ユジラスカ―逢瀬― 4

 彼女は静かに俺を見つめていた。
「アヤメという女性は、死んだのか?」
「……ああ。姉のかわりに」
 答えるのをためらったその間に、事実上綺瑪を殺した海姉上への憎しみがふつふつと浮
かび上がっては消えていった。
 憎んでも、悔やんでも、綺瑪が帰ってくることはない。
 憎むことを、忘れたわけでもない。ただ、永遠に肉親を憎み続けるのにはもう疲れ果て
ていた。近頃では感情の激するままに怒りが湧きあがりきることもなく、中途半端に浮か
んでは心の底に澱となって沈んでいく。
「憎しみという感情は、知っている」
 気がつくと、彼女は俺の腕にそっと触れていた。
「ただ、なぜ憎んでいるのかが私には理解できない。自分自身が殺されたわけでも、それ
 に近いことをされたわけでもないのに、何故そうまで嘆く? アヤメという女性はお前
 にとってなんだったんだ? その熱くて痛いものは何なんだ?」
 彼女の目は理性に糺されて静謐な水盤そのものだった。
 ただ、未知のものに触れて子供のように無邪気に小首を傾げている。
「他人の心を覗けるのか?」
「記憶も、な。お前は直接、彼女の死には立ち会えなかったんだな」
 綺瑪は、海姉上の<影>だった。親友あるいは姉妹とよべるほど仲がよかったのに、い
つの間にか姉上は綺瑪に殺意を抱き、自殺するように仕向けた。
 何故綺瑪が自殺してしまったのか、どんなに問い詰めても姉上は答えてくれなかった。
姉上だけじゃない。誰も理由を教えてくれはしなかった。
 海姉上に追い詰められたところまで分かっていながら、俺は肝心な理由を今も知らない。
 一人で立っていられないほど不安な、そんな時に顔を埋めていたあたたかな胸も今はな
い。
「忌々しい能力だと思ってた……」
 茫然と彼女は呟き、やがてするりと腕を伸ばして俺の背に回した。
 耳元で彼女は低く囁く。
「第六能力開発プロジェクトで脳をいじられて以来、私が今までに見せられたものは、同
 じ被験体の実験中の記憶ばかりだった。だから、痛いのも、悲しいのも、辛いのも、憎
 いのも、怒りも妬みも……私の感じたことのない感情までが、私の知識となって蓄積さ
 れた。だが、天龍法王。お前のその感情ははじめてだ。確かに悲しんでいるのに、冷た
 さと熱さが同居している。それの気持ちは何だ? そんな感情、私は知らない。理解が
 できない」
 彼女はさらに俺の心の中を覗こうとでもするかのように、額を寄せる。
「っ! これ以上、勝手に覗くな!」
 思わず俺は彼女を突き飛ばしていた。
 床にしりもちをついた彼女は、しかし怒りも泣きもせず、ただにやりと口元をゆがめた。
「この世界の住人は、みんなお前みたいな感情を持っているのか? あったかくて、熱く
 て、痛くて……形容しがたい感情を」
「俺の感情の形は俺だけのものだ。これは、きっと人それぞれ違う」
 この想いに痛みが伴っているのは、きっと神界では俺くらいのものだろう。
 愛しい人に何もしてやれずに失ってしまったのは、きっと世界中で俺だけだ。
 記憶の底に沈みかけた俺の手を、彼女の熱が優しく包み込んで引き上げた。
「私ははじめて自分の能力に感謝したかもしれない」
 顔を上げると、彼女はにっこりと微笑んでいた。演技でなく、穏やかな微笑。凪いだ黒
紫の瞳は憎しみに凄絶に輝くときよりも美しく見える。
「マルパソのことだけじゃなく、あなたに出会えたことも私はあなたに感謝しなければ。
 天龍法王、あなたは私に国民になれと言ったけれど、一つだけ、私の願いを叶えてくれ
 るなら私はこの国の国民とやらになってやってもいい」
「願い?」
 黒紫の瞳が楽しげに煌いていた。
「難しいことじゃない。私を人にして。R‐314というロット番号にかわる人らしい名
 前を私につけてちょうだい」
 きらりと輝いた双眸の宝石に、しばらくの間俺は目を奪われていた。
 邪眼の力があるというが、この瞳にならずっと魅入られてもいい気がしてくる。その思
いすら邪眼のせいだといわれても、それでいいと思えてくる。
 いや、とうに俺は彼女に魅入られていたのかもしれない。
 これは、今でも綺瑪に抱き続ける甘く愛おしいという気持ちとはまた別のもの。
 綺瑪の不在を、少しでも埋めてくれるもの――
 罪悪感は、あった。
 誰も、誰かの代わりなどおしつけられたくはない。
 誰かの面影を背負わされたくはない。
「名前を?」
 それでも、それは甘く苦い誘い。
 聞こえているのなら突き放してくれればいいと思う。
 なのに、彼女は笑んだまま続ける。
「そう。マルパソもさすがにR−314なんて呼べないからって『ユジラスカの精』なん
 て大真面目に呼んでいたけど、私はユジラスカの精なんかじゃないから、ちゃんとこの
 世界の住人らしい名前がほしい」
 強い意志の宿った瞳が綺瑪の残していった傷を押し広げて俺をがんじがらめにしていく。
 さっきまで死に向かっていた瞳が、一年前には虚無ばかりをたたえるばかりだった黒紫
の瞳が、心次第でこんなにも美しく輝くとは思いもしなかった。
 彼女に、名を――
『名前をつけるとき? 私は直感でつけるわ。音が浮かぶのよ。よーくその赤ちゃんを見
 ているとね、分かるの。龍って名前もそうやってつけたのよ』
 綺瑪、彼女の名は何がいい?
 ふと、思いを巡らすうちに本当に口は思い浮かんだ響きを音にしていた。
「アイリーン」
 彼女の強い黒紫の瞳がその音を欲している。
「アイリーン、という名はどうだろう?」
「アイリーン……」
 彼女は体に、心に、自分にその名を染み込ませるように何度かゆっくりと呟いた。
「意味は?」
 ただの音が名前という形をとって存在をあらわすものになる。それは記号や番号などと
は違って、唯一その人のためだけに与えられたもの。願いのこめられたもの。
「お前のこれからの人生が平和でありますように、そんなところだ」
「平和……? アイリーン……アイリーン……」
 さらに何度か呟いた後、彼女はゆっくりと大きく頷いた。
「天龍法王、もう一度私の名を呼んで」
 顔がかわっていた。表情という以前に、別人のように穏やかで優しい顔つきに変わって
いた。
 声も優しく穏やかで、どことなく甘い。
「アイリーン」
 アイリーンは返事をするかわりに俺の背に腕を回し、そっと抱きしめた。
 彼女の周りに空気は闇獄界の出身者とは思えないほど清冽で、胸の奥が引き裂かれる。
 それは決して彼女に対する罪悪感からだけではない。
 一年前、ユジラスカの大木を取りまいていた清浄な空気もアイリーンのせいだったので
はないだろうか。
 彼女は、そこにいるだけで全ての瘴気を、澱を浄化してしまう――
 彼女の周りは清浄すぎて息苦しい。俺の中にのたうつものが分解されていくのが分かる
から。失ってはいけない海姉上への憎しみすらも持っていかれそうになる。
 だが、もしかしたらそれが跡形もなくきれいに消え去ったとき、俺は本当に心安くなれ
るのかもしれない。
「アイリーン、俺の願いも聞いてはくれないだろうか」
 ほっそりとした体が妙に腕になじむ。
「たくさんあるのね」
 ふっと悟ったように彼女は微笑した。
「ルガルダの森に帰るといったな」
 アイリーンが頷くのを待って、俺はそこに『移動』した。
 ただ、彼女とはじめて会ったユジラスカの木を思い浮かべただけだった。
 一年ぶりに訪れたその場所は、花落ちる前の熟れた甘く蠱惑的な匂いがむせかえるほど
あたりにたちこめていた。
「満開ね」
 嬉しそうにアイリーンはユジラスカの木を見上げた。
 不思議と言葉遣いに違和感はない。その声、その表情、その言葉遣いが憑き物が取れた
本来の彼女であるように俺には見えた。
 そっと目を閉じて、心の中で『建』と呟く。
 見る間に何もなかった湖のほとり、ユジラスカの木の下にこじんまりとした館が出来上
がる。
「驚かないのか?」
 こんな魔法を見せられても特にこれといった反応も見せないアイリーンに、俺は自ら振
り返って訊ねていた。
「あなた自身でさえよく理由も分かっていないのに、訊けるわけないでしょう?」
 ふ、と俺の頬が緩む。
 本来なら俺は『雷』を主とした力しか授かっていない。その精霊の力もこのルガルダの
森を浮かべるのに半分以上を費やし、さらにそれ以上の援護は求めないとサザと約束して
しまっていた。俺には本来の法王としての力はないに等しい。
 この力はその本来の法王としての至らなさを補うためのようなものだった。とはいえ、
念じるだけで物質を具現できてしまうこの力は、法王としての域をとうに逸している。
「あまり使わないようにしているんだが、今日はまぁいいだろう。場所が場所だから気づ
 くものもいまい」
 ユジラスカの花の香は、人を惑わせる。
 アイリーンはおとなしく頷いた。そして再び咲き誇る木に目を向ける。
「一つ目の願いは、このユジラスカね?」
「ああ。この木は昔から人を喰らい、その血肉を糧に生きてきた。空中に移して以来、何
 も食べてはいないはずだ。その分瘴気も薄まってはきたが、どうやらこの森自体が弱り
 はじめているみたいなんだ。人を食して美しい花咲かせてきたとはいえ、百年に一度の
 春がいつか来なくなるというのはあまりに惜しい」
「好きなのね、この木が。そうね……私も好きよ。私がここに住みつづければ、この木や
 森が蓄えてきた瘴気も浄化されて花だけを美しく咲かせる森に還るかもしれないわね」
「頼んでも、いいだろうか?」
 それは天龍城の狭い部屋ではなく、この人一人訪れることのない孤独な森に彼女を縛り
つけることになる。
 彼女の自由を侵害することにかわりはない。
 だが、彼女はにっこりと笑って頷いた。
「頼まれるも何も、私は『ユジラスカの精』なんでしょう? 元の木が枯れてしまったら
 私も死んでしまうかもよ?」
 アイリーンは冗談のつもりだったのだろう。だが、舞い散るユジラスカの花びらは優し
い風ごと彼女を連れ去っていってしまいそうに見えて、そのときばかりは俺の目には本当
に彼女がユジラスカの精に見えた。
「そしてもう一つのお願い、ね」
 儚く舞い散ってしまうかと思えた花の精は、俺が何も言わないうちにそっと爪立てて口
付けた。
 柔らかで、甘くほろ苦いユジラスカの香り。
「辛いのね。綺瑪という人を失ったことが。実の姉を憎み続けなければならないことが」
 頬を包み込む彼女の手は、ぬくもりはあるのに妙にひんやりと冷たくて気持ちがよかっ
た。
「アイリーン……」
 こんなことは、彼女に願ってはいけない。
 綺瑪への中途半端に断たれた想いを共有してほしいなどと。
 癒されるかわりに、背負う業は果てしなく続くだろう。
 たとえ、彼女が死んでしまっても。
「だから関わりたくなかった、などと思わないで。私があなたに関わりたいの。私はあな
 たが彼女に抱くその感情を知りたいのだから。とても不可思議で、論理にかなっていな
 いその感情を、私も自分のものにしてみたい」
 夢見るような彼女の声は、未来への警戒心を柔らかく曖昧にしていく。
「ねぇ、天龍法王。生きていればいつか私にもその感情が生まれるかしら?」
 少し不安げにアイリーンは俺をのぞきこんだ。
 俺はためらった。
 少なくとも俺が与え、育んでやれるものではない。
「頷いてちょうだい。あなたが責任を感じることなどないのだから」
 黒紫の瞳はいつかの綺瑪のような色を浮かべていた。
 罪も業も全て自分が背負っていくからあなたは心配しないでいいのよ、と言う時の綺瑪
の瞳の色に。
 そんな時、俺に出来るのは頷くことだけ。
「いつかきっと」
 肯定の言葉が彼女達の背中を後押しする。根拠などなくとも、それが最も喜ばれること
なのだと俺は思い出していた。
 アイリーンはその言葉を噛み含めるようにそっと目を閉じる。
 やがて現れた黒紫の瞳は強い誘引力をもって俺の視線を搦めとった。
「あなたを初めて見たとき、闇獄界の人だと思った。あなたの抱きこんでいるどろどろの
 澱は、闇獄界に生まれた人々の悲しみよりも深い。私にも分けて? その穢れたものを。
 そうすれば、少しは私も人に近づけるかもしれないから」
 ユジラスカの花は、甘くてほろ苦い。
 名づけられない感情と不確かな罪悪感とがないまぜになってできた花。
「あなたは、私を愛さなくていい」
 いつか、彼女はそんなことを囁いた。
 全てを理解した上で言っている彼女の言葉に、俺は死ぬまで甘え続けることになる。
 逢いに行く度に俺の心を「本当に不思議ね」と穏やかに笑うアイリーンを当たり前と思
い、生き続ける限り果てしなく積もっていく澱をみな彼女の中にぶちまけて――

 アイリーンは、俺に何も望まない。
 あの時、名をつけてくれることを望んだだけだ。
 しかし、俺は気づいていた。
 今の俺をつなぎとめるには何も望んではいけないのだ、とアイリーンが強く心の中で自
分に言い聞かせ続けていたことを。
 だから浄化という建前だけが俺とアイリーンとの関係を唯一かろうじて結び付けていた。
 もし、アイリーンが俺に愛されることを望んだなら、俺は聖にかまけているうちに彼女
から遠ざかっていたかもしれない。
 それは俺がアイリーンを全く愛さなかったからではなくて、むしろ、聖さえいなければ
綺瑪を慕ったように彼女だけを優しく愛していたかもしれないから。
 アイリーンの直感は正しかったのだろう。俺にとっても彼女にとっても。
「愛している」
 それが一線になる。
 その一言を口にしてしまえば、音にして望めば、俺とアイリーンとはこの身体のみの乾
いた関係を、全く別のものにすることができた。
 傲慢かもしれないが、俺はアイリーンが望むものを手にさせてやることができただろう。
 聖が特別に見えるようになって、よく思うことがある。
 アイリーンとその一線を踏み越えられていれば、俺は聖をただの可愛い妹とだけ思い続
けていられたのではないか、と。
「それは違うわ。あなたが私にそう囁いていたとしても、きっと聖様を特別な女性として
 想う日が来たでしょう。そしてあなたは私への義務感と聖様への純粋な愛情の間で苦悩
 する。でも、やっぱり最後には聖様お一人にお決めになるのでしょうね」
「いらぬ苦悩を抱えずにすんでよかったじゃない」と、アイリーンはいつも笑って俺をあ
しらう。
 かと思えば、「私にはまだ神界人の心というのは理解しがたいみたい」と、苦笑してみ
せる。
 本当はもう分かっているのではないだろうか。
 とうに、そう、もしかしたらあの時、ユジラスカの木の下で唇を重ねたときに、すでに
熱くて痛いと形容した心を自分のものとしてしまっていたのではないだろうか。
 彼女がそういって小首をかしげるたびに、俺はもうここへ来るのはやめようと自分に言
い聞かせる。
 俺はもう一人の自分をつくってしまったようなものだったから。
 それでも。どんなに聖が愛しくても、頻度は減ったとはいえ俺はやっぱりこのユジラス
カの木の下へと足を運んでしまうのだ。
 黒紫の瞳を持つ、ユジラスカの精に逢うために――
                   
                             
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