ユジラスカ―逢瀬―




 ここに今一人、神代を知る者がいる。
  はるか遠き昔から天龍の国の上空に浮かぶルガルダの森で、今でも一人、誰に所在を知
られることもなくひっそりと暮らす女、アイリーン。
 大昔、ここは闇とは無縁のはずの神界、それも法王の住まう城の一角にありながら迷い
込んだ者の肉体を養分にして肥大化する魔の森だった。
 とはいえ、森の入り口はそこらへんに点在する森とどこも変わらない。
 遠目にも豊かに木漏れ日が差し込み、その奥に広がる幻想的な世界を想像させる。
 なにより、森の中からは得も言われぬよい香りが漂いだしていた。
 ――花を摘みに。きのこを採りに。大鹿を仕留めに。
 首都ロガトノープルの住民らはその美しき想像に導かれてこぞって森へ迷い込み、ほと
んどは二度と生きて森から出てくることはなかった。
 天龍法王が森への侵入を固く禁じても、行方不明者は増え続けた。
 人が入らなくなればなるほど森から漂いくる妖艶な春の精を思わせる芳香はさらに強さ
を増し、首都中の者を引き込んでいったからだった。
 その香りの正体こそがこの森の主、ユジラスカ。
 何の拍子にか人の血の味を覚えたユジラスカは、森のそこここに自分の枝や根を張り巡
らせて森に入った者を搦めとり、あるいは道に迷った者が土に還るのを待ってその身を糧
に生きていた。年経るごとにユジラスカの魔物じみた力は闇獄界と繋がることなく瘴気を
生み出し、ついにはロガトノープル中を覆うまでになっていた。
 市中のそれも城内にある森だけに安易に焼き払うことは難しく、頭を抱えた龍は自分を
守護すべき精霊王にその守護のかわりにユジラスカの半永久的追放を提案した。 
 俺はそれを呑み、呆れたことに龍が死んだ後でも律儀にこうやってユジラスカを天龍城
の上空に繋ぎとめてやっている。
 ユジラスカが枯れるまで。
 そう約束したのに、結局ユジラスカは根を張った森ごと天空に持っていき、気の遠くな
るような年月を光合成や動物の生き血でしのいでいる。
 とはいえ、その実態は今でもあまり変わっていない。
 入り口から漏れ出す芳香に誘われて森に一歩踏み込めば鈍器で頭部を殴られたようなひ
どく緩慢なめまいが襲い、意識を取り留めて奥へ進めば進むほど木漏れ日は薄れ、かわり
にわずかながら黒く実体化した瘴気が木の根と共に足元を掬いとる。入るたびに変わって
いる道筋は、磁石などでは目的の場所まで導いてはくれない。
 龍はこの森で生まれた翼つきの馬に案内させて進むらしいが、俺はそんな便利なものは
飼ってないしそれだけ通いつめているわけじゃない。勘だけを頼りに先に進む。
 そして、その果てにようやく光の園は現れる。
 目の前には空よりも青い湖が広がり、その中央の孤島には湖の岸辺までも多いつくす一
本の巨木が清浄な空気を纏って静かに佇む。湖面はさざめくごとに降りくる光に煌き、ユ
ジラスカの枝葉が風と戯れればその木漏れ日とあいまって八方に虹色の光を散らす。
 だが、百年に一度だけそんな爽やかな光景が幻想的な世界に変貌する。
 ユジラスカはまるで法王の幼少期にでも倣ったように、百年で季節を一巡りさせる。
 春は百年のうちたった一年。そのかわり一年中、薄紅色の花びらを十重二十重と重ね合
わせた花を咲かせ続けるのだ。
 ただし、いくら花をつけ実を結んでも幸か不幸か種を宿すことはない。
 甘い香りで果実に手を伸ばさせ、たった一口で致死に追いやるその実にこめられた毒は、
次世代を守るためでなく、自身が生き抜くためのもの。
 儚さを装う花とは裏腹のいじましいまでのその強さが俺は好きだった。
 今年はその百年の節目。
 夢幻の世界を織り成す淡い紅は絢爛と中空を彩り、時に風に遊ばれて青空へと抜けてい
く。
 その空から降りそそぐ花びらは雪花のように冷たく優しい。
「いらっしゃい、サザ」
 風の音にかき消されて聞こえなかったのだろうか。
 ユジラスカの幹元、こじんまりと佇む館の戸口は開いて一人の女主人が外に立っていた。
「相変わらず変わんないな、あんたは」
 戸口で出迎えた女に開口一番、俺はため息混じりに言った。
 黒く長い髪。漆黒と見まごう黒紫の瞳。白い肌に緩やかに隆起した鼻梁をたどると、思
わず吸いよせたくなるようなユジラスカと同じ色のふっくらとした唇にいきつく。
 数千年と変わらぬ容姿。あの龍を惑わせた色香。
 俺は無意識のうちに自分の唇をわずかに噛んだ。
「サザも変わりないみたいね」
 ユジラスカの湖のように澄んだ響きが幾分かの安堵と共に大気に溶けていった。
 俺は聴覚をくすぐられた気がしてわずかに身震いする。
「こいつにとっても今年が節目の年だったんだな」
「そうよ。だから来たんじゃないの? あなたは」
 おっとりと何も知らぬ気に微笑んだアイリーンに俺はわずかに口元を歪める。
「わかっているくせに。こんなとこでも聞こえてはきてるんだろう? 神界に法王たちが
 蘇った、って」
 黒紫の瞳は波立つことなく穏やかなまま。
「忘れていたわ。あなたが来るときはいつも厄介ごとを抱えているときだったわね。お入
 りなさい。お茶くらい出してさしあげるわ。ユジラスカの葉で作ったとっておきのお茶
 をね」
 別段困った風を装うこともなくアイリーンは俺に背を向けて中に入ろうとした。
 そんな背中に向けて俺はユジラスカを見上げながら呼び止めた。
「なぁ」
「なぁに?」
「森の瘴気、また薄くなったな」
「そうかしら。それなら嬉しいわ」
 ちらりと振り返って残した微笑は、気のせいかちゃんと心がこもっていたような気がし
た。
「やっぱりあんたが原因か」
「サザ、窓越しでよければリヴィングからいくらでも花は見れるわ。風邪を引かないうち
 に中にお入りなさい」
 いとも簡単にかわされて、俺はしぶしぶ女主が一人で暮らす館に足を踏み入れた。
 中は主人同様以前訊ねたときとさほど変わっていない。玄関を抜けた廊下に飾られてい
るのは草原を模写したあくのない風景画。光差し込む窓辺に面したリヴィングのソファに
は手製のキルトのカバーがかかったクッションが置かれ、ともすれば無味乾燥になりがち
なフロアに家庭的な温かみを加えている。
 そんな空間を完成させるように女主人が淹れたユジラスカの茶の香りは花よりも芳しく
広がっていった。
「これは去年の葉で作ったものよ。去年のは稀にみるほど香りがよかったの」
 アイリーンは慣れた手つきで俺と自分のカップとにポットからお茶を注ぎわけ、脇に角
砂糖の小皿を置く。
「ほんっと、よく飽きないよな。日がな一日来訪者を待つわけでもなく、お茶の葉を作っ
 たりパッチワークに精を出してみたり。それだってこうも長いことやってりゃ飽きるの
 が普通だろ?」
「結構飽きないものよ。たまには森を散策したりもするし、買い物のために下に降りるこ
 とだってあるもの」
「は? あの魔の森を散歩? 冗談だろ」
「冗談なんかじゃないわ。瘴気の方が私を避けてくれるから」
「さすが歩く空気清浄機。それも龍のお願いとやらか?」
 アイリーンは微笑を崩さずカップに口をつけた。
「あなたが前もってここに来たということは、そろそろあの方もいらっしゃるということ
 かしら?」
「別にあんた自身が目的で来るわけじゃないだろうけどな」
 ぼろりとこぼれだした言葉は、もう一度反芻するまでもなく余裕を欠いていた。
 俺は軽く舌打ちする。
 相も変わらず厭な女だ。目の前にいるだけでこの俺が俺らしくなくなっていく。
「サザ、そんなに目くじらを立てなくたっていいでしょう? あなたも私もあの方にとっ
 ては今も昔も一番ではないのだから。……私は一番になりたいだなんて思ったことはな
 いけれど。でも、あなたは<影>である限りあの方の一番の助け手でしょう?」
「<影>ねぇ。あいつがそう言ったわけじゃないんだろ? 俺達はそういう契約は結んで
 ない」
「同じよ。このルガルダの森が天空に浮いている限りは、あなたはあの方を助け続けてい
 る」
「うわー、なにそれ。皮肉?」
 何も含んでいないのに口の中に苦いものを感じて、俺は出されたお茶を一口含んだ。
 口の中に広がる芳香は部屋に充満するユジラスカの香りとはまた一味違っていた。もっ
と濃厚で思いのほかほろ苦い。そのくせ後味はさらりとしていて何度でも口にしたくなる。
「皮肉? そうかしら。少なくともあなたはそう思ってはいないのでしょう? もう少し
 素直になればよろしいのに」
「俺には素直にならなきゃならない理由なんてないんだよ。あいつが俺にとって憎むべき
 者なのは確かだし」
「憎悪と愛情は紙一重というもの。それに、憎んでいる者ではなく憎むべき者と言った時
 点であなたはもうあの方を許しているのではなくて? いいえ、もしかしたら初めから
 憎んですらいなかったのでは?」
 親身に問いかける表情は愛優妃とよく似ている。助けなど求めていないのに救いの手を
差しのべようとするあたりも。
「さぁ。そんな大昔のことは忘れた。それよりアイリーン、あんた少しは人の心が分かる
 ようになったんじゃないの?」
 アイリーンはちょっとだけ目を見張った。
「どうして? 私はあなたの気持ちを代弁しただけよ。知ることと感じ取ることは違うわ」
 ふーん、と俺は心無い返事を返してやった。
 人の感情など……神界に棲む者たちの抱く想いなど何もわからない、感じとれない、推
し量れない、と昔彼女は言った。
 物思わぬただの動く人形。行動基準は己の生命維持に関わるか否か。
「だからこそ、あの方は長いことここに通われたのでしょうけれど」
 龍がどんな思いでここに来ていたのか。そんなこと俺は知りたくもない。けど、あいつ
が何を考えてここにきていたかくらい分かる。自分の押し隠さなければならない秘密を共
有してくれる者がほしかったのだ。同情ではなく、ただ第三者として知っていてくれる者。
 アイリーンは束縛しない。何も求めない。望まない。
 ただ、寄り来るものを受け入れるだけ。
 あの男のすべてを、ただあるがままに受け入れてきただけ。
「辛くはなかったのか?」
「辛い? どうして?」
 外見は何一つ変わりなくとも、アイリーンはとうに知っているのだろう。
 無欲な微笑は、計り知れないほどの年月を山谷超えてきた者にしか許されない。
「何もわからないふりをするのは辛いだろう、って聞いたんだよ」
「ふりじゃないもの。本当に今でも何も感じないのよ? 怒りも、喜びも悲しみも、楽し
 いと感じることも。言ったでしょう? 一人でここに暮らしていて飽きることはないっ
 て。寂しいと思うこともないわ」
 アイリーンはまるで自分で自分に嘘をついて、自分にばれないように塗り固めているよ
うだった。
「じゃあ、龍が死んだときは?」
 その殻を突き壊してやりたい。そんな俺の衝動を、アイリーンは一瞬間をおいた後、静
かに首を横に振ってやり過ごした。
 長い漆黒の髪が頼りなく揺れる。
「なら、どうして今でも生きている? 龍にこの森の浄化を頼まれたから? それだけで
 龍の死後にわざわざ自分の体に不老不死の呪いなんかかけるか?」
 黒紫の瞳に宿る闇にも似た光がわずかに揺らぐ。
 それを動揺というのだと、あいつは教えてやらなかったのだろうか。
「感情というものを持ってみたかったの。人は類別できないほど多くの感情を抱いて生き
 ているというわ。私も人になってみたかったのよ」
「長く生きてりゃ、普通は逆に感情なんか摩滅していくもんだろうけどな」
「あの方は長く生きていらしても失っていなかったわ」
 誇らしげにアイリーンは切り返した。
「人の心は万華鏡のようね。下に降りて人々の営みをみるにつけそう思うの。人が違えば
 中に持っている色も違うし、同じ人でも見る方向を変えただけで全く別の模様が出来上
 がる。そんな万華鏡を私も手に入れたかった」
 そういう喩えをしている時点で彼女はとうにその万華鏡を手に入れている。
 ただ、まだ自分の万華鏡の見方を知らないのかもしれなかった。
「サザも痛いほどよく知っているのでしょう? 人というものを」
 アイリーンは窓越しに風に揺れるユジラスカを眺めながらぼんやりと呟いた。
「痛みのわからない奴の使う喩えじゃないだろ」
 アイリーンを嘲笑したつもりが、聞こえた響きは自嘲気味だった。
 アイリーンはやや眉をしかめて俺を振り返る。
「あら、人を鈍感みたく言わないで。私にだって物理的な痛みを感じ分けるくらいの機能
 は搭載されているのよ」
「機能を搭載、ですか……」
 どれだけ神界で暮らそうが、生まれ育った環境の影響からは逃れられないらしい。神界
の常識からずれた表現の仕方に、思わず俺はカップを取り落としていた。
 幸い中身はもうなかったから大惨事には至らなかったが、カップは絨毯の上で緩慢に回
る。
「もう。気をつけてくれなきゃだめよ」
 アイリーンはそれを拾い上げ、かわりに新たなカップに熱いお茶を注ぎ足す。
「ごめん。よかった、割れなくて」
「本当よ。そのカップはあの方のお気に入りの図柄ですもの。まだ割られては困るわ」
「まだ?」
「いらっしゃるんでしょう? いえ、むしろ誘導されてくるのかしら。あなたに」
 俺は荒っぽくため息をついた。
「なんだ。やっぱりお見通しか」
「でなきゃあなたがわざわざ訪れるはずないもの」
「勘違いするなよ。俺は誘導はしたけど案内はしてない」
「そうね。案内だったらこんなところに来ている暇などないものね。ねぇ、サザは今の龍
 様が嫌いなの?」
 せっかく淹れてもらったお茶を危うく俺は噴き出しかけた。
「あんた俺の話聞いてた? 俺はオリジナルの龍が一番嫌いなの! 今のあいつは……」
「サザもようやく龍様離れしたのねぇ」
「だからどうしてそうなる?!」
「憎かろうが愛しかろうが特別に思うのはその人を自分の一部のように感じているから。
 そういうのがないというなら、適度な距離が取れているということでしょう?」
 そんな小難しいことがさらりと言えて、どうしてこの女は自分を人ではないと思い込ん
でいるのだろう。あるのなら、アイリーンの存在を神界七不思議の一つにしてやりたいく
らいだ。
「それで、私にどうしてほしいの?」
「別にどうもしなくていいよ。ただ、あいつが望むものを与えてやってくれないか?」
「厳しいのね。何もほしがらなきゃ何も与えなくていいということなんでしょう?」
「優しいの間違いだろ。あいつが何も求めないなんてことはありえない」
 ここへ来る前に一度だけ会ったあいつは、龍の時の記憶も夏城星としての記憶も綺麗さ
っぱり忘れ果てていた。
 ただ「探し出さなければならない女がいる」ということ以外は。
 名も面影さえも思い出せない、ただ魂に約束という言葉だけで深く刻まれた存在を探し
出す。そんな雲を掴むような約束のために今は生きているのだ、とあいつは言った。悲嘆
にくれた表情も見せず、焦るでもなく、穏やかな顔をしていた。
 その約束さえ覚えていれば、いつか必ず彼女にたどり着くのだと信じて疑っていないよ
うだった。
 俺はあいつが捜し求める女の名を教えてやらなかった。
 過去、俺が関わり深い人物だったことすら告げなかった。
 人界が崩壊した際、あいつが一体何を捨て、彼女と未来に何を約束したのか。
 この俺が知る由もない。
「あの方はなぜ忘れることを選んだの?」
 何故、全て忘れてもう一度出会うところからはじめようと思ったのか。
 龍ならおそらくそんな回りくどい方法は選ばなかっただろう。それが出来ていれば、今
頃聖と幸せになれていただろうから。
「さあ。それは本人に聞いてみれば? まぁ、龍の身体で目を覚ましたときにはほとんど
 廃人同然の状態だったんだから、そんなこと覚えちゃいないだろうな。間近で見てたわ
 けじゃないから俺にもわからないし」
「そう――」
 アイリーンはそれっきり窓の外を見つめたまま一言も口を開かなくなってしまった。
 つられて俺も窓の外に視線を移す。
 ユジラスカの枝そのものの重さでたわんだ枝先では、鏡のような色をした蝶が鱗粉を舞
わせながら風と花びらと戯れる。
 この季節が終わり、何十年と経た後にあれらの枝は今度はたわわに実った濃き桃色の実
で水面近くまで垂れ下がる。夜になれば、香りに寄り来る月光蝶の放つ淡い光が丸く実を
飾りたて、まるで不知火のように湖面を彩る。
 まだ幼少の頃――俺の父親を執事として召抱えて母親から引き離してしまった龍が憎く
て仕方がなかった頃、俺はこの実の毒で龍を殺そうとしたことがあった。あいつはそれと
わかっていてわざとこの実を口にして……結局そのせいで俺はあいつを殺せなくなった。
その利口さが許せなくて俺はさらにあいつを憎むようになっていた。
 そしてあいつの<影>だからというだけで、どんなに憎んでもあいつは俺から離れてい
くことはないのだと思っていた。あいつが海の<影>だった綺瑪あやめに憧憬まじりの恋をした
ときも、綺瑪の死が閉じこもりがちだった心を完全に閉ざしてしまった時も、<影>と憎
しみ、縒りあわされた二つの鎖からなる俺の自信が揺らぐことはなかった。むしろ俺だけ
があいつの世界に介入できるのだとほくそ笑んだくらいだった。
 その頃の俺は、たとえそれが死体であってもかまわなかったのだ。
 聖だけだった。聖だけが龍を変えた。龍に息を吹き込んだ。
 俺でも綺瑪でも、ましてアイリーンでもなく、血のつながった最も幼い少女だけがなぜ
か龍の心を開かせていった。
(何だ、ただのロリコン野郎じゃないか)
 どうしようもない結論に達して、自然と口元が歪む。
 そんな単純な要素だけが決め手だったわけではもちろんないのだろうが、あっさり負け
たと認めるのは今でも<影>のプライドが許さない。
「百年、また巡ってきたのね」
 俺の微苦笑に気がついたのか、アイリーンは我に返るようにぽつりと呟いた。その口元
には一瞬だったが確かに寂しげな影が宿っていた。
「闇獄界に生まれて、時空の歪みに落ちて流れついたのがここだった……あの時もたくさ
 んの薄紅の花が狂ったように咲いていて……」
 はた、と彼女は口を噤んだ。うっかり出てしまった言葉に彼女自身が呆れ果てて肩をす
くめ、俺を見る。
「聞くよ」
 綺瑪が自らの命を絶ち、聖が生まれるまでの間に龍とアイリーンは出会ったのだという。
 唯一、龍がその傍らで体を休めた相手。
 長男の育が恋人も作らず、時に応じて一晩のみの夜伽を選んでいたというのに比べて、
綺瑪の死後数千年間、一人の愛人と一人の妹以上恋人未満しか作らなかった龍の甲斐性を
俺はどうかと思うのだが、精神的欠陥の寄せ集めのような奴だっただけに、長く添え、そ
の上心から信じきれる相手でなければ心安らぐことができなかったのだろう。
「昔語りを聞きにきたのではないのでしょう? それに、誰かに語るようなことではない
 もの」
「ルガルダの森に人が住んでるってだけでも驚きだろうけど、その女が古の天龍法王の愛
 人だったなんて考古学者や歴史学者どもが聞いたら、さぞかしここは賑やかになるだろ
 うなぁ」
「馬鹿ね。それこそあのユジラスカの思うつぼでしょう? それにそんなことをいうあな
 たの方がずっと付き合いが長いじゃない。好奇心旺盛な人たちが群がるのはあなたの方
 じゃなくて?」
「俺はそんなややこしいことに捕まるようなへまはしないよ。何しろ家なんかないからね」
 俺にはアイリーンのように守るべき場所がない。
 足が地に着くことはなく、いつもふらふらとどこかを彷徨っている。帰り着くところを
求めて。
「本当に吹聴するようなことはしないでちょうだいね。あの方に教えるのは別だけれど。
 でも、聞いたとしても神界にここまで来れる人はいないでしょうね。あなたのように空
 間を飛んでしまうか、あの方のように翼あるものを従わせているのでなければ」
「あいつは来るよ。目覚めたときからその翼ある馬が側に仕えてるんだから」
「そう。いなくなったと思ったらあの仔、ご主人様を迎えにいったのね」
 ほっとしたようにアイリーンはため息をついた。
「あの方について私が知っていることなどほとんどないのよ。私はあの方が来れば心の澱
 を受け入れてあげるだけだし、あの方が語ろうとしないことは尋ねることもなかった。
 あの方がここに来なくなることがあの方にとって一番の幸せだとも思っていたくらいで
 すもの。もちろん、寂しいなど思うこともないわ。あの方が私を必要としなくなったと
 き、私は晴れてこの身が朽ちゆくのを待つことができるのだから」
 嘘つきだ。
 闇獄界の奴らは、愛優妃をはじめとしてみんな筋金入りの嘘つきだ。それも、嘘のつき
方が哀れになるほどとてもうまい。
 ただ、この女はもう、嘘を上手につけるほどの冷静さを失っていた。
 そうでなければカップを持つ手が震えるわけがない。
 アイリーンは楽しみにしている反面、あいつが来るのを恐れているのだ。
 俺がここに来たのは、ただあいつが来ると告げるため。
 ここに来るのは、もう龍ではないのだと念を押すため。
 だから、アイリーンの直感は正しい。
「ユジラスカの精みたいなもんだよな、あんたは。龍もきっとそう思っていただろうよ」
 慰めなどかけるつもりはなかった。それでも、白皙の横顔に時折よぎる悲哀は声をかけ
ずにはいられない。
 彼女が生まれたのは闇獄界の科学研究者たちが住み、利便性の高い世界の構築を目指し
て研究に明け暮れるC区。そこで人体実験の被験体とされるべく巨大な試験管の培養液に
育まれて産まれた。
 闇獄界にいた頃に迷い込んで一度だけ見たことがあるが、あのグロテスクな人工子宮は
見れば必ず見たことを後悔する。
 そんな中から生まれた赤ん坊でも、生きているだけで立派な被験体だった。何にも穢れ
ていない無垢の身体をあいつらは何よりも欲している。細胞の採取、弱い薬から徐々に強
い薬を使って行われる耐性実験。彼女の不幸はそんな実験だけでは死ねなかったことだろ
う。
 実験が続けられるうちに、研究者たちはようやく彼女の周りに闇獄界の人間特有の瘴気
がまとわりついていないことに気がついた。その後は超能力開発の研究グループにまわさ
れたらしいが、いくらもしないうちに突然、彼女の消息は途絶える。
 研究所の警戒は厳重で、自力での逃走は不可能。もとより被験体は実験室の外に別な世
界があることすら知らないのだ。なにより研究所の当初の記録によれば、彼女は他の被験
体同様感情の起伏が著しく低かったという。自ら逃れたいなどと思って衝動的な行動に走
ることはありえない。
 一時は愛優妃様が哀れんでお隠しになったのだとも言われたが、当時研究所内にはごみ
ためから拾われてきた孤児も含め、五千人以上の被験体がいた。愛優妃が彼女一人を哀れ
むことは考えられなかった。
 それはまさに偶然。
 偶然彼女は『時空の歪み』に落ち、偶然このユジラスカの元へと誘われてきたのだ。
 そう、龍に一時の安らぎをもたらすために。
 アイリーンはくすぐったそうに笑って否定した。
「妖精なんかじゃないわ。……そうね、でも、魅入られたような気はするわ。この木に。
 ……サザ、気づいてる? このユジラスカの木はね、天空に浮かべられたときからずっ
 とあの方のために生きているのよ」
 思いもしないことに俺は目を見張る。
「木が?」
「それこそこの木の精はあの方を愛してしまったのでしょう。育命の国にあるという億年
 樹もその寿命の長さゆえに心を得たとか。このユジラスカの木が焼き払うことなく生き
 延びる道を開いてくれたあの方を愛する心を持っていたとしても不思議はないわ」
「なるほど。毒をもって毒を制すとはよく言ったもんだな。あんたとユジラスカ、そっく
 りじゃないか。世の中よくできてるもんだ。闇獄界だって生命を生み出すようになるま
 では、ただ神界や人界で排出された心の澱が流れ着く場所でしかなかったというのに、
 きっかけさえあれば世界も生き物も変わるものなんだな」
 ただ、本人が気がつかないだけで。
「サザ、私が語れるのは自分のことだけ。あの方のことが知りたいのなら、それこそ直接
 訊ねてみればいいわ」
 口端に自嘲まじりの笑みをのせて、俺は彼女の元を辞した。
 俺が知りたかったのは、アイリーンにだけ見せる龍の顔。それ以外の顔なら、アイリー
ンの言うとおりあらかた俺のものだったから。
 それを知りうる手立てだと踏んだあいつの日記も、出てくる女の名といえば若き日の綺
瑪と晩年の聖だけ。
 アイリーンの名の綴りはどこにもなく、その存在を知る者すら兄弟の間でも限られてい
たに違いない。もしかしたら龍が生まれてから死ぬまで執事をやっていたベリテオーネル
ですら知らないかもしれない。
 ただ、注意深く読み進んでいくと、綺瑪を失った後しばらく過ぎた頃にたった一行、こ
の記述がある。
 『ユジラスカの精に逢う』と。