ユジラスカ―逢瀬― 2

 毒を持つ花ほど美しく、麗しい芳香を放つもの。
 百年に一度の周期で花開くこの木に会いに行くために、俺は再び百年ぶりにこの森に足
を踏み入れた。
 本当なら、一歩踏み込んだだけで気がついているはずだった。森中がいつも以上に濃厚
な瘴気を抱えていることに。だが、俺はそれを怪しむどころか気にすら留めなかった。
 ただ、甘やかな香りに導かれるままに、わき目もふらず暗い森の中を中へ中へと進んで
いた。
 それにひきかえ――
「翡瑞ヒズイ、どうした?」
  まだ幼かった時分、この森に迷い込んでいるのを見つけて以来世話をしてきた翼ある白
い馬は、森に入るなりやけに落ち着きなくそわそわとあたりに目を配りはじめていた。
 まあ、ルガルダの森というのは動物にとっては居心地のいい場所ではないし、仔馬だっ
た頃一頭で迷っていたことでも思い出しているのかもしれない。
 だが、生まれた森に帰ってきてここまで落ち着かない翡瑞を見るのははじめてだった。
 森は静謐を保ちつづけたまま。
 先に進むにつれて、いつものように重なり合う木々に光はさらに失われ、大木に絡みつ
く蔦もその下を這う羊歯も何もかもが闇の奥底に沈んでいく。足音は苔むした地面に吸い
込まれ、聞こえる音といえば翡瑞のひそやかな息遣いと、時折梢の間を吹きぬけていく寂
しげな風の音だけ。
 ここは神界にあって闇獄界を思わせる魔性の森。今日もその姿に変わりはない。
 はたと翡瑞は四肢の動きを止めた。息を潜め、向かう先を凝視する。
 来る――
 何が、とも分からず、俺は翡瑞の目を両手で覆い、自分はそのたてがみの中に顔を埋め
た。
 が、突き刺すような光は翡瑞の白いたてがみをかいくぐり、硬く閉じたまぶたをたやす
く破って頭の中に溢れかえった。
 翡瑞は分かっていたのだろう。
 突然襲った光に慄きもせず、手綱を俺の手に預けたままじっと視力が回復するのを待っ
ている。
 目が慣れていく。映るのはさっきと変わらない闇ばかり。一瞬の激しい光のせいかむし
ろ闇は深まっている。そのかわり、楽園を想起させるユジラスカの香りがいよいよもって
俺の頭の芯を酔わせていった。その誘引度はいつもの比ではない。
「ユジラスカに何かあったのか……?」
 翡瑞に飛び乗り、腹を軽く蹴って急がせる。
 この森で、それもあのユジラスカに限って何かあったとは考えにくい。だが、もしもと
いうこともないとは言えない。
 なぜこんなにもあの木に心惹かれるようになってしまったのか――
 香りだけではなくあの気は俺の心を魅了する。そうでなければどうしてわざわざ翡瑞を
駆って中空に浮かぶ魔の森などに足を踏み入れようか。
 やがて森は開けた。
 遥か天空は雲ひとつない晴天。春の心なしか靄がかって薄い空色が、小高い針葉樹林に
丸く縁取られ、その中で戯れに舞う薄紅色のユジラスカの花びらが時をとどめない贅沢な
一つの絵画を彩っている。
 そして、問答無用で目に飛び込んできたのは満開に咲き匂う薄紅色のユジラスカ。
 湖の中洲に根を張ったその木は百年前よりも枝を伸ばし、湖を抱くように湖畔にしなだ
れる。空を映すだけだった湖はいまや花びらに埋まり、空の絵画と対をなす。
 空に浮かべて以来、人の入らなくなったこの森で今もひっそりと息づく大木。 
 生物の血を吸うことができなくなったせいか、花びらの色は百年前の記憶よりもやや薄
い。
 俺は翡瑞から降り、一歩青空の下に踏み出した。
 その途端、ずっとまとわりついていた暗く澱んだ瘴気の臭いが消えた。
 清浄すぎるほど清浄な空気を思わず無意識に吸い込むと、胸に激痛が走った。
 思わず胸を押さえてうずくまった俺に、心配そうに翡瑞が鼻を寄せる。
 それにこたえることもできず、俺は胸元を押さえながら押し殺すように小さく呼吸を繰
り返した。
 ありえない。
 あの絡みつくような瘴気の源は、このユジラスカの木だ。森中で最も濃いのはこのユジ
ラスカの幹元のはず。
 それが、この冷たく肺を切り裂くような清すぎるほど清い空気がユジラスカの元から流
れてくるとは――
 ようやくわずかに顔を上げた俺の前に、ぽとり、大輪の花が落ちてきた。
 薄紅色の八重の花弁はみだらに広がり、誘うように香気が立ちのぼる。
「……淫ら?」
 立ち上がりざま拾い上げて、俺は首をかしげた。
 いつもならばその凛とした美しさに心惹かれるものを、なぜかこの時ばかりは多少盛り
の過ぎてしまったその花に心魅かれたのだ。
 いや、この日本当に心魅かれたのはこの花ではなく――
 翡瑞は一足先に湖畔から中洲へと渡す一筋の道を渡っていた。
 ルガルダの森を上空に浮かべた後、過剰に養分を摂取することのなくなったユジラスカ
の木の根は多少衰え、盛り上がっていた土はユジラスカを中心に落ち窪んでいった。その
窪みに雨水がたまってできたのがこの湖だった。
 百年に一度、花を咲かせるときには必ず俺がここを訪れるのを知ってか、俺が中洲まで
橋を架けるまでもなく、木の根はまるで一つの意思に統一されて絡みあいながら盛りあが
り、湖上に一本の道を開いている。さらに、百年の年月はその根の上にいずこからか風に
運ばれてきた種子を芽吹かせて大地となっていた。
「翡瑞?」
 道をたどってユジラスカの元まで翡瑞を追いかけていくと、翡瑞はなにやらその根元に
鼻を近づけ、しきりに匂いをかいでいた。
「なにかいるのか?」 
 翡瑞の顔をおしのけて、俺は息を呑んだ。
 少女だった。
 体を丸めて倒れていたその少女は、一糸も纏ってはいない。
 ふっくらとした唇は珊瑚色。整った顔立ちはロガトノープルで城に出入りする美女たち
でもかなわないかもしれない。
 しかし、俺はさらに息を呑んだ。
 美しい造作をした顔、光にところどころ煌く肌。そのいたるところに――髪一本生えて
いない頭部にまでも、目を覆いたくなるような切り傷や刺し傷、火傷の痕が所狭しと生々
しく刻まれていたのだ。
 翡瑞に促されて我に返った俺は、とりあえずはおっていた外套を少女にかけてやる。
「死んで……いるのか?」
 翡瑞は首を振った。
 俺はそっと少女の鼻元に手をかざす。
 微弱ながら規則正しい呼気がもれている。
「おい、大丈夫か? 目を覚ませ!」
 何度か呼びかけるうちに、睫のないまぶたが軽く痙攣し、ゆっくりと開いた。         大きな黒紫の瞳。
 磨き上げられた鏡のように滑らかなその双瞳に、惚けた俺の顔が映っていた。
 それは、吸いつくように俺の目を絡めとってはなそうとしない。 目だけではない。心
臓ごとをわしづかみにされたように、俺は動けなくなっていた。
 それなのに、少女の黒紫の双瞳には何の表情も浮かんではいなかった。目の前に何もな
いかのようにただ目を開けているといった様子だった。
 俺の姿など、視界に入っているから入れているだけ、といったように。
「大丈夫か?」
 少女が再びまぶたを閉じたことで金縛りを解かれた俺は、一息ついてから話しかけてみ
た。
 少女は目を開けることなく唇のみを震わせた。
「……今度は何の実験だ?」
 息とともに掠れもれた声は涼やかで耳に心地いい。だが、その瞳同様、感情がなかった。
義務的に口を開いただけのようだった。
「訊いてやればお前たちは喜ぶんだろう? 訊かなきゃ殴るじゃないか。反抗されること
 を喜ぶなんて馬鹿な奴らだ。それで? 麻酔なしで痛点の所在でも確かめるか? それ
 とも意識を残したまま麻酔をかけて、天井に鏡のある部屋で胴を開いて動く心臓を掴み
 だしてみせるのか? ああ、その様子だと新しい薬でもできたんだな? いつになく顔
 が優しいものな」
 俺の前に無造作に体を投げ出して、少女は残酷な想像を掻きたてることばかりを口にし
た。
「何だ、その翼の生えた馬は。今度は異種交配でもさせるつもりか? まあ、何でもいい。
 好きにしろ」
 嘲りひらめいた目で翡瑞を見上げた少女に、気持ち悪さをこらえていた俺は、それを怒
りにかえて一気に吐き出した。
「翡瑞を侮辱するようなことを言うな!」
 少女はようやく気だるそうにまぶたを持ち上げる。
 俺は思わず惑わされないように構えた。
「侮辱? 何だそれは」
 思っても見ない言いがかりをつけられたとでも言うように少女は言葉を放り投げた。
「言葉で人を傷つけることだ!!」
 思わず怒鳴り返してしまった自分の愚かさを呪いたくなったが、少女は意にも介さずき
ょとんと目を見開いたまま呟いた。
「新しい実験の名称か」
 俺は言葉を失った。
 言葉が、通じていない――?
 そんな馬鹿な。
 神界は全土で同じ言葉が話されている。地域によって訛りくらいはあるだろうが、全く
通じないなどということはありえない。
 何しろ、愛優妃が言うには闇獄界でも同じ言葉が使われているというのだから。
 では、何故この少女はそんなことばかり言う?
 じわじわと声にならないものが喉元にこみ上げてくる。
「なんなんだ! さっきから実験、実験と! 馬鹿にするのもいい加減にしろ!」
「お前たちがいつもしていることじゃないか。これを傷つけては薬を投与して回復力を測
 定したり、赤い光を当ててみたり……数え上げたらきりがないじゃないか」
 今度こそ俺は絶句した。
 そんなことをする人間がこの神界にいるのか?
 いや、体を不用意に傷つけるのは神界人が最も忌避すること。身近に神がいるのだから、
自ら世界を、自分自身の身体の組成を探ることなどしなくてもよいのだ。
 しかし、体中のあの傷痕は確かにひどく身体を傷つけて出来たもの。自分では手の届か
ないはずの背中も健康な肌が見えないほど傷がつけられている。
 とにかく。変わった娘ということに変わりはなかったが、このままこの木の下に放って
おくわけにもいかない。俺以外この森に入れる奴はいない。このままにしておけば間違い
なく少女はここで息絶え、ユジラスカはまた人間の味を思い出してしまうだろう。
 怒りと混乱を鎮めるために大きく深呼吸する。
 少女はまた目を閉じていた。好きにしろ、とばかりに体を投げ出したまま。
 舌打ちをこらえ、彼女の上に両手をかざす。
「電子たちよ、あるべきものと結びつけ」 
 小さく呟くと、わずかながら少女の身体から光が迸った。その光が烈しくぶつかり合う
ところから古傷や生傷は消え、生来の滑らかな肌が蘇っていく。
 体の変化に気がついたのか、少女は目を見開き、外套の下から両腕を出して唖然と見つ
めた。やがて、緩慢に俺に焦点を合わせる。
「お前も被験体か?」
「被験体?」
「今度、第六能力開発プロジェクトというのをはじめたと聞いた。神界の法王たちのよう
 に各精霊王の守護を得ずして自然を操る能力を開発するためのプロジェクト。私も近々
 そこに移されることになっている」
 ようやく、俺は少女が闇獄界から来たのだと気がついた。
 神界にいて闇獄界の実情を知ることは難しい。ただ、過去一度の戦争時に彼らの性分は
理解したつもりだった。
 きわめて残忍。神界の捕虜を惨たらしく殺し、それどころか身に危険が迫ると仲間内で
庇いあうことなく自分を最優先にしてあらゆる手段を使って生き延びようとする。
 彼らなら同胞を被験体と呼び、聞くのも見るのも遠慮したくなるようなことも平気で出
来るのかもしれない。
 俺は一つため息をついて口を開いた。
「俺は、その法王の一人だ」
 初めて少女の目に感情らしきものが宿った。
 驚愕。
「統仲王の第三子、天龍法王だ」
 少女は長いこと目を見開いたまま沈黙していた。そしてようやくかすれた声を押し出す。
「C区……じゃないのか……?」
「C区? どこだそれは。ここは天龍の国のルガルダの森……いや、神界だ」
「し…んかい……?」
 はじめは身を投げ出すだけだった少女にも、変化のあった現状を理解しようというは気
持ちはまだ残っていたらしい。何度か呟きながら言葉の意味を体に含ませている。
 次第に、少女の張りつめた表情は穏やかに緩んでいった。
「ここでは、私は実験に使われなくていいのか?」
「当たり前だ。そんな実験などやっているところはないし、何よりこの世界には必要がな
 い」
「向こうでは神界を取り込むために躍起になってやっているのだぞ? そんなのんびり構
 えていていいのか?」
 神界には悲しみや苦しみ、怒りなどの負の感情は存在しないことになっている。人々は
みな幸せに暮らす。その定義がどうあれ、統仲王と愛優妃はそれを守る義務を自らに、そ
して俺たち法王に課してきた。
 それでも、人口が増えれば摩擦も増える。
 統仲王と愛優妃が念願だった「人界」を造ったことで、さらに神界以外にも心の摩擦は
発生するようになってしまった。
 彼らは世界を汚すその負の感情を一時的に排除するために闇獄界を作ったのだが、どう
したことか。生命のかけらなど生まれる余地のないただの空間に、命は芽吹いていた。
 精霊など存在する余地のないその世界で生物が生き延びるためには技術を磨くしかない。
 はじめは本能だけの化け物ばかりがすんでいた世界に知性を持ったものが現れ、階層化
が進み、ついには神界に世界を広げようとした。
 その衝突の結果が第一次神闇戦争。
 もし少女のいった第六能力プロジェクトとやらの話が本当なら、先の大戦で勝利した神
界でもかなりの窮地に追い込まれることになるのではないだろうか。
 しかし――
「のんびり構えているしかないんだ。神界では精霊が我々の生活を助けてくれている。だ
 から彼らとのつながりを強化する以外、できることは何もない」
「ふぅん……」
 少女は興味を失ったように返事をもらしてから、すぅっと俺に視線を据えた。
「お前が科学者じゃないというなら、このままこれをここに放置しておいてくれないか」
 俺はすぐには意味が分からず、眉をしかめた。
「これ、というのはおまえ自身のことか?」
「それ以外に何がある」
「何がって……お前は物じゃないだろう? 名前くらい……」
 少女はすでに気を失っていた。
 俺は聞こえないのをいいことにおおっぴらに舌打ちした。そして、ユジラスカを見上げ
る。
 ユジラスカは風にそよがれて花びらを降らせるだけ。
 少女の望みどおりここに残していけば、次にきたとき、ユジラスカの花びらに埋まった
ミイラと対面する羽目になるだろう。
 そんなのは、まっぴらだ。
 また俺が墓を掘ってやらなければなくなる。
 それくらいならば――
 翡瑞は少女が気に入ったのか、しきりと顔をなめていた。
「翡瑞、お前が気に入ったというなら、お前が乗せて帰るんだぞ?」
 当たり前といわんばかりにうなずいた翡瑞の背に、外套に包んだ少女を乗せる。
 城につれて帰れば、女っけのない城だ。面白がった侍女たちが気のすむまで少女の世話
を焼いてくれることだろう。少女の曲のある性格も俺の城で働いている彼女達なら大して
気にも留めるまい。


 当初、俺が恋人を連れ帰ったと大騒ぎをした侍女たちも、少女が目を覚ますと何も言わ
なくなった。
 彼女の言動云々はもちろんだったが、何度かの自殺騒ぎにさすがに辟易したのだろう。
 面倒を嫌う俺が、そんな少女を恋人に迎えるわけがないと簡単に納得したらしい。
 絶えず騒がしく報告が入っていたが、時が少女を馴染ませたのか、周りを馴染ませたの
か。報告が絶えて久しくなった頃には居住域が別棟であることも手伝って、俺はそんな拾
いものをしたことすら忘れていた。
 心をとらえて離さなかったあの黒紫の瞳に会うのが怖くなかったといったら嘘になる。
 忘れようとしていたのだ。
 だから――