベッドに変えて,同じ『スヘ』という記号でアメリカ軍の病客車として使いました.特に朝鮮戦争のとき,死者も負傷者もたくさん出しましたから,あれで死者も運んだのではないでしょうか.アメリカ人は遺体を持ち帰りましたから.
 当時は鉄道と戦争がくっついていました.今では戦争でも鉄道には用は無いでしょう.当時の飛行機はよぼよぼでしたから.


[ 次のページへ | 目次ページへ | トップページへ ]


Copyright 1992,96-2001 by Railfan Club, Nagoya Institute of Technology. All rights reserved.